銀山上神社(対馬 久根田舎)第81代 安徳天皇〈在位1180~1185年〉は難を逃れ 皇居をこの地に定められ崩御されたと伝わります

銀山上神社(ぎんざんじょうじんじゃ)は 『日本書紀(にほんしょき)』第40代 天武天皇 即位3年(674)の条に「対馬の国守から 銀が産出しました」と記され 佐須(さす)銀山は 日本で最初に銀が発掘された地と伝わります 又 源平の壇ノ浦の戦いで崩御れた第81代 安徳天皇〈在位1180~1185年〉は 実は難を逃れ この久根田舎暮らされて そして亡くなられたと言う伝承があり なんと御祭神として祀られています

目次

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1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

銀山上神社Ginzanjo Shrine/Shirokaneno Shrine)
(ぎんざんじょうじんじゃ/しろかねのじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

 

【鎮座地 (Location) 

長崎県対馬市厳原町久根田舎507

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》諸黒神Mokuro no kami)
   安徳天皇Antoku tenno)

『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋

鉱山の神 モロクロガミ

【日本神話】
鉱山の神は金山彦・金山姫ですが、イザナギの嘔吐物から誕生したと伝わるほか、ほとんど活躍は描かれません。

【対馬の伝承・異伝】
 対馬は 日本で最初に銀が発掘された地(日本書紀、674年)で、鉱脈の分布と関連しているのか、主に厳原町の西部に鉱山の神を祭る神社があり、樫根には古代鉱山の坑道が残っています。
モロクロガミ(諸黒神)は 対馬固有の神で、坑道の漆黒の闇を意味する、あるいは矢立山の別称・室黒岳に由来するとされています。「異国からやってきた神」という伝承もあり、朝鮮半島系の鉱山の技術者が安全祈願のために祭ったか、あるいは坑道の闇で誕生した神なのかもしれません。
奈良時代から平安時代にかけて 対馬で産出する銀は 大宰府に納められましたが、地下を掘り進んで鉱石を採掘する作業は、落盤や出水、酸欠など常に危険と隣りあわせで、落盤事故なども記録されています。江戸時代には 対馬藩により銀山の開発が行われ、朝鮮貿易の代価として藩の財政を支えました。

『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋1
〈一般社団法人 対馬観光物産協会 2017/3出版〉
https://www.tsushima-net.org/wp-content/uploads/2020/08/tsushima_shrine_guidebook.pdf

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

銀山上神牡
(ぎんざんじょうじんじゃ/しろかねのじんじゃ)

祭神 諸黒神(もくろのかみ)
相殿 安徳天皇(あんとくてんのう)

神体 なし
*ただし、宝物として弥生時代後期の銅鏡6面、中世の銅鏡7面、弥生時代後期の広形銅矛(ひろがたどうほこ)の一部(鋒部断片)がある。

由緒
正確な創建年代は、不明。
平安時代に編纂(へんさん)された『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』の対馬島下県郡の項に「銀山上神社」という社名が見えるが、現在の銀山上神社と同一かどうかは はっきりしない。
また、同じ『延喜式神名帳』に見える「銀山神社」(現在 厳原町樫根に同名の神社が鎮座)が久根(くね)にあったという説もある。
いずれにしても、久根地域に古くからの官社があった可能性は高い。
時代により社名の変遷(へんせん)があり、江戸時代には「五所大明神(ごしょだいみょうじん)(あるいは御所大明神)」と称していた。

寛永12年(1635)の棟札(むなふだ)には、

謹奉重造久根村 御所大明神 上梁
(中略)
対馬島主 平朝臣拾遺宗義成(たいらあそみしゅういそうよしなり)

