大尾神社(宇佐市)

大尾神社は 天平神護元年(765)から約15年間 宇佐神宮の「上宮」として鎮座していました この間には「弓削道鏡の事件」が起きましたので 八幡大神が 国体擁護の御神教を授けた霊地とされています 宇佐神宮からは 東に位置していて 朝陽を迎えるかの如く 真っ直ぐに延びる参道の先 宇佐三山の一つさされる大尾山の頂上に鎮座しています 奥宮の「御許山(大元神社)」への古道の出発点とされる霊地でもあります 

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

 大尾神社(oo shrine)
 (おおじんじゃ) 

【鎮座地 (location) 】

 大分県宇佐市南宇佐2895

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》八幡大神(hachiman okami)

【格 式 (Rules of dignity) 】

・宇佐神宮の上宮 天平神護元年(765)より15年間
・国家鎮護の遺蹟の社

【創 建 (Beginning of history)】

摂社 大尾神社

御祭神 八幡大神

 孝謙天皇の御代の天平勝宝元年(749)八幡大神は 比売大神とともに奈良へ行幸、そして厭魅事件により伊予の宇和に天平勝宝7年(755)に移り、十年後奈多宮を経由して宇佐にご帰還になったが、宇佐三山の一つ大尾山の頂上に御鎮座するとの託宣があったので、天平神護元年(765)に造営使を遺わして御造営になり、ここに約十五年ご鎮座された。

 この間の神護景雲3年(769)夏の七月十一日、和気清麻呂公は、弓削道鏡の事件に際して、御神教を賜るために勅使として参向、大尾山頂の社頭に参拝されて、国体擁護の御神教を授かった霊地である。

延暦元年(782)小椋山の本宮に還御になったのであるが、国家鎮護の遺蹟を保存するために この時 大尾神社を創祀になったものである。昭和御造営に際して遷御申し上げた。

 神垣の月ぞさやけき雲霧の
 おほふの山の名にもたかひて
     烏丸(からすまる)大納言 光胤卿

宇佐神宮資料より

【由 緒 (history)】

摂社 大尾(おお)神社

 御祭神 八幡大神

 八幡大神は奈良の都の大仏開眼式に臨まれ,宇佐へご帰還ののち,
天平神護元年(765年)この大尾山にしばしの間鎮座するとの護託宣により山上に本殿を造営,十五年間お鎮まりになった。

この間,神護景雲三年(769年)七月十一日 和気公は「宇佐使」として当地に参向、皇統を守護する託宣を受けられた。
大神が本宮へ還御されたのち神勅拝礼受の聖蹟として八幡大神の御分霊を祀り、大尾神社と称された。

境内案内板より

 【境内社 (Other deities within the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

大尾神社(oo shrine)に関連する「八幡大神」の遷座について

創建の由緒書きによれば

第29代欽明天皇32年(571)八幡大神は 初めて宇佐の地に顕現します
養老7年(723年)隼人征伐から還戻られた八幡大神は 神託をされ 小山田社から 現在の宇佐神宮の社地「菱形山の小倉山(亀山)」に遷宮されます
神亀2年(725年)第45代聖武天皇の勅願により 現在の宇佐神宮が整備されます
天平勝宝元年(749)八幡大神は 比売大神とともに奈良へ行幸
天平勝宝4年(752)奈良大仏の開眼供養会に礼拝
天平勝宝6年(754)薬師寺の僧・行信と八幡宮の神職・大神多麻呂らによって「厭魅(en mi)事件」と呼ばれる不祥事(呪いの儀式)が起こり 大和朝廷と深いつながりのあった大神氏一族は 宇佐八幡から退去します

天平勝宝7年(755)八幡大神は これまで朝廷から下賜された封戸・田畑を返還し 加えて託宣し「汝等 穢はしくして過有り 神吾 今よりは帰らじ」と伊予国宇和嶺(愛媛県八幡浜)に移り 宇佐には八幡大神が不在という事態が起こりました

伊予国宇和嶺では 社殿(愛媛県八幡浜市の八幡神社)を造営して その後  豊後水道を渡り 大分県奈多浜に御上陸され 奈田宮から その後 景勝の地を求めて豊後 日向 肥後の各地を巡幸されること8年後 現在の大分県宇佐都宇佐町亀山の地に御鎮座になったと伝わります

その頃 宇佐神宮では 大神氏一族が退去した後で 辛島氏と宇佐氏が 宇佐神宮の神事を司っています 

天平神護元年(765)3月
八幡大神は 禰宜・辛嶋志奈女(karashima no shiname)に 宇佐三山の一つ大尾山の頂上に鎮座するとの託宣をし 宇佐公池守が社殿を造営して受けます

