護王神社(ごおうじんじゃ) は 皇統が守護された聖跡"大尾山"鎮座します 和気清麻呂公が 八幡大神の御託宣を受けたのは山頂〈摂社 大尾神社が鎮座〉で このご神託を受け 弓削道鏡の野望はくじかれます 当社は 山頂から少し下った中腹に 和気公を祀り鎮座します 宇佐神宮の境外末社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
護王神社(goo shrine)
(ごおうじんじゃ)
【鎮座地 (location) 】
大分県宇佐市南宇佐
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》和気清麿朝臣命(wakeno kiyomaro ason no mikoto)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・宇佐神宮の境外末社
【創 建 (Beginning of history)】
神宮配布資料より
もと菱形池の中島にあったのを 昭和造営で この山腹に移した
旧社の創建時期は不詳
【由 緒 (history)】
末 社 護王(ごおう)神社
御祭神 和気清麿朝臣命
神護景雲3年(769年)7月11日、和気公は宇佐使として当地に参向「我国は開闢以来 君臣の分定まれり、天津日嗣は必ず皇儲をたてよ。無道の者は速やかに掃い除くべし」という八幡大神の御託宣を受け、道鏡の野望はくじかれ皇統が守護された。
山上の摂社大尾神社付近は神託を受けた旧蹟である。案内板より
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
大尾山山頂にある 大尾神社の記事をご覧ください
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神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
宇佐神宮の大鳥居を一礼してくぐ抜けます
東の大尾山へ向かう「大尾山参道」へ右折して進みます
参道は頓宮の前を通り 東の大尾山へ真っ直ぐに続きます
大尾山の麓が社頭となっていて 狛犬と自然石の大きな石灯篭が構えます
大尾神社との共通の石段が参道となっています
振り返ると大尾山参道の長さが良くわかります
かなり長い石段です
途中に東郷平八郎大将の「和氣公之碑」が建ちます
石段の突き当りを右に折れると石垣の上に鎮座します
護王神社(goo shrine)に到着
入口すぐ近くに鳥居が建ち 一礼して くぐり抜けます
境内奥に神門と透かし塀が建ちます
神門にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
鳥居をくぐり抜けて 振り返り一礼
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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
宇佐神宮には「八幡大神ゆかりの伝承」として記されています
和気清麻呂(わけのきよまろと)とご神託(しんたく)
神護景雲3(769)年、女帝・称徳天皇 (復祚:孝謙天皇)の寵愛を受け、しばしば政治に介入していた僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は 皇位を狙い、
「道鏡を皇位に就かせたならば国は安泰である」とするお告げが 宇佐八幡大神よりおろされた と太宰主神(だざいのかんづかさ)習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)という者にうその奏上をさせます。宇佐神宮を深くご崇拝になっておられた天皇は、真相を確認するため、すぐに官僚であった和気清麻呂公を派遣します。公は出発に際して次のような歌をお作りになりました。
「 西の海たつ白波の上にして なにすごすらんかりのこの世を」
清麻呂公は 都を立って10日余りの旅程で宇佐神宮に着き、斎戒沐浴して神殿にぬかづき、神護景雲3年(769)7月11日、
「我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。」とのお告げを受けます。
そこで八幡大神 託宜奏記二通を作り、一通は神宮に納め、一通を陛下へご報告するものにして、同月の21日に都に帰り着き御所へ報告しました。
このとき清麻呂公は37歳でした。道鏡の怒りをかった清麻呂公は、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて脚(あし)の腱(けん)を切られた上、大隅国へ流されました。
その途中、暗殺を謀って送られた道鏡の刺客(しかく)から、突然の天地雷鳴や300頭あまりの猪の大群が 和気清麻呂を護り、さらに宇佐へ詣でたところ、道鏡に傷つけられた脚が回復するなど、八幡大神のご守護により数々の奇跡がおきたと伝えられています。
翌年の神護景雲4年8月4日(770)天皇が西宮神殿で崩御、
光仁天皇が御即位になって年号を宝亀と改め、
同年9月6日 清麻呂公は召し返され、
翌宝亀2年3月29日(771)には元の位に着き、
9月16日に薩摩の国員外の介に任ぜられたが、間もなく豊前の守(かみ)に還されました。公は古事にも通じ「民部省例(みんぶしょうれい)」や「和氏譜(わしふ)」を著し、当時の大事業である平安遷都の大功を残しました。
又道鏡は冠位をはがれ、下野国薬師寺別当として赴任(ふにん)させられましたが、宝亀3年4月7日にその生涯を閉じました。清麻呂公を祀る護皇神社
このようにして、宇佐神宮の国体擁護のご神徳と、和気公の至誠の精神とが皇室をご守護することとなりました。
この後、宇佐神宮への勅使を宇佐使(うさづかい)また和気使(わけづかい)といい、和気氏が派遣されるのが例となりました。
清麻呂公は当宮末社、護皇(ごおう)神社に祭祀されています。
公式HPより
八幡大神の御託宣を受けて 皇統が守護された聖跡
護王神社(goo shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)