住吉神社〈恒田大明神〉(加東市秋津)

住吉神社(すみよしじんじゃ)は 神功皇后の勅願社の伝承が残り 摂津 住吉大社の別宮であったと考えられ 創始は古墳時代後期とされています 奈良時代後期に現在の鎮座地・秋津字清水に遷座し 水田に由来して恒田明神と称され今日に至るので 二つの式内社〈住吉神社・垣田神社〉論社となっています

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

住吉神社(Sumiyoshi shrine)

通称名(Common name)

・秋津住吉神社(あきつすみよしじんじゃ
恒田大明神つねだいみょうじん

【鎮座地 (Location) 

兵庫県加東市秋津1113

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》底筒男命(そこつつののみこと)
   中筒男命(なかつつののみこと)
   表筒男命(うわつつののみこと)
   神功皇后(じんぐうこうごう)

《合》今宮大神高皇産巣日神神御産巣日神

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

厄除 無病息災 病気平癒 縁切 学問 学業成就

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

由 緒

 古代、当地方は林業が盛んで神功皇后の事跡が数々伝わる。当社も勅願社の伝承が残り、住吉大社掎鹿山神領域の中心部に位置する別宮であったと考えられている。周辺には古墳群も多く、創始は古墳時代後期で、加東市秋津字住吉の住吉社祠の周辺一帯である。

 水田開発が進み清水の湧き出す平野部中央の清浄な地、現在の鎮座地・秋津字清水に奉遷されたのが奈良時代後期であり、水田に由来して恒田明神と称され今日に至る。

 鎌倉時代の建て替えが伝わり、当時は神功皇后を除く住吉三神を奉祀する。元亀年間に森住吉神社が焼失し当社に合祀統合して、その時より神功皇后を配祀して四神を奉祀する社となる。戦国時代は社殿の建て替えもままならず神社の物品も流失。徳川時代の貞享4年(1687)に大規模な再建がなされ、社殿の配置なども現在のかたちに整う。

 明治7年(1874)2月に郷社に列せられる。

兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6311139.html

【由  (History)】

由緒

旧 兵庫県加東郡東条町秋津(現 兵庫県加東市秋津)の地は、現代では酒米「山田錦」の産地 特A地区の米どころとして、その名を広く知られておりますが、古代播磨国風土記(西暦713~714年頃成立)の端鹿の里の一部をしめておりました当時は、水田の開発も遅れており、木材の産地として林業が盛んであったと考えられます。近年まで、東条松は建築用良材として全国的に重宝されていたことでもよく知られております。
この地の秋津富士を中心とする周辺の山上に13基の古墳群や秋津窯址が確認されており、加古川から支流の東条川をさかのぼって来た人々が早い時期から住みついた場所であったと考えられます。
当社の創始は不明ですが、口承によると、古く古墳時代後期頃までさかのぼり、創始当時の場所は現在の加東市秋津字住吉(古家字住吉)の周辺の山中と伝わっています。
その後、恒田(常田)の名が示す通り、東条川の流れが定まるにつれ水田の開発がすすみ、人々の住居も水田周辺の平地に移り、清水の湧き出る清浄な地である、当社の現在地加東市秋津字清水(常田字清水)に奉遷されたのが奈良時代後期といわれています。同時に恒田明神と称するようになりました。
途中鎌倉時代の建替えが伝わっており、当時はまだ神功皇后を除いた住吉三神のみを奉祀していたようです。この頃に神宮寺も建立したようです。元亀年間に広大な規模を誇ったと伝わる 森住吉神社が焼失し、当社に合祀統合しました。その時に神功皇后を配祀し、それまでの三神から四神を奉祀することとなりました。そのことから、当社の歴史は、一説では森住吉神社から始まると伝わるのも事実です。
戦国時代、この地も戦乱に捲き込まれることになり、社殿の建替えもままならず、神社の物品のほとんどが流出してしまったようです。徳川時代となり、世の中が安定するにつれ、貞享4年(1687)に当社も大規模な再建がなされ、建物の配置なども現在のかたちに整いました。当時はまだまだ境内も広大で、松や杉、檜の樹木も多く、昼間でもうっそうとした杜を誇っていたようです。
明治7年に郷社に列しました。明治23年(1891)に拝殿、舞殿を建替え、その後幣殿を加え現在に至っております。昭和61年には再建三百年祭を斎行しております

