旧妙見宮奥之院(きゅう みょうけんぐう おくのいん)は 内々神社(うつつじんじゃ)〈延喜式内社 尾張國 春日部郡 内内神社(うちうちの かみのやしろ)〉の当初の鎮座地とされ 内々神社から山道を登り 断崖岩の絶壁の割れ目にお堂〈巌屋神社〉があり 今は鉄の階段ですが かつては梯子や鎖で登ったと云い゛奥の院゛です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
旧妙見宮奥之院(Kyu Myokengu okunoin) 〈内々神社 当初の鎮座地〉
【通称名(Common name)】
・巌屋神社(いわやじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
愛知県春日井市内津町383
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》建稻種命(たけいなだねのみこと)
〈神仏習合では〉妙見尊王を本地 建稲種命を垂迹
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の当初の鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
内々神社は 当初 この場所(奥の院)に祀られていたとされています
御祭神「建稲種命」は 〈神仏習合では〉妙見尊王を本地 建稲種命を垂迹 とされ 昔は゛妙見神社゛とも呼ばれていました この妙見神社(奥の院)は 現在 巌屋神社とも呼ばれています
【由 緒 (History)】
『尾張名所図会』後編巻4 春日井郡 に記される内容
奥之院は 内々神社の開闢(かいびゃく)の地であり 建稲種命を祀ったと記し 社殿が築かれた岩窟の岩に上にも岩窟があって そこから「御塩水」と呼ばれる清泉が流れ出て 神饌の調度に使うとされ 絵図には その景観が示されています
【抜粋意訳】
内内(うつつの)神社
国村にあり 今 妙見社と云う
延喜神名式に 春日部郡 内々神社 本國帳に 正三位 内々天神とある 官社なり
・・・ ・・・ ・・・
社の上なる山に 奥の院といへるありて 当社開闢(くわいびゃく)の地といひならへる岩窟(がんくつ)あり 其深さ二間ばかり 其中に小祠あり 是また建稲種命をまつる 又 岩上に岩窟あり 深さ八九尺 常に清泉 湧出(ゆうしゅつ)す〔この水 潮〔しほ〕の満干(みちひ)によって増減す〕 凡当社の神饌(しんせん)はこれをとりて調(ちょう)すといふ 俗に御塩水と称したまふ さて ここに至る道路は 大石をうがちて壇(だん)とし 甚だけはしくして 登ることたやすからず 又 天狗岩・・・・・ ・・・・ ・・・・
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
現在の内々神社については別記事を参照してください
・内々神社(春日井市内津町字上町)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』 奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』 平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて) 2.産物 3.土地の肥沃の状態 4.地名の起源 5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本 『出雲国風土記』がほぼ完本 『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉 その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」 ・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)尾張國 121座(大8座・小113座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)春日部郡 12座(並小)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 内々神社
[ふ り が な ](うちうちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Uchiuchi no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
「尾張氏の祖神」とされる 御祭神 建稲種命(take inatane no mikoto)について
御祭神について 少し詳しく
別名を 建稲種公(たけいなたねのきみ)とも称します
