小内神社(長野市若穂綿内)

小内神社(おうちじんじゃ)は 社伝及び古文書に 住古は妙徳山頂が本社で 越智神社と称し 幾度かの水害により社号額流失の伝承が残 永正元年(1504)2月現在地遷宮 寛延年間の式内社定め時(1624~1644)互いに論争を醸し 幸高村が旧社号 越智神社の許可を得たりと聞き驚き 小内神社の称号は未定であったためにそれを願い出て寛永3年(1624)現小内神社称号を拝載する

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

小内神社(Ouchi Shrine)
(おうちじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

長野県長野市若穂綿内5908

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》宇摩志麻遅命(Umashimaji no mikoto)
   建御名方刀美命(Takeminakatatomi no mikoto)
   埴安神(Haniyasu no kami)
《合》素盞嗚命(Susanowo no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

社伝及び古文書によれば 住古は妙徳山頂が本社で 越智神社と称し 幾度かの水害により社号額流失の伝承が残されている 永正元年(1504)2月現在地遷宮 寛延年間の式内社定めの時(1624~1644)互いに論争を醸し 幸高村が旧社号 越智神社の許可を得たりと聞き驚き 小内神社の称号は未定であったためにそれを願い出て寛永3年(1624)現小内神社称号を拝載する

【由  (History)】

由緒

若穂唯一の延喜式内社であり、社伝及び古文書によれば、元は妙徳山頂の白鬚明神を祀る小社が本社であったといわれ、後に山新田山崎の地に移された。
この地は 現在 杉林となっているが、礎石だけが残っている。後に清水区(旧片山地籍)に遷宮されたが 年代等は不明である。
千曲の流れが次第に西に移り、森嶋等に集落が営まれるようになり、永正元年(1504)2月現在地遷宮された。住古は妙徳山頂にあったためか 越智神社と称し、幾度かかの水害により、社号額流失の伝承が残されている。
寛永3年(1624)現小内神社称号を拝載することとなる。
鬼の妻飾りが 本殿屋根の棟木の両面につけられており 一般にも見られる鬼瓦と同じ魔除けと考えられるが 神社建築では珍しい意匠である。本殿は 桃山様式が残っている。平成16年4月盛大な遷宮500年祭斎行された。

長野県神社庁HPより
https://www.nagano-jinjacho.jp/shibu/01hokusin/02kamitakai/ouchi.htm

【境内社 (Other deities within the precincts)】

天神社《主》菅原道真

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

小内神社(長野市若穂綿内)は 2つの式内社論社です

越智神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)信濃国 48座(大7座・小41座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)高井郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 越智神社
[ふ り が な ]をちの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Wochi no kamino yashiro)

小内神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)信濃国 48座(大7座・小41座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)高井郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 小内神社
[ふ り が な ]うちの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Wouchi no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の
信濃國 高井郡 越智神社」の5つの論社について

『特選神名牒』大正14年(1925)出版よれば「式社考 按云 現今 呼称による時は幸高村相当の如くなれど 寛延年間(1624~1644)式社定めの時より互いに論争を醸し 当時裁決疎漏なるを以って紛乱の説あるなり
一は綿内村 小内神社
一は幸高村 越智神社
一は越 村 越智神社と云いて言って一定せず」
と3系統あります

・越智神社(須坂市幸高)

 

・越智神社(中野市越)

 

・小内神社(長野市若穂綿内)

 

・諏訪社(長野市若穂綿内)〈小内神社の古社地〉

 

・宮王神社(長野市若穂綿内)〈小内神社の古社地〉

 

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の
信濃國 高井郡 小内神社」の 3つ論社について

・小内神社(長野市若穂綿内)

 

・小内八幡神社(中野市安源寺)

 

・欅原神社(小布施町六川)

 

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

須坂から R403号を南下 約6.5km 車15分程度

社殿参道は南南西を向いています 田の中を参道が延びていて一の鳥居が建ちます

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社頭には社号標「延喜式内 小内神社」とあり 玉垣に囲まれた境内の中に朱色の二の鳥居が建ちます
小内神社(Ouchi Shrine)に参着

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境内周りの玉垣から 前面の道路に飛び出るように見事な巨木が生えています

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境内入ると直ぐ左手に手水舎があり清めます 朱色の二之鳥居は両部鳥居で扁額には「小内神社」と記されています

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明治期以前は諏訪社とも呼ばれていたらしく 長野の諏訪神社特有の御柱が建っています
拝殿にすすみます 

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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参道を戻ります 境内から南南西に延びる参道の先には 小高い山〈田子峰〉があり 長閑な風景を擁しています

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

①越智神社に関する伝承

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

『新撰姓氏録』から越智直を引用して 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の子孫と記しています

