都々古別神社(表郷三森 都々古山)

都々古別神社は 馬場都々古別神社の旧蹟です 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」を立てて「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」を地主神として祀った創祀の地です 「建鉾山(武鉾山)」別名を「都々古山(Tsutsukoyama)江戸期までは入山禁足)」の山頂には梵天の祠があります 当社は 山麓にあり 延喜式の時代には 祭祀が行われていた奥院と伝わります

目次

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name

都々古別神社(Tsutsukowake Shrine
 (つつこわけじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

奥院都々古別神社(Okuin Tsutsukowake Shrine

【鎮座地 (location) 

福島県白河市表郷三森都々古山1

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)

《配》日本武尊(yamatotakeru no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社(名神大)の創祀の地

【創  (Beginning of history)】

 社  都々古和気神社

御鎮座地    表郷村大字三森字都々古山
御祭神(主神) 味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
大国主命の御子で殖産興業の指導をもって、一生父命の大業を助けられた関東地の大神。
   (相殿神)日本武尊(やまとたけるのみこと)

延喜式内社、白河郡七社の一つにして、人皇12代景行天皇御宇 第3子の皇子、日本武尊が東夷御征伐のためにおいでなられた。
この時、この都々古山に、味耜高彦根命を勧請され東夷平定の御誓いをたてられ、鉾を建て御親祭なされたのがはじまりで、この古事に因み都々古山山頂に梵天を奉弊する神事が行われている。

建鉾山あるいは、高野峯山の名をもって呼ばれている小山は、一際目立つ三角錐状の形をもち、周囲から特異な山容を望見することができ、古代における山岳信仰の対象としての特徴をよく見えている。

棚倉町馬場都々古和気神社の原鎮座地としての伝承がある古代祭祀の遺跡としての建鉾山山頂には高さ1.4mの建鉾石があり、この岩の下部は巨大な母岩が続き、更に山腹までのびた典型的な神奈備山の山容をなして、神が降臨するにふさわしい磐座・石神である。神が降り給う岩座の前に、くさぐさの供物をささげ祭祀をおこなった神道祭祀の遺跡であり、古代の聖地をそのまま現在の神社の神域となっている。

境内案内板より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

参道の横に石の小祠

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThe shrine record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)白河郡 7座(大1座・小6座)

[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 ] 都都古和気神社(名神大)
[ふ り が な  ](つつこわけの かみのやしろ)(みょうじんだい)
[How to read ](tsutsukowakeno kaminoyashiro)(myojindai)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用 国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

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都都古和気神社(名神大)
(tsutsukowakeno kaminoyashiro)(myojindai)
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)の4つの論社について

4つの神社について 各々創建からの伝承を纏めました 詳しくは各神社の記事をご覧ください

論社として著名な 2神社について

①・馬場都々古別神社(BabaTsutsukowake Shrine)

 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」を立てて「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」を地主神として祀った創祀の地から その後 大同2年(807年)に「坂上田村麻呂(sakanoeno tamuramaro)」が 現在の棚倉城跡(位置)の地に社殿を造営し 日本武尊を相殿に配祀した そして現在地(馬場)に遷座したのは寛永2年(1625年)と伝わります

現在の棚倉城跡(旧 鎮座地)

馬場都々古別神社の記事をご覧ください

一緒に読む
都都古和氣神社(馬場)

馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に所載される 又「陸奥国一之宮」とされる由緒ある神社です 歴史は古く 「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)」に鉾を立てて味耜高彦根命を祀ったことが創祀で その後 大同2年(807年)に坂上田村麻呂が 日本武尊を相殿に配祀した後 現在地(馬場)に遷座したのは寛永2年(1625年)と伝わります

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➁・八槻都々古別神Yatsuki Tsutsukowake Shrine)

第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が
八溝山の蝦夷の大将を討ち果たした際に 守護として示現した3神
「天之御中主神(amenominakanushi no kami)」
「高御産巣日神(takamimusuhi no ka )」
「神産巣日神(kamimusubi no kami)」
が建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れた時に 東方に矢を放ち 矢(箭)の着いた地(箭津幾:やつき)として神社を創建した
下って「源義家(minamotono yoshiie)」が 奥州征伐に訪れた際に「千勝(近津)明神(chikatsu myojin)」と改称したと伝わります

