倭姫宮(やまとひめのみや)は 倭姫命(やまとひめのみこと)を祀るために 大正12年(1923)新しく創建された皇大神宮〈内宮〉別宮です 倭姫命は 2000年以上前に天照大御神の御鎮座の地を求め各地を巡幸された時 御神託を受けて伊勢に来られ 現在の五十鈴川のほとりに皇大神宮(内宮)を創建された 第11代 垂仁天皇の第二皇女です 伝説の初代 斎王(さいおう)でもあります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
倭姫宮(Yamatohime no miya)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県伊勢市楠部町5
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》倭姫命(やまとひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・皇大神宮(内宮)別宮
【創 建 (Beginning of history)】
ご鎮座の由緒と歴史
神宮の諸宮社の由緒はきわめて古く、奈良時代以前に遡るものが多いのですが、当宮は、格別に新しい由緒の別宮です。大きなご功績をお遺しになった倭姫命ですが、長く命(みこと)をお祭りするお宮はありませんでした。江戸中期の外宮 権禰宜(ごんねぎ)喜早清在(きそきよあり)の『毎事門 まいじもん』に、神郡数万の人民は家々に倭姫命をお祭りして、その神恩に感謝するのは当然であると書かれています。古くから、郷土をお拓(ひら)きになった命への地元の人々の敬慕は篤く、信仰されてきました。そこで、命の御徳(おんとく)をお慕いして、大正初年から、神宮司庁と宇治山田市 (現伊勢市)が命をお祭りするお宮の創立を国に請願し、大正十年 (ー九二ー )皇大神宮別宮として当宮の創立が許可され、同十二年十一月五日御鎮座祭(ごちんざさい)が執り行われました。
昭和二十四年 (ー九四九 )には「御杖代講(みつえしろこう)」が結成され、現在は「倭姫宮御杖代奉賛会(やまとひめのみやみつえしろほうさんかい)」として、五月五日には春の例大祭、十一月五日には秋の例大祭が執り行われています。
神社パンフレットより
【由 緒 (History)】
倭姫宮の由緒と沿革
倭姫命は、第11代垂仁(すいにん)天皇の皇女です。第10代崇神(すじん)天皇の皇女豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)の後を継いで「御杖代(みつえしろ)」として天照大御神に奉仕され、大御神を戴いて大和国をお発ちになり、伊賀、近江、美濃などの諸国を経て伊勢の国に入られて、ご神慮によって現在の地に皇大神宮をご創建されました。『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』には、皇女豊鍬入姫命、倭姫命のご巡行(ごゅんこう)の記録があり、14ヶ所のゆかりの地があげられています。
倭姫命は皇大神宮ご鎮座ののち、神嘗祭(かんなめさい)をはじめとする年中の祭りを定め、神田並びに各種御料品を奉る神領を選定し、禰宜(ねぎ)、大物忌(おおものいみ)以下の奉仕者の職掌を定め、斎戒(さいかい)や祓(はらえ)の法を示し、神宮所属の宮社を定められるなど、神宮の祭祀と経営の基盤を確立されました。
倭姫命から後、代々の天皇は未婚の皇女を伊勢に遣わして大御神に奉仕させられましたが、このお方を斎王(さいおう)と申し上げます。
このように大きなご功績をお示しになられた倭姫命の御徳をお慕いして、大正の初年から神宮司庁と宇治山田市(現在の伊勢市)が倭姫命を祀るお宮の創立を請願し、大正10年1月4日、皇大神宮別宮として当宮のご創立が許可され、同12年11月5日にご鎮座祭が執り行われました。
神宮には、別宮・摂社・末社・所管社の諸宮社があり、ご由緒は古く、奈良時代以前に遡るものが多いのですが、当宮はこのようなご事情により創立が極めて新しいのです。
皇大神宮公式HPより
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社頭
・参道
・社殿
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
倭姫宮は 皇大神宮(内宮)の域外にある別宮です
・皇大神宮(内宮)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
御祭神 倭姫命(やまとひめのみこと)について
『古事記』には゛倭比賣命゛『日本書紀』には゛倭姫命゛とみえる人物