とあり、社名が「御所大明神」であること、藩主自らが願主(がんしゅ)となっているなど、対馬藩主 宗氏の信仰を集める神社であったことが分かる。

境内案内板より

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【由  (History)】

『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋

銀山上神社
ぎんざんじょうじんじゃ

周辺の雰囲気・環境など
厳原町久根田舎は、対馬最高峰・矢立山(649m)を源とし、西海岸の久根浜に流れる久根川中流域に位置する集落です。古名は「大調」(おおつき)で、調(税金の代わりに納める特産品)として朝廷に銀を献上していたことにちなみます。山に囲まれた静かな農村で、石屋根など伝統的建築物が残るほか、安徳天皇にまつわる伝説があり、山中に宮内庁の御陵墓参考地(P31)があります。

神社のプロフィール
 社殿は立派で、苔むした参道が美しく、銀山神社(番号14)とともに式内社「銀山上神社」「銀山神社」の論社とされています。
境内に、式内社論社の都々地神社(矢立山遥拝所)があります。

『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋2
〈一般社団法人 対馬観光物産協会 2017/3出版〉
https://www.tsushima-net.org/wp-content/uploads/2020/08/tsushima_shrine_guidebook.pdf

【境内社 (Other deities within the precincts)】

都々地神社(Tsutsuchi Shrine)(つつちじんじゃ)《主》建禰己己命(Takemikoko no mikoto)

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の「對馬嶋下縣郡 都々智神社」の論社です

・都々地神社〈銀山上神社 境内摂社〉(対馬 久根田舎)

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

・山形神社・十善神社《合》狭穂姫命(Sahohime no mikoto)

対馬の異伝として 矢立山は 第11代 垂仁天皇の皇后「狭穂姫(サホヒメ)」が隠れたまわれた所なので 元矢立 あるいは矢干山の元山と称する伝承が残りますが その狭穂姫命(Sahohime no mikoto)をご祭神としています
県道24号を 久根田舎から小茂田へ向いすぐ道沿いに鎮座

詳細は・都々地神社(Tsutsuchi Shrine)に記しています

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています

・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

当神社「銀山上神社(対馬 久根田舎)」は 複数(2つ)の式内社の論社とされています


[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)対馬島 29座(大6座・小23座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)県郡 13座(大4座・小9座)
[名神大 大 小] 式内

[旧 神社 名称 ] 銀山上神社
[ふ り が な ]しろかねこかみの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Shirokanekokamino kaminoyashiro)


[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)対馬島 29座(大6座・小23座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)県郡 13座(大4座・小9座)
[名神大 大 小] 式内

[旧 神社 名称 ] 銀山神社
[ふ り が な ]かなやまの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kanayama no kamino yashiro)

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の
「對馬嶋 下縣郡 銀山上神社
「對馬嶋 下縣郡 銀山神社(貞)の2つの論社について

この2つの式内社は 「銀山神」として 混同されていて
現在は 論社が2社あり 2社がともに ①式内社・銀山上神社 と②式内社・銀山神社(貞)の論社とされていて比定が出来ていません

・銀山上神社(対馬 久根田舎)

・銀山神社(対馬 樫根)

鎮座地の「久根田舎(クネイナカ)」について

対馬の最高峰・矢立山(648m)を源として 西海岸の久根浜に流れる久根川中流域に位置する集落です
古代には 調(税金の代わりに納める特産品)として 朝廷に銀を献上していたことにちなみ 古名は「大調」(オオツキ)と呼ばれていました

久根田舎(クネイナカ)」には 天皇家に纏わる独特の伝承が 複数ります

対馬の山に囲まれた静かな農村ですが 時の権力に追われ亡くなられたとされる天皇や皇后が 落ち延びたとされる伝承を持つ 不思議な地です

安徳天皇(アントクテンノウ)の伝承〈宮内省指定 安徳天皇陵墓参考地

第81代 安徳天皇〈在位1180~1185年〉は 源平の壇ノ浦の戦いで平家とともに崩御されたとされています
しかし ここ対馬の異伝承では 実は難を逃れ この久根田舎で暮らされて亡くなられた さらに 対馬島主である宗氏の始祖であると信じられてきた と言う伝承があります 銀山上神社には 御祭神として祀られています

