磐裂神社(足尾鎮守)

磐裂神社(いわさくじんじゃ)は 文化~文政年間 (1804~30) には 修験の山庚申山への登拝口 一丁目とされていました 秩父の妙見・相馬の妙見・足尾の妙見を関東三妙見と称したと云います その歴史は古く 大同3年(808)「足尾5氏(神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内)」と言われる一族14人が 日光から移住してきた時 妙見宮Myokengu)の分身を拝受し足尾郷14ケ村の鎮守と定めたとされます 明治11年(1878)古河市兵衛が足尾銅山を再開した際 磐裂神社と改称されました

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name

磐裂神社(iwasaku Shrine)
(いわさくじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

妙見様(myoken sama)

【鎮座地 (location) 

栃木県日光市遠下3-1

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》磐裂神(iwasaku no kami)
   根裂神(nesaku no kami)
   経津主命(futsunushi no kami)

【御神格 (God's great power)】

家内安全 Pray to God that the home is peaceful
国家安寧 National peace and stability

【格  (Rules of dignity)

【創  (Beginning of history)】

磐裂神社(いわさくじんじゃ)
「足尾(あしお)5氏」と言われる一族14人が日光から移住してきた時 妙見宮の分身を拝受し、大同3年(808)に足尾郷14ケ村の鎮守と定めた。

文化・文政の頃 庚申山信仰が盛んになり登拝口として講中寄進の庚申山碑や一丁目(いっちょうめ)標が建てられた。

神社は大正3年(1914)現在地に移った。境内に栃木県名木百選の大桧(神木)がある。
日光市

境内案内板より

【由  (history)】

磐裂神社(いわさくじんじゃ)

当神社は、上古妙見天童と称し中古妙見大菩薩と称し近古妙見宮と称せしも、明治474日付大政官布告の郷社定則の時、磐裂神社と改称せり。

往時、足尾郷民の祖日光中禅寺より足尾の土地に移住し土着せるものにして中禅寺の鎮守にして己等の氏神、妙見天童を一族の内 神山文左ェ門、斎藤孫兵衛の両祖 交互に霊代を背負奉来りて遠下の地をとして鎮座せしめて足尾の鎮守となせり。

天安28月、祭神を磐裂命、根裂命の二柱として境内坪数1973坪と定め社殿を造営して名実共に鎮守となせり。

、足尾郷は中禅寺領なりしも徳川幕府日光に廟を建るに及び領となり一切の支配を受ける

明暦元年、日光寺社奉行新井孫兵衛尉秀元、崇敬の念厚く釣鐘一箇を寄進して永代不朽の重器となせり。

明治14年、幣帛供進料、供進の指定社となる。

明治44320日、許可を得て村社磐裂神社及境内神社五社を前遠下の地より、現長坂の地に移転せるものなり。

栃木県神社庁HPより

【境内社 (Other deities within the precincts)】

猿田彦神社(sarutahiko Shrine)
《主》猿田彦命(sarutahiko no mikoto)
大山祇神社(oyamazumi Shrine)
《主》大山祇命(oyamazumi no mikoto)
稲荷神社(inari Shrine)
《主》稲荷大神(inari no okami)
水神社(suijin sha)
《主》水波能売神(mizuhanome no kami)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

大同3年(808)に妙見宮Myokengu)として創建されたと伝わります

妙見Myoken)信仰とは 一般には 仏教の「北辰妙見菩薩(hokushin myoken bosatsu)に対する信仰をいいます
元々は インドに発祥した菩薩信仰が 中国で道教の「北極星・北斗七星信仰」と習合して 仏教の天部の一つとして日本に伝来したものです

この神社は 大同3年(808)「足尾5氏(神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内)」と言われる一族14人が 日光から移住してきた時 妙見宮の分身を拝受し足尾郷14ケ村の鎮守と定めたとされます 

多くの妙見宮Myokengu)では もともとは虚空蔵菩薩や妙見菩薩を本地仏としていたところがほとんどでした
明治の神仏分離令により「菩薩」を公然と祀れなくなってしまった多く妙見宮Myokengu)では 御祭神北斗七星の神と位置づけられていた天之御中主神(amenominakanushi no kami)を祀るようになりました

