白河神社(白河市旗宿関ノ森)

白河神社(しらかわじんじゃ)は 社伝によれば 第13 成務天皇五年(135年)白河國造命と天太玉命を奉祀し 勅命により鎮座 のち白河の関設置に当たり 関所南北に住吉 玉津島明神を祀る と伝わります 二つの式内社①伊波止和氣神社いはとわけかみのやしろ)白河神社しらかはかみのやしろ)の論社となっています

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目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

白河神社(Shirakawa shrine

通称名(Common name)

白河関跡(しらかわのせきあと)

【鎮座地 (Location) 

福島県白河市旗宿字関ノ森120

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》白河国造命(しらかわくにのみやつこのみこと)(鹽伊乃己自直命)
   天太玉命(あめのふとたまのみこと)
   中筒男命(なかつつおのみこと)
   衣通姫命(そのとおりひめのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

・道中安全 家内安全 縁結び 安産 勝負開運 諸厄消除

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

由緒(ゆいしょ)

名称(めいしょう)
・延喜式内社(えんぎしきないしゃ)白河神社(しらかわじんじゃ)

延喜式内社・・・延喜式神名帳に記載された神社を、「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社といい、一種の社格。
延喜式神名帳とは、延長五年(九二七年)にまとめられた「延喜式」の巻九・十のことで、当時「官社」とされていた全国の神社一覧である。

祭神(さいじん)
・白河国造命(しらかわくにのみやつこのみこと)(鹽伊乃己自直命 しおいのこのあたいのみこと
 天太玉命(あめのふとたまのみこと)
 中筒男命(なかつつおのみこと)
 衣通姫命(そのとおりひめのみこと)

御利益(ごりやく)
・道中安全 家内安全 縁結び 安産 勝負開運 諸厄消除

境内社(けいだいしゃ)
・八雲神社 稲荷神社 国津神社 大山祇神社

 第十三代 成務天皇(せいむてんのう)五年(一三五年)白河国造命(しらかわくにのみやつこのみこと)と天太玉命(あめのふとたまのみこと)を奉祀(ほうし)し、勅命(ちょくめい)により鎮座、のち白河の関(せき)設置(せっち)に当たり、関所(せきしょ)北(なんぼく)に住吉(かみよし)、玉津島明神(たましまみょうじん)を祀る。

延暦(えんりゃく)十年(七九二年)永承(えいしょう)七年(一〇五三年)平兼盛(たいらのかねもり)、源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ)等が稲田(いなだ)を奉献(ほうけん)し、寿永(じゅえい)三年(一一八四年)三月九日源義経(みなもとのよしつね)、文治(ぶんぢ)五年(一一八九年)源頼朝(みなもとのよりとも)等が金弊(きんぺい)を奉献(ほうけん)、元和(げんな)元年(一六一五年)伊達政宗公(だてまさむねこう)社殿を改築(かいちく)奉納(ほうのう)(本殿の棟紋に九曜星(くようぼし)、縦三引きの紋あり)、享和(きょうわ)元年(一八〇一年)に白河城主(しらかわじょうしゅ)松平定信公(まつだいらさだのぶこう)が神庫(かみくら)を奉納(ほうのう)。奥の細道曽良日記にも記された二所の関明神(せきみょうじん)として、現在国技である大相撲(おおずもう)二所の関部屋(にしょのせきべや)の発祥地(はっしょうち)、八月に二所の関(にしょのせき)古式相撲(こしきずもう)が嵐祭(かざまつ)りとして奉納(ほうのう)される。

 白河の関を境内(けいだい)とし、境内は昭和四十一年九月十二日付けで文化庁(ぶんかちょう)より国指定史跡(くにしていしせき)「白河関跡(しらかわせきあと)」に指定(してい)された。

現地案内板より

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【由  (History)】

白河神社(しらかわじんじゃ)