第11代 垂仁(すいにん)天皇の第四皇女 母は皇后 日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
現在 皇大神宮〈内宮〉の御神体゛八咫鏡(やたのかがみ)゛は 皇位のしるしとして受け継がれる三種の神器の一つで 天照大御神(あまてらすおほみかみ)が ゛天壌無窮の神勅(てんじょうむきゅうのしんちょく)゛を与えた天孫降臨の際に 皇孫 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられた宝鏡です
皇祖神 天照大御神のご神体として ゛八咫鏡(やたのかがみ)゛は 代々宮中で天皇ご自身がお祀りされていました
第10代 崇神(すじん)天皇の御代 疫病の大流行により 天皇はお側でお祀りすることに畏れを抱かれ ゛八咫鏡(やたのかがみ)゛は皇居を出られ 大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に神籬を立ててお祀りすることになりました
倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)で 天照大御神(あまてらすおほみかみ)の御杖代として奉斎していたのは 豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)〈第10代 崇神(すじん)天皇の皇女〉でした
垂仁天皇25年〈今から2000年前〉それまで奉斎していた豊鍬入姫命にかわり 御杖代として奉仕したのが 倭姫命(やまとひめのみこと)〈第11代 垂仁(すいにん)天皇の皇女〉てす
倭姫命は 御杖代として さらによい鎮座地を求めて・伊賀(いが)・近江(おうみ)・美濃(みの)・尾張(おわり)を経て伊勢国(いせのくに)五十鈴(いすず)川上に遷座し 皇大神宮〈内宮〉を創建したと伝承されます
また 倭姫命は 日本武尊(やまとたけるのみこと)の叔母にあたり
第12代 景行(けいこう)天皇の時代 甥の日本武尊が 西征に出立する際には 当時の神宮におられた倭姫命は 御自分の衣装を日本武尊に与え 尊はその衣装で女装し クマソタケルを殺害することができた
日本武尊は 東征に出立する際には 途中伊勢に寄ります そこで 神意を受けた倭姫命から 神剣 草薙剣(くさなぎのつるぎ)と火打ち石の入った袋を受け「慎みて怠ることなかれ」と戒められて出立ます
そして 日本武尊は それを用いて難を切り抜け危急を救ったと伝承されます
この草薙剣は゛天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)゛と呼ばれる三種の神器の一つ(・八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣)です
現在 三重県伊勢市倭町には 倭姫命の御陵伝承地があり 皇大神宮別宮の一つとして 倭姫宮は大正12年(1923)創建されました
斎宮(さいぐう)の起源について
『日本書紀』には 倭姫命は 天照大神の託宣のとおり 伊勢に祠と斎宮を建てたと云う
斎宮は(いつきのみや)とも呼ばれ 斎王(さいおう)の宮殿と斎宮寮(さいくうりょう)という役所のあったところです
斎王は 天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため 天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれて 都から伊勢に派遣されました。
古くは 伊勢神宮起源伝承で知られる倭姫命(やまとひめのみこと)は 伝承的な初代斎宮にほかなりませんが その実態はよくわかっていません
制度上最初の斎王は 天武天皇(670年頃)の娘・大来皇女(おおくのこうじょ)で 制度が廃絶する後醍醐天皇の時代(1330年頃)まで約660年間続き その間記録には60人余りの斎王の名が残されています
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される゛伊勢神宮の創祀゛伝承
『日本書紀』(垂仁天皇25年)立ち寄った候補地を 宇陀笹畑から淡海(近江)美濃と記し やがて伊勢国にいたり「神風の伊勢国は(中略)傍国の可怜国(うましくに)なり 是の国に居らむと欲ふ」と大神がお伝えになり ようやく遷座の旅は 終焉を迎えたと云う
【抜粋意訳】
垂仁天皇 活目入彦五十狭茅天皇 二十五年 三月十日
天照大神(アマテラスオホミカミ)を豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)から離して 倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に託されました
