阿麻氐留神社(対馬 小船越)

阿麻氐留神社は 対馬の小船越に鎮座しています 対馬は 南北に82km程もあり 迂回は一苦労です 古代から 日本と大陸を往来する拠点であった対馬の中央部にある小船越は まさに現代でいうバイパスの役割を果たしていました 対馬海峡と朝鮮海峡を行き来する船を陸にあげて 引いて越したのです 地名の小船越の名は そこから付けられています 「日の神」〈太陽の神〉を祀る神社として こうした交通の要地に鎮座し明るく照らしているという位置づけです 江戸時代には「照日権現(テルヒゴンゲン)」と呼ばれていました

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

阿麻氐留神社Amateru Shrine)
(あまてるじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

長崎県対馬市美津島町小船越352

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天日神命Ameno hino mitama no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

・不詳

【由  (History)

『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋

阿麻氐留神社 あまてるじんじゃ

神社のプロフィール
古代航路の拠点に鎮座する古社です。祭神のアメノヒノミタマ(天日神)は日神(太陽神)で、厳原町豆酘に鎮座する至高神タカミムスビの5世の孫とされています。

 日本書紀によると、5世紀、遣任那使・阿閉臣事代(あべのおみことしろ)が神託を受け、対馬のアマテル・タカミムスビを磐余(奈良県)に、壱岐のツキヨミ(月神)を京都に遷座させています。対馬・壱岐の祭祀集団を中央に移動させる政治的意図があったのかもしれません。

 中国には、太陽はもともと10個あり、旱魃が起きるため英雄が9つを射落としたという神話がありますが、阿麻氐留神社にも弓で的を射る神事が伝えられており、その関連が指摘されています。

周辺の雰囲気・環境など
 美津島町小船越は、対馬海峡と浅茅湾をつなぐ海上交通の拠点で、かつて船を陸上げして狭い陸峡部を越えていたことが「小船越」の地名の由来です。
 仏教など重要な大陸文化がここを経由して日本に伝わり、浅茅湾側の西漕手は古代の港の雰囲気を残し、また日本最初の寺といわれる梅林寺(最初の仏教伝来地)などの史跡も豊富です。

『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋〈一般社団法人 対馬観光物産協会 2017/3出版〉
https://www.tsushima-net.org/wp-content/uploads/2020/08/tsushima_shrine_guidebook.pdf

【境内社 (Other deities within the precincts)】

・本殿向かって左に 石の祠が1宇 

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)対馬島 29座(大6座・小23座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)県郡 13座(大4座・小9座)
[名神大 大 小] 式内

[旧 神社 名称 ] 阿麻氐留神社
[ふ り が な ]あまてるの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Amateru no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

鎮座地 小船越(コフナコシ)について

対馬は 古代より日本本土と朝鮮半島・中国大陸を往来する拠点ですが 南北に82km程もあり 迂回は一苦労です 小船越は 対馬の中央部にあり 対馬海峡と朝鮮海峡を行き来する船を陸にあげて越したのでその名がついています まさに現代でいうバイパスの役割を果たしていました この要地に鎮座している太陽の神という位置づけです

小船越地区 及び 梅林寺の案内

南から深く湾入して来た三浦湾の湾底が小船越である。 小船越の地名は 古代~中世にかけて この丘を船を引いて東西に越えたことに由来しています。津島記事によれば「此の里、西の方 浅茅浦(アソウウラ)と岡ひとつを隔つ、その間1町38間有、西の浦を西の漕手(コイデ)と云う

1町38間をメートルに換算すれば約178メートルであり、まこと船越の地名にふさわしい地峡であります。
又、小船越の浦にある嶺南山 梅林寺は、わが国最古の仏跡という栄光の縁起を伝えている。その由緒には「欽明天皇の御代、百済から仏像と経典が献上された。その時の使節がこの地に泊り仮に一堂をたてて仏像を安置した。その堂の跡に建てられたのが梅林寺である。」という。真偽のほどはわかりませんがこの地が古代大陸航路の要所であったことから生まれた伝承といえます。さらに梅林寺は宋経茂(宋氏5代目当主)の菩提寺であり、境内にその墓があります。
参考文献・・美津島町誌 つしま百科 対馬の地名とその由来

現地案内板より

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東〈日本側〉には 鴨居瀬から奥深く 小船越の港があり
西〈大陸側〉には 浅芽湾から奥深く 西漕手浦があります

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西漕手(にしのこいで)〈越出〉

この地は浅茅湾(あそうわん)東奥部、西漕手浦(にしのこいでうら東の小船越浦(こぶなこしうら)接する地狭部(ちきょうぶ)で小舟は岡を越え西あるいは東の浦へ下り、大船は積荷を降ろし、船を乗り換えた。

7世紀か9世紀遣唐使(けんとうし)や遣新羅使(けんしらぎし)は本土からこの浦に来て下船し 西漕手浦に用意された別の船に乗り換え彼の地に向かった
 応永(おうえい)の外寇(がいこう)(1419年)の折、この地は占拠され、南北の交通路を断たれている。

平成21年12月 対馬市教育委員会

現地案内板より

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

対馬空港から R382号を北上 約12km 車15分程度
小船越バス停脇に鳥居が建っていて 裏の丘に参道石段が通じています
阿麻氐留神社Amateru Shrine)に参着

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一礼をして鳥居をくぐります 扁額には「阿麻氐留神社」と鋭く刻まれています 参道の階段は途中で 何度か左右に折れています その途中にも鳥居が建っています

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最後に石段を右に折れると 木々の間から 拝殿が見えてきます
拝殿にすすみます 