 関東と奥州の境である白河の関跡に白河神社があり、関の明神、二所関明神とも呼ばれています。起源は成務5年(315年・古墳時代)に遡り、白河国造・鹽伊乃自直命(しほいのこじのあたい)を祀ったのが始まりだと言われています。境内には、白河藩主・松平定信公の考証によってここが白河関跡であるとされ寛政12年(1800年・江戸時代)に建てられた関跡碑のほか、平兼盛や能因法師が詠んだ古歌の碑があります。治承4年(1180年・平安時代)には、源義経が兄・頼朝の挙兵を知り鎌倉に向かう道中に詣で、境内の松に矢を立て勝利を祈願したと伝えられています。「矢立の松」とよばれ、今は小さな根元のみの姿となって残っています。また鎌倉時代初期、藤原家隆が奉納したといわれる推定樹齢800年の「従二位の杉」が八方に枝を広げて聳え立っています。境内は、特別史跡名勝天然記念物に指定されています。

所在地 〒961-0038 白河市大字旗宿字関ノ森120

福島県庁HPより
https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/01230a/shirakawa-02.html#27

 

白河関跡【しらかわのせきあと】

指 定 種 別 国指定 史跡
指定年月日 昭和41年9月12日
所 在 地 白河市旗宿関ノ森ほか
所 有 者 白河神社・白河市ほか

白河関跡は、東北本線白河駅から南方約12kmの山間に位置しており、栃木県境からは約3km北の地点にある。
ここに南北約300m、東西250mで面積約58,000平方メートル、標高410mほどの丘陵があり、丘陵上には白河神社が祀られている。

白河関については、8・9世紀頃に書かれた文献資料にその名の記載がみられる。

承和(じょうわ)2年(835)12月3日の太政官符(『類従三代格』)に、「白河・菊多両剗」について、俘囚の出入りと官納物資の通行取締りを長門国の関に準じてすべしとの記述がある。また、これには「旧記ヲ検スルニ剗(せき)ヲ置キテ以来、今ニ四百余歳」とあり、この当時、関の設置年代は5世紀前半頃と認識されていたようである。

これより先、延暦18年(799)12月10日の太政官符(『河海抄』)に「白河・菊多剗守六十人」の記述がみられる。

10世紀に入り、律令国家の崩壊とともに、官関の機能は失われ、「白河の関」は歌枕として都人の憧景の地へと変化する。
寛政12年(1800)に白河藩主松平定信が考証の結果、空堀・土塁が残る現在地が白河の関であると断定して「古関蹟」の碑をこの地に建てた。

昭和34年から5ケ年にわたって、ここが関跡か否かを実証的に確認することを目的として発掘調査が実施された(関の森遺跡)。この調査においては、竪穴住居跡や掘立柱建物跡、土坑、柵列などが確認され、特に竪穴住居跡を中心に8・9世紀の土師器や須恵器、あるいは鉄製品が出土している。そして、調査において確認された遺構・遺物、遺跡の立地的考察から、ここが白河関跡の条件にかなう点が多く、国史跡として指定された。

関跡の年代については、発掘調査の成果や白河関跡の記載がみられる文献資料の成立年代などから考えて、機能していたのは8・9世紀頃と考えられる。

白河市役所HPより
https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page001386.html

国指定史跡

白河関跡(しらかわのせきあと)

指定年月日 昭和四十一十二
指定 面積 57,897平方メートル
  者 白河神社・白河市他
管 理 団 体 白河市

 白河関は、古くからみちのくの関門として歴史にその名を刻み、文学の世界においても歌枕(和歌の名所)として数多くの古歌に詠まれた場所である。

 関の位置については、江戸時代後期頃まで不明となっていたが、白河藩主松平定信の考証により、この地が白河関跡であると断定された。寛政十二年(1800)には考証の経緯を記した「古関蹟」の碑が建てられ、今日に至っている。

 関が置かれた年代については不明であるが、延暦十八年(799)、承和年(835)の太政官符には「白河(せき)」の名が認められることや歴史的な背景からみて、大化の改新以後の世紀頃には存在していたものと考えられる。

