五條天神社(台東区上野公園)

五條天神社(ごじょうてんじんしゃ)は 今から約1900年も前から忍ヶ岡(上野の古名)に鎮座する都内屈指の古社です 古代からは 想像出来ないほどに激変した 世界のTOKYO この大都市を見つめ続けています 

ご紹介(Introduction)

【神社名】(shrine name) 

五條天神社(gojotenjinsha)
ごじょうてんじんしゃ 

【通称名】(Common name) 

五條天神 gojo tenjin

【鎮座地】(location)

 東京都台東区上野公園4-17

【地図】(Google Map) 

【御祭神】(God's name to pray) 

《主》 少彦名命 (sukunahikona n omikoto)
《主》 大己貴命 (onamuji no mikoto)
《配》 菅原道真公 (sugawaramichizane ko)

【御神格】(God's great power)

 ・医薬祖神 (God of medicine)
・無病息災 (Get rid of disease and hardship)
・ 健康祈願 (Health prayer)
・合格祈願 (Prayer for passing the exam)
・等 etc

【格式】(Rules of dignity) 

日本武尊(yamatotakeru no mikoto)が創祀した由緒ある場所

【創建】(Beginning of history) 

約1900年前 (About 1900 years ago)

【由緒】(history)

『御祭神は主神に大己貴命・少彦名命二柱の薬祖神を、相殿に菅原道真公をおまつりしてあります(大己貴命は大国主命と同じ神様です)

第十二代景行天皇の御代、日本武尊が東夷征伐の為、上野忍が岡をお通りになられた時、薬祖神二柱の大神に御加護を頂いた事を感謝なされて、此の地に両神をおまつりされましたのが当社の御創祀であります(約1880年前)

尭恵法師の北国紀行に、正月の末 武蔵野のさかい忍ケ岡を優遊しはべり鎮座の社五條天神と申しはべり、折ふし枯れたる茅原を焼きはべり「契りをきて誰かは春の初草に、忍ケ岡の露の下萌え」云々とあり、この正月は文明18年(約500年前)ですので相当の古社である事がわかります。

相殿におまつりしてあります菅原道真公は、寛永18年(約350年前)に合祀され、歌の道の祖神として俗称下谷天満宮ともいわれました。社地は御創祀以来、天神山(今の摺鉢山)瀬川屋敷(飴横の入り口辺り)他、幾度か変遷を重ね、昭和3年9月に御創祀の地に最も近い現在地に御遷座になりました

尚、日本橋本町にある薬事協会ビルの屋上には、薬祖神社として御分霊をおまつりし、毎年10月17日に薬業関係者により盛大なお祭りが行われています。

特殊神事と授与品⇒「宝舟の神事」は正月の1日と2日です。新年に吉を得る縁起の宝船が授与されます、版画の筆書きの図(霊山筆)と宝貨をを積む舟(野生司香雪画)の2つです。
「鷽替えの神事」は正月の25日です。初天神の此の日、厄を祓い吉を迎える行事で、旧年の鷽を御神前に納めて罪を滅ぼし、新しい鷽と受け替えます。桧製で当社の手作り、頭に金紙のあるのは特に吉兆と喜ばれます。遠くから見える方々の便宜を計り、正月3が日にも授与しています。

「うけらの神事」は2月節分の日の夕方に行います。病の鬼を祓う古式床しい追儺式で「蟇目式」「うけらの神事」「病鬼との問答」「豆まき」等の神事が続きます。当日は「追儺の御札・神矢」の他に一年間を無病健康に過せる「朮餅」や「鬼討豆・福杓文字・追儺の絵馬」が受けられます。

七福社と拝観⇒正面南階段を降りてすぐ右の所に七福人をおまつりしてあります。江戸初期、上野の山の繁栄を願って、山内の各入口に祀った中の一つといわれます。

その他の拝観出来ますものは、拝殿の88種の薬草・水草の天井絵(祭日)、赤穂義士遺品や遺墨(12月14日)、社殿の右後の虎徹の井戸、庚申供養塔、独活大王墓石(陰陽石)などがあります。』

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

 

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【境内社】(Other deities within the precincts)

・ 花園稲荷神社 《主》倉稲魂命(uganomitama no mikoto)

