鹿島神宮(かしまじんぐう)跡宮(あとのみや)は 鹿島の大神が初めて天降(あまくだ)り給いし所とされ 鹿島大神に仕える物忌(ものいみ)〈高い位の女性(巫女)祭主〉が傍らに居住していました 社伝には 天種子命〈神武天皇の御世〉又は国摩大鹿島命〈第11代垂仁天皇〉により宮柱を建てたとあり 鹿島神宮と同じく2000年以上の古い歴史を持ちます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
鹿島神宮 跡宮(Ato no miya)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
茨城県鹿嶋市神野4丁目1-12
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》武甕槌大神 荒魂(たけみかづちのおほかみ あらみたま)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・鹿島神宮の摂社
【創 建 (Beginning of history)】
跡宮(あとのみや)【鹿島神宮摂社】
御祭神 武甕槌大神荒魂(たけみかづちのおおかみあらみたま)
その由緒については諸説があり「鹿島神宮伝記・春日験記・鹿島ものいみ由来」等によると、鹿島の大神が初めて天降(あまくだ)り給いし所が神野の跡宮で、本宮の祭の前日これを祭るとし、また奈良春日へ御分霊の際ここから鹿島立ちされたとの伝えもある。
またこの社の別名を「荒祭(あらまつり)の宮」という。荒祭の宮は荒魂を祀る社の意味であるが、同時に荒祭は現祭(あらまつり)、生(あ)れ祭(まつり)の義であり、神の降臨(こうりん)、誕生、出発を意味している。
このように起源あるいは社名については、いろいろな伝承かあるが、その創始は本社鹿島神宮と先を争うほど古くまで遡ることができるといえよう。
かしまのや 鷲の羽かひに のりてこし
昔の跡は 絶せさりけり後京極摂政
物忌(ものいみ)について
この跡宮の傍らに、かつては亀卜(きぼく)によって選ばれた女性祭主「物忌」が住んでいた。
物忌の地位は極めて高かった。鹿島神宮御本殿の奥深く御内陣に奉仕するのが役目であり、男子の立入ることが許されなかった明治維新前までの殿内に於ける奉仕ぶりは、さながら神の妃(きさき)とも云えるようである。
ちなみに物忌は汚れを知らない童女の頃より男子立入禁止の物忌館に籠(こも)って仕女の世話を受けなから一生を神に仕えたので、鹿島神宮へ出勤の途上も男性の目に触れぬよう輿(こし)に乗った訳である。
物忌を選定するには亀卜が行われた。二人の候補者(六、七才から十二、三才)が出され百日間の斎戒のあと二枚の亀甲に両名の名を書いて、同時に炙り焼け残った亀甲の名を読んで選定した。
こうして逃ばれた物忌は終身その職にあったから、在職も長く九十年にわたって奉仕した女性もあり、物忌の数は初代 普雷女(あまくらめ)より僅かに二十七人であった。
現地案内板より
【由 緒 (History)】
跡宮
御祭神 武甕槌大神 荒魂
由緒については諸説あり、「鹿島神宮伝記」「夫木集」「鹿島ものいみ由来」によると、鹿島の大神が初めて天降られた所が神野の跡宮で、本宮の祭の前日にこの社を祀るとし、奈良の春日へ御分霊の際はここから鹿島立ちされたとの言い伝えもあります。
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・〈境内の東側にある囲い地〉物忌館(ものいみやかた)跡
〈この跡宮の傍らに かつては亀卜(きぼく)によって選ばれた女性祭主「物忌」が住んでいた〉