 昭和三十四年(1959)から三十八年まで実施された発掘調査では、竪穴住居跡や掘立柱建物跡、空堀、土塁、柵列などの遺構と、縄文土器、土師器、須恵器、灰釉陶器、鉄製品などの異物が出土し、縄文時代から古代・中世にいたる複合遺跡であることが明らかとなった。
 出土した土師器の中には、「門」、「大室」、「□舟」などの墨書土器も見られる。

 白河関の全体像については、未解明な点もあるが、現在も奥州三古関の一つとして多くの人々に親しまれ、歴史のひとこまに触れることができる場となっている。
 また春には藤やかたくりの花が咲き、訪れる人々の心を和ませている。

白河市教育委員会

現地案内板より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・本殿・八雲神社〈本殿向かって左隣〉稲荷神社〈本殿向かって右隣〉

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国津神社大山祇神社

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・須美能榮神社

・〈7社 合殿〉

向かって左から
・雷神社、若木神社、愛宕神社、神明神社、大山祇神社、熊野神社、天神神社

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承

式内社 伊波止和氣神社について 伊波止和氣天神と表記され 神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

十三 承和十年(八四三)九月庚寅日〉

○九月丙戌朔庚寅

奉授

陸奧國
從五位下 多久都神 正五位下
勳九等 伊波止和氣(イハトワケノ)天神
无位 玉造温泉神
无位 伊佐美神 從五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

二つの式内社〈①伊波止和氣神社白河神社〉の論社となっています

伊波止和氣神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)白河郡 7座(大1座・小6座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 伊波止和氣神社
[ふ り が な ]いはとわけかみのやしろ)
[Old Shrine name]Ihatawake no kamino yashiro)

白河神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)白河郡 7座(大1座・小6座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 白河神社
[ふ り が な ]しらかはかみのやしろ)
[Old Shrine name]Shirakaha no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 陸奥国 白河郡 伊波止和氣神社(いはとわけの かみのやしろ)の論社

・伊波止和氣神社(古殿町田口戸神)

・白河神社(白河市旗宿関ノ森)

・磐戸別神社(白河市関辺丸沢)

〈旧鎮座地とも云う〉

・都都古和氣神社(馬場)の奥宮 都々古別神社(表郷三森 都々古山)
《三鎮座の鼎(かなえ)〈三本足の青銅器・土器〉のように・白河神社(白河市旗宿関ノ森)・磐戸別神社(白河市関辺丸沢)・都々古和氣神社(白河市表郷三森都々古山)〉の三社を以て 伊波止和氣神社とも云う》

《参考》・石都々古和気神社(石川町) 

延喜式内社 陸奥国 白河郡 白河神社(しらかはの かみのやしろ)の論社

・白河神社(白河市旗宿関ノ森)

・鹿嶋神社(白河市大鹿島)

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR白坂駅から 県道388号と76号を経由して 南東方向へ約9.6km 車15分程度

史跡 白河の関 の丘陵に鎮座しています

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社号標゛式内 白河神社゛

白河神社(白河市旗宿関ノ森)に参着

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狛犬の横には゛史跡 白河関跡゛とあります

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すぐ横に 案内図があり 左側の白河関跡の丘陵の上に゛白河神社゛があります

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゛白河関跡の発掘調査゛の案内板もあり この地が古代の白河関跡であることが実証された旨が記されています

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狛犬の先には 石橋の神橋が架かり 手水舎があり清めます

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その先にはり 鳥居を守るように 捻じれた蔓のような樹木があります

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一礼をして 鳥居をくぐります

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杉の大木に挟まれた参道石段を上がっていきます

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参道の途中に゛矢立の松゛

矢立の松

治承四年(1180)、源義経が平家追討のため平泉を発し、この社前に戦勝を祈願、この松に矢を射立てたと伝えられる。現在は、少量の根株を残すのみである。

現地立て札より

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石段を上がると゛狛犬゛
何故か この一瞬時だけ 日が差し込んでいました

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社殿の手前で 参道は左に折れて 社殿の正面に向かいます

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拝殿にすすみます

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拝殿の扁額には゛白河神社゛

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 本殿が鎮座し その両脇に境内社が祀られています

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境内には゛古歌碑゛などもあります

古歌碑(平兼盛、能因法師、梶原景季)