【意訳】

越智(ヲチノ)神社

姓氏 越智直神 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)之後(スエ)也(ナリ)

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

祭神を 越智直(オチノアタイ)祖(オヤ)だろうとして 『新撰姓氏録』から越智直を引用して 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の子孫と記しています

【意訳】

越智神社

越智は 仮字なり
〇祭神 越智直(オチノアタイ)祖(オヤ) 歟(ヤ)
姓氏録 左京神別上 越智直 石上朝臣同祖 神饒速日命(カムニギハヤヒノミコト)之後(スエ)也(ナリ)

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

所在として ・綿内村の小内神社・幸高村の越智神社・越村の越智神社の3つを論社として挙げ その論点を詳細に記し 綿内村の小内神社が式内社として比定しています

【意訳】

越智神社

祭神 可美摩遅命(うましまぢのみこと)

今按〈今考えるに〉
新撰姓氏録 越智直 石上朝臣同祖 神饒速日命(カムニギハヤヒノミコト)之後(スエ)也(ナリ)とあるによらば 越智直の祖神 饒速日命を祭れるならん歟(や) されど今 姑く社伝に従う

祭日 5月6日 6月21日 8月27日
社格 郷社(明細帳に 綿内村は 社号 小内神社郷社とあり 越智神社は幸高村にして村社なり)
所在 綿内村(上高井郡綿内村大字綿内)

今按〈今考えるに〉
本社所在
一は綿内村 小内神社
一は幸高村 越智神社
一は越 村 越智神社と云いて言って一定せず
式社考 按云 現今 呼称による時は幸高村相当の如くなれど
寛延年間(1624~1644)式社定めの時より互いに論争を醸し 当時裁決疎漏なるを以って紛乱の説あるなり

 この社号は 綿内村の上申には確証なしと雖も 村内に地名現存し 寛永6年(1629)の古帳に越智山組田方名寄帳と題し 今も越智山組と云い その地の山を越智山 その地の寺を越智山蓮壷寺と云いて昔の神宮寺なるも由あり

幸高村は 社地に越智池あり 越智清水と云ありとて 一小所の名を証としたるは信じがたく

越村の社に至りては 式社に非ること幸高村の旧書類にも所見あり 村名の越を越智の文字に付会したるなれば拠るべきものなし

姑く 綿内村の神社の旧号 越智神社なるを小内神社と称したるを今 又 越智神社と云うは疑わしきに似たれど 地名の確証あること上に云るが如く

且つ同社上申に寛延式社定めの時 幸高村にて旧社号 越智神社の許可を得たりと聞き驚き居しに 同郡 式内 小内神社は未だ何れよりも願出されば 右社号を願い然るべしと云者あるにより 願出しに許可を得たるを以って 夫より小内神社と称したる由 述べたるにて その事実明瞭なり 故 今附た後考に備ふ

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

越村の越智神社を式内社として 比定して記しています

【意訳】

長野縣 信濃國 下高井郡 科野村大字屋敷添

郷社 越智神社

祭神 御穂須々美(ミホススミノ)神 菅原道真公

創立の年月を詳らかにせず
されど口碑に云う 天武天皇  白鳳13年(684)の勧請にして 往古 越智山の頂上に鎮座せしを その嶺の険るを以って 里社を造営し 後 現地に奉遷し 旧地に石祠を建て天神社と称せりと 科野村の内 旧越村の産土神たり
即ち延喜式神名帳に高井郡 越智神社とあるこれなり
神名帳考証越智(ヲチノ)神社 饒速日命 姓氏録云 越智直 神饒速日命(カムニギハヤヒノミコト)之後(スエ)也(ナリ)
神社覈録越智神社 越智は 仮字なり 〇祭神 越智直(オチノアタイ)祖(オヤ) 歟(ヤ)〇姓氏録 左京神別上 越智直 石上朝臣同祖 神饒速日命(カムニギハヤヒノミコト)之後(スエ)也(ナリ)

大日本神祇志「越智神社〇今在 綿内村 曰 小内社 その地有り越智山 即ち古名の遣 蓋祀 越智直祖 饒速日命を祀る 〇按 社説 可美摩遅命(うましまぢのみこと)蓋父子相誤 故 今訂 云々
神祇志料越智神社 旧趾 今 綿内村越智山に在り 蓋越智直 祖神 饒速日命を祀る 〇〇按 社説 可美摩遅命(うましまぢのみこと)を祭るとするものは 父子を誤れる伝えなり 故今これを訂す 云々」而して
新鈔格勅符に 天慶元年 この神に神封一戸充られしこと見ゆ
文禄4年 検地の際 森左近太夫 社領高外7石6升3合を附す
慶安3年 社殿洪水に流亡し 承慶2年現地に再建す
文政7年2月 吉田家に請い社号の告文を受く


