伊雑宮(志摩市)

伊雑宮(志摩市)は 謎多き「志摩國 一之宮」とされています 伊勢の別宮としての高い格式も持ち「遙宮(tono miya)」と尊崇を集めます 「懸税(kake chikara)神事」の発祥の地として 御田植式(otaue shiki)があり 香取神宮・住吉大社とあわせて日本三大植祭の一つとされています

目次

ご紹介(Introduction)

【神社名】(shrine name)

 伊雑宮(izawa no miya)
  いざわのみや

【通称名】(Common name)

・遙宮   (tono miya)
・いぞうぐう(izo gu)
・磯部の宮 (isobe no miya)
・磯部の大神宮さん(isobe no daijingu san)

【鎮座地】(location) 

三重県志摩市磯部町上之郷374

【地 図】(Google Map)

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho  

(927年12月完成) The shrine record was completed in December 927 AD. 
「旧国名 郡・神社名」「old region name・shrine name」

※伊雑宮(izawa no miya)は 二つの式内社の論社となっています

①『 志摩國  答志郡   粟嶋坐 伊射波神社 二座 並大 』
 shima no kuni toshi gun  
  ahashima no isaha no kaminoyashiro futaza narabi tai

➁『 志摩國  答志郡   同嶋坐 神乎多乃御子神社 』
 shima no kuni toshi gun 
  onashikishima ni masu kamu wotanomiko no kaminoyashiro

【御祭神】(God's name to pray)

《主》 天照皇大神荒御魂(amaterashimasu sume omikami no mitama)
《配》 玉柱屋姫命(tamahashiraya hime no mikoto)
   (別名=伊佐波登美神(izawa tomi no kami)

【御神格】(God's great power)

・海上安全 Maritime safety
・大漁満船 Good harvest and big catch
・五穀豊穣 Pray for good harvest
・等 etc

【格式】(Rules of dignity)

延喜式内社 大社 (engishikinaisha taisha)
志摩國 一之宮 (shima no kuni ichi no miya)
皇大神宮 別宮 (kotaijingu wakare no miya)

【創建】(Beginning of history)

神宮の別宮としての位置づけでは 創建は「延暦二十三年(804年)以前」と伝えられますが 謎が多く残されて定かではありません

【由緒】(history)

ご鎮座の由緒と歴史

当宮の創立は、約二千年前、第十一代垂仁天皇の御代といわれます。

「倭姫馳世記」は、皇大神宮ご鎮座の後に御贅地を定めるため倭姫命が志摩国を巡行された後、伊佐波登美命が豊かな稲を奉り、この地に神殿を造営したと伝えます。

また、延暦二十三(八〇四)年朝廷に提出された「皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)」にも宮名が見えることから、少なくともそれ以前から神宮の別宮として位置付けられていたと考えられます。

志摩地方は奈良時代以前から 海洋部族である磯部氏の根拠地であり、彼らがお祭りしていた神の社と、当宮との関係については様々な説が挙がっていますが、いつから朝廷が関わることになったかなどは未だ明確ではありません。

鎌倉時代に編集された『吾妻鮨』には、源頼朝が神宮に祈願した際、神馬(しんめ)を伊雑宮に贈ったと記されています。
この頃、神領を守るため、伊雑御浦惣検校職(いざわおうらそうけんぎょうしょく)が置かれましたが、室町時代以降は力が衰え、江戸時代初頭、二度の仮殿遷宮は、磯部の郷人の手によって行われました。

中世になると伊雑宮にも御師が現れ、明応から慶長(一四九二~一六一五)の頃には檀那(特定の寄進者)を持つに至りました。
やがて、伊雑宮の神格を高めようと、磯部の御師の間に、内外両宮は伊雑宮の分家であるという主張が生まれます。