「白河関」に題材をとる平安時代の著名な和歌三首を歌碑としたものである。

平兼盛(?~九九〇)
「便りあらば いかで都へつげやらむ 今日白河の関は越えぬと」
(『拾遺和歌集』)
三十六歌仙の一人、平兼盛が奥州に下り歌枕の白河関を越えた感激を都の知人にどうやって知らせようかと詠んでいる。

能因法師(九八八~?)
「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関」
(『後拾遺和歌集』)
風狂数奇の歌人、能因法師が奥州に旅した際、白河関で詠んだ歌。都と白河関の距離・時間を詠みこんだ著名な歌である。

梶原景季(一一六二~一二〇〇)
「秋風に 草木の露をはらわせて 君が越ゆれば関守もなし」
(『吾妻鏡』)
源頼朝(一一四七~九九)が、文治五年(一一八九)七月二十九日、奥州平泉の藤原氏を攻める途上、側近の梶原景季が、白河関の社殿で詠んだものである。

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そのほかにも 社殿の前に石碑があります

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 伊波止和氣神社について 續日本後紀に記される゛伊波止和氣(イハトワケノ)天神゛と記し 鎮座地は特定していません

式内社 白河神社について 白河国造(しらかわのくにのみやつこ)を祀る と記されています

【抜粋意訳】

伊波止和氣(イハトワケノ)神社

續日本後紀
承和十年 奉授 陸奧國 從五位下 多久都神 正五位下勳九等
伊波止和氣(イハトワケノ)天神 に從五位下

姓氏録
大伴宿祢云 雄略天皇御世 以入部靱負賜大連公 奏曰 衛門開闔之務 於職已重 若有一身難堪 望与愚児語 相伴奉衛左右 勅依奏 是大伴佐伯二氏 掌左右開闔之縁也

續日本記
神護景雲三年(七六九)三月辛巳十三
黒川郡人外従六位下靭大伴部弟虫等八人 靭大伴連

東鑑
文治五年(1189)七月小廿九日丁亥
越白河關給 關明神御奉幣 此間召景季 當時初秋候也

白河神社

旧事記
白河国造 天由都彦命十一世堪伊乃己自迫定給

和抄 白河

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 伊波止和氣神社について 棚倉馬場村に在す、今 近津大明神〈現 都都古和氣神社(馬場都々古別神社)〉と記しています

式内社 白河神社について 白河驛に在す、今 鹿島太神宮と称す〈現 鹿嶋神社(白河市大鹿島)〉と記しています

【抜粋意訳】

伊波止和氣神社

伊波止和氣は 假字なり

〇祭神 手力雄命 頭注

〇棚倉馬場村に在す、今 近津大明神と称す、
例祭 月 日
参拝録に、面足尊、惶根尊、事勝國勝長狭命、と云へるは何に據れるか通えがたし、誤りなるべし、

類社
大和國 高市郡 天津石門別神社の條 見合すべし

神位
續日本後紀承和十年九月庚寅 奉授 勳九等 伊波止和氣(イハトワケノ)天神 從五位下

白河神社

白河は郡名に同じ

〇祭神 武甕槌雄命 参拝記
〇白河驛に在す、今 鹿島太神宮と称す
例祭 月 日
〇舊事紀、国造本紀 白河国造、云々、全文郡の下に出す

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 伊波止和氣神社について「舊白河の東 關山に在しを、後 白河驛口白坂に遷し、両社を建て關山明神と云ふ」 つまり〈現 〈旧鎮座地〉磐戸別神社(白河市関辺丸沢)〉から白河驛口白坂〈現 白坂宿の境の明神〉の事 もしくは旧街道の〈現 白河神社(白河市旗宿関ノ森)〉に遷座し 両方に社を建てた と記しています