明治6年4月 郷社に列す 同39年12月天神社を合併す
社域は谷街道越橋を測る2丁餘の東北方に在りて 越智山を背にし 星河を隔てて西南諸村落を一牟に収め 頗る眺望の勝あり 土地広からずと雖も 境内の森巌なる

社殿は 本殿 拝殿 祝詞殿 通殿 神饌所 神楽殿 祭器物置 寶蔵 社務所 鳥居等を具備し 境内地464坪あり 其の他 境外 山林宅地田畑等少なからず 宝物又 数多所蔵せり

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』

小内神社関する伝承

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)(931年 - 938年)のからの引用記しています

【意訳】

小内(ヲウチノ)神社

和抄 小内 乎宇

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

『和名類聚抄』郷名引用 祭神はわからない記しています

【意訳】

小内神社

小内は 乎宇知と訓ずべし
和名鈔 郷名部 小内 乎宇奈
〇祭神 詳らかならず

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』2

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

式内社 小内神社所在は 安源寺村〈現 小内八幡神社(中野市安源寺)〉と記しています

【意訳】

小内神社 (明細帳に小内八幡社 郷社とあり)

祭神 大宜都比賣命(オオゲツヒメノミコト)

今按〈今考えるに〉
本社由緒書に 当地 近隣諸村は笠原御牧を始め牧場多きを以って 牧馬蕃育農桑祐護の為に この神を斎き祭る由 云い伝えるとみえたり
古事記 須佐之男命の大宜都比賣神を殺しへる條に故 云々

日本書記 月読命の保食神(ウケモチノカミ)を殺しへる條に云々
謂(イワレ)によりて 古へ貢馬の為に祭られしものなること著し
この大宜都比賣神は 保食神と同神にやあらん

祭日 6月21日 7月27日
社格 郷社
所在 安源寺村 字長畝通石原(下高井郡高丘村大字安源子)
今按〈今考えるに〉
本社由緒上申に 安源寺村 旧名 小内村と唱え近郷地形悉く平地にて四方遥かに山を隔て その南方 古昔の小内郷にて 一里許の間は全く畝形なるを以って乎宇奈と称し 小内の字を借りたるなり
北は千曲川 南は篠井川を境とし 畝の南 両辺村々8ヶ村は一円小内郷にて 當村は その郷の元村なるか 今も畝伝に通行する道を長畝通りと云い 200年前の大道なり 然るに葛尾城主 村上氏 代々 當村 安源寺帰依寺なりしより 村民多く 寺百姓となり 小内の名相廃し 六川郷と称しも 
寛延3年 吉田家にて 綿内村の神社へ小内神社号を許可したる時 当社神官より本所に出したる願書に慶長年中より 御裁許状頂戴 小内神社に相違なき由を記し 又 式社考 按に当社 小内神社なる事は 近隣の村々に於いても異説なしとあるもの証とすべし 故に 今之に従う

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』2

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

綿内村の小内神社は 号名は小内神社とついているが 式内社としては 越智神社である
寛延年間の式内社定め時(1624~1644)論争を醸し 幸高村が旧社号 越智神社の許可を得たりと聞き驚き 小内神社の称号は未定であったためにそれを願い出て寛永3年(1624)現小内神社称号を拝載した下りが記されています

【意訳】

長野縣 信濃國 上高井郡 綿内村大字

郷社 小内(ヲウチノ)神社

祭神 可美摩遅命(うましまじのみこと)健御名方命(たけみなかたのみこと)埴安命(はにやすのみこと)

創立の年代詳らかせず
口碑云う 聖武天皇 天平9年 越智泰澄勧請するなり 今 綿内村の産土たり 元綿内宮王鎮座せしを 永正元年2月 今の地に奉遷せり 而して 本社は宇妙徳山の山中にありて 可美摩遅命像を安置せりと云う 元 越智神社と称せり 蓋延喜式神名帳の社たるべし
神社覈録に越智神社 越智は 仮字なり 〇祭神 越智直(オチノアタイ)祖(オヤ) 歟(ヤ) 〇姓氏録 左京神別上 越智直 石上朝臣同祖 神饒速日命(カムニギハヤヒノミコト)之後(スエ)也(ナリ)

神祇志料には「越智神社」旧趾 今 綿内村越智山に在り云々 光仁天皇 天慶元年10月巳亥 信濃地一戸を以って神封に充しむ 新妙格勅符とあるものならんか」
然るに寛延3年10月 吉田家より 同郡 幸高村の神社にその号を授けしより 本社は更に小内神社の称を許可せらるるに至れり(式内社に小内神社あれどそれとこれは自ら別なり)
明治6年4月郷社に列す

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』2

小内神社(Ouchi Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
-,

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