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優婆夷宝明神社(八丈島 八丈町大賀郷)
優婆夷宝明神社(うばいほうめいじんじゃ)は 八丈島・八丈小島・青ヶ島の総鎮守として 御島神(みしまのかみ)の后「いなはゑ后=(優婆夷命)」と その子「五郎の王子(許志伎命=宝明神)」が祀られています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の2つの式内社〈・優波夷命神社(うはいのみことの かみのやしろ)・許志伎命神社(こしきのみことの かみのやしろ)〉に該当する格式の高い由緒ある神社です
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古烏神社(阿南市宝田町大字下荒井字川原)〈延喜式内社〉
古烏神社(こがらすじんじゃ)は 現在 阿南市宝田町に鎮座する正八幡神社の境外社です 927年12月編纂の『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』には 阿波国に50座が所載されますが その内の1座「建比賣神社(Takehime no kamino yashiro)」に比定されている格式高い神社です
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中山神社(氷川簸王子神社)
中山神社(なかやまじんじゃ)〈氷川簸王子神社〉は 大宮氷川神社(大宮区)・氷川女体神社(緑区)とともに 3神社で一体の氷川神社を形成していたという説があります ちょうど3社の中間に鎮座するので かつては別称として中氷川神社とも呼ばれました
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多氣比賣神社(桶川市)
多氣比売神社(たけひめじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 社伝によれば 第3代安寧天皇の御代の創建と伝えられます とすれば2500年程は前の鎮座となります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の武蔵国足立郡「多氣比賣神社」に比定される格式の高い古社です
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村国神社(各務原市)
村国神社(むらくにじんじゃ)は 社伝によれば 飛鳥時代(592~710年)この地一帯を治めていた村国氏の祖が天之火明命(ameno hoakari no mikoto)と御子 石凝姥命(ishikoridome no mikoto)を御祭神として創建したと伝えます その後「壬申の乱(jinshin no ran)」(672)で勲功のあった村國連男依が 祭神としてこの神社に祀られました
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天神社 (治郎丸天神)
治郎丸天神社(Jiromaru tenjinsha)は 『尾張国地名考(owarinokuni chimeiko)』著者の津田正生は『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』尾張国 中島郡「宗形神社(貞)(Munakata no kamino yashiro)」は 治郎丸村の「天神の森是なり(現 治郎丸天神社(Jiromaru tenjinsha))」としています
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修理若御子社(稲沢市松下)
修理若御子社(すりわかみこしゃ)は 御祭神の修理若御子命(Suriwakamiko no mikoto)について 尾張大国霊神(国府宮の御祭神)の国内修理をお助けになった神で 天香山命の御子「天村雲命(あめのむらくものみこと)」だと伝えます 『尾張国地名考』著者の津田正生は『延喜式神名帳』の大御霊神社(おほみたまの かみのやしろ)であるとしています
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宗形神社〈尾張大國霊神社 別宮〉(稲沢市国府宮)
宗形神社は 「尾張大國霊神社(Owari okunitama Shrine)」を本宮として その別宮であるとされます 別宮はもう一つ「大御霊神社」があります この3神社は「国府宮三社」とも呼ばれていて いずれも格式ある『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)の所載社とされています
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大御霊神社(国府宮 別宮)
大御霊神社(おおみたまじんじゃ)は 「尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)」を本宮として その別宮であるとされます 別宮はもう一つ「宗形神社(むなかたじんじゃ)」があり この3神社は「国府宮三社」とも呼ばれていて いずれも格式ある『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の所載社です
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村国神社 御旅所(各務原市)
村国神社 御旅所(むらくにじんじゃ おたびところ)は 『延喜式神名帳 AD.927』に 美濃国各務郡 村國神社 二座とあり 一座は 村国神社 もうひとつ一座が 村國連男依命の墳墓の地 と云われており 現在の御旅所になります
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尾張大國霊神社(稲沢市国府宮)〈尾張国総社〉
尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)は 尾張地方の総鎮守神 農商業守護神 厄除神として広く信仰される神社です 奈良時代に国衛(こくが)に隣接して御鎮座していたので尾張国の総社と定められ 国司 自らが祭祀を執り行っていたので 一般には「国府宮神社」「国府宮」と呼ばれるようになり 通称「国府宮」として広く知られます
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村国真墨田神社(各務原市鵜沼山崎町)
村国真墨田神社(むらくにますみたじんじゃ)は 「美濃国一之宮 南宮大社」と「尾張国 一宮 真清田神社」を合祀 その後 天武元年(672)に起こった壬申の乱で功績をあげた゛村国男依(murakuni no oyori)゛を 祭神として合祀した由緒を持ちます 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の美濃国 各務郡 村国真墨田神社(むらくにますみたの かみのやしろ)に比定されます
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氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)
氷川女体神社(ひかわにょたいじんじゃ)は 武蔵国有数の古社で 見沼に突き出た小舌状台地の上に鎮座しています 一説では 当社(女體社)と 大宮区高鼻町の大宮氷川神社(御祭神:須佐之男命・男体社)と 見沼区中川の中山神社(御祭神:大己貴命・王子社)の三社を合わせて 武蔵国一之宮と称されていたとも伝えられています
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〈尾張國一之宮〉真清田神社(一宮市真清田)〈尾張開拓の祖゛天火明命゛を祀る〉
真清田神社(ますみだじんじゃ)は 尾張国一之宮として2600有余年の歴史を誇ります 社伝によれば 尾張氏の祖神とされる「天火明命」が 大和国「葛城の高尾張邑」(現・奈良県葛城地方)を出て 神武天皇33年3月3日に 当地で鎮祭されたのが始まりとしています
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大神神社(一宮市花池)〈延喜式内 名神大社・尾張国一之宮〉
大神神社(おおみわじんじゃ)は 社伝によれば 大和系の人々が大神神社と同じ「三輪の神」を祀ったとされます 奈良時代には 尾張国司が赴任の際 国中の神社を代表する総社には 国府宮の尾張大国霊神社を指定し 次いで 花池の「大神神社」と「真清田神社」をまとめて「相殿・対の宮」として「尾張国一之宮」に指定したと伝えています
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宇都宮二荒山神社(宇都宮市)
宇都宮二荒山神社(うつのみや ふたあらやま じんじゃ)は 宇都宮市の中心部 明神山(臼ヶ峰、標高約135m)山頂に鎮座します 大変歴史が古く 創建は 第10代 崇神天皇の御代に遡ると云われます 戦災で多くの資料を喪失し 現存の社記には 第16代 仁徳天皇の御代(約1600年前)毛野国が下野国と上野国の二国に分割された時 下野国国造に任じられた奈良別王(ならわけのきみ)が 曽祖父・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を氏神として祀ったのに始まると記されます
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宇都宮二荒山神社 下之宮(宇都宮市)
二荒山神社 下之宮は 宇都宮二荒山神社の旧 鎮座地に祀られる元宮です 御祭神の4世の孫 奈良別王が 第16代 仁徳天皇の御代(1600年程前)に下野の初代国造となり 国を治めるに当たり 御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せたとされます その後 神社は 平安時代前半の承和5年(838)に臼ヶ峰(現在地)に還座しましたが 下之宮は発祥の聖地に鎮座するとして永く奉斎されてきました 1995年以後の再開発の際に現在地に再建されました
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奈良神社【旧跡】& 横塚山古墳(熊谷市)
奈良神社【旧跡】は 社伝にある「奈良神社の境内から忽然として水が湧き出し これにより600余町歩が水に恵まれた水田となった」と伝わる場所(本殿から東北500m程)に石碑「延喜式内 奈良神社 和銅四年 涌泉地 舊蹟」が残っています 又 社伝には 奈良別命の墓所であるという伝承が残る古墳(本殿から東北1km程)があります
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奈良之神社(熊谷市中奈良)
奈良神社(ならじんじゃ)は 御祭神「奈良別命(ならわけのみこと)」の名残りから 鎮座地も中奈良(熊谷市)といいます 創建は 第16代 仁徳天皇の卸代〈1600年程前〉奈良別命は 下野国の国造の任の後 この地に その徳によって荒地を拓き美田を墾し 人々の発展と安住の地を造られた そのため郷民がその徳を偲んで建立したと伝わります その後中世に 熊野社に社名を変えて存続 江戸後期になり 王政復古の思想興隆により 社名を古代の奈良神社に復したとあります
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磐裂神社(足尾鎮守)
磐裂神社(いわさくじんじゃ)は 文化~文政年間 (1804~30) には 修験の山「庚申山」への登拝口 一丁目とされていました 秩父の妙見・相馬の妙見・足尾の妙見を関東三妙見と称したと云います その歴史は古く 大同3年(808)「足尾5氏(神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内)」と言われる一族14人が 日光から移住してきた時 妙見宮の分身を拝受し足尾郷14ケ村の鎮守と定めたとされます 明治11年(1878)古河市兵衛が足尾銅山を再開した際 磐裂神社と改称されました