播州 秋津 住吉神社HPより
http://www.sumiyoshijinja.com/concept.html

市指定文化財 住吉神社本殿 付随身門(ずいしんもん) 指定 平成4年11月25日

 当社は、もと森村に奉斉していたが、元亀年間(1570~72)に焼失し貞享4年(1687)当地へ遷宮したと伝えるが、既存の宮に合祀したものと考えられる。
 祭神は表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長足姫命ほか二柱である。
 神社建築で内陣と外陣の界が開放されているのは珍しく、各御神体がそれぞれの宮殿に分れて祀られていることも類例が少ない。
 各所の彫刻は元禄文化に先立つ優秀な彫刻である。特に向拝部の手挟彫刻、蟇股、神殿の蟇股の彫刻はすばらしい。
 随身門は棟札から正保5年(1648)の建立であることがわかる。柱貫に江戸初期の特徴ある彫刻が見られる。

県指定重要無形民俗文化財 秋津百石踊 指定 昭和47年3月24日

 室町時代末期から安土桃山時代の初めごろに「雨乞い踊」として始まったものと考えられる。昔をたどると享保17年(1732)奉納の記録に始まり、昭和14年(1939)までに11回を数える。戦後踊りの評価が高まり、県内外で公開されている。かつては各氏子ごとに踊座を持っていたが、現在は西戸地区にのみ継承されている。
 入拝(端)踊、忍び踊、大雨踊、都踊、おむら(をぐら)踊、小歌踊の6曲がある。各踊りごとに心棒打(新発意)が言う狂言風の問答形式の口上を中心に、はなやかに、かつ古式豊かに踊る。百石踊の名称は、この踊を一度催せば米百石文の経費を要することに由来している。

加東
現地案内板より

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拝殿

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能舞台

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社頭の注連縄柱

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駐車場側の注連縄柱

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

拝殿の向かって手前左側〈境内社一宇〉

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拝殿の向かって手前右側〈神宮遥拝所〉〈覆屋内に祠三宇〉

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承

豊城入彦命の東国の六腹(むつのはら)の子孫が 居住地を氏の名とすることが記されています

【抜粋意訳】

延暦十年(七九一)四月乙未〉(辛卯朔五)の条

○夏四月乙未
近衛将監従五位下兼常陸大掾池原公綱主等言。池原。上毛野二氏之先。出自豊城入彦命。其入彦命子孫。東国六腹朝臣。各因居地。賜姓命氏。斯乃古今所同。百王不易也。伏望因居地名。蒙賜住吉朝臣。勅綱主兄弟二人。依請賜之

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』延暦16年(797)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨国 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 住吉神社
[ふ り が な ]すみよしの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Sumiyoshi no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

”住吉神社”(すみよしじんじゃ)と住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉について

住吉神社 主に住吉三神を祀る神社で 日本全国に約2300社以上ある云われます

住吉三神とは 次の三柱神の総称 古来 航海の守護神として篤く信仰されてきている

底筒男命底筒之男命(そこつつののみこと)
・中筒男命中筒之男命(なかつつののみこと)
・表筒男命上筒之男命(うわつつののみこと)

住吉大神と号する場合は
住吉三神息長帯姫命神功皇后併せ祀ります

住吉三神は 日本神話に登場する航海の神
伊奘諾尊が 黄泉の国の穢れを清めるために 筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊をしたとき 水底で身をすすぐと底筒男命 水中では中筒男命 水上では表筒男命 このとき顕われたとされる

『古事記』では 水の底にもぐって 身を洗い清められる時に成った底筒之男命 水の中程で洗い清められる時に成った中筒之男命 水の表面で洗い清められる時に成った上筒之男命が それぞれ生まれます

その後『日本書紀』には 神功皇后の段に新羅征討の際に 神託・守護・先導などに深くかかわったと記されています

〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われる理由について

福岡の現人神社〈博多 住吉神社と大阪 住吉大社の元宮とされる〉には 三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われるようになった理由を社伝で伝えています

