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度津神社(佐渡市羽茂飯岡)〈佐渡國一之宮・延喜式内社〉

度津神社(わたつじんじゃ)は 御祭神に 五十猛命を祀り 陸上海上の守護神として 島民から篤く信仰されています 佐渡国の一之宮と格式高い神社です ただし 1470年に大洪水があり 社地や由緒や縁起など古文書等が悉く流失したため 現在地に遷座したと伝わり その為 創立年月 その他詳かではありません

玉祖神社(周防国一之宮)

玉祖神社(たまのおやじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に「玉祖神社二座」と所載されています 三種の神器の一つ 八坂瓊曲玉(yasakanino magatama)を造られた「玉祖命(tamanoya no mikoto)」が御祭神 他一座は不詳です また 社伝では『日本神話』でも有名な「天照大神の天の岩戸隠」の時に 集めて鳴かせた「常世 長鳴鶏」を 玉祖命が この地に この鶏をつれて留まられたとして「黒柏 発祥の地」としています 黒柏は 天然記念物に指定されて境内で飼育されています

咲前神社(安中市鷺宮)

咲前神社(さきさきじんじゃ)は 一の宮貫前神社(抜鉾神社)の旧鎮座地(前宮)です その由緒はとても古く 遠く神代に 経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が 健御名方神(たけみなかたのかみ)を追って 上野国と信濃国の国境にある荒船山に御出陣をされた時の行在地であると伝わっています

長柄神社跡(八尾市)

長柄神社跡(ながらじんじゃ あと)は 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に『河内国若江郡 長柄神社(鍬)』とある祈年祭に鍬一口を加えられた由緒ある式内社ですが 明治40年(1907)10月神社統合令で「矢作神社(八尾市)」に合祀されました

都夫久美神社(八尾市)

都夫久美神社(つぶくみじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に 河内国高安郡 都夫久美神社とある式内社ですが 明治40年(1907)12月 神社統合で 玉祖神社(八尾市)に合祀されました その後 昭和49年(1974)10月 65年ぶりに社殿を新築して 元の鎮座地に復興しました

御祖神社跡(八尾市)

御祖神社跡(みおやじんじゃ あと)は 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に『河内国高安郡 御祖神社』とある式内社ですが 明治41年2月「玉祖神社(八尾市)」に合祀されました 現地(旧鎮座地)には昭和13年5月に建立された「式内御祖神社跡」という碑が残されています

玉祖神社(八尾市神立)

玉祖神社(たまのおやじんじゃ)は 和銅3年(710)周防国一之宮「玉祖神社」から分霊を勧請したもので 御祭神は櫛明玉命です 通称「高安明神」とも呼ばれていて 高安11ヶ村の氏神です 鎮座地は 生駒・信貴連山の中腹の高台にあり 社頭にある「大楠」から一望する 河内平野は絶景です

六所神社(松江市大草町)

六所神社(ろくしょじんじゃ)は かつての出雲国府に鎮座して「出雲国総社(いづものくにそうじゃ)」とも呼ばれ高い格式を有して坐ます 社伝では もと「佐久佐社(sakusa no)yashiro」と伝わり『延喜式神名帳』にも『出雲國風土記』にも記載されている 由緒ある古社です 

阿太加夜神社(東出雲町出雲郷)

阿太加夜神社(あだかやじんじゃ)は 神代の国引き神話のエンディングとなる 八束水臣津命(やつかみづおみずのみこと)が「今は国引きを終わった」ので「おえ(意恵)」とおっしゃられて 杖を突き立てたとされる「意宇社(ou no mori)」の比定地が境内にあります 御祭神は 大国主命の御子で 謎多き女神と伝わる「阿陀加夜奴志多岐喜比売命(あだかやぬしたききひめのみこと)」を祀ります 中世には 神主であった「松岡兵庫頭(matsuoka hyogo no kami)」の効験が誉れ高く それ故に松江の城山稲荷神社の御神霊を当社に船渡御させたことから「ホーランエンヤ・日本三大船神事」が始まりました

賣布神社(松江市和多見町)

賣布神社(めふじんじゃ)は 遠く神代に始まると伝わる古社です 摂社の御祭神「櫛八玉神(くしやたまのかみ)」が 速秋津比賣神(はやあきつひめのかみ)〈大祓詞のなかにある潮の流れの神(水戸ノ神 祓戸ノ神)〉をお祀りになられたのが起源とされます

布辨神社(広瀬町布辨)

布辨神社(ふべじんじや)は 『出雲國風土記』の「布辧社(fube no) yashiro」の比定社です 古文書には 古くは要害山上に鎮座していたが 天文年間(1532~55)山麓に遷したと伝承しています 江戸期には「二所大明神」と云われ「大山咋命(おほやまくいのみこと)市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」の2柱の神が坐ます 