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久根田舎 安徳天皇御陵墓の由来
この地は厳原町久根田と云う村である、久根田舎の旧号は大調といっていた。今も学校の校名は大調小学校と呼んでいる。これは古くから この里に良賃の銀が産出され、その頃 銀は大変貴重で、調賦の中で最も良い調物(みつぎもの)であった。故にここを調の里(つきのさと)と名付けられた。

現在は久根田舎と云うが、この村全体の字名は 安徳天皇にちなんだ字名であると伝えられている。
対馬の中世史は、先ず宗氏の入国で扉が開き、対馬島主として600余年にわたる治世が続いたのであるが、その宗家の始祖は誰であるか、現在に至るまで諸説がいろいろと流布されているところである。

しかし、この地域の人たちは 宗家の始祖は安徳天皇であると信じきっている。又 この地域代々の言い伝えでもある。

対馬島誌にも第34代 宗重正は 自ら家記を撰んで、重正自身が安徳帝の直系である、としている。

説によると、壇ノ浦源平の合戦で平知盛が没した折り、従臣(斉藤為持)がその孤(こ)を抱いて筑紫に走り、少弐資頼が鎮西の守護となるに及んで大宰府の兵事を掌り、ひそかに天皇を奉じると、島津氏の女を娶り2子を生み、長を重尚(宗家初代)季を助国(二代)というとある。

寛元4年 宋重尚 対馬の在庁を討ち、対馬を平定した宋氏が地頭代官を兼ね安徳天皇を筑前吉井から お迎えし皇居をこの地に定められ、建長3年4月15日(1251年)御年74才で崩御されたという。
この丘陵御墓地の台帳字名は 補陀洛山 向こうを眺めて 楼閣山、その左側が御所山という。補陀落山は 安徳帝が朝夕 母宮を偲んで奉拝されたところと云う。楼閣山は御殿のあったところで、御陵を中心に末広がりの形で すぐ下に納言殿塚 又 重臣や御乳母女官墓があり、天皇御料の馬塚・犬塚等の古墳もある。

現地案内板より

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第11代 垂仁天皇の皇后 狭穂姫(サホヒメ)の伝承〈矢立山古墳

対馬の異伝として 矢立山は  第11代 垂仁天皇の皇后「狭穂姫(サホヒメ)」が隠れ たまわれた所なので 元矢立 あるいは 矢干山の元山 と称する との伝承が残ります

矢立山古墳群保存整備事業報告書 2015 対馬市教育委員会 より抜粋
(史跡等・登録記念物・歴史の道保存整備事業)

序文
・・・・
それまで「狭穂姫」か眠る幕として言い伝えられていた神妙な塚が 初めて「古墳」として考古学な評価を得たのです・・・・

第1節 地理的環境
矢立山古墳群は対馬の南部西岸にある。行政上は対馬市厳原町下原字矢立5番ほかに所在する。・・・・・・・・・・・・・・・

第2説 歴史的環境
・・・・・・・・・
小茂田(佐須浦)は元寇上陸の地として有名である。また佐須は『日本書紀』天武天皇3年(674)3月条にみえる銀山の比定地で、樫根には式内社の銀山神社ずある。銀山については『三代実録』貞観7年(855)、『續日本紀』大宝元年(701) 3月21日条、『対馬国貢銀記』に関係の記述がある。・・・・・・

 

第3節 矢立山古墳群
第1項 研究史
・・・・・
これを参照したものでであろうか.昭和3(1928)年7月刊行の『對馬島誌』にも第1編及び第2編で「矢干山の岩屋」と称して.触れらている。
佐須村に伝えられるところによると.「矢干山の岩屋」は「佐須村下原の小茂田境の路の上に」あって、「元矢立」と言い.狭穂姫という人物が隠棲していたところだという。一方で考古学者によれぱ古墳か発掘された跡だとされている、とも記している。
すると東亜考古学会が調査する20年ほど前には既に古墳という知見が共有されていたことになる。同時に「東方十数間を隔て殆ど同形の小丘あり未だ発掘せられざるが是亦古墳ならん」とあることから.2号墳の存在も知られていたことが分かる。第2編には1号墳について、「入口の広さ四尺高さ四五尺入口より奥まで丸尺石を積て壁となし大なる平石二枚を以って屋根となす」と、規模や形状についても詳しく言及されでいる。なお、記述から当時.矢立山は「干」の時を使っていたことも読み取れる。