『日本書紀』にある「磯宮」、『倭姫命世記』の「伊苑宮」などが伊雑宮であるとの説を立て、神訴に及ぶことが重なりましたが、明暦四年(一六五八)朝廷からの綸旨・裁決によって伊雑宮は内宮の別宮と定められました。

地元の人々との長く深い関わりにより、伊雑宮には 高欄を巡らし金銅飾金物を奉飾するなど他の別宮とは異なる点がありましたが、明治四十二年(一九〇九)度の遷宮から他の別宮と同じ建築様式に改められました。

「神社パンフレット」から参照

【境内社】(Other deities within the precincts)

【所管社】
・佐美長神社     《主》大歳神(otoshi no kami)
・佐美長御前神社 四社《主》佐美長御前神(saminagamimae no kami)
 又は 地神「伊佐波登美命」とその子孫とも伝わる

伊離宮所管社 

佐美長神社   さみながじんじゃ
佐美長御前神社 さみながみまえじんじゃ

 伊雑宮より約800メートル南に ご鎮座する佐美長神社は、大歳社(おおとしのやしろ)または穂落社(ほおとしのやしろ)とも称され、大歳神(おおとしのかみ)(五穀の神)をお祭りしています。

倭姫命がご巡行を経て、鳥の嗚く声が止まないので従者に見に行かせると、葦原の中に根本は一本で穂が幾重にも分かれて成る稲があり、一羽の真名鶴(まなづる)がその穂をくわえて飛びながら嗚いていました。
この鶴を大歳神と崇めて、この地にお祭りしたとの伝えが残ります。

今も地主の神として崇められ、地鎮(とこしずめ)等の信仰があります。

同社の御前には、佐美長御前(さみながみまえ)神をお祭りする佐美長御前神社の小祠四社が並んでいます。

「神社パンフレット」から参照

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【この神社の予備知識】(Preliminary knowledge of this shrine)

古来 海洋部族である磯部氏との関わりから成立したとも言われ 海女など漁労関係の崇敬は篤くつづいています

「志摩國 一之宮(shima no kuni ichi no miya)」であり 皇大神宮の別宮(wakare no miya)でもあります
古来より「遙宮(tono miya)」と呼ばれ 10社ある内宮の別宮(wakare no miya)の中でも 瀧原宮(takihara no miya)と共に尊崇を集めてきました

伊雑宮 いざわのみや

伊雑宮は「いぞうぐう」とも呼ばれ、三重県志摩市にご鎮座される、皇大神宮の別宮です。

「万葉集」に大伴家持(おおとものやかもち)の「御食(みけつ)国 志摩の海人ならし真熊野(まくま)の小船に乗りて沖辺漕(おきべこ)ぐ見ゆ」の歌が残るように、
志摩地方は、風光麗しく海産物に富み、古くから朝廷と神宮の御料を貢進した御食(みけつ)国として知られ、『古事記』にも「島の速贅(はやにえ)」(志摩から朝廷に納められる初物の海産物)として登場します。

伊雑宮も古くから、皇大神宮の「遙宮(とおのみや)」として広く信仰を集め、また地元の人々によって海の幸、山の幸の豊饒(ほうじょう)が祈られてきました。

「神社パンフレット」から参照

※「延喜大神宮式」には 幣帛を「祈年・月次・神嘗」の御祭に備えよとあり
現在も祈年祭・月次祭・神嘗祭・新嘗祭には 皇室から幣帛が奉られます

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0281-002905&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%BB%B6%E5%96%9C%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%BC%8F%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=1画像利用 国文学研究資料館「延喜大神宮式」より

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

『倭姫命世記(yamatohime no mikoto seiki)』 伊雑宮(izawa no miya)「伊佐和」にある「懸税(kake chikara)神事」について

(神嘗祭に初穂の稲束を伊勢神宮の内玉垣に懸けて 国の永遠の繁栄を祈る)