建稲種命は (1900年程昔)2代の天皇(朝廷)〈第12代景行天皇(keiko tenno)と 第13代成務天皇(seimu tenno)〉に仕えたとされ
日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征の際は 副将軍として軍を従え 軍功を挙げた神とされます
尾張国内では 熱田神宮・内々神社・幡頭神社・羽豆神社・成海神社・尾張戸神社などの古社に祀られています
古代豪族の尾張氏について
古代豪族の尾張氏(owari uji)は 『記紀神話』では(天火明命(ameno hoakari no mikoto)の後裔とされ 名門氏族の「天孫族(tenson zoku)」とも呼ばれています
『姓氏録』や系図史料では 綿津見神(watatsumi no kami)の後裔とされて 皇統譜の古い時期には・第5代孝昭天皇の皇后・第6代孝安天皇の母・第10代崇神天皇の妃など 尾張氏からしばしば后妃を輩出しています
建稲種命(take inatane no mikoto)は 初代の尾張国造(owari kuni no miyatsuko)となった乎止与命(otoyo no mikoto)の御子です 建稲種命より以降は 尾張氏一族が さらに朝廷への影響力を強めて発展していきます 御祭神「建稲種命(take inatane no mikoto)」が この礎を築いたとされ 「尾張氏の祖神」と呼ばれていくことになります
御祭神「建稲種命(take inatane no mikoto)」を「尾張氏」の家系を順に説明
父は 「初代 尾張国造 乎止与命(otoyo no mikoto)」 (天火明命(ameno hoakari no mikoto)の子孫)
母は「眞敷刀婢命(mashikitobe no mikoto)」 (尾張大印岐(owari no oimiki)の娘)
妹は「宮簀媛(miyazu hime)」 (日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の妃(hi)草薙剣を熱田神宮に奉斎しました)
妃は「玉姫(tama hime) (丹羽氏の祖 大荒田命(oarata no mikoto)の娘)
※ 玉姫妃(tama hime hi)と 建稲種命の間には 二男四女があったとされ
息子は 尻綱根命(shiritsunane no mikoto) (第15代 応神天皇の大臣)
下娘は「志理都紀斗売(shiritsuki tome)」 (五百城入彦皇子(iokiiribiko no miko=第12代景行天皇 皇子)の妃 (品陀真若王(honda no mawaka no miko)=第12代景行天皇 孫)の母
下娘は「金田屋野姫命(kanetayane no hime no mikoto)」 (品陀真若王(honda no mawaka no miko)〈景行天皇の孫 五百城入彦皇子の子〉の妃 第15代応神天皇(ojin tenno)の皇后(kogo)と妃(hi)となる 3人の娘を産む)
建稲種命の 孫娘は
応神天皇 皇后(kogo)「仲姫命(nakatsuhime no mikoto)」 (第16代仁徳天皇(nintoku tenno)の母)
応神天皇 妃(hi) 「高城入姫命(takaki no irihime no mikoto)」
応神天皇 妃(hi) 「弟姫命(otohime no mikoto)」
尾張氏の影響力は 大和朝廷の中枢に位置するようになっていきます
「名古屋市博物館 企画展 尾張氏☆志段味古墳群をときあかす」より http://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/special/past/tenji120428.htmlより画像
御祭神 建稲種命(take inatane no mikoto)は 「尾張水軍」の大将軍です
日本武尊の東征では 副将軍であった〈建稲種命〉
第12代景行天皇(keiko tenno)が 皇子の日本武尊(yamatotakeru no mikoto)に東国平定を命じました時 尾張国造(owari kuni no miyatsuko)の子である建稲種命(take inatane no mikoto)は 副将軍として東征に向かって 武功を挙げた神です
尾張氏(owari uji)の御曹司 (onzoshi)が なぜ副将軍なのかと言えば 尾張氏(owari uji)は 強大な尾張水軍を有して 伊勢湾一帯の中部日本地域を支配していたからです
羽豆神社が鎮座する 知多半島の先端 羽豆岬(hazu misaki)は 古代より 水軍の見張所が築かれるなど 伊勢湾の海上交通路の要衝であり 東征の折には 水軍の出発地点にもなったのであろうと推測されています
