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玉﨑神社(中原)「玉前神社(一宮町)」の本宮であると云われます

玉﨑神社(たまさきじんじゃ)は 長生郡一宮町の玉前神社(一宮町)の本宮であると云われています 1200年以上前に 西方より渡ってきた物部氏一族が 和泉浦に創建した歴史ある古社で かつては安房神社 香取神社と並び房総の3大神社と称されたと伝わります 現在でも9月13日に行われる十二社祭りの本宮にあたります

玉前神社(一宮町)上総国一之宮

玉前神社(たまさきじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される名神大社で 上総国一之宮とされる格式高い由緒を持ちます しかし 永禄年間(1558~1570)大きな戦火にかかり 社殿・宝物・文書の多くを焼失しており ご創建の由来や年数また名称についてなど明らかにされていません 神武天皇の御代 あるいは景行天皇の御代の創立と伝えられます

事任八幡宮(掛川市)清少納言が書いた「枕草子」の中に「ことのまま明神いとたのもし」と書かれた項があります

事任八幡宮は 創建は一説に成務天皇(84年~190)の御代の創立と伝え聞き 大同2年(807)坂上田村麻呂東征の際 桓武天皇の勅を奉じ 旧社地の本宮山より現社地へ遷座したと伝わります 古代より街道筋に鎮座し 朝廷をはじめ全国より崇敬されており 多くの歌人が歌に詠んでいます 平安期の「枕草子」にも記載があります

安志姫神社(姫路市)伊和大神(イワノオオカミ)の求婚を拒んだ姫神を祀ります

安志姫神社は 『播磨国風土記』に「安師里」の里名の起源と記される 安師比売神(アナシヒメノカミ)を祭る神社です 神話の内容は 伊和大神(イワノオオカミ)の求婚を 安師姫神(アナシヒメノカミ)が 断ったので 大神が大変怒り 川の上流に石を置いて 3方向の里へと水を分配したので この川〈安志川(林田川)〉は 水量が少なくなってしまいましたと記されています

安仁神社(岡山市)〈元 備前国 一之宮〉

安仁神社(あにじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の名神大社です 備前国の総鎮守とされ 備前国の 元 一之宮で(現 一之宮は吉備津彦神社)創建から2600年以上とも伝えられる岡山県内でも屈指の古社であり 格式の高い大社とされています

都々地神社(対馬 今里)

都々智神社(つつちじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「對馬嶋下縣郡 都々智神社」の論社です 本来の 参拝路は 海路になっていて 通常は 尾崎漁港から船で詣でることになります あえて陸路の場合は 山道を越えて向かうところに鎮座します

多久頭魂神社(対馬 豆酘)対馬特有の天道信仰の中心地

多久頭魂神社(たくづだまじんじゃ)は 天神地祇を祀る神体山「龍良山」の遥拝所〈豆酘の里人が遠くからお祈りをする処〉で 古くは『延喜式神名帳』所載の由緒ある古社です 平安期より 神仏習合時して 対馬特有の天道信仰の中心地でした 中世以降は 豆殴御寺と称しましたが 明治に現社号に復しています しかし 境内には未だに神仏混合の名残りがあり 社殿も旧観音堂を使用しています

白嶽神社(対馬 洲藻)神の宿る霊峰「白嶽」の遥拝所

白嶽神社(しらたけじんじゃ)は 御神体である霊山「白嶽(シラタケ)」の遥拝所として鎮座しています 古来より 白嶽(シラタケ)は 神聖視され 近づくこともタブーの聖域とされていて みだりに登ることは出来ませんでした その為 こちらの遥拝所から 遠く霊山「白嶽」に祈りを捧げていました

美女塚(対馬 豆酘)語り継がれる美女物語「鶴王御前」の悲しい伝承

美女塚の碑は 豆酘(ツツ)の美女の悲しい伝承が記されています 昔 豆酘(ツツ)天神山の麓に 鶴王(ツルオウ)という美しい娘が暮らしていた 年老いた母親をとても大事にして「美しい孝行者の 鶴王御前(ツルオウゴゼン)」との評判が 都に伝わり 采女(ウネメ)として 召し出されることになった時・・ 豆酘に向かって南下する県道24号線の沿道にあります

神住居神社(対馬 豆酘)神功皇后(ジングウコウゴウ)の「行宮(あんぐう/ゆきみや)」と伝わります

神住居神社(かみずまいじんじゃ)は 〈第14代 仲哀天皇の皇后〉神功皇后(じんぐうこうごう)[摂政の御代〈在位201~269年頃〉]が 三韓征伐で渡航されるとき「行宮(あんぐう/ゆきみや)」とされていた処と伝わり 例祭「豆酘の船浮神事〈カンカン祭り〉」は 神功皇后の出船の祭りであり かつては「さかのぼり」神事〈赤船と白船のお供の人が 分かれて子供たちを捕らえる神事〉があり これは神功皇后が 新羅の軍勢を捕虜にした伝承 に因んでいるとも伝わります

島大國魂神社(対馬 御岳)

島大國魂神社(しまおおくにたま じんじゃ)は 御岳(ミタケ)の山頂に磐座(イワクラ)があり かつては禁足地でした 山岳信仰〈修験道〉の霊場とされ た対馬北部の上県町「御岳(ミタケ)」は ・雄岳・雌岳・平岳が連なり 御岳と呼ばれます 対馬南部の「白嶽(シラタケ)」と並んで古くから知られた修験道の聖地です