当社では御祭神を磐裂神(iwasaku no kami)根裂神(nesaku no kami)に改めたとされています そして神社の名称は「磐裂神社」や「磐裂根裂神社」そして「星宮神社」などに改められたと云われています

栃木県 日光があり 奈良時代767年に日光山を開基した勝道上人(shodo shonin)によって山岳信仰(神仏習合の修験道)の聖地とされています

日光の神橋手前の「磐裂神社」は かつて星の宮」とされ 宵の明星「金星」を守護していて 本来は 明星天子虚空蔵菩薩の応現を祀る杜で

日光開山の際には 磐裂神の助けがあったと伝えられています

そうしたことから神社名も「磐裂神社」「星宮神社」と変更されたのだと想います

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

境内の御神木の檜太さ3.3m)は 栃木県名木100選です

磐裂神社《ひのき》

当社御神木(ひのき)は「生命」の守り木と云われて居ります。
町内はもとより、各方面から長寿を願って訪れます。大平洋戦争当時は、出征兵士が無事帰還を願い、木の皮をはがして肌身に付けて出征しました。しかし、現在では御神木を守るために皮をはがさず、まわりの鎖へ麻を結んで長寿を祈って居ります。
樹齢250年、高さ35m、太さ3.3m。平成元年に「栃木の名木百選」に指定されました。

境内案内板より

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

わたらせ渓谷鉄道 足尾駅から
県道142号 足尾銅山を経由して約2.5km 徒歩30分 車5分程度

磐裂神社(iwasaku Shrine)に参着

参道を進むと 二の鳥居の直前に わたらせ渓谷鉄道の踏切があります
警報機 遮断機などはありません

踏切を渡り終えると遠くに列車が見えます

江の電が鳥居の前を通過する御霊神社(鎌倉権五郎神社)を想いだしてしまい列車の通過を眺めてしまいました 一両編成ののんびりとしたローカル線です

左手にある手水舎で清めてから
一礼して 二の鳥居をくぐり 境内にすすみます

砂利参道には 狛犬が構え 拝殿が建ちます

拝殿にすすみます 拝殿近く手前に 前足の代わりに丸石に座している狛犬は古そうです

扁額は 2つ掲げられていてどちらも「磐裂神社」一方には「足尾鎮守」とあります

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

社殿は 拝殿 幣殿 本殿と一体となって続いています

境内社と御神木にお詣りをしてから 本殿を仰ぎます

社殿に一礼して境内を後にします

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

修験の山庚申山への登拝口 一丁目とされていた故事について

庚申山碑(有形民俗文化財)

庚申山(標高1892m)は、日光開山の祖 勝道上人(~817)によって山岳信仰の霊地として開山された。

特に江戸末期には庚申講が盛んで、江戸講中が来山し、多くの石塔・石碑等が寄進された。

「庚申山」碑もそのひとつで、足尾最大の石碑である。
この碑は、慶応元年(1865)5月に、江戸講中23人が足尾宿 福田屋真右衛門外が世話人となり建立したもので、往時の隆盛を物語る大石碑である。
銘文の「庚申山」の刻字には米1俵が入ると言われている。書は、猿田彦神社大先達 行者松翁、石工は、日光八十平。
碑の背面には
〝人多く ミヤ(深)満(山)をワケ(分)停(て) よち(じ)登る こふ(講)者(は)御(み)神乃(の) いく(幾)代(よ)皮羅(変ら)ん〟 観山(雅号) 〝天津祖乃(おやの) 地津のぬし(主)ハ(は) 人多か(宝)ら 松多い(平)らかに 徳盤(は)万代〟 とあり。
更に
〝御別所迠 従是行程 百十四丁〟 と刻まれている。

碑は、遠下の外れにあった磐裂神社の庚申山登山口にあったが、大正3年に神社は現在地に移され、碑は参道入口に移った。更に、昭和25年に切幹橋詰に移され、平成9年に現在地に移った。

『日光市の指定文化財』日光市教育委員会事務局 文化財課HPより
https://bunkazai.edu.nikkocity.jp/list_d.html?0:119

磐裂神社(iwasaku Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

御神橋ある 日光の信仰 発祥の地
本宮神社Hongu Shrine)の記事をご覧ください

 

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