中世になっても ここは城が築かれていました 14世紀初 元亨年間の南北朝時代 熱田神宮の大宮司「千秋昌能(senshu masayoshi)」は 後醍醐(godaigo)天皇の建武(kemmu)の新政で側近であり 武者所(mushadokoro)結番(kechiban)となって 知多半島の波豆(hazu)城をおさえて再築したとあります ここを確保することは 吉野(yoshino)・伊勢(ise)と 東国をむすぶ海上交通路の要衝を抑えることとなり 重要な戦略拠点と伝わる「羽豆(hazu)城跡の石碑」もあります この海上の要衝を基地として 強大な尾張水軍を 統率し 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の率いる 皇軍を勝利に導いたのが「建稲種命(take inatane no mikoto)」です
妹の「宮簀媛」は 草薙剣を熱田神宮に奉斎した 日本武尊の妃
妹の「宮簀媛(miyazu hime)」は 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の妃(hi)となり 草薙剣を熱田神宮に奉斎しました
建稲種命の訃報
しかし 建稲種命の尾張水軍が東海道沿いに 東征の帰途についた折 駿河の海にさしかかり めずらしい海鳥を見つけたので 日本武尊(yamato takeru no mikoto)に献上しようと思われて 捕まえようとされて 駿河の海で命を落とされた 或いは 駿河の海で 船が難破されて 命を落とされた と伝わります
この時 日本武尊は 中山道経由で 東征の帰路 尾張にはいり篠城に到着し て内津の坂をくだられる頃 副将軍 建稲種命の従者 久米八腹が 建稲種命が駿河の海に落ち水死された と早馬をもって報告した
この知らせを聞かれた「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「うつつかな ああ うつつかな」と嘆かれたと云われ その霊をまつられたのが内津神社で 神社の有る町を内津というようになったという 現在の「内々神社(うつつじんじゃ)」になります
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伝承により 2つの「はずじんじゃ」があります 「羽豆神社(hazu shrine)」「幡頭神社(hazu shrine)」
駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」ですが
その遺骸が 宮崎海岸に漂着し 葬られたのが 「幡頭神社(hazu shrine)」(吉良町) 延喜式内社(参河國 播豆郡 羽豆神社)
・幡頭神社(西尾市吉良町)
その衣服が 羽豆岬に漂着し 御神体とされたのが 「羽豆神社(hazu shrine)」(師崎)当社 延喜式内社(尾張國 知多郡 羽豆神社)
・羽豆神社(知多郡南知多町)
にそれぞれ祀られています
御祭神が 成海から強大な尾張水軍を統率し 勝利に導いた将軍ですので 「幡頭 はたがしら(hata gashira)の神」とされて「羽豆(幡頭hazu)」と呼ばれると言われています
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御祭神 建稻種命とかかわる式内社について
御祭神 建稲種命は「尾張氏の祖神」とされ 古代豪族の尾張氏と関係ある古社に祀られています
延喜式内社 尾張國 愛智郡 火上姉子神社(ほのかみあねこの かみのやしろ)
尾張国造城館の所在地とされる「火高(現在の大高)」の地
日本武尊の后 宮簀媛命・建稻種命の居住地
・氷上姉子神社(名古屋市緑区大高町火上山) 〈熱田神宮の境外別宮〉
・氷上姉子神社 元宮(名古屋市緑区大高町火上山) 〈氷上姉子神社の元宮〉
延喜式内社 尾張國 愛智郡 成海神社(なるみの かみのやしろ)
東征から帰還の日本武尊は 鳴海潟(現在の鳴海駅北)から対岸の火高丘陵まで船で渡ったと伝わります
「火高(現在の大高)」とは 尾張国造城館の所在地 日本武尊の后 宮簀媛命・建稻種命の居住地
・成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)
・天神社(名古屋市緑区鳴海町) 〈成海神社の創祠の地・現 御旅所〉
延喜式内社 尾張國 知多郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ)
駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」の衣服が 羽豆岬に漂着し 御神体とされた
・羽豆神社(知多郡南知多町)
