宮王神社(長野市若穂綿内)

宮王神社(みやおうじんじゃ)は 創建は天平9年(737)霊峰妙徳山頂に祠を祀り「越智神社」本宮を開基したときの「前宮」『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載頃には この地に鎮座したと伝わります 越智神社は 鎌倉時代(1192~)に清水の片山地籍へ さらに室町時代後期の永正元年(1504)に現 小内神社遷座しました 現在の宮王神社はその跡地に諏訪神を祀って氏神としたものです

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

宮王神社(Miyao Shrine)
(みやおうじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

長野県長野市若穂綿内3424

 [  (Google Map)]

 

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》建御名方命(Takeminakata no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社の旧社地

【創  (Beginning of history)】

創建は 天平9年(737)霊峰妙徳山(明徳山)頂に越智泰澄神融が白鬚大明神(しらひげだいみょうじん)(可美摩遲命 うましまじのみこと)を祀り「越智神社」本宮を開基したときの「前宮」

【由  (History)】

宮王神社

主祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。ほか天照皇太神宮、秋葉神社、三社(天神、大黒天、子安観世音)を合祀。
明治6年(1873)「村社」に列せらる。

 創建は、天平9年(737)霊峰妙徳山(明徳山)頂に越智泰澄神融が白鬚大明神(しらひげだいみょうじん)(可美摩遲命 うましまじのみこと)を祀り「越智神社」本宮を開基したときの「前宮」である。
 以前は、此処より南方の踊原地籍に在り、本宮と同じ時期に建立されていたとみられる。

 醍醐天皇の御世、延喜5年(905)より編修された律令の「延喜式」と云う書物50巻の内、第9、第10巻に神名台帳が在り、この中に全国に存在した延喜式内社が記載されており、高井郡内ではこの「越智神社(現 小内神社)」のほか五座が銘記されている。

 延長5年(927)に書物が撰進されているので、それより前の平安時代(794

1192)初期には「前宮」は、ここ宮王原の山崎地籍に遷座されていて、この広い境内から推して、当時「延喜式」に登録されるだけの、相当な規模と格式をもった社殿が建立されていたとみられる。

 その後 前宮は、鎌倉時代(11921333)に清水の片山地籍へ、さらに室町時代後期の永正元年(1504)に現今の森地籍に遷座されている。

 現在の宮王神社は、前宮が清水に遷座したあと、当時の山新田組の産土神(うぶすなかみ)として、主祭神の建御名方命を祀り、以後永年に亘り崇敬されてきた後、天保13寅(1842)年38日には、神祇道管領長上侍従卜部朝臣良芳より、主祭神「諏訪大明神」が正式に神宣の允許(しょうきょ)を受け、その「神宣状」と「幣帛」を拝受している。

 現在の社殿は、寛政11年(1799)正月と、慶應元年(186512月に再建がなされたものである。
 奥殿は、昭和34年(19598月の、伊勢湾台風の直前に襲来した台風七号で、境内の大木の神木が倒れて倒壊したが、翌年にかけて再建がなされている。

祭 典
・建国祭 211日 ・春季大祭 4
・秋季大祭 10月(太々神楽奉納) ・越年祭(大祓)12

宮王神社 氏子
平成17年12月 山新田地区活性化プロジェクト

社頭案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

天照皇太神宮

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秋葉神社

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三社 向かって左から・子安観世音大黒天天神

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)信濃国 48座(大7座・小41座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)高井郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 越智神社
[ふ り が な ]をちの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Wochi no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の
信濃國 高井郡 越智神社」の5つの論社について

『特選神名牒』大正14年(1925)出版よれば「式社考 按云 現今 呼称による時は幸高村相当の如くなれど 寛延年間(1624~1644)式社定めの時より互いに論争を醸し 当時裁決疎漏なるを以って紛乱の説あるなり
一は綿内村 小内神社
一は幸高村 越智神社
一は越 村 越智神社と云いて言って一定せず」
と3系統あります

・越智神社(須坂市幸高)

 

・越智神社(中野市越)

 

・小内神社(長野市若穂綿内)

 

・諏訪社(長野市若穂綿内〈小内神社 鎌倉時代(1192~)の古社地〉

 

・宮王神社(長野市若穂綿内)〈小内神社 延喜式(927年12月編纂)の頃の古社地〉

 

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

須坂駅から R403号を南下して綿内地区から妙徳山上り9.3km 車20分程度

妙徳山麓で 鎌倉時代(1192~)遷座地である諏訪社(長野市若穂綿内)」の前を通過します

・諏訪社(長野市若穂綿内)〈小内神社 鎌倉時代(1192~)の古社地〉

 

そのまま道なりに山を上がると山新田地区の集落があり 案内看板があります

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看板に従って集落を真っ直ぐに抜けると リンゴ畑がありその中に 非常階段のような鉄の階段があり 参道の入口になります

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車は そのまま細い道を迂回するように 神社の社頭に出ます
宮王神社(Miyao Shrine)に参着

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社頭から振り返ると リンゴ畑の中を先程の階段からの参道が続いていて 見晴らしは実に美しい 参拝日は夕立の終わり際で 霧の山並みとなっています