「倭姫命世記」の神話によれば

倭姫命(yamatohime no mikoto)は 
第10代崇神天皇(sujin tenno)の御代 35年に渡り各地を巡り 
第11代垂仁天皇(suinin tenno)御代 26年に 皇大神宮 別宮(内宮)を定められた

その翌年のこと 鳥が大きな声で鳴きましたので 
大幡主命(ohatanushi no mikoto)・舎人紀麻良(miyatsukoki no maroyoshi)を派遣させ調べてみると 

志摩国の「伊佐和」伊雑(磯部町あたり)の沢で 葦原の中に 根本は一本で穂が幾重にも分かれて成る変わった稲があり 
一羽の白い真名鶴(mana zuru)が その穂をくわえて飛びながら嗚いていました

それを 伊佐波登美神(izawa tomi no kami)に抜穂させて 
伊勢神宮の御前に懸けさせた 伊雑には 摂宮(伊雑宮)を設けたとあります

そして その翌年の秋には 
真名鶴(mana zuru)が 皇太神宮(内宮)に北の方から飛んできて日夜鳴いている
倭姫命(yamatohime no mikoto)が 調べさせ「佐佐牟江宮の前の葦原」に 同じように 根元が一本で八百の穂がある稲をくわえて鳴いていた

吉祥のしるしとして 皇太神(amaterasu omikami)の御前に懸けさせて 真名鶴(mana zuru)のいた地に 八握穂社を造らせた

「懸税(kake chikara)神事」は 
真名鶴(mana zuru)によって 伊雑と多気の「遙宮(tono miya)」で見つかった不思議な稲から発祥したとしています

伊佐波登美神(izawatomi no kami)が 抜穂にして神宮に献ったという その場所に祭られた「伊佐波登美之神宮」が 伊雑宮(izawa no miya)のことです

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038468&ID=&TYPE=&NO=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブ 「倭姫命世記」

延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)の所載について ※伊雑宮(izawa no miya)は 二つの式内社の論社となっています

①『 志摩國  答志郡   粟嶋坐 伊射波神社 二座 並大 』
 shima no kuni toshi gun  
  ahashima no isaha no kaminoyashiro futaza narabi tai

「粟嶋坐 伊射波神社」には 有力な論社としては 計2社あります

・(論)伊射波神社《主》稚日女尊・伊射波登美命・玉柱屋姫命・狭依姫命
           三重県鳥羽市安楽島町

・(論)伊雑宮 《主》天照皇大神荒御魂
        《配》玉柱屋姫命(別名=伊佐波登美神)  (当社)
           三重県志摩市磯部町

➁『 志摩國  答志郡   同嶋坐 神乎多乃御子神社 』
 shima no kuni toshi gun 
  onashikishima ni masu kamuwotanomiko no kaminoyashiro

「同嶋坐 神乎多乃御子神社」には 論社としては 計2社あります

・(論)伊雑宮 《主》 天照皇大神荒御魂
        《配》玉柱屋姫命(別名=伊佐波登美神)  (当社)
           三重県志摩市磯部町

・(論)佐美長神社《主》大歳神(otoshi no kami)     (当社所管社)
           三重県志摩市磯部町

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442211/160画像利用 国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 : 校訂. 上巻(昭和4至7)

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【神社にお詣り】(Pray at the shrine)

近鉄上之郷駅より徒歩3分です
車では 伊勢道伊勢ICより県道32経由 磯部方面へ30分 案内板がありスムーズです 境内入口の手前に駐車場があります

「伊雑宮(izawa no miya)」に到着

石垣に囲まれた境内の入り口には「皇大神宮別宮 伊雑宮」と書かれた白い社標があります
目の前には 素朴で味わいのある白木の「神明(shimmei)鳥居」があり 一礼してくぐりますと