延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ)
駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」の遺骸が 宮崎海岸に漂着し 葬られた所
・幡頭神社(西尾市吉良町)
延喜式内社 尾張國 春日部郡 内内神社(うちうちの かみのやしろ)
建稲種命が 駿河の海に落ち水死された との知らせを聞かれた「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「うつつかな ああ うつつかな」と嘆かれたと云われる地
その霊をまつられたのが 内津神社で 神社の有る町を内津というようになったという
・内々神社(春日井市内津町字上町)
・旧妙見宮奥之院〈巌屋神社〉(春日井市内津町) 〈内々神社 当初の鎮座地〉
延喜式内社 尾張國 愛智郡 熱田神社(名神大)(あつたの かみのやしろ)
日本武尊に従い 副将軍として 東国の平定に赴きその帰途亡くなられた 尾張地方繁栄の礎を築いた神とされて 祀られています
・熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)〈延喜式内社 名神大社〉
延喜式内社 尾張國 山田郡 尾張戸神社(をはりへの かみのやしろ)
宮簀媛命の勧請と伝える古社
・尾張戸神社(瀬戸市十軒町)
・八幡社(小牧市大字上末字新田)
延喜式内社 尾張國 丹羽郡 針綱神社(はりつなの かみのやしろ)
尾治針名根連命(おわりはりなねむらじのみこと)を主祭神として 建稲種命・玉姫命・大荒田命・尻調根命(尾綱根命)健多乎利(たけだおり)命〈建稲種命の祖父 他を祀っています
・犬山城天守台付近(犬山市大字犬山字北古券) 〈針綱神社の旧鎮座地〉
・針綱神社(犬山市大字犬山字北古券) 〈天文6年(1537)犬山城の築城により遷座〉
・立野神社(犬山市大字上野字郷)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
内内神社にお参りをして から 奥の院へも行けます
内々神社については別記事を参照してください
・内々神社(春日井市内津町字上町)
内々神社から北へ約700m程進むと 奥の院への入り口に着きます
本日の参拝は 奥の宮から先に お詣りをします
R19号線のバイパスに 内々神社の案内があり ICを下ります
ICを下りると 案内板があり 右が内々神社 左が奥の院 とあります
旧妙見宮奥之院の案内板がありました
但し ここに駐車場はなく 内々神社から歩くのが正解のようです 当日は 軽自動車のレンタカーでしたので 参道入口のわずかなスペースに停めました
参道の道を下り始めると すぐに石燈籠と 社号標には゛旧妙見神社 巌屋神社゛と刻字があります
旧妙見宮奥之院〈巌屋神社〉(春日井市内津町)〈内々神社 当初の鎮座地〉に参着
鳥居はありませんが ここで一礼をして 参道を進みます
沢があり 石橋が架かり その先には 狛犬と石灯籠があります
狛犬から先は 参道は上りとなります
石段にさしかかると 再び社号標゛旧妙見宮奥之院 巌屋神社゛とあり 右手には 沢山の石碑が建ちます
参道は 山道の様になり 展望台と奥の院 の道しるべが木の根元にありました
右手の 奥の院の石段を進みます
岩肌が多くなってきました
見上げると 鉄骨の階段のようなものが見えてきました
どうやら ここが巌屋神社のようです
拝殿にすすみます
断崖絶壁の岩肌には 亀裂〈岩の割れ目〉があり ここに足場が組まれて 祠があるようです
今は鉄骨の階段ですが かつては梯子や鎖で登ったと云います
岩の割れ目の中に祀られています
祠と言うか お堂のような感じで 榊・酒・水が奉られていて 神道の様子もあれば
仏壇に備え付けられている仏具の鐘「鈴(リン)」やロウソク立てもあり 佛教のようでもあり
まさしく 神仏習合しています
ここは 榊もある事ですので
賽銭をおさめ お祈りをします ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
断崖にありますが 振り返ると すぐそこに鉄骨階段があり 安心感はあります
かつて 梯子で登っていた時は きっと怖かったであろうと想い 参拝の不便なども思い合わせると 内々神社が現在の場所に拝殿を設けていった経緯も何となくわかる感じがします
鉄骨階段からは 名古屋方面が見えています 天候が良ければ伊勢湾も見えるのではと思ってしまうほどです
お堂に一礼をしてから 鉄骨階段を下りると 足元は断崖の上である事がわかります
行きには気付きませんでしたが 岩の中に 別の祠がありました
近づいてみると゛金正尊゛と記されていますが ゛金正尊゛とはどのような神仏なのでしょうか? 山岳仏教か? 修験か?