参考までに『増訂 對馬島誌』「第二編」から該当箇所を引用する。

 矢立山の岩屋{やたてやまと読む}下原の小茂出境近く道路の直ぐ上に在り。元矢干と云ふ。山腹の畑中に小丘二あり西方の丘の側面に南向きにて入口の廣さ四尺高さ四五尺入口より奥まで九尺石を積みて壁となし大なる平石二枚を以て屋恨となす。

傳へ云昔 垂仁天皇の皇后、狭穂姫、兄狭穂彦の反に輿かり遁れて 此地に来り隠れ玉ひし處なり、後 久根なる矢干山に入り給ひしを以て 此處を元矢立 又は 矢干の元山と云ふと。

 附言 按に古墳なるべし。地形より考ふるに南方下の土を掘取り石鄙のー方露はれたるを以て 其の一方を除きて槨内の物を取去りしに非ずや考古學者の説概ね然り。
然れども 此處を 矢干の元山と称へ 古来霊山と称する矢干山に関係ある傅説は、必らず由て来る所非ざる可からず後考を待つ。

 又云 十数間を隔てたる束方の小丘にも石室あり前者より やや挾し之を是を発掘せば研究資料を得んか。
・・・・・

矢立山古墳群保存整備事業報告書 2015 対馬市教育委員会 より抜粋
(史跡等・登録記念物・歴史の道保存整備事業)
file:///C:/Users/USER/Downloads/65044_1_%E7%9F%A2%E7%AB%8B%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4%E4%BF%9D%E5%AD%98%E6%95%B4%E5%82%99%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf65044_1_矢立山古墳群保存整備事業報告書

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

厳原のフェリーターミナルから 西へ 県道192号と24号経由 約23km 車35分程度 厳原町 久根田舎(クネイナカ)に入ります
対馬最高峰・矢立山(649m)を源とする久根川に「御所橋」〈江戸時代までは 五所明神or御所大明神と呼ばれた為か 御所山へ通じる為なのか〉が架かり これを渡ると直ぐです

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注連縄のかかる鳥居が建ちます
銀山上神社Ginzanjo Shrine/Shirokaneno Shrine)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐります 扁額には「銀山上神社」と刻まれています
その後ろにも 鳥居が連なり 全部で4基が立ち並びます 苔のムス参道を進みます

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長い参道の先に 社殿が建ち 拝殿にすすみます 

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鈴なり とは此の事でしょう 拝所の鈴を 大きく鳴らして

賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の内部には 平成15年の拝殿屋根替記念が掛けられ
本殿を正面から 拝むことが出来ます

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立派な社殿を左右 正面から拝みます

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杭に鎖が掛けられて 玉垣とされている中 石積みの上に本殿は建ちます

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境内社の都々地神社(Tsutsuchi Shrine)(つつちじんじゃ)
《主》建禰己己命(Takemikoko no mikoto)

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『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の「對馬嶋下縣郡 都々智神社」の論社です
・都々地神社〈銀山上神社 境内摂社〉(対馬 久根田舎)

お詣りをします
社殿に一礼をしてから 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本書紀(Nihon Shoki)』養老4年(720)編纂に記される伝承

