椎根津彦神社(椎宮)

椎根津彦神社(しいねつひこじんじゃ)(椎宮)は 紀元前667年に東征を開始した神武天皇が 海を導く者として任命した国津神の椎根津彦命(しいねつひこのみこと)を祀ります この場所が 神武天皇一行の宇佐への上陸地点であると伝えられています

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

 椎根津彦神社(shiinetsuhiko shrine)
 (しいねつひこじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

(椎宮) (shii no miya)

【鎮座地 (location) 】

大分県宇佐市大字南宇佐字惟ノ宮650

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》椎根津彦命(shiinetsuhiko no mikoto)

【御神格 (God's great power)】

・開運招福 Bring good luck and happiness
・交通安全 Pray for Traffic safety
・海上安全 Maritime safety
・無病息災 Get rid of disease and hardship

【格 式 (Rules of dignity) 】

・宇佐神宮 境外末社

【創 建 (Beginning of history)】

宇佐神宮末社  椎根津彦神社 御由緒

一. 御祭神 椎根津彦命
一. 鎮座地 宇佐市大字南宇佐字惟ノ宮六五〇番地
一.御神徳 開運招福 交通安全 海上安全 無病息災

一.由 緒 椎宮とも言われ、『日本書紀』によれば 紀元前667年10月5日神武天皇が御年45歳の時御東征を決意され、日向を出発し潮流の激しい豊予海峡の速吸門(はやすいのと)まできたときに、国つ神の漁師珍彦(うづひこ)が現れ、神武天皇に水先案内を申し出た。天皇は椎の棹を珍彦に授けて無事に難所を渡ることができたので、椎根津彦の姓を授けた。天皇一行はこの椎宮神社付近に上陸したと伝えられ、後にこの地に椎根津彦を祀った。

 天皇一行を宇佐国造の祖である菟挟津彦(うさつひこ)・蒐侠津媛(うさつひめ)が宇佐川の川上に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)の仮宮(宇佐神宮の呉橋南岸)を建て歓待した。椎根津彦に先導され宇佐を発たれた皇軍は11月筑紫の岡水門(おかのみなと)、安芸国の埃宮(えのみや)、吉備の国高島を経て浪速国に上陸し、河内国まで進んだが長髄彦の激しい抵抗に遭い再び海路より熊野に上陸し、八咫烏(やたがらす)に導かれて大和にお着きになり橿原宮で初代天皇に即位された。神武天皇は椎根津彦を倭の国造に任じた。
 和気地区には神武天皇を始め兄の五瀬命(いつせのみこと)、父親の鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を祀る柁鼻神社があり、宇佐高校の正門下の明神木には冤狭津彦命を祀る碑がある。

境内案内板より

【由 緒 (history)】

神武天皇が御東征のとき、海の案内をした椎根津彦命(しいねつひこのみこと)を祀る。

この場所が椎根津彦の上陸地点であると伝えられている。

宇佐神宮配布資料より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

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 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

宇佐神宮の呉橋南岸の遺蹟「一柱騰宮(ashihitotsu agarinomiya)」について

椎根津彦(shiinetsuhiko)が 神武天皇を導いた「宇佐」の上陸地点がこの地だと伝わり

菟挟津彦(usatsu hiko)・蒐侠津媛(usatsu hime)が宇佐川の川上に一柱騰宮(ashihitotsu agarinomiya)の仮宮(宇佐神宮の呉橋南岸)を建て歓待したとあります

現在は そこには記念碑「聖績 一柱騰宮跡」が建っています

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

宇佐神宮からR10号経由 東に約2km 車5分程度
宇佐高田医師会病院の裏手に鎮座します

椎根津彦神社(shiinetsuhiko shrine)に到着

病院の裏手 一段高い場所に鎮座しています

参道階段の下には「神武天皇御東征 海路案内人 祭神 椎根津彦命」と石柱が立っています

階段を上がると 朱色の玉垣に囲まれて入り口には社号標「椎根津彦神社」とあります ただならぬ御神域の気配があり 気が締まります

社殿はありませんが 大木の中央に 石の祠が3基あります 古代信仰の斎場のような厳粛な気が漂います

石祠にすすみます 

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

このままここに座していれば 我が身は 必ず浄化されるだろうとわかります
逆に言えば 長く居れば この地を穢してしまう
そうした想いに駆られる 聖地です

玉垣の外に出て 振り返り一礼をします

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本書紀(nihon shoki)』
神武天皇の条に記される椎根津彦(shiinetsuhiko)の伝承

神武天皇が御年45歳の時御東征を決意されて 日向を出発し潮流の激しい豊予海峡の速吸門(hayasuinoto)まできたときに 国津神の漁師が現れ 神武天皇に水先案内を申し出た 天皇は椎の棹を珍彦に授けて無事に難所を渡ることができたので 椎根津彦(shiinetsuhiko)の姓を授けたとされています  

天皇一行を宇佐国造の祖である菟挟津彦(usatsu hiko)・蒐侠津媛(usatsu hime)が宇佐川の川上に一柱騰宮(ashihitotsu agarinomiya)の仮宮(宇佐神宮の呉橋南岸)を建て歓待したとあります

「意訳」

「 この年は太歳甲寅(たいさいのきのえとら)です
その年 冬10月5日に 天皇は自ら 諸皇子と舟の先導を率いて 東征に向われました

速吸之門(hayasuinoto)(豊予海峡)に辿り着かれると 一人の漁人(ama)が小舟に乗ってやってきました

天皇はこの漁人を呼びよせてお尋ねになりました
「お前は誰か?」と言われました

漁人は答えて
「私は国津神で名は 珍彦(uzu hiko)と申します 曲浦(wada no ura)で魚を釣りにきております 天津神(amatsu kami)の御子がおいでになると聞いて お迎えに参りました」

天皇はまた お尋ねになりました
「お前は 私を案内できるのか?」
すると海人は「御案内しましょう」と言いました

天皇は命じて 漁人に「椎の木の竿」の先をお渡しになられて つかまらせて舟の中に引き入れ 海を導く者とされました

このことに因んで 名を賜って椎根津彦(shiinetsuhiko)といいます

これが倭直部(yamatonoatai)の始祖(shiso)である

筑紫(chikushi)の国の宇佐に着きました
そのとき宇佐の国造(kuninomiyatsuko)の祖先で 菟狹津彦(usatsu hiko)と菟狹津媛(usatsu hime)という者がありました
宇佐の川の川上のほとりに 一柱騰宮(ashihitotsu agarinomiya)を造って 天皇を奉り 宴会をしました
このときに菟狹津媛(usatsu hime)を家臣の天種子命(amano taneno mikoto)に娶らせました 天種子命(amano taneno mikoto)は中臣氏(nakatomi no uji)の遠い祖先です 」

【原文参照】『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

この鎮座地が 神武天皇一行の宇佐への上陸地点であると伝えられています

椎根津彦神社(shiinetsuhiko shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

宇佐神宮の記事をご覧ください

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