河原神社(kawahara shrine)

河原神社は 『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』の河原社に比定されています 境内や社殿は南向きに建てられていて 北の背後にある「宝満山」と呼ばれる鉱山をご神体山としています 里の氏神として 「山の神さん」と 里人から親しみを込めて呼ばれていて いまだに信仰は篤く続いて坐ます

加茂神社跡(八尾市)

加茂神社跡(かもじんじゃあと)は 『延喜式神名帳』に『河内国 高安郡 鴨神社』とある式内社ですが 明治40年(1907)「玉祖神社(八尾市)」に合祀されました その後 大正12年 大竹地区の氏子が 旧社地に小祠を建て 御分神を奉祀して 現在にいたっています

那冨乃夜神社(八雲町東岩坂)

那冨乃夜神社は「星の神」が降臨されたという伝説のある山「星上山」に鎮座します 御祭神は『日本書紀』の「出雲の国譲り神話の舞台」で 大国主命(okuninushi no mikoto)が 国譲りを承諾された後 出雲国内の平定を推し進める 天津神(大和)に最後まで従わなかった神として 「星神・悪神」と記されています その国津神の名は「星神加加背尾命(hoshinokami kakaseo no mikoto)」を祀ります 合わせて祀られている神は 出雲に国譲りを迫った 2柱の天津神「經津主命・武甕槌命」です まるで「星の神」の復活を抑えるかの如く祀られていて まるで 東出雲を一望する山の頂きから 今でも古代出雲の中心地「意宇郡」を鎮めるかのように坐ます

來待神社(宍道町上来待)

來待神社(きまちじんじゃ)は 第10代 崇神天皇の御代(およそ2000年以上前)に 大和(奈良)の三輪山に坐ます「大神神社」から「大物主命」の御魂「荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)」を迎えて「大物主 櫛甕玉命(おほものぬし くしみかたまのみこと)」を祀ったと伝わります

毛社神社(八雲町東岩坂)

毛社神社(もこそじんじゃ)は 『出雲國風土記』所載の古社で 同じく『出雲國風土記』所載の「笠柄社(kasagara no) yashiro」を合祀しています 社殿は 大社造の立派な本殿が建ち 御神紋には 出雲国造(izumo no kuni no miyatsuko)所縁の「二重亀甲に有」を持ち 由緒ある格式高き神社です

愛宕神社(松江市外中原町)

愛宕神社(あたごじんじゃ)は 堀尾吉晴公が 能義郷にあった「富田の城」を 島根郡の「松江の城(現 松江城)」に移しました この時に この愛宕神社も 能義郷から島根郡のこの地(松江)に一緒に遷座させたと伝わります 明治期の神仏分離までは「宝照院」と呼ばれていて 『出雲國風土記』の時代にまで遡る『灰火山社記(haibiyama shaki)』と云う由緒書きを持っていて 松江藩の祈願所とされる程の格式を持ちながら 明治維新を迎えた歴史を持ちます

真名井の滝(松江市山代町)

真名井の滝は 「末那爲社(manai no)yashiro」(眞名井神社の境内社)の旧鎮座地とされていて 太古より 出雲国造の火継式・新嘗祭には この瀧の聖水を持ちうる定めと云われる「御神水」とされています 又参考として『式内社調査報告(1983)』には「真名井の滝の畔に 真名井神社と称する小社があり」こちらが 式内社ではないだろうかとの説も載せています

眞名井神社(松江市山代町)

眞名井神社(まないじんじゃ)は 出雲国造家と特別な関係にある「意宇六社」の一つで 『出雲國風土記』に記載される「4つの神備(かんなび)」の一つ「神名樋野(かんなびぬ)」(現在の茶臼山)の南東山麓に鎮座します 社記には「当社の背後に聳える茶臼山は地元では別名『かんなび山』と呼ばれている。“神の隠れこもる”という意味で、古代の人々の篤い信仰の対象として特別視されていた山と考えられている。」とあります すぐ近くに旧鎮座地と云われる「真名井の滝」があります

久多美神社(松江市東忌部町)

久多美神社(くたみじんじゃ)は 『出雲國風土記・延喜式神名帳』等に所載ある格式高い古社でしたが 明治期の神社合祀策によって 大宮神社(忌部神社)に 明治44年(1911)周辺の他の諸社と一緒に合祀されてしまいました しかし 里人の厚い信仰心により 大正12年(1923)古社地(現在地)に社殿を造営し 復興して現在に至ります

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