式内社 白河神社について 旗宿村にあり、白河明神と云ふ〈現 白河神社(白河市旗宿関ノ森)〉と記しています

【抜粋意訳】

伊波止和氣(イハトワケノ)神社

舊白河の東 關山に在しを、後 白河驛口白坂に遷し、両社を建て關山明神と云ふ、蓋是なり、神名帳考証、陸奥國圖
〇按本書、關山神を伊波止和氣神とは云されども、御門神なるを以て 之を關門に祭りしものなる事著し、姑附て後考に備ふ、

天太玉命の子 天石戸別命 亦名 櫛石窓神を祭る、古事記、古語拾遺、延喜式、
光仁天皇 寶亀四年九月、神封二戸を充奉り、新抄格勅符
仁明天皇 承和十年九月庚寅 勳九等 伊波止和氣天神に 從五位下を授け、續日本後紀
後鳥羽天皇 文治五年七月丁亥、源頼朝 白河關を超て幣を關明神に奉りき、藤原泰衡を征伐を以て也、東鑑

白河(シラカハノ)神社

旗宿村にあり、白河明神と云ふ、福島縣神社調
光仁天皇 寶亀四年十月壬戌、白河神に陸奥地二戸を以て神封に充奉りき、新抄格勅符

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 伊波止和氣神社について 諸説を挙げています
田口村 戸隠神社〈現 伊波止和氣神社(古殿町田口戸神)〉については「慶應中 神主 鎌田光雄 兼務の時 此の松尾社を伊波止和氣神社と云そめたる」が偽妄でとるに足りないと断言しています

白河郡二枚橋村 磐戸嶽に伊波止和氣神社〈現 〈旧鎮座地〉磐戸別神社(白河市関辺丸沢)
石川郡石川村の八幡社〈現 石都々古和氣神社(石川町)〉を式内社 伊波止和氣神社としています

式内社 白河神社について 旗宿村 明神〈現 白河神社(白河市旗宿関ノ森)〉と記しています

【抜粋意訳】

伊波止和氣神社

祭神

神位 仁明天皇 承和十年九月庚寅 奉授 勳九等 伊波止和氣天神 從五位下

祭日
社格

所在
今按〈今考えるに〉
磐前縣注進状に田口村 戸隠神社あり慶應中 神主 鎌田光雄 兼務の時 此の松尾社を伊波止和氣神社と云そめたるは 偽妄なれば 取るに足らず
又 按 福島縣注進に白河郡二枚橋村 磐戸嶽に伊波止和氣神社あり 關山観音の峯続き辰巳の方十町に華表一基あり 音嶽大権現と云ふ 其の本社と唱ふる地は 谷を隔て 丑寅に向かひ磐石累々たり 又 登る事一町餘にして社跡と覚しき平地あり
古老の口碑に關山は 鳥嶽石山音嶽なども云ひ 観音堂焼亡以前までは山王社 秋葉社 本堂の傍にありて 地主山王権現と云りとぞ
音嶽の音は巌の約めヲにしてトは止なり 石嶽はイハ又はイワヲにて 伊波止なり タケは和氣の誤りなるべし
観世音略記に關山神とある即是なりとある 關山神は由ありて聞ゆれど音嶽は いはとわけの転訛と云るは信じがたし

磐前縣注進状に石川郡石川村の八幡社の社地 高十三丈餘あり 近村数里間は石皆瑞奇にして 光明を含み 又 石英をも産す 名を石都八幡社と称す 是式社ならんと云るは二枚橋村の説よりは立勝りて聞ゆれば 石川村八幡を以て 式社とすべき歟 猶よく考べし

白河神社

祭神
祭日 九月十九日
社格 村社

所在 旗宿村 字白河内明神 〇今属 磐城國
(西白河郡古關村大字旗宿)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

白河神社(白河市旗宿関ノ森) (hai)」(90度のお辞儀)

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陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る

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『風土記(fudoki)』が編纂(733年)された 当時の「出雲の神社(399社)」を『出雲國風土記 神名帳(izumo no kuni fudoki jimmeicho)』として伝える役割をしています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷で 出雲国造が その任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉としていて 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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