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
〈本宮 鹿島神宮〉跡宮は鹿島神宮の摂社です
・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
鹿島神宮 跡宮(あとのみや)は 社伝には 創始を2000年以上昔と記します
創建を遡ると本社鹿島神宮と先を争うほど古く
社伝によれば 天種子命〈神武天皇の御世〉又は 国摩大鹿島命〈第11代垂仁天皇〉の創建とされ 鹿島神宮の創建と同等で2000年以上の歴史を持ちます
放実録に云 此御社 天種子命 定御宮作方大宮柱太敷立・・・
故御戸始宮 奉申 叉 荒祭宮申
叉曰 垂仁天皇勅 國摩大鹿嶋命 賜兵器 造営 御本宮 御正殿 ・・・『常陸志(ひたちし)』〈明治26年(1893)出版〉より
跡宮(あとのみや)の宮柱を建てたのは 中臣氏の遠祖とされます
鹿島の大神が初めて天降(あまくだ)り給いし所が神野の跡宮とされ
宮柱を建てたのは 二人の中臣の遠祖のどちらかと伝わります
天種子命(あめのたねこのみこと)神武天皇の御世〈BC660~BC585年〉
又は
国摩大鹿島命(くになずのおおかしまのみこと)第11代垂仁天皇の御世〈BC29~AD70年〉
天種子命(あめのたねこのみこと)とは
『日本書紀』の神武東征の段に
神武天皇が筑紫国(つくしのくに)の菟狹(うさ)に着くと
菟狹国造の祖先 菟狹津彦・菟狹津媛(うさつひこ・うさつひめ)が 菟狹の川上に一柱騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を造り 天皇を歓待をした
神武天皇は 菟狹津媛(うさつひめ)を侍臣の天種子命(あめのたねこのみこと)に娶らせました
天種子命(あめのたねこのみこと)は 中臣氏(なかとみうじ)の遠祖と記されます
国摩大鹿島命(くになずのおおかしまのみこと)とは
『日本書紀』の垂仁天皇25年の段に
五大夫(いつ まへつきみたち)〈5人の重臣〉の一人
阿倍臣・和珥臣・物部連・大伴連らの遠祖と共に 中臣連(なかとみのむらじ)の遠祖 大鹿嶋(オオカシマ)と記されます
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
鹿島神宮の物忌(ものいみ)〈鹿島神宮の本殿に入る事を許された女性神職〉について
鹿島神宮の初代物忌は 普雷女(あまくらめ)〈神功皇后の娘とも伝〉とされ 跡宮の傍らに居住したとされ 物忌館跡が残っています
生涯を 鹿島大神に捧げた巫女で 明治の廃絶まで27代続いたと伝わります
「も」 物忌さまは 神様のお妃
鹿島神宮には古くから明治4年(1871年)まで、物忌(ものいみ)という位(くらい)の高い女性神官がいました。
物忌さまは、お正月に本殿に入り御幣を取り出して新しい御幣にと取り換えるなどの重要な神事を行っていました。昔、本殿へはこの物忌様しか入る事ができませんでした。「物忌」という言葉は、慎んで心身を清めてこもる事を意味します。物忌になった女性は、その後結婚せずに宮中神野地区に建てられた物忌の館(やかた)で一生を過ごし、両親や家族にも会わず、神様に奉仕したことから神様のお妃のように見る人もいました。
物忌(ものいみ)様の鹿島神宮の本殿に関連する祭儀
御戸開神事
正月七日の夜に行う 年に一度この時だけ御扉が開けられます 物忌と呼ばれる巫女〈神官〉が内陣に奉幣します
物忌(ものいみ)の代替わりに行われる神事
御占焼祭事
年中恆例の祭儀ではなく 物忌の代替わりに行われ 亀ト(きぼく)によって 神に仕える物忌を選ぶ神事
