奈良之神社(熊谷市中奈良)

奈良神社(ならじんじゃ)は 御祭神「奈良別命(ならわけのみこと」の名残りから 鎮座地も中奈良(熊谷市)といいます 創建は 第16代 仁徳天皇の卸代〈1600年程前奈良別命は 下野国の国造の任の後 この地に その徳によって荒地を拓き美田を墾し 人々の発展と安住の地を造られた そのため郷民その徳を偲んで建立したと伝わります その後中世に 熊野社に社名を変えて存続 江戸後期になり 王政復古の思想興隆により 社名を古代の奈良神社に復したとあります

目次

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name

奈良神社Nara Shrine)
(ならじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (location) 

埼玉県熊谷市中奈良1969

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》奈良別命Narawake no mikoto

《合》愛宕神社(火産霊神・奈良新田)
   諏訪社 (建御名方命・久保)
   年行社 (大国主命・後原)
   神明大神社(大日孁貴神・善能寺)
   箱根神社(彦火火出見命・葉草)
   浅間社 (木花咲耶姫命・原)
   八坂神社(須佐之男命・中妻)
   伊奈利神社(豊宇気毘売神・二ツ道)

【御神格 (God's great power)】

・創業(事業)守護 Founding (business) protection
・厄除け  Prayer at an age considered a milestone in life
・交通安全 Pray to God not to have a traffic accident
・家内安全 Pray to God that the home is peaceful

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

延喜式内社 奈良神社の由緒
御祭神 奈良別命

奈良別命の由緒
「 奈良別命は 崇神天皇の皇子 豊城入彦命、(上ツ毛野国,下ッ毛野国の祖)の四世の孫に当り、仁徳天皇の卸代に下野国の国造りに任ぜられ 武蔵野の沃野に分け入り、その徳によって荒地を拓き美田を墾し、人々の発展と安住の地を造られた、そのため、卿民がその徳を偲んで奈良神社を建立し祀ったものである。」と国造本記に記されてあります。

奈良神社の神威
奈良神社のご祭神には、後光が射しでおり、或る時 奥州で蝦夷の反乱があったので、これを征討するため奈良神社の神霊を奉じて出兵し、転戦しつつ進んだが 向うところ敵なしの状態で 年老いた者や体の弱い者も同行したが ご祭神のお陰で全員無事であった。」と検古記に記されております。

さらに「奈良神社の境内から忽然として水が湧き出し、これにより600余町歩が水に恵まれた水田となった。
また、病人が出るたびに奈良神社に祈ったところ、すぐに御利益があったので、人の生命に係わること故 みんなが御祭神を家庭にお招きし大切に崇めた。この習慣が今なお続いている。」と同じ検古記に記されております。

古文書の出典
国造本記 慶雲2年(705年)文武天皇の御代の記述
検古記  和銅4年(711年)元明天皇の御代の記述

合祀各社(明治四十三年 本殿合祀)
諏訪大社(火産霊神・西田)
愛宕神社(火産霊神・奈良新田)
諏訪社 (建御名方命・久保)
年行社 (大国主命・後原)
神明大神社(大日孁貴神・善能寺)
箱根神社(彦火火出見命・葉草)
浅間社 (木花咲耶姫命・原)
八坂神社(須佐之男命・中妻)
伊奈利神社(豊宇気毘売神・二ツ道)

信仰
この地域の開拓の祖神として地域の氏神さま・そして・創業(事業)守護・厄除け・交通安全・家内安全

境内案内板より

【由  (history)】

江戸時代の文化・文政期(1804~1829年の時期)に編まれた武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿(shimpen musashi fudoki ko)』(昌平坂学問所地理局による事業(林述斎・間宮士信ら)で編纂)には
幡羅郡の奈良村の項に 熊野社と称していた時期があり そのことについて 次のように記されています

奈良神社は『延喜式』神名帳に所載される神社であるが
想定すると 衰退して熊野神社を合祀したためか あるいは 奈良神社が別の地にあって それが破壊されたため熊野神社に合祀されたためかのいずれかであろう
古代に創建され 官社であったので 他の社とは区別されていて
奈良神社は廃絶したのではなく 中世 その時流に合った熊野信仰を収容することにより社名を変えて存続したのであろう

以下 原文

(中奈良村)
熊野社
奈良四村の惣鎮守なり 本地彌陀・薬師・観音を安す 古は修験圓蔵坊が持なりしが
成田氏下野國烏山に移る時 圓蔵坊も随て移り 古記録も彼地へ携去し故 當時の傳詳ならず 今は長慶寺の持となる 社内に奈良神社を合せ祀る
奈良神社は 神名帳當郡四座の一なり 想に舊章衰廃の後 熊野三社を合祀し 郤て地主神を壓せしなるか 又 別に奈良神社ありしが 破壊に及て 此社へ遷せしかなるべし 何様官社なれば 自徐の社と混ずべからず 故に次條別に神社の目を立つ 見るもの誤て二所とすることなかれ