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拝殿のガラス戸開くと賽銭箱が置かれています
賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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奥行きのある拝殿の奥に幣殿 本殿が続きます

祈りを終えて 境内社にお詣りをしようと 社殿の左手に出ると ネコと鉢合わせして ネコも私も どちらもびっくりしました ネコは本殿の土台のコンクリートの上で瞬間 身構えましたが 大きく後ろに跳ねて 本殿の裏の藪の中に消えていきました
ネコの額には 縦の縞模様があって トラネコの様にも見えましたが 胴体はトラではなく雑種かなと想いながら 走っていく姿がライオンのような走り方で「あっ ヤマネコかな ?」と想いカメラを向けましたが その時は藪の中に入り込んで消えてしまいました 多分そうだと想います

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境内社に一礼をして 参道を戻り 国道まで出て 振り返り一礼をします

国道を数十メートル上がると 西の海へと繋がる「西漕手(ニシノコイデ)」があります 遣唐使も遣新羅使も通ったであろう かつての国際ルートを見守る場所に 対馬の「日ノ神」が祀られているのは偶然ではないのでしょう

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本書紀(Nihon Shoki)』養老4年(720)編纂に記される伝承

23代 顕宗天皇の御代 3年〈487年頃〉2月・3月・4月の条に 神託があり 
壱岐の「月ノ神」を山城国〈京都 葛野〉 
・対馬の「日ノ神」を大和国〈奈良 磐余〉に奉ります
その後 顕宗天皇が崩御されたことが記されています

この対馬の「日ノ神」は 具体的にどの神を指すのかは 不明ですが 人にのり移り「我が祖(オヤ)の高皇産霊(タカミムスヒノミコト)奉れ」と云われます 

【意訳】

顕宗天皇3年2月・3月・4月の条

3年春21 阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ) 命令を受け 任那(ミマナ)使者としてました
このとき 人につきあらわれて 謂われるのには 
「我が祖(オヤ)の高皇産霊(タカミムスヒノミコト) 溶けていた天地をお造りになった功があります 民地(カキトコロ)を我が月神に奉りなさい
もし 請われるままに献上すれば 福慶〈福と慶事〉があるであろう

事代(コトシロ) それで〈大和〉に帰って 詳しく申し上げまし
それで 歌荒樔田(ウタアラスダ)〈山城国〈京都府〉の葛野郡(カズラノコオリ)(葛野郡のウタ村)奉りました
壱岐(イキノアガタヌシ)の先祖にあたる 押見宿禰(オシミノスクネ)が祠(マツリ)仕えました

33 後(ミソノ)にお出ましになり 曲水宴(メグリミズノトアカリ)を催されまし

45 人につきあらわれて 阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)に謂われるのには
「磐余(イワレ)〈大和〉の田を 我が祖(オヤ)の高皇産霊(タカミムスヒノミコト)奉れ」

事代(コトシロ) すぐに〈天皇に〉奏上しました 神の乞われるままに 14町を奉りました
対馬の下(シモツアガタノアタイ)を (マツリ)〈ホコラ〉に仕えさせました

13 福草部(サキクサベ)を置かれまし
25 天皇は 八釣宮(ヤツリノミヤ)にて崩御されまし

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

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『先代旧事本紀(Sendai KujiHongi)』〈平安初期(806)~(906)頃の成立〉に記される伝承

第3巻「天神本紀」の冒頭で 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 =〈ニギハヤヒノミコト〉の天孫降臨の場面で 32人の供の一人である
ご祭神の天日神命Ameno hino mitama no mikoto)が 対馬縣主の祖と記されています

【意訳】

第3巻「天神本紀」

天日神命(アメノ ヒノ ミタマノ ミコト)
 對馬縣主(ツシマノ アガタヌシ)等(ラノ)祖(オヤ)

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『先代旧事本紀』刊本(跋刊) ,延宝06年 校訂者:出口延佳 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038380&ID=M2017051017170432508&TYPE=&NO=画像利用

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『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承

御祭神の天日神命(アメノ ヒノ ミタマノ ミコト)について『先代旧事本紀(Sendai KujiHongi)』の伝承を記したのち 江戸時代には「照日権現(テルヒゴンゲン)」と呼んでいたとあります

【意訳】

阿麻氐留(アマテルノ)神社

卜部兼長本 曰く 阿麻邦留
〈旧事紀〉天日神命 対馬縣主 等の祖(オヤ)

按〈考えるに〉
髙魂命(タカミムスヒノミコト)の子なり
小船越に 御子神を降ろし在り
小船越には 照日権現と云う 天照神社あらん

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承

【意訳】

阿麻氐留神社

阿麻氐留は 仮字なり

〇祭神 天日神命 古蹟集
与良郷 小船越村に在す 今 照日権現と称す 考証・玉勝間

類社 山城国 葛野郡 木島坐天照御魂神社の條を見合うべし

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』明治9年(1876)に記される内容

祭神について 天照国照彦火明命であると記しています

【意訳】

阿麻氐留神社

祭神
今按〈今 考えるに〉
明細帳に 祭神「天日神命」とあるは 旧事紀に天日神命 對馬縣主等祖とみえ 荒木田延佳の頭注に阿麻氐留神 これ天日神命なりて とあるによって云える説と聞こえ
式内社記に 祭神 天照大御神とあるのは 阿麻氐留の語によりて云えるものにて 取り難し
これは 
山城国 葛野郡 木島坐天照御魂神社
・丹波国 天田郡 天照玉命神社 など
いずれも天照国照彦火明命を祭れるによらば この神社も同神なるべし

祭日 6月9日
社格 村社
所在 小船越村

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』1 『特選神名牒』2

阿麻氐留神社Amateru Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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