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荒舩山神社 里宮(佐久市)

荒舩山神社 里宮(あらふねやまじんじゃ さとみや)は 御神体山「荒船山(arafune yama)」に 神が宿る「神奈備(kannabi)」として祈りを捧げる里人が 山頂に登らずとも 里でお詣りが出来るように 設けられた宮です

荒船神社 里宮(下仁田町)

荒船神社 里宮(あらふねじんじゃ さとみや)は 荒船山の北東麓にあたる相沢登山口に(山頂の奥宮に対する)里宮として鎮座しています 山頂の荒船神社(arafune shrine)は 一之宮 貫前神社(ichinomiya nukisaki shrine)の元の鎮座地とも云われて深い関係があります

小舟神社(富岡市富岡)

小舟神社(こぶねじんじゃ)は 1300年以上前の白鳳7年3月(667)鎮座と伝わる由緒ある神社です 代々住民守護の祖神と仰がれて 現在の御祭神は 経津主神(futsunushi no kami)で『記紀神話』にも登場する武神の神様として 代々の国司・武将から篤く崇敬され 徳川幕府「三代将軍家光公」より社領20石の朱印を寄進されています

日子坐命御陵墓(伊波乃西神社 旧鎮座地)

日子坐命御陵墓(ひこいますのみことごりょうぼ)は 第9代「開化天皇」の第三皇子「日子坐王(hikoimasu no kimi)」の王陵として 宮内省より 明治8年(1875)に「日子坐王陵」と認定されました その為 この地に鎮座していた「伊波乃西神社」は 現在の鎮座地である 清水山の麓に遷宮しました この地は 伊波乃西神社の旧鎮座地となります

三嶋大社(三島市大宮町)〈延喜式内社 名神大社・伊豆國一之宮〉

三嶋大社(みしまたいしゃ)は 古くから伊豆諸島の噴火・造島活動を司る神として 朝廷の尊崇を受ける 伊豆国一之宮です 平安中期以降に伊豆国賀茂郡から現在地に移ったとされ 平安末期には源頼朝が 源氏の再興を願い参詣祈願の後 治承4年(1180)旗挙げを果たし 鎌倉武家政権を樹立し 鎌倉幕府崇敬の神社となり 現在に至ります

一之宮 貫前神社(富岡市一ノ宮)

一之宮 貫前神社(いちのみや ぬきさきじんじゃ)は 菖蒲(綾女・あやめ)谷といわれる渓間に南面して鎮座しますが ご参拝には 一度 南の参道をのぼって大鳥居をくぐります 平坦な参道が弧を描くように総門に至ります するとそこからは 急な下りの石段となっていて 真下に社殿が建っています  上って 平らになって 今度は下りになる 全国でも珍しい「下り参道」でお詣りする神社です 古くからの由緒格式を持つ 上野国一之宮として崇敬を集めています

粟鹿神社(朝来市山東町粟鹿)〈但馬国一之宮〉

粟鹿神社(あわがじんじゃ)は 社伝によれば 粟鹿の名の由来として 鹿が粟をくわえて 粟鹿山から現れて 人々に農耕を教えたと伝えます その鹿が祀られているとも伝わる2000年以上の歴史とも云われる但馬国随一の古社で 但馬国一之宮・延喜式 名神大社に列しています

都農神社(日向国一之宮)

都農神社(つのじんじゃ)は 初代天皇「神武天皇」が 宮崎の宮を発して 東征に向かう際〈即位の6年前〉に 此の地に立ち寄り 国土平安、海上平穏、武運長久を祈念し 御祭神を鎮祭したことに始まると伝わります 日向国一之宮として 格式高く 由緒ある神社です

小野神社(府中市住吉町)

小野神社(おのじんじゃ)は 社伝によれば 第3代天皇「安寧天皇」18年の創建とされていますので 2000余年の由緒を持つ古社となります 御祭神「天下春命(ameno shitaharu no mikoto)」は 思金神の御子神で武蔵秩父国造の先祖とされています 境内にある「小野宮廟碑」に詳しく語られています 古くは武蔵国一之宮とされています

駒形神社 里宮(陸中国一之宮)

駒形神社 里宮(こまがたじんじゃ さとみや)は 江戸時代(1603年 ~1700年頃)に仙台藩側から駒ヶ岳山頂の奥宮に向かう参拝路口にあたる「金ヶ崎の里宮」になります 明治4年(1871)に 山頂の「奥宮」が 国幣小社に列する際に 奥宮・里宮とも参拝時の交通が不便であるので 当時の水沢県県庁に近い水沢の鹽竈神社の本殿が仮遥拝所とされました それが現在の駒形神社「本社」となります この「奥宮」と「本社」の中間なので「中宮」とも呼ばれています

駒形神社 本社(陸中一宮)