佐須の銀山は 古い歴史があり 第40代 天武天皇 即位3年(674)3月7日の条に 対馬の国守から 銀が産出したとの報告を受けたことが記されています

【意訳】

天武天皇 即位3年(674)37の条

対馬国司守(ツシマノクニノミコトモチノカミ)の忍海造大国(オシヌミノミヤツコオオクニ)が言いました
「この国〈対馬国〉で 初めて銀が出ましたので すぐ献上奉ります」
これによって大国に 小錦下位(ショウキン シモノクライ)を授けられました銀が 倭国に産出したのは このときが初めてです
それで 諸々の神祇〈すべての神々〉に奉りました
また 小錦(ショウキン)以上の大夫(マエツキミ)たちに同じように賜わられました

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省

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『続日本後紀(shoku nihon koki)』貞観11年(869)に記される伝承

対馬嶋の神々が 官社となったことを伝え
銀山神(カナヤマノカミ)と記されています

【意訳】

承和7年(840)11月 庚辰(8日)

對馬嶋(ツシマノシマ)の
和多都美御子神(ワタツミノミコノカミ)
波良波神(ハラハノカミ)
都都知神(ツツチノカミ)
銀山神(カナヤマノカミ)を 

並びに (カンシャ)に (アズ)く

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省

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『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承

大宰府(ダザイフ)が 銀鉱山の坑道維持についての苦労と費用について言上を記しています

【意訳】

貞観七年(865)八月十五日

大宰府言上す
対馬嶋の銀穴 下縣郡(シモツアガタノコオリ)に在り
高山の底より 厳(イワオ)を穿鑿(センサク)し〈穴をうがち掘り〉40丈ばかり 掘り入る
白昼 炬〈かがり火〉を執り それにより 入ることを得る
年来 処々崩れ塞がり〈近頃 坑道が崩れ〉 しばしば 人功を費す〈しばしば 修繕を要す〉
去る夏の霖雨により 穴底に水溜り 其の功力を計るに たやすく穿開〈穴開け〉すること堪ふるべくもあらず
望請

延暦15年(796)の例を以て 彼の島の例挙す 大豆の遣〈残り〉百斛 併せ租地子穀百斛 それを以て其科に宛て 掘開せしめられんことを 詔して これを許さる

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫

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對馬嶋(上縣・下縣)の式内社の神々とともに 神階の昇叙が記されています
銀山神(カナヤマノカミ)と記されます

【意訳】

貞観12年(870)3月5日 丁巳の条

詔(ミコトノリ)を授(サズ)くに

對馬嶋(ツシマノシマ)の

正5位上 多久都神(タクツノカミ)に 従4位下

従5位上
和多都美神(ワタツミノカミ)
胡簶神(コロクノカミ)
御子神(ミコノカミ)
嶋大國魂上(シマオオクニタマノカミ)
高御魂神(タカミタマノカミ)
住吉神(スミヨシノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
太祝詞上(フトノリトノカミ)
平神(タイラノカミ)
並びに 正5位下

大吉刀神(オオヨシカタナノカミ)
天諸羽神(アマノモロハノカミ)
天多久都麻神(アマノタクツマノカミ)
宇努神(ウノノカミ)
吉刀神(キトノカミ)
小枚宿祢神(ヲヒラノスクネノカミ)
行相神(ユキアイノカミ)
奈蘇上金子神(ナソカミカネコノカミ)
嶋御子神(シマミコノカミ)
国本神(クニモトノカミ)
銀山神(カナヤマノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
敷嶋神(シキシマノカミ)
並びに 従5位上

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫

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『本草和名(Honzowamyo)』 延喜年間(918年)編纂 に記された伝承

対馬産の銀について 白銀(シロガネ) 和名は 志呂加祢(シロカネ)と 記されています

【意訳】

銀屑(ギンセツ)

一名を
白銀(シロガネ) 陶景注云う 銀名は 白銀
黄銀(コガネ) 蘇敬注云う 又 黄銀 本草に不載
銀屑(ギンセツ)者 月の精なり 和名 志呂加祢(シロカネ) 出 對馬国

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『本草和名』延喜年間(918年)編纂 選者:深江輔仁 刊本 ,寛政08年 , 聿修堂[旧蔵者]医学館

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『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承

