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四至神〈豊受大神宮(外宮)所管社〉&九丈殿・五丈殿(外宮境内)
四至神(みやのめぐりのかみ)は 元々は 豊受大神宮(外宮)の神域各所〈二百除前〉に祭祀されていた四至(神域の四方の境界)を守る所管社です 中世に廃絶 近世に一所〈九丈殿南側 石畳に榊(さかき)が立つ所〉に再興されています その奥には・九丈殿(くぢょうでん)・五丈殿(ごぢょうでん)・玉串行事所〈石を敷きつめた広い石原〉があります
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下御井神社〈豊受大神宮(外宮)所管社〉(外宮境内)
下御井神社(しものみいのじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の所管社で 覆屋の中には井戸があり 外宮の祭りに供える水を汲む上御井神社の水に不都合があった場合は この井戸の御水をいただくと伝わります 元來 下御井は 多賀宮の御料水とされ 上御井神社に対し 下御井神社 又は少宮(わかみや)とも称せられます
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大山祇神社・子安神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉
大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)・子安神社(こやすじんじゃ)は 宇治橋の東詰(内側)から約五〇メートル 神宮司廳の南側(内宮境内)に鎮座する皇大神宮(内宮)の所管社です 鎌倉時代初期の(1192年)『建久三年皇太神宮年中行事』には記載のある古社です
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四至神〈皇大神宮(内宮)所管社〉&五丈殿(内宮境内)
四至神(みやのめぐりのかみ)は 皇大神宮(内宮)所管社で『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉の「一、年中行事幷月記事の條」に゛宮廻神百二十四前を祭る゛ことが二月十三日・六月・九月の十八日に記され 古くからの神であることが分ります 五丈殿(ごじょうでん)は 雨儀の時に祓の行事等の行われる所です
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御稲御倉〈皇大神宮(内宮)所管社〉&外幣殿(内宮境内)
御稲御倉(みしねのみくら)は 神宮神田から収穫した抜穂(ぬいぼ)〈三節祭で大御饌(おおみけ)として神前にお供えされる〉御稲が納められます 祭神は御倉の守護神とされ 皇大神宮(内宮)の所管社です その少し北側には かつて天皇以外のものから奉られた幣帛も納めた外幣殿(げへいでん)があります
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滝祭神〈皇大神宮(内宮)所管社〉(内宮境内)
滝祭神(たきまつりのかみ)は 社殿を持ちませんが『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛瀧祭神社(たきまつりのかみのやしろ)゛と載せられている古社です 格式は 皇大神宮(内宮)所管社とされていますが 神饌は別宮に准じられ 幣帛は攝社格に據って祭祀されています
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打懸神社〈豊受大神宮(内宮)末社〉
打懸神社(うちかけじんじゃ) は 撫懸(ナデカケ)社とも呼ばれます 豊受大神宮(外宮)の末社で『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』には〈延暦23年(804)〉には゛打懸社゛と載る古社です 中世に廃絶して旧跡地は不明でした 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果〈志等美神社・大河内神社〉が再興された地の横に遷座されました
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賀多神社(鳥羽市鳥羽)
賀多神社(かたじんじゃ)は 聖武天皇の神亀元年(724)の御鎮座と云い 古くは八王子社と称されていましたが 明治四年(1871)郷社 賀多神社と改め 明治四十年に近郷の十二社を合祀して今日に至っています 豊受大神宮(外宮)末社の赤崎神社の旧跡とも伝わっています
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赤崎神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉
赤崎神社(あかさきじんじゃ) は 豊受大神宮(外宮)の末社です 建久年間(1190~1199年)の皇太神宮年中行事〔贄海神事 六月十五日條〕に゛悪志(アクシ)・赤崎(アカサキ)加布良古(カブラコ)明神を祭る゛と記されています 御祭神は 荒崎姫命(あらさきひめのみこと)贄海〈海の海産物を捧げる〉の守り神とされています
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伊我理神社〈御同座 井中神社〉〈豊受大神宮(外宮)末社〉
伊我理神社(いがりじんじゃ)は 『止由気宮儀式帳〈延暦23年(804)〉』に記載のある古社〈豊受大神宮(外宮)末社〉です 中世に頽廃しますが 寬文三年 (1663)舊地に再興されました “鍬山伊賀利神事”に深く関わりがある伊我理比女命が祀られています 御同座するのは 同じく(外宮)末社の井中神社(いなかじんじゃ)が坐ます