お参りをします
石段を下ります 下りでは 雨天で足元も悪かったのでロープを持ちながら下る場所もありました
石段を下って 狛犬の所まで戻ってきました
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 内内神社について 所在は゛篠木庄内津村に在す、今稱に妙見゛〈現 内々神社(春日井市内津町字上町)〉と記しています
【抜粋意訳】
内内神社
内々は 宇都々と訓べし
〇祭神 建稻種命、〔集説、府志、〕
〇篠木庄内津村に在す、今稱に妙見、〔同上〕
熱田社記云 ,日木武尊 還に向尾張、到に篠城進食之間、稲種公 傔從 久米八腹策に駿足馳來 啓曰、稻種公 入海亡没、日本武尊 乍聞悲泣曰、現哉云々、註曰、依に現哉之詞 其地號に 内津社、今録 天神在に春日井郡云々、」
集説に、是小豊命子 建稻種命廟祀也、』
張州府志に、今號に妙見寺、天台宗僧掌之、忘に神故以に佛名専稱に内津妙見菩薩云々、天正三年 有灾(ワザワイ)時、社記爲に烏有、故不可に得而考耳、』 又云、古妙見有に西尾村乾山、傳言、日本武尊稱に現哉 地乃此處也、今山王社是 其地也、
神位 國内神名帳云、從三位内々天神 ,
造営 張州府志云、天正中罹に兵焚之后、豊臣秀吉公寄金修造焉、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 内内神社について 所在は゛篠城庄 内津村に在り内津妙見と云ふ゛〈現 内々神社(春日井市内津町字上町)〉と記しています
【抜粋意訳】
内内(ウツツノ)神社
今 篠城庄 内津村に在り内津妙見と云ふ、〔神名帳考証、張州府志、式社考、〕
尾張連の祖 建稲種命を祀る、〔参酌寛平録地、熱田神社次第本記、〕
初景行天皇御世 皇子日本武尊 蝦夷を征け給ふ時に、建稲種命 御供仕へ奉りて、勳功を顯しき、皇子 此處に休坐して、其死ぬる事を聞 悲み給ひ、現哉(ウツツナルカモ)と詔ひき、故社を建て之を祀る、即是也、〔寛平縁起〕
凡 每年十月六日を以て祭を行ふ、〔愛智縣神社調〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 内内神社について 所在は゛篠城庄 内津村゛〈現 内々神社(春日井市内津町字上町)〉と記しています
【抜粋意訳】
内内(ウツツノ)神社
祭神 建稻種(タケイナタネノ)命
今按 熱田緣記に 日本武尊 到篠城進食之間 稻種公 傔從 久米八腹策駿馬馳來啓曰 稻腫公入海亡没 日本武尊乍聞 悲泣曰 現哉とある本注に依現哉之詞其地 號 内津社とある故事により 建稻種命を此に祭れるなるべし
祭日 十月六日 社格 郷社(明細帳に縣社)
所在 篠城庄 内津村(東春日井郡、坂下村大字内津縣社内々神社)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇愛知縣 尾張國 束春日井郡坂下村大字内津(ウツツ)
縣社 内々(ウツツノ)神社
祭神 建稻種(タケイナダネノ)命
景行天皇御宇の創祀にかかる〔張州府志〕、當祭神 建稻種命は日本武尊の東征に從ひまつりて功勲少からず、尾張國造の祖先なり、 日本武尊 既に東國を定めて還りて尾張に入り、當篠城村に至りまして 御食まゐる、折しも建稻種命の傔從 久米八腹、駿足に策ちて馳せ至り、啓して曰く、建稻種命 海に入りて歿しぬと、尊之を聞きたまひて 悲みて宣はく、現なる哉と、之より此地を内津といふと(府志・社記、)、其後 間もなく鎮祀せられしものなるべし、
尾張名勝志云「在に篠城庄内津村、今俗云に妙見、實建稻種命之廟也、 請稻記云 ,稻種公 入海亡没、日本武尊乍聞悲泣曰、現哉云々、
註云、依に現哉之詞、其地號に内津、
本國帳集説曰、是小豊命子 建稻種命廟祠也」
醍醐天皇延喜の制小社に列す (延喜式)、
中頃妙見といひぬ (名所圓會、府志 )、妙見は舊大留村に在りしを 此に遷せりともいふ、天正三年 社傳悉皆焼失してより、あらぬ名を稱するに至る、一の鳥居は社頭より十餘町南 西尾村に在りしが、慶長年中焼けて今は其跡を存するのみ (名所圖會)、 本國神名帳に正三位内々神社とあれば、何時の代にか奉りしものなるべし、明治十年三月十四日縣社に列す。
社殿は本殿、拜殿、神樂殿、繪馬殿、社務所等を具備し、境内地千八百十七坪(官有地第一種)あり、社殿の背後より嵯峨たる峻坂を撃ち山上に至れば、大なる岩窟あり、清泉湧き旱天と難も涸れず、唯傳ふ、此水海水の満干によりて増減ありと、又山腹に天狗岩、屏風岩と稱する奇勝あり、天狗岩は屹然として天に沖し、屏風岩は屏立して屏風を囘らせるが如し。
境内神社
津島社 事代主社 大國社 三峯社(日本武尊) 双殿社(天照大御神、伊邪那岐命、外四神)
【原文参照】