都々地神社〈銀山上神社 境内摂社〉(対馬 久根田舎)

都々地神社(つつちじんじゃ)は「社伝では 当初 矢立山の山頂に神籬あり その後 遷座す」とあり 遷座後は 対馬で一番高い山 矢立山(648m)の遥拝所であると伝わり 現在は 矢立山の西に位置する集落 久根田舎(クネイナカ)の銀山上神社の境内社となっています 対馬の異伝承では 矢立山は「第11代 垂仁天皇の皇后 狭穂姫(サホヒメ)が 隠れ たまわれた所で 元矢立 あるいは 矢干山の元山 と称する」と云われ謎を持ちます 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社でもあります

敷島神社(対馬 加志)

敷島神社(しきしまじんじゃ)は 日本の正史とされる六国史の一つ『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)(901年)』に「敷嶋神(シキシマノカミ)」として記され 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される由緒ある古社です 鎮座地は 美津島町 加志(カシ)で すく傍には 式内社で 名神大社の太祝詞神社も鎮座しています

和多都美神社(対馬市豊玉町仁位字和宮)〈延喜式内社 和多都美神社(名神大社)〉

和多都美神社(わたつみじんじゃ)は 伝承によれば 山幸彦(彦火火出見尊)が 豊玉姫命を妃として留まったワタツミノ宮の古跡され 古くから竜宮伝説が残ります 社殿裏手の深い森の中に 磐座〈豊玉姫の墳墓〉があり 本殿から正面へと海へ向かって海中に鳥居が建ち 満潮時にはまるで海に浮かぶ竜宮城のような神秘的な光景が広がります

銀山神社(対馬 樫根)

銀山神社(ぎんざんじんじゃ)の住所表記は かつて佐須郷 樫根村でした 『日本書紀』第40代 天武天皇 即位3年(674)の条には 対馬の国守から 銀が産出したとの報告 と 佐須の銀山は 日本で最初に銀が発掘された地 と記されています

天神多久頭魂神社(対馬 佐護西里)対馬固有の天道信仰の主要な神社

天神多久頭魂神社(あめのかみたくずたまじんじゃ)は 対馬固有の天道信仰の主要な神社です 天道信仰の中心地は 対馬島の南北対称の地〈・南部は厳原町 豆酘・北部は ここ佐護〉にあり 祭神「多久頭魂神」も 豆酘(ツツ)には「多久頭魂神社」が 佐護(サゴ)には「天神多久頭魂神社」が対をなし鎮座します 更に この両神社には 天道法師の母神を祀る神社として 豆酘は「 高御魂神社」 ここ佐護には「神御魂神社」が鎮座します 対馬固有の「天道信仰」は 天童法師という超人の伝承を中心として・霊山崇拝・穀霊崇拝・太陽信仰・母子神信仰・修験道・古神道などさまざまな要素が絡み合い形成されているようです

志賀鼻休息所〈旧 志賀明神 鎮座跡〉(対馬 久田道)

志賀鼻休息所(しかのはなきゅうそくじょ)は 旧 志賀明神〈現在は 厳原町東里の住吉神社に合祀〉が鎮座していた跡地とされます 厳原港の西岸に飛び出している出鼻の岬「志賀ノ鼻(シカノハナ)」と呼ばれる台地があり ここには 現在バイパス湾岸道路「志賀ノ鼻大橋」が架けられていますが 志賀ノ鼻の台地の狭い山道を迂回する旧道沿いにあります 

銀山上神社(対馬 久根田舎)第81代 安徳天皇〈在位1180~1185年〉は難を逃れ 皇居をこの地に定められ崩御されたと伝わります

銀山上神社(ぎんざんじょうじんじゃ)は 『日本書紀(にほんしょき)』第40代 天武天皇 即位3年(674)の条に「対馬の国守から 銀が産出しました」と記され 佐須(さす)銀山は 日本で最初に銀が発掘された地と伝わります 又 源平の壇ノ浦の戦いで崩御された第81代 安徳天皇〈在位1180~1185年〉は 実は難を逃れ この久根田舎で暮らされて そして亡くなられたと言う伝承があり なんと御祭神として祀られています

都々智神社(対馬 尾崎)〈遥拝所〉海の中に鳥居のある神社

都々智神社〈遥拝所〉(つつちじんじゃ)〈ようはいじょ〉は 里人が ここから〈本殿・ご神体〉を遥拝する所〈遥拝所〉なので 里宮と呼ばれます 潮の満ち引きに合わせて 海中に参道が現れて 参拝が出来るようにつくられている この海の参道は 都々智神社の〈本殿・ご神体〉が鎮座する 今里海岸の北西方向へと向いています  

阿麻氐留神社(対馬 小船越)

阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)は 対馬の小船越に鎮座します 地名の小船越は 対馬海峡と朝鮮海峡を行き来する船を 陸に上げて引いて越したので そこから名付けられました 古代から 日本と大陸の往来拠点であった対馬は 南北に82km程もあり 海路での迂回は一苦労 ですから対馬の中央部の小船越は まさに現代でいうバイパスの役割を果たしていました 交通の要地を明るく照らす「日の神」〈太陽の神〉を祀るという位置づけで 江戸時代には「照日権現(テルヒゴンゲン)」と呼ばれていました

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