倭姫命は 大神を鎮座申し上げる所を探し 菟田(ウダ)の筱幡(ササハタ)に到りました
筱は 佐佐(ササ)と読むさらに引返して 近江国に入り 美濃をめぐって 伊勢国に至りました
そのとき天照大神は 倭姫命に教えて言われました「この神風は 伊勢国は 常世の国からやってくる浪(ナミ) 重浪(シキナミ)〈繰り返し寄せる浪〉して帰(ヨ)せる国です 傍国(カタクニ)〈大和の側の国〉で 可怜国(ウマシクニ)である この国にいたいと思う」
と云われましたそこで大神のことばのままに その祠(ヤシロ)を伊勢国に立てられた
そして斎宮(イワイノミヤ)〈斎王のいる宮〉を五十鈴川のほとりに立てましたこれを磯宮(イソノミヤ)と云い
天照大神が 初めて天より降りられたところです
一書に曰〈ある書によると〉
天皇は 倭姫命(ヤマトヒメノミコト)を御杖(ミツエ)として 天照大神に奉りました
それで倭姫命は 天照大神を磯城(シキ)の嚴橿(イツカシ)の根元に鎮座して祀りましたその能登に神の教えの通りに 即位26年冬10月 伊勢国の渡遇宮(ワタライノミヤ)に移りました
このとき 倭大国魂神は 穂積臣(ホズミノオミ)の遠祖の大水口宿禰(オオミクチノスクネ)に降りて教えました「太初(モトハジメ)のときに約束した
『天照大神は 天原(アマハラ)を収める その天照の子孫の皇御孫尊(スメマミコト)は 葦原中国(アシハラナカツクニ)の八十魂神(ヤソタマノカミ)を治める
私は 大地官(オオチツカサ)を治めよう』と 言葉はそれでお終いということでありました
先代の御間城天皇(ミマキスメラミコト)は 神祇を祭祀(イワイマツリ)しましたが 微細(クワシク)は その源根(モト)を探らずに 粗(オロソカ)に枝葉(ノチノヨ)に留めました 天皇の命は短い それで今の天皇は前の天皇が出来なかったことを悔いて慎み 祀れば 天皇の命は長く また天下は太平になる」といわれた天皇は この言葉を聞いて 誰に大倭大神(ヤマトオホカミ)を祀らせればよいのか 中臣連(ナカトミノムラジ)の祖 探湯主(クカヌシ)に仰せられて 占わせました
淳名城稚姫命(ヌナキワカヒメノミコト)が占いに出ましたこの姫に 神地(カムドコロ)を穴磯邑(アナシノムラ)に定めて 大市(オオチ)の長岡岬(ナガオカノサキ)を祀りました
しかし 淳名城稚姫命は 身体が病み弱り 神を祀ることはできない状態となりました そこで 大倭直(ヤマトノアタイ)の祖の長尾市宿禰(ナガオチノスクネ)に命じて祀らせました
【原文参照】
元伊勢(もといせ)伝承地をたずねて
皇大神宮(内宮)の御祭神は 皇祖神 天照大御神です
かつて 天照大御神と天皇は〈共に皇居内に祀られていた〉゛同床共殿゛であったと伝えらています
やがて 第10代 崇神天皇の時代 崇神天皇6年(BC92年)疫病を鎮めるべく 従来から宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に遷したと伝わります
それは゛同床共殿゛の状態を畏怖した崇神天皇が 皇女・豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に その神霊を託して 倭国 笠縫邑 磯城の厳橿の本に゛磯堅城の神籬゛を立てたことに始まり さらに理想的な鎮座地を求めて各地を転々と遷座し 第11代 垂仁天皇の第四皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)がこれを引き継ぎ およそ90年をかけて現在地〈三重県伊勢市宇治館町〉に遷座したとされます
遷座の経緯については
『古事記』では記載なし
『日本書紀』では簡略に
『皇太神宮儀式帳』にやや詳しく
中世の『神道五部書』の一書 『倭姫命世記』に より詳しく記される
元伊勢(もといせ)とは 〈伊勢神宮〉皇大神宮(内宮)が 現在地〈三重県伊勢市宇治館町〉に定まるまで 遷座を繰り返し その時に一時的に祀られていた場所のことです
元伊勢の伝承地は 主に近畿・東海地方に点在します
又 豊受大神宮〈外宮〉は 雄略天皇の時代に 丹波國の比沼乃真名井爾坐(ひぬまのまないなまします)我御饌津神(わがみけつのかみ)由氣太神(とゆけのおおかみ)を招き 度会の山田原に立派な宮殿を建て 祭祀を始められたものです その際の遷座先も゛元伊勢゛とも呼びます
元伊勢伝承は 『皇太神宮儀式帳』・『止由氣宮儀式帳』や『古語拾遺』・『延喜式』などの所伝から派生しています
詳しくは゛元伊勢(もといせ)伝承地をたずねて゛
内宮 別宮(べつぐう)10宮
別宮とは ゛正宮のわけみや゛の意味
神宮の社宮のうち正宮に次いで尊いとされます
①荒祭宮(あらまつりのみや)〈内宮域内の別宮〉
延喜式内社 伊勢國 度會郡 荒祭宮(大 月次 新嘗)(あらまつりのみや)