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【この神社の予備知識】(Preliminary knowledge of this shrine)

東京都23区内 屈指の古社です

社伝では 約1900年前の第12代 景行天皇の御代に創建とされます

第12代 景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 東夷征伐の折 忍ヶ岡(上野の古名)を通ったとされ 薬祖神2柱の大神「少彦名命 (sukunahikona n omikoto)・大己貴命 (onamuji no mikoto)」の御加護により難儀を救われた事に感謝し 両神をお祀りしたと伝わります

古くから「五條天神(gojo tenjin)」と愛され呼ばれていますが この天神様(tenjin sama)は「天津神(amatsukami)」である造化三神の御子神「少彦名命 (sukunahikona n omikoto)」の通称です

皆さんが良くご存知の 天神様(tenjin sama)と言えば 菅原道真公(845年8月1日-903年3月26日)を祀る天満宮(temmangu)だと思いますが 公は平安期の貴族で右大臣にまで昇進したが 大宰府で不遇に生涯を終え 都の祟り神となってから 1000年程度が経過しています 今では 学問や和歌などの芸能の神様として 多くの方々に崇敬されています

五條天神(gojo tenjin)に 菅原道真公 (sugawaramichizane ko)が合祀されて 天満宮(temmangu)の性格を帯びるようになった時期は
寛永18年(1641)(約350年前)
菅原道真公 (sugawaramichizane ko)が相殿神として合祀されます

その頃から 一般的な天神信仰と習合していきながら やはり通称「下谷天満宮」とも云われたそうで 菅原道真公 (sugawaramichizane ko)が 歌の道の祖神 として 江戸庶民の間で信仰を集めていったそうです

当社「五條天神社(gojo tenjinsha)」は それよりもずっと古くからある天神様(tenjin sama)ですので
現在の御祭神は「医薬祖神」&「学問の神」の双方を祀ることになっています 医学部・薬学部などの合格祈願はもちろんですが 製薬などの学問研究にも うってつけの神社になります

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

皆さんは 五條天神(gojo tenjin)の古社地(元来の鎮座地)をご存知ですか?

上野公園内の「摺鉢山古墳(suribachiyama kofun)の案内看板」を見ると書かれています

「摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ているところから名付けられた。

ここから弥生式土器、埴輪の破片などが出土し、約千五百年前の前方後円形式の古墳と考えられている。現存長七十メートル、後円部径四十三メートル、前方部幅は最大部で二十三メートル。後円部の道路との比高は五メートルである。

丘上は、かつての五條天神社、清水観音堂鎮座の地であった。五條天神社の創立年代は不明であるが、堯恵法師は『北国紀行』のなかで、文明十九年(一四八七)に忍岡に鎮座する五條天神社を訪れた際、
契りきて たれかは春の初草に 忍びの岡の 露の下萌 と、うたっている。現在、上野公園忍坂脇に鎮座。

清水観音堂は、寛永八年(一六三一)寛永寺の開祖天海僧正により建立されたが、寛永寺根本中堂建立のため、元禄七年(一六九四)現在地に移転した。現在、丘上は休憩所となっているが、昔のまま、摺鉢の形を保っている」

摺鉢山古墳(suribachiyama kofun)の案内看板

この尭恵法師の北国紀行は文明19年 (1487年)ですので この時点でも約500年前になりますので 相当の古社です
ひょっとすると 1900年前とか500年前にタイムスリップ感覚を体験出来るかも 興味のある方は ぜひ摺鉢山古墳を訪ねてください

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【神社にお詣り】(Pray at the shrine)

神社の入口に当たる参道は 計三か所あります
上野公園側と不忍池側の双方あり

①花園稲荷神社の朱色の稲荷鳥居をくぐりながらの参道
②稲荷鳥居をくぐらずに そこから不忍池に向かい少し下ると 本殿の正面の少し下り気味の表参道??があり 鳥居が建っています
➂不忍池側からは堂々の階段を上がりながら ご参拝が出来ます 多分これが表参道だと思います