二枚の亀の甲に 二人の幼女の名前をそれぞれ書き 同時にこれを焼く 焼け残った方が物忌となります
物忌について『鹿島志』には
「身潔斎して神に仕へ奉るの称なり。毎年正月七日の夜、御戸開の神事の時、正殿の御戸を開き、幣帛を納め奉る。また去年の幣帛をば取りおろすなり。」
と記されます
神のそば近くに仕え 御戸開神事に際しては内陣に奉幣する巫女でした
『延喜式 巻15内蔵寮(くらのつかさ)』〈延長5年(927)〉鹿島香取祭の物忌について
巻15 内蔵寮の鹿嶋香取祭の条には 物忌について「鹿島社〈宮司祢宜祝各一人 物忌一人〉」と規定されています
明治に 物忌が 廃止されるまで27代続いたと云う
※香取神宮には 物忌二人とあります
【抜粋意訳】
巻15 内蔵寮(くらのつかさ)
鹿嶋香取ノ祭(かしまかとりのまつり)
鹿嶋社〈宮司、祢宜、祝各一人、物忌一人〉
香取社〈宮司、祢宜、各一人、物忌二人〉社別五色薄絁各一丈、安芸木綿廿枚、盛裹料商布一段、布綱三条、〈一条長一丈二尺、二条各長五尺、広六寸、已上官物、〉明櫃二合、調布二丈、〈敷櫃料、〉荷覆二条、祢宜人別絹一疋、物忌人別夾纈帛、浅緑帛各三丈、〈已上寮物、〉紫纐帛三丈、縹帛六尺、絹一疋、綿二屯、宮司当色一領、祢宜、祝人別当色一領、社別雑給料糸廿絇、〈已上官物、〉
使等装束
藤原氏六位已下一人
寮史生一人、齎幣夫二人使料当色一領、夾纈、紅﨟纈、支子帛各一疋、中緑帛二疋、絹二疋、調綿廿屯、細布三端、〈已上官物、〉浅緑綾、浅緑帛各一疋、〈已上寮物、〉史生当色一領、絹二疋、調綿六屯、曝布二端、齎幣夫別衫一領料、紺調布二丈、布帯一条、〈長八尺、已上官物、〉使等上道日餞料銭一貫文、
右其使名簿、前二月春日祭廿日、大臣下当官、寮差点史生、申官預裹備幣物、其使等、当日齎幣、発寮向国、
【原本参照】
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対馬に鎮座する 中臣氏の祖神を祀る「亀卜(キボク)」の社 太祝詞神社(ふとのりとじんじゃ)
對馬島〈長崎県 対馬〉の「亀卜(きぼく)」伝承について
律令時代(7世紀後半~)には 国家の吉凶を占う手法として亀卜が採用されていました
日本〈大和〉では 古くから鹿の肩骨を焼いて占う太占(ふとまに)が行われていましたが
対馬には 5世紀頃 亀の甲羅を用いる亀卜が大陸から伝来していました
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「宮主(Miyashu)」の条には 朝廷での亀甲を用いた卜術の「亀卜(キボク)」について その術者「卜部(ウラベ)」には 優秀な者を 伊豆5人 壱岐5人 対馬10人を採用すべし としています 対馬が「亀卜(キボク)」の中心地であったことがわかります
政祭一致の時代における 亀卜(きぼく)について
太祝詞神社(対馬 加志)の御祭神は 中臣氏の祖神され
「太詔戸神(ふとのりとのかみ)=天児屋根命と同神」と
大和朝廷にも大きな影響力があった対馬の卜部(うらべ)の祖神(おやがみ)である雷大臣命(いかつちのおおおみのみこと)を祭神としています
鎮座地の加志(かし)では 亀卜(きぼく)が行われていたと云われ ご祭神の 雷大臣命の最後の住居趾であり 墳墓であるとも伝わります
〈『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 名神大社〉
對馬嶋 下縣郡 太祝詞神社(貞・名神大)(ふとのひとの かみのやしろ)
・太祝詞神社(対馬 加志)