・荒祭宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉
《主》天照大御神荒御魂
②月讀宮(つきよみのみや)(伊勢市中村町)〈内宮域外の別宮〉
③月讀荒御魂宮(つきよみあらみたまのみや)〈内宮域外の別宮(月讀宮境内)〉
延喜式内社 伊勢國 度會郡 月讀宮二座(荒御魂命一座・並 大 月次 新嘗)(つきよみのみや ふたくら)
・⽉讀宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉
《主》⽉読尊
・⽉讀荒御魂宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉
《主》⽉読尊荒御魂
④伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)〈内宮域外の別宮(月讀宮境内)〉
⑤伊佐奈彌宮(いざなみのみや)〈内宮域外の別宮(月讀宮境内)〉
延喜式内社 伊勢國 度會郡 伊佐奈岐宮二座(伊佐奈弥命一座・並 大 月次 新嘗)(いさなきのみや ふたくら)
・伊佐奈岐宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉
《主》伊弉諾尊
・伊佐奈弥宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉
《主》伊弉冉尊
⑥瀧原宮(たきはらのみや)(度会郡大紀町)〈内宮域外の別宮〉
⑦瀧原竝宮(たきはらならびのみや)〈内宮域外の別宮(瀧原宮境内)〉
延喜式内社 伊勢國 度會郡 瀧原宮(大 月次 新嘗)(たきはらのみや)
・瀧原宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉
《主》天照大御神御魂
⑧伊雑宮(いざわのみや)(志摩市磯部町上之郷)〈内宮域外の別宮〉
延喜式内社 伊勢國 答志郡 粟嶋坐伊射波神社二座(貞・並大)(あはしまのます いさはの かみのやしろ ふたくら)
・伊雜宮(志摩市磯部町)志摩国一之宮
《主》天照大御神御魂
⑨風日祈宮(かざひのみのみや)〈内宮域内の別宮〉
・風日祈宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉
《主》級長津彦命 級長戸辺命
⑩倭姫宮(やまとひめのみや)(伊勢市楠部町)〈内宮域外の別宮〉
・倭姫宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉
《主》倭姫命
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
宇治山田駅から 県道22号を西へ約1.8km 車5分程度
皇學院大学を目指すと 神宮徴古館があります
丁度 神宮徴古館の西側に夕日が傾いています この杜が境内です
倭姫宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉に参着
社号標には゛皇大神宮別宮 倭姫宮゛と記されます
鳥居には 神宮の鳥居特有の榊が奉られています
一礼をして 鳥居をくぐります
参道を進みます
祓所(はらえど)があります
神社の最奥の御敷地には 二重の玉垣で囲まれた社殿が建ちます
正面には 白木で作られた伊勢鳥居
お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
古殿地(こでんち)〈次回の式年遷宮の殿地となる場所〉が隣に在り
その奥には 心御柱(しんのみはしら)が立つ処に 覆屋の小さな社が20年ごとの式年遷宮を待つようにゆっくりと休んでいます
式年遷宮の後には 敷地が入れ替わります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『宇治山田市史 上巻』〈昭和4年〉に記される伝承
倭姫宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉の創建に至る詳細が 記されています
【抜粋意訳】
倭姫命奉祀
宇治山田市の今日ある所以は、遠く倭嫉命の皇大神宮を此の地に斎ひ鎭め給うたに始まる。その恩徳を論すれば正しく當地の産土神と申すも決しで誤では無い。それ故に、深く其の神徳を畏み、命の神霊を大神宮御鎭座地に奉祀して、永く敬仰の赤誠を捧げ奉らうと企てた者、古來 尠くなかった。明治二十七八年の頃、神宮宮司鹿島則文が、齋宮寮の舊趾に、神宮の別宮として倭姫命を奉祀せんことを時の政府當局に稟申したのは其の一つである。けれどもそれは遂に果し得なかった。明治三十四年三月、神宮大宮司伯僧冷泉爲紀 亦其の志を襲いで請願したけれども、それも未だ成るの期に至らなかった。然るに大正四年二月に至り、宇治山田市長福地由廉、市會の決議を以て奉祀の儀を宮内・内務両大臣に請願するに及び、民衆の肇として漸く當局の意を動すものあるに至った。