最初に目に飛び込んでくるのが「奉献酒の樽酒」見事に並びます  左に神宮御料酒「白鷹」 右には「沢の鶴」

「沢の鶴」の樽酒の横に看板があり 興味深い「酒銘のエピソード」が書かれています

酒銘「沢の鶴」は、

その昔 米屋喜兵衛が志摩の国 伊雑の宮にお参りしたとき、

伊雑の宮縁起を拝見し、

「天照大神を山田の宮へお祭りしたとき 伊雑の沢に一羽の鶴がたわわに実った稲穂をくわえて翔んできました。
そこで乙女に命じて その稲から美酒を 醸させ天照大神に献上しました。」との言葉にいたく感激し、これに ちなんで名づけられたと伝えられています。

「立て看板」から参照

奉献酒「白鷹」樽酒の先 左側に「手水舎」があり 清めます

奉献酒「沢の鶴」樽酒の右側に「宿衛屋(shuku eiya)」があり ご朱印やお守りは ご参拝後にお受けできます(パンフレットも頂けます)
ここから参道は 一筋に伸びています 入らずの森がトンネルのように暗くてなっていて 外から中の様子は見えませんが 参道を歩くと 何故か明るく不思議なところです

歩きますと左側に「倭姫命(yamatohime no mikoto)」も飲んでおられたと伝わる 白木の柵(saku)と蓋(futa)で ご神域として囲われている井戸があります
すぐ傍に「忌火屋殿(imibiya den)」もあり この井戸の水は神聖な水なのだとおもわれます

参道の右側には「忌火屋殿(imibiya den)」があります 「忌火」は「清浄な火」を意味して 神宮では神饌をととのえるために木と木とこすり合わせた摩擦熱で火を起こしますので「忌火屋殿(imibiya den)」は「天照大御神の台所」ともいわれています

内宮と同様に「祓所(harae do)」と呼ばれる前庭があり 祭典の前には ここで神饌と神職が祓い清める神聖な場所もあります
別宮(wakemiya)の中で「忌火屋殿(imibiya den)」「祓所(harae do)」があるのは 唯一この宮だけで 特別なものを感じます

右手の奥には 本殿と拝殿があります

神宮では 20年に1度「式年遷宮(shikinen sengu)」があり 
第62回式年遷宮が 平成25年秋に両正宮で行われ 伊雑宮(izawa no miya)では 平成26年秋に式年遷宮が行われました

「遷宮(sengu)」とは宮を遷すことを意味して 東と西に並ぶ宮地を都度改めます 
古例のままにご社殿や御装束神宝(on shozoku shimpo)をはじめ全てを 新しくして 大御神にお遷りいただくお祭りです

伊雑宮(izawa no miya)の「遷宮(sengu)」でも 東と西に並ぶ宮地が改められて お遷りされます 

現在は「西側が御敷地(mi shikichi)」・「東側は古殿地(koden chi)・新御敷地」です
before and afterの写真をご覧ください

拝殿に進み 賽銭をおさめ お祈りです

《主》 天照皇大神荒御魂(amaterashimasu sume omikami no mitama)
《配》 玉柱屋姫命(tamahashiraya hime no mikoto)
   (別名=伊佐波登美神(izawatomi no kami)

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

参道を戻りながら 境内の「勾玉池(magatama ike)」を眺め 先程から気になっている「楠(kusunoki)」に目が留まります
必見の価値 伊雑宮(izawa no miya)の「巾着楠(kinchaku  kusunoki)」

別名「巾着楠(kinchaku  kusunoki)」は 樹齢700~800年と言われています その根元は 巾着の様で どうみても ご神威のなせる業です 見応え十分で 宿衛屋(shuku eiya)の横にあります

ご朱印やお守りを受けようと宿衛屋(shuku eiya)へ向かい
鳥居をくぐり 振り返り一礼

歩いて駐車場のすぐ隣にあるのが

「磯部の御神田(o mita)」

「御田植式(otaue shiki)」(国指定 重要無形民俗文化財)の神事が行われる「磯部の御神田(o mita)」に到着

隣接する御料田(goryo den)は 6月24日に御田植式(otaue shiki)があり 香取神宮・住吉大社とあわせて日本三大植祭の一つとされているとのこと

「黒木鳥居(kuroki torii)」が「磯部の御神田(o mita)」正面に立っています 
樹皮のついたままの丸太で造る簡素な鳥居です 原始的ですが「大嘗祭(daijiyo sai)の悠紀(yuki)殿」にも使われています