10月 八幡大神は大尾山に遷座して 約15年間ここに鎮座します

この15年の間には
神護景雲3年(769) 和気清麻呂(wake no kiyomaro)公が 弓削道鏡の事件に際して勅使として当社(大尾山)に参拝し 八幡大神より宣託を授かったことは有名です

中央(大和朝廷)と結ぶことで 勢力を広げた八幡大神(大神氏系神職団)が 中央での勢力争いに巻き込まれて退去した後 古参の宇佐氏も弓削道教に加担したとの見方もあり 八幡大神は政治に巻き込まれながら遷座を繰り返しました

光仁天皇・宝亀2年(771)和気清麻呂(wake no kiyomaro)公は 豊前守に任じられて宇佐に赴任します宇佐神宮の神職団の機構改革や粛清を行います

宝亀4年(773)
和気清麻呂(wake no kiyomaro)公は 禰宜・辛嶋勝与曽女 宮司・宇佐公池守を解任して 今後の神職の在り方について定めます 
1.大宮司職は 大神比義の子孫が就く
2.少宮司職は 宇佐公池守の子孫が就く
3.禰宜・祝は 辛嶋勝乙目の子孫が就く

大神・辛嶋・宇佐氏間の確執に終止符が打たれました

宝亀10年(779)大尾山に坐す八幡大神が再度託宣して もとの小椋山 現在の宇佐神宮の地に遷座することになります

弓削道鏡の事件に関しては 末社・護王神社の記事をご覧ください

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

「宇佐八幡 行幸会(gyokoe)」について

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています

「行幸会(gyokoe)」の行幸順は 次のように伝わります


宇佐八幡→①田笛社→②鷹居社→③郡瀬社→④泉社→⑤乙咩社→⑥大根川社→(薦神社)→⑦妻垣社→⑧小山田社→宇佐八幡

かつては 宇佐八幡の境外8摂社とされていました

詳しくは「宇佐八幡 行幸会(gyokoe)」について の記事をご覧ください

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

宇佐神宮の御神橋を渡り 大鳥居をくぐり抜けます

初沢池から 参道を(東)左に曲る「大尾山参道」の案内と「大尾神社」「護皇神社」の立札がありますのですぐわかります

「頓宮」の前を通り 大尾山に直線で向かう大尾山参道を歩みます

長い参道の先 

大尾山の麓には 狛犬と 大きな石灯籠が建ち 霊地への入口となっています

霊地に対する信仰の深さを 大きな石灯籠が物語っているような感じです

石段を上がり 鳥居をくぐり抜けます

すると 長い石段が静寂の中を続きます

山頂には再び鳥居が建ちます

 大尾神社(oo shrine)に到着

一礼して 鳥居をくぐり抜けると 静寂の中 得も言われぬ聖地であることが感じられます

社殿のご神域は檀となっていて 神門と狭間格子の透塀が 御垣の役割をして 境内からは仕切られています
現在は 神門の前までは 弧を描くように参道があります

神門ににすすみます 

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

境内を戻り 鳥居をくぐり抜けて 振り返り一礼をします

大尾山の中腹には 末社・護皇神社 が鎮座しますので こちらにもお詣りをします

長い石段を降りて見ると 東西に延びる大尾山参道の広さと長さに 改めて驚かされます

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『続日本紀(shoku nihongi)』に記される伝承

天平勝宝6年(754)薬師寺の僧・行信と八幡宮の神職・大神多麻呂らによって「厭魅(en mi)事件」と呼ばれる不祥事(呪いの儀式)が起こり 大神氏一族は 宇佐八幡から退去します

「意訳」

「薬師寺の僧・行信と八幡宮の神職・大神多麻呂らが「厭魅(en mi)人を呪い殺そうとする呪法を行ったので遠流罪・・・並びに大神杜女(大仏造立時の立役者)も流罪・・・」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』』延暦16年(797年)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

「要約」

天平勝宝7年(755)
八幡大神は これまで朝廷から下賜された封戸・田畑を返還します

加えて託宣して「汝等 穢はしくして過有り 神吾 今よりは帰らじ」

と伊予国宇和嶺(愛媛県八幡浜)に移り 宇佐には八幡大神が不在になる事態が起こりました

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』』延暦16年(797年)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

八幡大神が 国体擁護の御神教を授けた霊地

大尾神社(oo shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

宇佐神宮の記事をご覧ください

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