官社となったこと 対馬産の銀について 記されています

【意訳】

銀山上(シロカネカミノ)神社

神位 承和7年(840)11月 8日の条・官社(カンシャ)に預(アズ)く

日本書紀 天武天皇即位3年3月7日の条に対馬の国守から銀が産出との報告

本草和名 銀屑一名 白銀云々 志呂加祢(シロカネ) 出 対馬国

医心方 白銀云々 出 対馬 長門 飛騨国

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【意訳】

銀山(カナヤマノ)神社

神位 承和7年(840)11月 8日の条・官社(カンシャ)に預(アズ)く

〇上に 銀山上(シロカネカミノ)神社あり

〇佐須郷に在す

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承

式内社・銀山上神社は 久根村 矢立山麓に在す とあり 祭神を狭穂姫(サホヒメ)としています
矢立山の 狭穂姫(サホヒメ)の旧伝承として
狭穂姫(サホヒメ)は 対馬に落ち延びて この山におられたが 狩人が誤って 皇后を射抜いてしまった

矢立山には 神女〈狭穂姫(サホヒメ)〉が棲み 見たものは 狂人となって すぐに死ぬので 山頂には 人は登らない 狩りの犬でさえ怯えて 帰って来る それ程の霊山であり 第一の山であると 記しています

【意訳】

銀山上神社

銀山上は 之路加禰夜麻乃宇部(シロカネヤマノウヘ)と訓ずべし
和名鈔 金 銀 類 仮字の如し
〇祭神 垂仁天皇 皇后 狭穂姫 古蹟集

〇佐須郷 久根村 矢立山麓に在す 又 大調神社と号す 今 五所明神と称す 古蹟集

〇当郡 銀山神社
古蹟集に
矢立山 又の名を 室黒岳 これ神女が棲む 州俗に女房神と云う 人 その神女を見る時 忽(タチマチ)狂者(キョウシャ)〈気の狂った人〉となる 不日(フジツ)〈日数をあまりへずに すぐに〉して死す 故に 山頂に登らず
麇(ノロ)鹿(シカ)を獲るに 狗(イヌ)敢(ア)えて 嶺上に入らず 霊場に至れば 耳を垂れ 尾を痩(ソウ)して 皈(カエシ)来る 云々

旧伝承に云う 女神の名は 狭穂姫(サホヒメ) 垂仁帝〈第11代 垂仁天皇〉の后なり 兄の狭穂彦(サホヒコ)謀反(ムホン)にて 稲城に籠る 城落ちて 兄弟逃げて津島に隠れる
佐須に居て 後に この山に移る 狩人(カリュウド)誤りて 后を射る
故に 妻隠しと云う 下縣中の高山 神氣の鐘(カネ)る

この処を第一とすと云えり

『神社覈録』1

式内社・銀山神社は 樫根村と記しています

【意訳】

銀山神社

銀山は 前に同じ

〇祭神 金山彦命 考証
〇佐須郷樫根村に在す 今 六所明神と称す 玉勝間
〇日本紀 天武天皇即位3年3月7日の条に対馬の国守から銀が産出との報告

神位 官社
續日本紀 承和7年(840)11月 8日の条・官社(カンシャ)に預(アズ)く

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』2 『神社覈録』3

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』明治9年(1876)に記される内容

式内社・銀山上神社は 久根田舎村
式内社・銀山神社は 樫根村
それぞれ現在と同じ所在であると記しています

【意訳】

銀山上神社

祭神 金山彦命
祭日 4月15日
社格 村社
所在 久根田舎村 字 御所山

『特選神名牒』1

【意訳】

銀山神社

神位
仁明天皇 承和7年(840)11月 8日の条・官社(カンシャ)に預(アズ)く
清和天皇 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条・・従5位上

祭神 金山彦命
祭日 6月1日
社格 村社
所在 樫根村 字 大平段

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂

写真BA1-1『特選神名牒』2

銀山上神社Ginzanjo Shrine/Shirokaneno Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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