この「黒木鳥居(kuroki torii)」は 神宮の神殿がない場所での神事(大神の御贅地のような場所) 
例えば 御塩殿神社(mishio dono jinja)の御塩田・御料鰒調製所 等の場所には建っています 下の写真です

原始的な「黒木鳥居(kuroki torii)」も「伊雑宮(izawa no miya)」の謎の深さを慮ります

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【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)

「御田植式(otaue shiki)」にまつわる民話「七本鮫」

御田植式(otaue shiki)祭の6月24日 この日には伊雑宮へ“七本鮫”と呼ばれる七匹の鮫が 的矢湾から神路川を遡って大御田橋のところまで 参詣に来るいう言い伝えがあります


賢い魚の“七本鮫”は 通りながら「今日はお日柄もようて 磯部さんも 大にぎわいですな」と言っては 挨拶をしながら詣でたと云う 
ところがある年のこと 一人の漁師が 磯部さんのお詣りをすませた お帰りの鮫を見つけて 銛(mori)を打って殺してしまった 
残りの鮫たちは とても怒って かたきを討ち この漁師をかみ殺しました

それから残された 六匹の鮫は いまでも 大御田橋から 蟹や蛙に化身して 磯部さんに 毎年お参りに来るという


『伊勢・志摩の民話 (日本の民話 ; 第31) 』倉田正邦 編 未来社, 1961

この民話の故事にならうかのように 御田植式(otaue shiki)祭の6月24日の当日は 伊雑宮へ“七本鮫”がお詣りするので 御祭(gosai)と言い 海女(ama)は 潜(kazuki)を禁忌とされていて 志摩の海女(ama)たちが海に入ることを忌むとしています

25日を「もどり御祭(gosai)」その前後を御祭(gosai)日としている地区もあるようです
ですから 当日は 海女(ama)は「磯部の宮(isobe no miya)」へお参りする習慣となっているそうです

この“七本鮫”は 伊雑宮の使いと云われたり 龍宮の使いと伝える説もあり 志摩のいくつかの漁村に残されていると伝わります

「伊雑宮(izawa no miya)」の成立が 古来 海洋部族である磯部氏との関わりからと言われる所以とも繋がっていそうですね

「いそこ大神さん」と 民話「竜宮(ryu gu)へ行ってきた海女(ama)」

 


伊勢・志摩の民話 (日本の民話 ; 第31) 倉田正邦 編 未来社, 1961

 

竜宮(ryu gu)へ行ってきた海女(ama)

昔 阿苔(anori)の瓦屋の婆さんが「潜(kazuki)」に行ったまま帰らなかった 村の者は あちこちの海を探したが 行方が分からず諦めておった

瓦屋では 七日目に葬儀して供養をすませました

それから暫くした時 漁師が「おおぐら島」(安乗崎の先にある岩礁)で「むつ( mutsu)」釣りをしていると 海の中から「おーい・おーい」と声がする見回すと 海女の磯桶が浮いてきた はてなと思っていると

続けて「助けてくれー・助けてくれー」と叫ぶ声が聞こえたので 漁師は驚いてしまいます すると「驚かんでもえー・わしゃー瓦屋の婆じゃ」と言いうではありませんか

漁師は 婆さんを船に乗せて 連れ帰ってきます すると婆さんは その手に「小さな桐の箱」を持っていました 

婆さんが言うには「おおぐら島」から40~50間(だいたい80m程)の海の底に「石の鳥居」があってのう そこを通って「いこそ大神」(海の磯部の宮)のところへ行ったところ そうしたら この「小さな桐の箱」をくれたのだと