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朱色の両部鳥居が建ち 彫刻の施された扁額には「宮王神社」と記されています 「神」という文字の「申」に「八」が書かれていて 始めてみる文字です
一礼をして 鳥居をくぐり 雨上がりの石段を上がります

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雨水流れ落ちたばかりの多少ぬかるむ参道は 杉木立の中にあり 境内地は石垣の上の高台にあります

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山間部にも関わらず 平らな広い境内地があり 正面に拝殿が建っています

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社殿向かって左手の境内には 三つの石が祀られている「三社」という祠があり お詣りをします

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拝殿にすすみます 拝殿前に立てられている柱は おそらく御柱だと思います

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿向かって右手の傾斜地に上には 石の祠が鎮座しているのがわかり向かいます こちらから社殿の全体がわかります

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傾斜地の石祠の境内社お詣りをします 一番奥がおそらく天照皇太神宮 真ん中がおそらく秋葉神社

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ふと目の前を何か白いものが横切ったような錯覚があり その方向へカメラを向けると 何だろう

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妖精に見えてしまい 何だろうと再度 良く見ると糸トンボなのだろうか?

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平らな境内地に戻り 参道の石段を下ります

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鳥居を抜けて 振り返り一礼をします

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

所在として ・綿内村の小内神社・幸高村の越智神社・越村の越智神社の3つを論社として挙げ その論点を詳細に記し 綿内村の小内神社が式内社として比定しています

【意訳】

越智神社

祭神 可美摩遅命(うましまぢのみこと)

今按〈今考えるに〉
新撰姓氏録 越智直 石上朝臣同祖 神饒速日命(カムニギハヤヒノミコト)之後(スエ)也(ナリ)とあるによらば 越智直の祖神 饒速日命を祭れるならん歟(や) されど今 姑く社伝に従う

祭日 5月6日 6月21日 8月27日
社格 郷社(明細帳に 綿内村は 社号 小内神社郷社とあり 越智神社は幸高村にして村社なり)
所在 綿内村(上高井郡綿内村大字綿内)

今按〈今考えるに〉
本社所在
一は綿内村 小内神社
一は幸高村 越智神社
一は越 村 越智神社と云いて言って一定せず
式社考 按云 現今 呼称による時は幸高村相当の如くなれど
寛延年間(1624~1644)式社定めの時より互いに論争を醸し 当時裁決疎漏なるを以って紛乱の説あるなり

 この社号は 綿内村の上申には確証なしと雖も 村内に地名現存し 寛永6年(1629)の古帳に越智山組田方名寄帳と題し 今も越智山組と云い その地の山を越智山 その地の寺を越智山蓮壷寺と云いて昔の神宮寺なるも由あり

幸高村は 社地に越智池あり 越智清水と云ありとて 一小所の名を証としたるは信じがたく

越村の社に至りては 式社に非ること幸高村の旧書類にも所見あり 村名の越を越智の文字に付会したるなれば拠るべきものなし

姑く 綿内村の神社の旧号 越智神社なるを小内神社と称したるを今 又 越智神社と云うは疑わしきに似たれど 地名の確証あること上に云るが如く

且つ同社上申に寛延式社定めの時 幸高村にて旧社号 越智神社の許可を得たりと聞き驚き居しに 同郡 式内 小内神社は未だ何れよりも願出されば 右社号を願い然るべしと云者あるにより 願出しに許可を得たるを以って 夫より小内神社と称したる由 述べたるにて その事実明瞭なり 故 今附た後考に備ふ

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

綿内村の小内神社は 号名は小内神社とついているが 式内社としては 越智神社である
寛延年間の式内社定め時(1624~1644)論争を醸し 幸高村が旧社号 越智神社の許可を得たりと聞き驚き 小内神社の称号は未定であったためにそれを願い出て寛永3年(1624)現小内神社称号を拝載した下りが記されています

【意訳】

長野縣 信濃國 上高井郡 綿内村大字

郷社 小内(ヲウチノ)神社

祭神 可美摩遅命(うましまじのみこと)健御名方命(たけみなかたのみこと)埴安命(はにやすのみこと)

創立の年代詳らかせず
口碑云う 聖武天皇 天平9年 越智泰澄勧請するなり 今 綿内村の産土たり 元綿内宮王鎮座せしを 永正元年2月 今の地に奉遷せり 而して 本社は宇妙徳山の山中にありて 可美摩遅命像を安置せりと云う 元 越智神社と称せり 蓋延喜式神名帳の社たるべし
神社覈録に越智神社 越智は 仮字なり 〇祭神 越智直(オチノアタイ)祖(オヤ) 歟(ヤ) 〇姓氏録 左京神別上 越智直 石上朝臣同祖 神饒速日命(カムニギハヤヒノミコト)之後(スエ)也(ナリ)

神祇志料には「越智神社」旧趾 今 綿内村越智山に在り云々 光仁天皇 天慶元年10月巳亥 信濃地一戸を以って神封に充しむ 新妙格勅符とあるものならんか」
然るに寛延3年10月 吉田家より 同郡 幸高村の神社にその号を授けしより 本社は更に小内神社の称を許可せらるるに至れり(式内社に小内神社あれどそれとこれは自ら別なり)
明治6年4月郷社に列す

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』2

宮王神社(Miyao Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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