「元々は 現人神筒男三神〉であったが 神功皇后が三韓征伐の時 神告により神田を定め 天神地祇に禱祈して 那珂川の水を引いた所が現人神社である
神功皇后大和への御帰還に際し 霊験な現人神筒男三神をご奉持され 眞住吉之国(住よい国)摂津(大阪)〉に祀らた為に住吉三神と称され始めます 筑前国一之宮 福岡の住吉宮も後にここより御分霊された 故に 全国津々浦々にある住吉三神の本津宮とされます

住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説

「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説

①航海の神 ツツは夕月(ゆうづつ)のツツに通じ 夕方の月 宵の明星 星を指し 星は航海の指針に用いられることから
②海神を示す説
➂「津の男」に見る説
④「ツツ」を船の呪杖に見る説
➄船霊を納める筒に見る説
⑥対馬の豆酘(つつ)に関連し「豆酘の男」に見る説
➆航海に従った持衰の身を「ツツシム」に見る説

住吉神社の発祥について

現在 住吉神社の総本社は 一般的には 大阪府大阪市住吉区の住吉大社とされますが

下関住吉神社は 住吉三神の荒魂(あらみたま)
大坂の住吉大社は 住吉三神の和魂(にぎみたま)は 神功皇后が三韓征伐の帰途に祀られた事が『日本書紀』に記されています

実際には 神功皇后の「三韓征伐」伝承とともに 西から順に 壱岐対馬〈長崎県〉から博多・下関・瀬戸内海を渡り 大坂の住吉大社へと分祀されたものとおもわれます
このため・壱岐の住吉神社・博多の住吉神社 や現人神社など
は 住吉神社の発祥の地と称しています

『日本書紀』には 神功皇后の新羅征討の段に 次のように記されています

仲哀天皇の御代 熊襲 隼人など大和朝廷に反乱蜂起した時 神功皇后が神がかりして「まず三韓を征討せよ」との神託を得た しかし 仲哀天皇はこの神託に従わず 翌年崩御された
その翌月 再び神託を得た神功皇后は 自ら兵を率いて三韓へ征伐に向かう このとき 住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り 荒魂は突風となり 神功皇后の船団を守護し 三韓をおおいに苦しめた
神功皇后は 三韓を平定し 凱旋の折 
住吉三神の神託を得て 大神の荒魂(あらみたま)を穴門(山口県)山田邑(下関市)に奉斎します また 和魂(にぎみたま)を大津〈大きな港〉の渟中名倉の長峡〈現 大阪・住吉大社のある場所〉で 行き交う船を見守ると鎮めて 住吉大神を祀った

『日本遺産「国境の島」壱岐・対馬・五島 交易・交流と緊張の歴史』chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://nagasaki-bunkanet.jp/wp-content/uploads/2015/03/%E5%9B%BD%E5%A2%83%E3%81%AE%E5%B3%B6%E3%80%80%E5%86%8A%E5%AD%90.pdfより画像利用

『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載される”住吉神社 七社(すみよしのかみのやしろ ななやしろについて

延喜式神名帳所載七国〈対馬・壱岐・筑前・長門・播磨・摂津・陸奥各々に七社住吉神社鎮座します

これ住吉七社(すみよしななしゃ/すみよししちしゃ)とも総称します

格式の高さが際立つ 住吉七社 

内訳は次の通り
住吉七社の内 一之宮が三国〈筑前・長門・摂津
住吉七社内 五社が名神大社〈対馬・壱岐・筑前・長門・摂津

『古事記』では「墨江之三前大神(すみのえのみまえのおほかみ)」と総称され
住吉の地名については 古くはスミノエと呼ばれ「住吉」「墨江」「清江」などと表記されましたが 平安時代以降は スミヨシとも呼ばれるようになったとされます
外交にまつわる航海の守護神として国家的な祭祀をうけていて 大和朝廷にとって特別な意義を有する神社でした
遣唐使時奉幣の祝詞や六国史には 遣唐使出発の際にこの神を祭ったことが見えています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)927年12月編纂〉に記される 住吉七社と その論社について

①對馬嶋 下縣郡
住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)