一 請願の趣旨
皇祖天照大神の御杖代として、神宮の洪基を定め、旦つ神都の根源を啓かせ給へる、倭姫命を奉祀して、永く鴻恩奉謝の途を講ぜんがため、國家的事業として、官幣社を當市に創建せられんことを請ふに在り。一 請願の理由
往昔垂仁天皇第二皇女倭姫命神勅を奉じて、皇祖天照大神の御杖代となり、大宮地を覓めんがため、諸國を遍歴し給ふや、遂に神慮に稱へる霊地を、伊勢の五十鈴の河上に発見して、此に殿宇を造営し、大神を鎭祭して、終身奉侍し、祭祀の儀禮、供御の辨備等、悉く之を創制して、範を後世に垂れ給ひたる事蹟は、史實炳焉として、其の概略は乃ち別紙に記述する所の如し。伏して惟みるに、命は九重雲深き處に生れ、至尊の鍾愛を專らにし給へる、女姓の御身を以て大宮地発見の重任に當らせ給ひ、當時人智の猶ほ蒙昧にして、交通の著し<不便なりしをも顧みず、皇祖の神霊を奉戴して、河山の跋渉に荊棘の踏破に、具に辛酸を甞め給ひ、年を閲すること數十、遷幸亦た數十ケ所に及び、遂に克く神宮鎭座の大業を成し、以て萬世不易なる皇祖奉祀の大本を確立し給ひたり、其の勲績の偉大なる、之を古來の史上に視るも、容易に其の儔を見ること能はざるべし、而るに此の命にして、今猶ほ之を恭祭すべき社殿すら備らず、從て四時奉祀の典を挙ぐるに山なきは、誠に遺憾の極にして、窃に恐懼に堪へざる所なり、仄に聞く、本年秋冬の交を以て、卽位の大典を行はせ給ひ、両陛下御同列にて、神宮親謁の盛儀を挙げさせ給ふと、是れ寔に千載一遇の好機なり、願くは此の好機を以て、命の為に一大神殿を創設し、天下萬民をして、齊しく奉齋の誠を愉すことを得せしめ給はんことを。若夫れ我が宇治山田市に在りては、命は實に二千年の昔に於て、我市繁榮の源を啓かせ給へる産土神にして、市民等が祖先以來、旦暮神宮の宮垣に咫尺して、神恩の忝きを拜することを得るものは、一に皇祖天照大神の、深遠なる霊徳に因ると謂ふと雖も又實に命が皇祖の神慮を體して、大宮地を此に定め給ひしに因らずんばあらず、是れ市民等が古來、命の鴻恩に対して、日夜奉謝の道を講じて己まざる所以なり、獨り此のみにあらず、我神都の地たる、實に命終焉の地たりしを信せすんばあらず、但だ其地点に開しては、徵證の據るべきもの少く、從て曩に明治二十三年中、當市より資料を添へて具申したる命の陵墓が、其後諸陵寮に於て、屡々踏査せられたるに拘らず、未だ決定するに至らずと雖、命が終身神宮の奉齋に從ひ給ひたることは、史籍の載する所、口説の傅ふる所、殆んど疑ふべからざるの事實なり、是れ亦我市民が、命を奉齋すべき神殿の創建に付て、特に熱中して己まざる所以なり、然り而して荏苒今日に及ぶも、猶ほ未だ、市民の独力を以て之が經営に從はざる者は、敢て忘れるにあらず、蓋命の如く、神宮鎭座の大業を成し、萬世不易なる皇祖奉祀の大本を確立し給ひたる、一大神霊を奉祀するは、當然國家のなすべき事業にして區々たる我市民の微力を以て、之に當るが如きは、寧ろ僭越の嫌あるべきを恐れたればなり、而るに今や我市民は、近く両陛下の駕を我市に抂けさせ給ひ、親しく大孝を申べ給ふの盛儀を拝せんとするに方り、之が光榮に感激すると同時に、顧みて命に対し、鴻恩奉謝の道ーも備らざるを念ひ、切情禁すること能はず、則ち此好機に於て、市内適當の地を卜し命奉就の官幣社を創建せられんことを庶幾ひ、敢て茲に赤誠を披瀝す閣下明鑑、幸へに大正聖代の餘光を拜戴することを得ん、但し宮地の選定、社殿の造営等に関しては、市民等誓て奉公の微沈を愉さんことを期す。
右之趣旨及び理由により、別紙倭姫命御事概略を添へ、市會の決議を以て、謹んで請願し奉る、希くは採納あらんことを。恐惶謹言
大正四年二月五日 三重縣宇治山田市長 福地由廉
以下略
・・・・・
【原文参照】
『宇治山田市勢要覧 昭和13年』に記される伝承
倭姫宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉の祭神 倭姫命(ヤマトヒメノミコト)について 記しています
【抜粋意訳】
(ハ) 神宮別宮 倭姫宮
祭神 倭姫命(ヤマトヒメノミコト)
倭魅宮は 両宮の中間國道に接せる倉田山に在り、命は垂仁天皇第二の皇女に在しまして、豊鍬入姫命に代りて御杖代に立たせ給ひ、天照皇大神を奉戴し ,諸國を巡幸し給ひ ,具に辛酸を甞て大和國より近江を國經て東に美濃國に至り伊勢國に御着、大御神の教のまにまに、五十鈴の川上に萬代不易の大宮を創建し給ひたる尊き女神に坐します
【原文参照】
倭姫宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)