馬場と八槻の2つの神社の間には 延喜式内社の激しい論争がありますが いずれが本来の式内社 都都古和氣神社であるかは 現在も結論は出ていません

八槻都々古別神社の記事をご覧ください

一緒に読む
都々古別神社(八槻)

八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)は 縁起では「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 八溝山の蝦夷を討った際に 守護として示現した3神が 建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れた時に東方に矢を放ち 矢(箭)の着いた地を(箭津幾:やつき)として神社を創建したと伝わります 江戸時代頃には 「近津三社」〈上宮〉馬場都々古別神社〈中宮〉八槻都々古別神社〈下宮〉下宮近津神社(久慈川沿いに3社が並び鎮座)と呼ばれました 

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その他の論社 2社について

➂・奥院都々古別神社(Okuin Tsutsukowake Shrine)(当社)

 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」を立てて「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」を地主神として祀った創祀の地「建鉾山(武鉾山)」別名を都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)は山頂にあり 当社は 麓にあり 延喜式の時代には 祭祀が行われた奥院と伝わります

都々古和氣神社(奥院)の記事をご覧ください

一緒に読む
都々古別神社(表郷三森 都々古山)

都々古別神社は 馬場都々古別神社の旧蹟です 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」を立てて「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」を地主神として祀った創祀の地です 「建鉾山(武鉾山)」別名を「都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)」の山頂には梵天の祠があります 当社は 山麓にあり 延喜式の時代には 祭祀が行われていた奥院と伝わります

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④・都々古別神社(玉川村 南須釜)

 社伝では 第40代天武天皇の御代「藤原鎌足(fujiwarano kamatari)698-720」公が 常陸國の国司に任じられて この地に赴いた際に創建したとされ 往時には「奥州一の宮」と称され 48社の末社を四方に持ち 神領12ヶ村 氏子85ヶ村を誇ったと伝わります

都々古別神社(玉川村 南須釜)の記事をご覧ください

一緒に読む
都々古別神社(玉川村南須釜)

都々古別神社(つつこわけじんじゃ)は 第40代天武天皇の御代に常陸國の国司に任じられた 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)公〈698-720年〉が この地に赴いた際に創建したとされ 往時には「奥州一の宮」と称され 48社の末社を四方に持ち 神領12ヶ村 氏子85ヶ村を誇ったと伝わります

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

磐城棚倉駅より R289号経由 約7.1km 車15分程度
一際目立つ三角錐状の形の三森 都々古山(Tsutsukoyama)が見えてきました

奥院都々古別神社(Okuin Tsutsukowake Shrine)に到着

社号標が建ち「國幣中社 奥院 都都古和氣神社」とあります

山頂への遊歩道の入り口にもなっているようです

狛犬が構え 鳥居が建ちます

一礼して鳥居をくぐり抜けます

杉木立の中を参道は山に入っていきます

僅かに傾斜が出て 参道は階段状になります 夏の参拝でしたが参道は手入れされ草も生えていません

更に長い階段状の参道の先には 社殿が垣間見れます

静寂の中あと少しで 社殿が見えそうなとき

あまり見たことのないカエルが参道に座していて 見とれてしまいました
動植物には疎いので判らないので 帰ってから調べたところ「ヤマアカガエル」か?