・住吉神社(対馬 鴨居瀬)

・鷄知住吉神社(対馬 鶏知)

➁壹岐嶋 壹岐郡
吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)

・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)

➂筑前国 那珂郡
住吉神社 三座(並名神大)(すみよしの かみのやしろ みくら)

・住吉神社(博多区住吉)

・若久住吉神社(福岡市南区)

・現人神社(那珂川市)

④長門国 豊浦郡
住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)(すみよしのあらみたまの かみのやしろ みくら)

・住吉神社(下関市)長門国一之宮

➄播磨国 賀茂郡
住吉神社(すみよしの かみのやしろ)

・上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)

・住吉神社(加東市下久米)

・小野住吉神社(小野市垂井町)

・秋津住吉神社(加東市秋津)

⑥摂津国 住吉郡
住吉坐神社四座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(すみよしの かみのやしろ)(すみのえにます かみのやしろ)

・住吉大社(大阪市住吉区)摂津国一之宮

➆陸奥国 磐城郡
住吉神社(すみよし かみのやしろ)

・住吉神社(いわき市小名浜住吉)

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播磨国 賀茂郡 垣田神社(かきたの かみのやしろ)論社について

・垣田神社(小野市小田町)

・国玉稲荷神社〈神ノ木の宮跡〉 (小野市小田町)〈垣田神社の旧鎮座地〉

住吉神社〈恒田大明神〉(加東市秋津)

・八雲社の境内社 垣田社(三木市久留美)

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

中国縦貫自動車道 ひょうご東條IC 道のとうじょう から県道313号を北上4.5km 車10分程度

住吉神社案内板があります

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参道を進むと 一の鳥居が建っています

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社頭には 注連縄柱と式内社 住吉神社の社号標があります

秋津住吉神社(加東市秋津)に参着

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一礼をして 注連縄柱をくぐりると手水舎があり 清めます

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南西向き随身門正保五年(1648年)建立手前に狛犬座します

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随身門くぐると すぐに能舞台建ちます

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能舞台から拝殿を眺めると

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6月の参拝でしたが 境内には 鯉のぼり が飾られていました

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南西向き拝殿にすすみます

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拝殿には 銘酒 剣菱 奉献酒の樽 扁額には 住吉大神宮 と記されます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します

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社殿に一礼をして 駐車場へと戻ります

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北側すぐ近くに 秋津薬師堂があります

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県指定文化財 秋津薬師堂

指定年月日 昭和42年3月31日
所有者・管理者 常田地区

 本尊薬師如来の胎内銘の末尾に、永禄十一年(1568年)12月9日とある当堂も様式、手法からみて同時代のものと思われる
 創建当時は方三間で四方に縁をまわしていたらしい柱は大面を取り、隅柱上にだけ舟肘木を組むなど、意匠・構造ともに簡素である
 その後、宝暦六年(1756年)ごろに内陣奥行きを一間拡張して厨子を新しくし、床・天井・柱間装置などを改修を加えたようである脇壇安置の阿弥陀如来像の下面に宝暦6年(1756)の銘がある
 改修はあるが、この地方の室町末期の辻堂寒竹の形式を知る上で貴重な遺構といえる

平成5年11月 兵庫県教育委員会

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 住吉神社の所在について 賀東郡 喜多島村〈現 小野住吉神社(小野市垂井町)別説には 宮脇村と記されています

式内社 垣田神社の所在について 東條小田村〈現 垣田神社(小野市小田町)〉と記しています

【抜粋意訳】

住吉神社

住吉は 須美乃江と訓べし
〇祭神 詳ならず 住吉朝臣の祖神歟
〇賀東郡 喜多島村に在す
例祭 六月丗日、九月九日
〇旧事記 国造本記 針間鴨国造、上毛野同祖、姓氏録、住吉朝臣、上毛野朝臣同祖、豊城入彦命 五世孫多奇波世君之後也