「亀卜(きぼく)」伝承の神社については ここをクリックしてください
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
北浦の南端 大船津にある 鹿島神宮 西の一ノ鳥居から東南へ2km程の神野の丘陵に位置します 車なら五分程
おそらく太古には 神野の丘陵が 香取海に半島のように出ていて ここから鹿島の大神が上陸したのだろうと推測できるような地形を楽しみながら歩くと約25分 「鹿島の大神が初めて天降(あまくだ)り給いし所が神野の跡宮」と云われるのは納得してしまいます
神野の丘陵を上がると住宅地の中に 時代に忘れられたような空間があり 木製の鳥居が建てられています
鹿島神宮 跡宮(鹿嶋市神野)に参着
東西に通じている参道の左手〈南側〉は住宅街で 右手〈北側〉は鬱蒼とした境内
社頭の社号標には 跡宮 と刻されています
一礼をして鳥居をくぐり参道を歩むと 右手〈北側〉に 小さめの木製の 二ノ鳥居が建ち 細いコンクリート製の参道の先に 南を向いて建つ 社殿が見えてきます
鳥居をくぐり 参道を進むと 右手〈東側〉に同じように細いコンクリート製の参道があり その先 境内の東側に囲い地があります かつての物忌館(ものいみやかた)跡との事です
〈この跡宮の傍らに かつては亀卜(きぼく)によって選ばれた女性祭主「物忌」が住んでいた〉
その館跡の裏手は 古墳ではないかもしれませんが 人工的な盛り土があります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の周りや後ろも 綺麗に清掃されています
大切に信仰されていることに感謝しながら 社殿に一礼をします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『常陸志(ひたちし)〈1893出版〉』に記される伝承
跡宮について 放実録に「天種子命定御宮を造営」とも 垂仁天皇の勅によって 造営とも 記しています
物忌宅址について 場所は 跡宮であり
女性神官〈物忌〉は 2名の処女から 亀卜(きぼく)で撰定する〈百田の神事〉や 物忌新立の式について詳しく記しています 又 物忌は鹿島神宮の本殿内陣に奉納幣帛を行う事なども記されています
その他が記されています
【抜粋意訳】
第五巻 神社編
跡宮
同町大字々神野に在り武甕槌命を祀る 古へ御戸始宮 又 荒祭宮と称す
放実録に云 此御社 天種子命定御宮作方大宮柱太敷立 千木勝男木高固 御棟梁上祝壽造営給 御遷宮儀初 而奉祭勤宮是也 故御戸始宮 奉申 叉 荒祭宮申
叉曰 垂仁天皇勅 國摩大鹿嶋命 賜兵器 造営 御本宮 御正殿 従 御戸始宮奉還奉納之故 御戸始宮 曰 跡宮云々俗説に神護景雲二年大和國春日社へ遷祀の後 宮跡を跡宮と云ふと蓋後人附會の説なり 境内百五十坪
第七巻 旧跡
物忌宅址
鹿島町大字宮中字神野に在り 即古の秋屋り里也 鹿島巻 今耕地たり鹿島社例傅記に此傍 跡宮を指す
女一人有り神主以ニ亀卜定之。援ニ当社神符為物忌職。
毎年正月七日之夜。至丑刻。本社御戸開き。正く大小之神官等。内陣に奉納幣帛。故物忌去年の奉幣を取出し。當年之幣を納置。是謂出納之役云々鹿鳥名所圖繪に云
さて物忌は亀卜を以て其職を定む 亀卜の次第は神官のうち幼女の未だ経水を見ざる二人を撰み 享保筆記を案するに鹿嶋物忌儀上古者未嫁 社家共し娘或いは十八亀卜を以て相定む云々と此れに由りて考ふれは古は九人乃至十八人を撰みたる 後世に・・・至り 二人を撰ふとと為りなるべし百田の神事ありて 日数満つる時 二人の名を亀の甲に記し 正殿御石の間にて朝より夕に至るまで是を焼き其験に由りて之を補佐す云々