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私が良く利用するルートは ①花園稲荷神社(hanazonoinari shrine)の参拝路です
JR上野駅の公園口から上野恩賜公園を抜けて 摺鉢山古墳(suribachiyama kofun)で古の神社 鎮座地跡に想いを馳せてから この古墳を超えて花園稲荷神社(hanazonoinari shrine)の参道に着きます

朱色が続く稲荷鳥居を潜りながら 下りの稲荷坂を進む参道は情緒風情があり 外国人観光客にも人気の撮影スポットになっています

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五條天神(gojo tenjin)より 一段高い場所にある花園稲荷神社(hanazonoinari shrine)の手水舎で清めます

ここでは
穴稲荷(ana inari)と花園稲荷神社(hanazonoinari shrine)にお詣りです
ご祭神は「倉稲魂命(ukanomitama no mikoto)」です

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花園稲荷神社(hanazonoinari shrine)は 江戸初期に再興されたと伝わり 寛永寺の拡張によって 棲家がなくなってしまった「上野山に棲むキツネさん」を憐れんで狐穴を掘ったので「穴のいなり」と呼ばれたので穴稲荷(ana inari)

明治になって花園稲荷神社(hanazonoinari shrine)に改称しましたので 元宮と今宮の関係にあります

まずは 元宮で キツネの穴の上に鎮座している穴稲荷(ana inari)へ
今でも洞穴になっています(江戸城の無血開城の折 交戦した彰義隊が立てこもっていた)

鉄格子の扉を開き 中に入ります
キツネ穴とお社の二ヶ所にお詣りです

ここで お詣りしますと 何故かキツネさんが憑いてくれます

続いて 花園稲荷神社(hanazonoinari shrine)にお詣りです
ご祭神「倉稲魂命(ukanomitama no mikoto)」に仕えるご眷属の 先程 憑いて頂いたキツネさんに戻って頂きながら お稲荷さん定番の商売繁盛の祈願

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お稲荷さんに一礼をしながら ちょいと下側に鎮座する五條天神(gojo tenjin)へ向かいます
階段を境内へと降りますと八角形に囲まれた八本の柱で出来た手水舎に これまた あまり見かけない手水鉢がありますので ここで 改めてお清め 続いて 拝殿からご本殿にむかいお詣りです

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上野公園の中にありながら
雑多に人が込み合う訳でもなく かと言って 誰もいないという寂しさもなく

静かで落ち着いた かつ 人の気配も漂う空間のご神域です
礼をもって ご神威に添い給うよう願いながら 1900年の間この地に 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ 祈りを済ませます

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つづいて

境内にある社務所では 時期により異なりますが 弓守り 鷽 宝船絵などを拝領してから 正面鳥居をくぐり 振り返り一礼 不忍池へと向かいます

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「例大祭」 毎年5月25日 

さらに3年に一度行われる「千貫神輿(sengan mikoshi)と呼ばれる大神輿の渡御」は 大神輿が上野界隈を練り歩き 担ぎ手や観覧客の声と熱気に満ちます

千貫神輿(sengan mikoshi)を担がせて頂いたことがありますが 重い重い片に食い込む でもとても気持ちのいい 古式床しい江戸っ子の祭りです

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「鷽替えの神事」 正月の25日 初天神の日に厄を祓って吉を迎える行事

旧年の鷽(uso)を御神前に納めて罪を滅ぼし「新しい鷽鳥(uso tori)」と受け替えます
桧製で当社の手作り 頭に金紙のあるものを受ければ特に吉兆と云われ

7~8年ぐらい前は 並ばずに授与所で受けられましたが 今は人気で難しい
もしかすると 正月3が日にも授与しているそうなので こちらの方が受けられるかもしれません

令和2年には 数百メートルの列になって 途中で「新しい鷽鳥(uso tori)」がすべて授与され 並んでも授与できなかった人も大勢います 人気があり大変な人出となります

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「うけらの神事」

2月節分の日の夕方 「病の鬼(yamai no oni)」を祓う 古式床しい追儺式
「蟇目式(hikime shiki)」「うけらの神事」「病鬼との問答」「豆まき」の順番で神事が続き 儀式の間中「うけら」を焚き続け邪気を祓います