境内に到着すると 右手に由緒案内板があり 目の前に石灯篭 その奥正面に拝殿が建っています

拝殿にすすみます 老朽化していますが大切にされています

奉納と記された賽銭箱におさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

石灯篭の横に 山頂への遊歩道の看板があります

山頂に参道(遊歩道)が続いていて石碑が立っています

石碑に近づいて見ると「景行天皇 皇子 日本武尊 御親祭霊地参道」と刻まれていて やはり山頂の祠(古代の祭祀場)への参道となっています
こちらからお詣りをします

振り返り本殿を左右から仰ぎます
本殿は見事な造りです

社殿に一礼をしてから 参道の脇には いくつか境内社があり お詣りをしながら山を下ります

登りでは 気が付きませんでしたが 「古い手水鉢」が参道にありました

杉木立の参道を戻ります

鳥居をくぐり抜けて振り返り 一礼をします

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

「都々古山(Tsutsukoyama)」の山頂にある「建鉾山祭祀遺跡Tatehokoyama Saishi Iseki)」について

建鉾山を遠方の道路より

建鉾山祭祀遺跡【たてほこやまさいしいせき】

指定種別  市指定 史跡

指定年月日 昭和55年3月14日

所在地   白河市表郷高木字高野峯ほか

所有者   都々古山神社ほか

表郷地域の高木三森地区に存在する、円錘型をした標高403mの山が建鉾山(武鉾山)である。伝説によれば日本武尊(やまとたける)が東征した際、この山頂に鉾を建てて神を奉斎したとされ、頂上に建鉾石といわれる岩と小祠がある。

この山の山容は典型的な神奈備型で、山頂付近に露出した珪質岩の母岩は、古来、神の降臨に相応しい磐座(いわくら)、石神とされた。

安政3年(1856)の古図によれば、北側斜面の巨岩下は「御宝前」と記され、地区住民すら立ち入れない神聖な地であった。

また、棚倉町馬場都々古和気神社がかつて鎮座していたとの伝承をもち、明治16年(1883)まで、都々古和気神社より、奥の院であるこの神域に、古式にのっとり行列する御神幸と称する神事が行われていたと伝えられる。

昭和32年(1957)、この地で石製模造品が発見されたことを発端に、國学院大学の亀井正道等により第一次調査、翌33年(1958)に第二次調査が行われた。

調査の結果、遺構は検出されなかったが、鏡・勾玉・剣・鎌・刀子・斧頭形、有孔円盤、小玉等の石製摸像品、その他の鉄鉾、青銅製擬鏡、鉄刀、鉄剣の金属製品、土師器、壺、高杯等の膨大な遺物が出土した。

出土状況から祭祀の終了後に廃棄されたものと考えられ、古墳時代中期のものと推定されている。

遺跡の規模は東北地方南部では最大であり、東日本を代表する祭祀遺跡である。

白河市役所HPより
http://www.city.shirakawa.fukushima.jp/sp/page/page000533.html

奥院都々古別神社(Okuin Tsutsukowake Shrine (hai)」(90度のお辞儀)

都都古和気神社(名神大)『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社
他の3つの論社の記事をご覧ください

馬場都々古別神社の記事をご覧ください

一緒に読む
都都古和氣神社(馬場)

馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に所載される 又「陸奥国一之宮」とされる由緒ある神社です 歴史は古く 「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)」に鉾を立てて味耜高彦根命を祀ったことが創祀で その後 大同2年(807年)に坂上田村麻呂が 日本武尊を相殿に配祀した後 現在地(馬場)に遷座したのは寛永2年(1625年)と伝わります

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八槻都々古別神社の記事をご覧ください

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都々古別神社(八槻)

八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)は 縁起では「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 八溝山の蝦夷を討った際に 守護として示現した3神が 建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れた時に東方に矢を放ち 矢(箭)の着いた地を(箭津幾:やつき)として神社を創建したと伝わります 江戸時代頃には 「近津三社」〈上宮〉馬場都々古別神社〈中宮〉八槻都々古別神社〈下宮〉下宮近津神社(久慈川沿いに3社が並び鎮座)と呼ばれました 

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都々古別神社(つつこわけじんじゃ)は 第40代天武天皇の御代に常陸國の国司に任じられた 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)公〈698-720年〉が この地に赴いた際に創建したとされ 往時には「奥州一の宮」と称され 48社の末社を四方に持ち 神領12ヶ村 氏子85ヶ村を誇ったと伝わります

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陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る

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-全国 一の宮("Ichinomiya" all over Japan)
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