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御鹽殿・御塩殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉
御塩殿神社(みしおどのじんじゃ) 〈皇大神宮(内宮)所管社〉は 元来 御酒殿神又は由貴御倉神と同じく 独立の神殿を設けず 御鹽殿内に奉祀されていました 後世に至り 別に神殿を造立し 現狀と為します 御塩殿(みしおどの)では 三角錐の土器型に荒鹽(あらしお)を入れ 忌火で焼き固めた堅鹽(かたしお)を作り これを御鹽(みしお)と云い 神宮に調進します
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大津神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉
大津神社(おおつじんじゃ)〈豊受大神宮(外宮)末社〉は 明治六年(1873)現在地〈外宮宮域内〉に新たに社殿を設け再興されました その際 旧鎮座地を搜索しましたが ゛雖も猶明かならざるを以て そのままゝ今日に至れり゛とあり 旧鎮座地は不明のまま 現在に至っています
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宇治神社&足神神社(伊勢市宇治今在家町)
宇治神社(うぢじんじゃ)は 創祀について古来二説あり 一つは那自賣神社〈皇大神宮(内宮)末社〉の跡地に土地の神を祀ったというもので 宇治橋の鳥居から約350mと内宮のすぐ近くに鎮座します 境内には 葦立弖(あしたて)社〈皇大神宮(内宮)末社〉に擬したされる゛足神さま゛〈足神神社〉足腰の病にご利益があり 内宮を参拝したあとに詣でる人が後を絶ちません
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饗土橋姫神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉&宇治橋
饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)は 宇治橋の守護神〈宇治橋より惡しきものが入らざるように 橋の守護の神〉宇治橋鎮守神(うじばしのまもりのかみ)を齋き祭った皇大神宮(内宮)所管社で 社號゛饗土(あえど)゛は 内宮の宮域四方の境に悪しきものが入ってこないよう 防ぎお祭りする土地の意〉宇治橋の対面〈西側〉鎮座します
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鏡宮神社〈皇大神宮(内宮)末社〉
鏡宮神社(かがみのみやじんじゃ)は 朝熊神社の御前神゛御神鏡゛〈岩上二面神鏡霊(いはのうえふたつのみがみのみたま)〉を鎮祭する皇大神宮(内宮)の末社です かつて二面の神鏡は 二つの川の合流点にある神聖な岩の上に祀られていた〈虎石(とらいし)〉(神域内〈朝熊川の岸〉木柵の中にある)とも〈潮干石(しほひいし)(五十鈴川の川中にある)とも伝わります
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倭姫宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉
倭姫宮(やまとひめのみや)は 倭姫命(やまとひめのみこと)を祀るために 大正12年(1923)新しく創建された皇大神宮〈内宮〉別宮です 倭姫命は 2000年以上前に天照大御神の御鎮座の地を求め各地を巡幸された時 御神託を受けて伊勢に来られ 現在の五十鈴川のほとりに皇大神宮(内宮)を創建された 第11代 垂仁天皇の第二皇女です 伝説の初代 斎王(さいおう)でもあります
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土宮〈豊受大神宮(外宮)別宮〉
土宮(つちのみや)は 外宮鎮座以前から山田原に祀られていた鎮守神でした 外宮が鎮座した後 宮域の゛地主神゛となり その後 大治3年(1128)宮川の洪水から外宮を守る堤防の守護神として゛別宮゛に昇格しました ご祭神は大土乃御祖神(おほつちのみおやのかみ)で 神域内の御池にかかる「亀石」を渡った西側に 他の宮とは異なり〈外宮鎮座以前の姿のまま〉社殿は東を向き鎮座します
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風宮〈豊受大神宮(外宮)別宮〉
風宮(かぜのみや)は 鎌倉時代 蒙古襲来・2度の元寇(1274年文永の役・1281年弘安の役)の時 伊勢の神風を吹かせ給い 国難を救ったと伝えられ 皇大神宮(内宮)の風日祈宮(かざひのみのみや)とともに 末社の格「風神社(かぜのかみのやしろ)」から 正応6年(1293)豊受大神宮(外宮)別宮に昇格し゛風宮゛と号します
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風日祈宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉
風日祈宮(かざひのみのみや)は 鎌倉時代 蒙古襲来・2度の元寇(1274年文永の役・1281年弘安の役)の時 伊勢の神風を吹かせ給い 国難を救ったと伝えられ 豊受大神宮(外宮)の風宮(かぜのみや)とともに 末社の格「風神社(かぜのかみのやしろ)」から 正応6年(1293)皇大神宮(内宮)別宮に昇格し゛風日祈宮゛と号します
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お伊勢さん125社について
゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