中を開けずに大切に持っていれば 代々家は繁盛するが もしも箱を開けたら家に祟りがある(開けると七代のあいだ 盲目(mo moku)の子が生まれてくる)とも言われたいう

これを聞いた村人たちは「小さな桐の箱」の中を見たくて仕方ない 婆さんに見せてくれと何度も頼みましたが 婆さんは祟りも恐いので決して開けずにいたところ

この話を聞きつけた庄屋(shoya)が 瓦屋の婆さんのところにやって来て言う
「海に行ったまま もう戻らないかと思っていたが よく無事で上ってきて喜ばしいことじゃ なんでも婆さんは「小さな桐の箱」を持って来たそうじゃが いったい何が入っている?」

「いこそ大神さん」に『開けるのではないぞ 開けたら大変な目に会うぞ』と言われたので 開けずにいると答えると

「ほう それは どんな目にあうのか?」
「ちょっとでも開ければ 七代のあいだ盲目の子が生まれるそうじゃ」

「ならば みんなの前で開けたらどうじゃ? そうなら みんなに当たるから 大丈夫でねえか?」
「うん そうは言うけれど・・・」

庄屋(shoya)と問答(mondo)があり 瓦屋の婆さんは とうとう「小さな桐の箱」を開ける事にしました

皆が止めるのも聞かずにフタを開けたところ
「小さな桐の箱」の中から大きな蚊帳(kaya)が出てきて みるみるうちに八畳の部屋いっぱいに広がってしまいました

村人たちは 驚いて見とれてしまいます すると婆さんが いないのです

「おいおい ばあさんや?」

皆が婆さんを探しまわると 婆さんは 布団の中へ体を丸くして隠れていました

「婆さんよ あの蚊帳は なんとか元通りにならんかなあ~」
「それ見たことか だから箱を開けたらあかんと あんなに言ったのに」

「あの「小さな桐の箱」から こんなに大きく出てくるとは思わんかったからな~」
庄屋(shoya)は どうしたらええのかのう?と腕を組んでしまい 村人たちも 困ってしまいました

瓦屋の婆さんが
「海の底の「いこそ大神」に行くのはもうごめん 陸の磯部(iso be)さんに行ってお頼みしてこよう」

皆も賛成し 婆さんが行くと 磯部(iso be)さんが「桐の小箱と蚊帳を持って来い」と言われましたので

皆が相談の上 小箱と蚊帳を「いこそ大神」に奉納しました

「海の底の「いこそ大神」さんの言われることを聞かないから こんな事になったのじゃ」と磯部(iso be)さんは婆さんをしかりつけたのです
それ以来 その土地に住む者も不幸が続き 瓦屋は途絶えて その家を買い受けた家も繁盛しなかったという

話の舞台となっている阿苔(anori)「安乗(anori)」は 
古代より紀伊半島経由で西に向かう航海上では 鳥羽の菅島から大王埼までの この海域は 暗礁もあり難所でもあった所で 海上交通の要所として 古代の遺跡もあり 海洋部族である磯部氏の拠点のひとつだったようです

安乗(anori)崎沖の岩礁(おおぐら島)近くの海底には 鳥居に似た岩があって 伊雑宮(izawa no miya)の鳥居だったと伝わっていて 
又 伊雑宮(izawa no miya)の宝物の一つには 玉手箱があるとも言われています

「龍宮伝説」と「玉手箱」は 古代の海洋民族の神話には 特有のものですが
「伊雑宮(izawa no miya)」も古来 海洋部族である磯部氏との関わりから成立したとも言われていて いまでも海女など漁労関係の崇敬は篤くつづいています

志摩の国は「海の神」と「稲作の神」が融合した地なのでしょう「懸税(kake chikara)神事」の発祥を今に伝える「伊雑宮(izawa no miya)」に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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