駒形神社 本社(こまがたじんじゃ ほんしゃ)は 「陸中国一之宮」とされていて 駒ヶ岳山頂に「奥宮」が鎮座します 古代には 付近一帯が軍馬の産地であったと考えられていて 御祭神「駒形神」は「馬の守護神」ともされています 馬頭観音や大日如来と神仏習合して 東日本の各地に勧請されて 広く信仰されていきます

深江神社(壱岐市芦辺町深江栄触)

深江神社(ふかえじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に所載される 壱岐島24座の一座「與(与)神社(yo no kamino yashiro)」の論社とされています 社前には 弥生時代(紀元前10世紀頃~紀元後3世紀中頃)からの「深江田原(fukae tabaru)」と呼ばれる田園が広がっています かつて ここは大きな湿地帯(沼湖)であって ここから壱岐の王宮へ渡る処にある宮という意味から 「渡の宮(とのみや)」と呼ばれていたと伝わります

坐摩神社行宮(御旅所) (坐摩神社 旧鎮座地)

坐摩神社行宮(御旅所)(いかすりじんじゃ あんぐう)(おたびところ)は 摂津国一之宮「坐摩神社」の旧鎮座地です 神功皇后(応神天皇の御生母)が 新羅より御帰還の折 淀川南岸の大江 田蓑島のちの渡辺の地「現 行宮の地」に奉祀されたのが始まりとされています 全国の渡辺・渡部等の姓の発祥の地でもあります

葛城一言主神社(御所市大字森脇)

葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)は 「葛城之一言主大神」を祀ります 境内には 推定樹齢1,200年の大イチョウがあり 古社であることが見事にわかります 里人は どの様な願い事でも 一言の願いならば叶う「一言さん(いちごんさん)」と信仰し続けています 『記紀神話』の伝承によれぱ 一言主神は 第21代雄略天皇の条に 雄略天皇と葛城山で狩りを競われた神として記され 大和朝廷の中心で大王家と対等ともされた最大の古代豪族「葛城氏」が 一極集中に向かう大王家(雄略天皇)との対立構図のように描かれているとも窺えます 『続日本紀』天平宝字8年( 764年)条では 雄略天皇と狩りを競った「高鴨神」が土佐国に流されていたが 天平宝字8年に元の地に祀ったとあります

鳴無神社(須崎市浦ノ内)

鳴無神社(おとなし じんじゃ)は 土佐神社(土佐国一之宮)の元宮とされています 伝説によれば 土佐に流されて浦ノ内湾に漂着した「一言主命」を奉斎したのが鳴無神社の始りです ここから祀り変える地を選ぶために「一言主命」が投げた大石が 落ちた所が 土佐神社境内の礫石と伝わります

巖鬼山神社(弘前市)

巖鬼山神社(がんきさんじんじゃ)は 津軽一之宮「岩木山神社」の元宮とされています その由緒は古く 延暦15年(796)岩木山北麓に巌鬼山西方寺観音院が建立され始まりました 大同2年(807)征夷大将軍 坂上田村麿が 蝦夷平定祈願のために再建したと伝えられます

住吉 大鳥 両大社 宿院頓宮 (住吉大社・大鳥大社 両大社の御旅所)

住吉 大鳥 両大社宿院頓宮(sumiyoshi ohotori ryotaisha shukuintongu)は 摂津国一之宮「住吉大社」と和泉国一之宮「大鳥神社」の両大社(両社ともに 一之宮)の御旅所とされています 1つの社殿に・住吉大社に所縁のある「波除住吉神社」・大鳥大社に所縁のある「大鳥井瀬神社」が 両大社に所縁ある神社として祀られています 境内の飯匙堀(iigaibori)は 水のない空堀ですが 住吉大社の神功皇后にまつわる伝説などがあります 

大鳥羽衣濱神社(高石市羽衣)

大鳥羽衣濱神社(おおとりはごろもはまじんじゃ)は 羽衣をまとう天女を連想させるような神社名を持ちます 御祭神は 大鳥大社に祀られている「日本武尊」の后神で 仲哀天皇の皇太后となる「両道入姫皇女」が祀られています また 当社は江戸時代には 井戸守明神といわれていて 社殿前にある井戸から上がる水は神水として尊ばれたと伝わります

穴門山神社(倉敷市真備町妹)

穴門山神社(あなとやまじんじゃ)は 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の妃「穴門武媛命(anato takehime nomikoto)」を御祭神としています 古代 児島半島の北側に広がる岡山平野にかつて存在した海「吉備の穴海」を「高山(koyama)」の頂上から見守り続けていたのでしょうか? 

大鳥北濱神社(堺市)

大鳥北浜神社(おおとりきたはまじんじゃ)は 大鳥五社とも呼ばれる いずれも「大鳥(otori)」を冠している五つの神社の1社です  和泉国大鳥郡(大阪府堺市周辺)の式内社で ご祭神は「日本武尊(yamato takeru no mikoto)」の后神の一柱「吉備穴戸武媛命(kibino anato takehime no mikoto)」を祀ります

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