奈良神社
神名帳 幡羅郡小社四座の一なり
今配祀する熊野社地平坦の地にて 喬木もなければ 古跡とも思はれず 何様變革ありしなるべけれど傳を失へり 祭神詳ならず 本地不動の像を安ず 是中絶し神職退轉の後に 別當寺の習合せし態ならん

末社
稲荷二宇 天神 金山 以上 熊野の末社なるべし
神楽殿 稲荷社 富引稲荷と號す村民持

新編武蔵風土記稿より

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局

【境内社 (Other deities within the precincts)】

6社合殿
国魂神社八坂神社怡母社金山社天神社伊奈利社

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)播羅郡 4座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 ] 奈良神社
[ふ り が な  ](ならの かみのやしろ)
[How to read ](narano kamino yashiro) 


国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

奈良神社の旧蹟の石碑「延喜式内 奈良神社 和銅四年 涌泉舊蹟」と
奈良別命Narawake no mikotoの墓所という伝承横塚山古墳について

社伝にある「奈良神社の境内から忽然として水が湧き出し これにより600余町歩が水に恵まれた水田となった」と伝わる場所(当社から東北500m)に石碑が残っています
又 奈良別命の墓所であるという伝承が残る古墳(当社から東北1km)が残ります

奈良神社【旧跡】& 横塚山古墳(熊谷市) の記事をご覧ください

 

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

熊谷駅からR407号経由 約7.3km 車15分程度
中奈良の田んぼの真ん中にあります

奈良神社Nara Shrine)に参着

鳥居が建ち 田んぼの真ん中に直線の参道が延びています

一礼して 田の中の鳥居をくぐります
扁額には「奈良神社」とあります

夏の時期

丁度 稲刈りの最中

鎮守の森の中に社殿は鎮座しています

参道を進むと境内の付近に タヌキがいます

しばらく こちらを眺めていましたが 参道を進むと逃げていきました

参道の途中には 新しい石灯篭が建ち その先には境内
向かって右隣は 別当寺であった長慶寺です

境内入り口には 太い注連縄のかかる 木製の朱色の両部鳥居が建ちます

美しい彫刻の意匠が施された扁額には「奈良之神社」とあります

鳥居をくぐり抜けると 新しい狛犬の先に拝殿が建ちます

拝殿にすすみます
扁額には金文字で
「奈良之神社 伊勢祝司 度會公裕 謹書」とあります

賽銭箱には神紋が書かれていて 16の花弁の菊花紋の変種だと思うのですが
中央に左三つ巴 が入っています

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

向かって左手より 社殿の全体を眺めます

御垣に囲まれている本殿(入母屋 妻入り瓦葺)を仰ぎます

向かって左手には 6社合殿の境内社がありお詣りをします
石橋の跡のようなものがあり かつては沢があったのでしょうか

参道を戻り 鳥居をくぐり抜け 振り返り一礼をします

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

御祭神「奈良別命Narawake no mikoto」の伝承について

『先代旧事本紀(sendaikujihongi)』「国造本紀」下毛野国造に記される伝承

元々の毛野国の国造は 東国を治定した 第10代 祟神天皇の皇子である豊城入彦命(上毛野君や下毛野君の始祖)の系統でした

第16代 仁徳天皇の卸代に 元の毛野国を分割して上下(上野国・下野国)としました
下野国の初代国造には 豊城入彦命の四世孫にあたる 奈良別命が 初めて国造を賜る と記されています

意訳

下毛野(しもつけの)国造(くにのみやつこ)

仁徳天皇(難波高津朝)の御代に 元の毛野国を分割して上下(上野国・下野国)とした 豊城入彦命の四世孫の奈良別は 初めて国造を賜る

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『先代旧事本紀』刊本(跋刊) ,延宝06年 校訂者:出口延佳 [旧蔵者]内務省

御祭神「奈良別命Narawake no mikoto」が創建したと伝わる
宇都宮二荒山神社 (宇都宮市)の由緒について

創建者は 東国を治定した 第10代 祟神天皇の皇子である豊城入彦命(上毛野君や下毛野君の始祖)の4世孫 奈良別王(Narawake no kimi)としています

式内名神大社(うつのみや ふたあらやま じんじゃ
下野国一之宮 宇都宮二荒山神社

御由緒
主祭神、豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ、勅命を受けて、東国治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。

国土を拓き、産業を奨励し、民を慈しんだので、命の徳に服し、族は鎮まり、その御子孫も東国にひろく繁栄され、四世の孫 奈良別王(ならわけのきみ)が、第16代 仁徳天皇の御代に 下野の国造となられて国を治めるに当たり、命の偉業を偲び、御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて、国土開拓の神、大物主命・事代主命を祀られました。

その後 承和5年(838)に 現在地の臼ヶ峰に還座されました。
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境内案内板より

奈良神社Nara Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

奈良神社【旧跡】& 横塚山古墳(熊谷市) の記事をご覧ください

 

宇都宮二荒山神社Utsunomiya Futarasan Shrineの記事をご覧ください

 

二荒山神社 下之宮Futarasan Shrine Shimonomiyaの記事をご覧ください

 

武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る       

 

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-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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