物忌新立の式 旧記に見ゆ 曰 去年丁亥 原書に案に寶永四年に云々
九月物忌立事 四月より新敷禁屋を立 九月廿日に相濟候 同十八日より荒濱下り行列正敷下津濱へ下り申候 神野物忌の前より新町中町櫻町くはりせこ下津迄 注連縄を張り道普請仕候 十八日十九日二日ながら下り申候 廿日には明七つに出て濱へ下り四つ時分に御神前へ参り九つ半時分に御祭禮相済み安津宮にて神拝有り 道祖神の前の道有れば直に要石へ出 ご神前へ参り神拝事畢り 神野へ帰候 惣神官 鷲宮にて御祭禮あり 物忌当禰宜は跡の宮にて奉幣ありさくに御殿に入相済申候云々
亀甲を焼くに用ゆる薪は天葉若木と称する樹なり 正平十一年の鹿嶋古文書に鹿嶋大神宮 葉若木事。右霊木者。明神降臨之時。令随逐以来。卜在所於社檀之傍云々。
奉行神事之刻。採用件木枝事多之。所謂正月四日 歳山祭。
・・・・・・
【原文参照】
鹿島神宮 跡宮(鹿嶋市神野)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
東国三社〈・鹿島神宮・香取神宮・息栖神社〉について
東国三社の位置関係は 案内板の通りです
東西に一直線に並ぶ〈・大戸神社・香取神宮奥宮・息栖神社〉の3社
香取神宮は 経津主命(ふつぬしのみこと)を祀ります
・香取神宮(香取市)下総国一之宮
・〈経津主大神の荒御魂(あらみたま)を祀る〉香取神宮 奥宮(香取市)
大戸神社は 『香取郡誌』〈明治33年8月(1900)〉に 天鳥船命を祀るのでないか? と記されています
清宮秀堅曰く
出雲国造神賀詞に天鳥船命 布津努志命 乎副天降遣天 云々とあり
此神固と香取神を共に大節を握り天下を平定したるものなり
然るに其胴の香取神宮近隣の地より鳥船命を祀れるものに非るか『香取郡誌』〈明治33年8月(1900)〉より
・大戸神社(香取市大戸)
息栖神社(いきすじんじゃ)〈鹿島神宮 摂社〉は 相殿に天乃鳥船神を祀ります
息栖神社は
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)香取神宮(千葉県香取市)とともに
東国三社(とうごくさんじゃ)と呼ばれます
久那斗神(くなどのかみ)を主神とし 相殿に天乃鳥船神(あめのとりふねのかみ)住吉三神を祀っています
・息栖神社(神栖市息栖)
天乃鳥船神(あめのとりふねのかみ)は 経津主命(ふつぬしのみこと)は 同一神の別名を伝えたものともされます
この3社〈大戸神社・香取神宮奥宮・息栖神社〉が 東西に一直線に並ぶのは何かしらの意味があるとする説があります
鹿島神宮の跡宮を加えて
〈鹿島の大神が初めて天降られた所が神野の跡宮で本宮の祭の前日にこの社を祀るとし奈良の春日へ御分霊の際はここから鹿島立ちされたとの言い伝えもあります〉
鹿島神宮HPより
つまり 天平時代〈神護景雲二年(768)春日大社の創建〉までは 鹿島神宮が鎮座していた処ともされます
・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮
この 鹿島神宮 跡宮は〈武甕槌大神の荒御魂(あらみたま)〉を祀ります
・鹿島神宮 跡宮(鹿嶋市神野)
〈鹿島の大神が 初めて天降られた所〉
また 香取神宮 奥宮は〈経津主大神の荒御魂(あらみたま)〉を祀ります
・香取神宮 奥宮(香取市)
〈経津主大神の荒御魂(あらみたま)を祀る〉
鹿島神宮 跡宮の位置は 息栖神社〈鹿島神宮 摂社〉の真北に位置していて
大戸神社からは 鹿島神宮 跡宮が 夏至の日の出の方向にあります
こうしたことから 大戸神社は 東国三社の元宮ではないかとの諸説があります