式社記に、宮脇村にありと云り、國圖を見るに、奇多島、宮脇両村相隣れり、さて同社の事か國人に尋ねて憶に定むべし

類社 摂津国住吉郡 住吉坐神社の條すべし

社領 高十石

氏人
續日本紀
延暦十年(七九一)四月乙未〉(辛卯朔五)の条
○夏四月乙未
近衛将監従五位下兼常陸大掾池原公綱主等言。池原。上毛野二氏之先。出自豊城入彦命。其入彦命子孫。東国六腹朝臣。各因居地。賜姓命氏。斯乃古今所同。百王不易也。伏望因居地名。蒙賜住吉朝臣。勅綱主兄弟二人。依請賜之

垣田神社

垣田は 加支多と訓べし
祭神 詳ならず
〇賀東郡東條小田村に在す
例祭 九月九日

式社記は、加東郡常田村にあり、古跡便覧、其の所しれずと云り、尚考ふべし

類社 和泉國 日根郡 加支田神社

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 住吉神社の所在について 喜多村 住吉明神〈現 小野住吉神社(小野市垂井町)〉と記しています

式内社 垣田神社の所在について 東條小田村〈現 垣田神社(小野市小田町)〉と記しています

【抜粋意訳】

神祇志料 巻十八 播磨國 賀茂郡八座 並小

住吉神社

今、加東郡 垂井庄 古は河内庄と云ふ 喜多村にあり、住吉明神と云ふ 盖 住吉大神を祭る
〇按 播磨風土記云、昔 住吉大神 河内里に到坐時、御伴の神等 人の苅置る草を敷物とせるを、草主愁訴へけるに、大神汝か田苗は草を敷ねと、敷が如くに生なんと詔ひき、故今も此村は草を敷ずして苗代を作る、と云ふ事みたり、是に拠りて思ふに、蘆上古大神経歴の地なるを以て之を祭る歟、姑附て考に備ふ

垣田神社

今、加東郡 東條小田村にあり

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 住吉神社の所在について 宮脇村 喜多島村 垂井村〈現 小野住吉神社(小野市垂井町)〉久保木村 西寺内村にも同名の社があると記しています 

式内社 垣田神社の所在について 東條小田村〈現 垣田神社(小野市小田町)〉と記しています

【抜粋意訳】

住吉神社

祭神
底筒之男
中筒之男
表筒之男

今按〈今考えるに〉
播磨風土記 賀毛郡 河内里 上中下 右田川焉名 此里の田不敷草下苗子所以然者 住吉大神上坐之時 食於 此村両従神等 人苅置草解散為坐両時大患訴於大明判云 汝田苗者必 雖不敷草如敷草生 故其村 田干 今不敷草作苗代とある所縁によりて此 大神を祭れるものなる事著し

祭日 四月三日
社格 郷社

所在 宮脇村(明細帳に垂井村字宮の上)(加東郡下東條村大字垂井)
今按〈今考えるに〉
播磨事始 神社覈録 共に喜多島村とあり 注進状に元和中の文書に此村を垂井村と記せり 今の社地は宮脇村 島村 太郎大夫村 三村の境にて 垂井住吉神社と唱来りしを明治六年より宮脇村地所となる 今に山田村を河内の山田と云ふ 播磨鑑に 上古 此地を河内庄と云しか 近代 垂井庄と改むとあり 上に引る風土記の文と合せ考べし 久保木村 西寺内村にも同名の社ありと云へども證なければとらず

垣田神社

祭神
底筒男
中筒男
表筒男
神功皇后

祭日 九月九日
社格 郷社
所在 東條郡上小田村(加東郡下東條村大字小田)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

秋津住吉神社(加東市秋津)は 明治七年二月郷社に列すと記されます

【抜粋意訳】

兵庫縣 播磨加東郡東條大字秋津

郷社 住吉(スミノエノ)神社

祭神
底筒男(ソコツツノヲノ)
中筒男(ナカツツノヲノ)
表筒男(ウハツツノヲノ)
息長足姫(オキナガタラシヒメノ)命

祖健年月詳ならず
明治七年二月郷社に列す 社殿は本殿、拝殿、舞殿を備へ、境内地は873坪あり。

境内社 天照皇大神宮社 八幡神社 天満神社 天神社

例祭日 十月十七日

・・・
・・・

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

秋津住吉神社(加東市秋津)に (hai)」(90度のお辞儀)

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播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について に戻る

 

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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