この「うけら」とは 若芽が食用になるキク科の草です
「追儺の御札・神矢」 一年間を無病健康に過せる「朮餅」や「鬼討豆・福杓文字・追儺の絵馬」が受けられます

医薬祖神(iyaku sojin)二柱を祀る由緒によるものだと言われています

「宝船の神事(hoshu no shinji)」正月の1日と2日

新年に吉を得る縁起の宝船が授与され 版画の筆書きの図(霊山筆)と宝貨をを積む舟(野生司香雪画)の2つです

当社との関連性は良くわからないのですが
 京都市内にも 御祭神 少彦名命 (sukunahikona n omikoto)で 社名も同じ「五條天神社(gojo tenjinsha)」があります

こちらは 社伝によれば 延暦の平安京遷都以前からの神社で 社地を一度も変えていない 
その後 延暦13年(794年) 平安京遷都の折 空海が大和国宇陀郡から天神(あまつかみ)を勧請したとされて
当時は「天使の宮」と呼ばれ 後鳥羽上皇(第82代天皇)時代に「五條天神宮」へ改称されたと伝わっています

毎年の節分日には 日本最古の宝船が授与されるので知られていますが

当社「五條天神社(gojo tenjinsha)」でも 同じような「宝船の神事(hoshu no shinji)」が継続され 伝承されていますが 関連はあるのだろうか?

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【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)

五條天神社(gojo tenjinsha)の御遷座(go senza)の伝え

鎮座地(chinza chi)は何度も御遷座(go senza)しています

創建時(元来の鎮座地)は 上野公園内の摺鉢山古墳(suribachiyama kofun)ですが  天神様(tenjin sama)が鎮座していたので天神山(tenjinyama)とも摺鉢山(suribachiyama)とも呼ばれたようで 当時の祭神は少彦名命1座 (sukunahikona n omikoto)

時が降り 江戸時代となって
寛永2年(1625)
天海が上野「寛永寺」を徳川将軍家の菩提寺として上野に開山した為
寺院境内の拡張があり その都度 ご遷座したようです

明暦 3年(1657) 上野広小路の黒門前右脇に遷座
元禄10年(1697) 神職「瀬川家の屋敷内」に遷座(現在のアメヤ横丁入口付近)

明治期以降
大正12年(1923) 国有鉄道の高架化により「瀬川家の屋敷」用地接収に伴い
        仮社殿を鉄道省所有地(山下町)に設けたが
        同年発生した関東大震災で仮社殿が焼失する
大正13年(1924) 不忍池南西に新たに仮社殿を造営するが
        関東大震災復興の都市計画事業の修正見直があり
大正14年(1925)「花園稲荷神社」境内の隣に再度仮殿を造営し遷座(現在地)
昭和03年(1928)「現在のご本殿}が竣工され遷座祭が実施された

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これでやっと 創建時(元来の鎮座地)の摺鉢山古墳(suribachiyama kofun)の場所に近づけました

さて 1900年程の昔 創建時の東京の様子とは??

日本武尊(yamatotakeru no mikoto)が 神社を創建した時 忍ヶ岡(上野の古名)の様子が どの様なものだったのか 勝手に想像してみました

尊が東夷征伐の折 忍ヶ岡(上野の古名)をお通りになられた
当時は おそらく 現在の不忍池は入り江で 東京湾と繋がっており 忍ヶ岡(上野の古名)は「上野のお山」の呼び名ように半島の先端で その入り江(不忍池)は深く さらに奥の港として「根津」などがあったのでは

そうとすれば 現在の不忍池の畔(海岸)から 尊が軍船を下船して上陸し 天神山(tenjinyama)に向かう最短距離には  なんと現在の「五條天神社(gojo tenjinsha)」ご鎮座地があります 
多分ですが 現在の鎮座地の鳥居あたりを抜けて天神山(tenjinyama)に向かわれたであろうと 勝手に想像してしまう訳です

当時の上野 周辺の「かってに想像した地図」を作製しました
下図の通りで 赤い印が 摺鉢山古墳(suribachiyama kofun)の天神山(tenjinyama)あたりです

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古代からは 想像出来ないほどに激変した 世界のTOKYO この大都市を見つめ続ける

東京都区内の 屈指の古社 約1900年前から忍ヶ岡(上野の古名)に鎮座する
「五條天神社(gojo tenjinsha)」に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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