延喜式神名帳
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都々古別神社(棚倉町八槻)〈『延喜式』都都古和気神社(名神大)〉陸奥国一之宮
八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)は 縁起では 日本武尊が 八溝山の蝦夷を討った際 守護として示現した3神が建鉾山(白河市表郷三森)に隠れた時 東方に矢を放ち 矢(箭)の着いた地を(箭津幾:やつき)として神社を創建したと伝わる 奥州一之宮です 久慈川沿いに並び鎮座した近津三社の〈上宮〉とされます
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都都古和氣神社(棚倉町大字棚倉字馬場)〈『延喜式』(名神大)都都古和氣神社〉
馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)は 歴史は古く『延喜式神名帳』に所載される陸奥国一之宮です 日本武尊が都々古山(つつこやま)〈江戸期までは入山禁足〉に鉾を立て味耜高彦根命を祀ったのが創祀 その後 大同2年(807)坂上田村麻呂公が 日本武尊を相殿に配祀 後 現在地(馬場)に寛永2年(1625)遷座と伝わります
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海神社(隠岐 西ノ島)
海神社(かいじんじゃ or うみじんじゃ)は 本殿背後に古墳もあり 古くからの社地と思われますが 創立年などは不詳です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載社とされていて 近世になって江戸時代には 別府村の「六社大明神(rokusha daimyojin)」と称されていました
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渡津神社(隠岐 知夫里村 島津島)
渡津神社(わたつじんじゃ)は かつては「地触神 ちぶり神」「道路(海路)の神様」すなわち「道触の神:ミチブルのカミ」が祀られていました 渡津神社が鎮座する「知夫里」は 隠岐諸島のうちで 最も本土に近く 隠岐に渡航する門戸にあたり 古来 日本海の航行の船舶が必ず寄港する所でありました この神と渡津の海の様子は「紀貫之(きのつらゆき)」の『土佐日記』にも詠われています
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幣之池神社(隠岐の島町 都万)
幣之池神社(しでのいけじんじゃ) は 『延喜式神名帳』所載社の「天健金草神社(amatake kanakaya shrine)」の元宮とされています 御祭神の「抓津媛命(tsumatsuhime no mikoto)」は 佐山の湧泉「幣(shide)の池」のほとりに居を構えたと云われ 清冽な水源地に祠が鎮座する古社です
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天健金草神社(隠岐の島町 都万)
天健金草神社(あまたけかなかやじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載されている古社です 伝説によれば 延喜6年(906年)には「台風をおこして新羅の船を退けた」と伝え また第96代 後醍醐天皇が 隠岐在島中に使いを立てて還幸を祈願したところ 脱出がかなったといわれる由緒ある神社です
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玉若酢命神社(隠岐の島後 隠岐の島)
玉若酢命神社(たまわかすのみことじんじゃ)は 隠岐の開拓神とされている「玉若酢命」を祀る神社です 本殿は「隠岐造り」で 随神門 旧拝殿 ともに国指定重要文化財に指定されています 境内には「八百杉」と呼ぶ樹齢千数百年の杉の巨木が存在しています 隣接するのは社家である「億岐家住宅・宝物殿」には 国指定重要文化財の「駅鈴2個」と「億伎倉印1個」が保管されています
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水若酢神社(隠岐の島後 隠岐の島)
水若酢神社(みずわかすじんじゃ)は 創建は 第10代崇神天皇の時代と云われ 隠岐国の一之宮 隠岐の島町(島後)の五箇地区に鎮座し 老いた黒松の生える境内が美しい古社です 御祭神の水若酢命(mizuwakasu no mikoto)は 隠岐国の国土開発と日本海鎮護の神であったと伝承されています
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由良比女神社(隠岐の島前 西ノ島)〈隠岐国一之宮〉
由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)は 伝説では由良比女命が海を渡る時 海に手をひたすと 美しき姿を見て「いか」が噛みついた その非礼をわびて 毎年 由良の浜に「いか」が群れで押し寄せると伝わります 当社が〈西ノ島の由良の浜に神社が遷座後〉もとの鎮座地 知夫里島の「いか浜」には「いか」は寄らなくなったと伝えられます
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廣峯神社(姫路市広嶺山)〈全国にある牛頭天王の総本宮〉
廣峯神社(ひろみねじんじゃ)は 奈良時代 天平5年(733)遣唐使として中国から帰国した「吉備真備 公」は 国家の為に陰陽道(天文・暦・気象を司り、国の吉凶を見定める)を習得され 奈良へ帰途の折 広峯山系の白幣山に登臨「牛頭天王の信託を感受」する この旨を第45代聖武天皇に奏上し 翌年に廣峯神社の大社殿が造営されました
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素盞嗚神社(福山市新市町)
素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)は 『備後国風土記(bingo no kuni fudoki)』逸文の「蘇民将来(somin shorai)」の説話の舞台となる伝説の地と伝えられています 説話に登場する「疫隈國社(eno kumano kunitsu yashiro)」が当社とされ もしくは 摂社の「蘇民神社・疱瘡神社」とされています 全国の「祇園社の始りの地」とされ 京都の八坂神社の源流もこの地と云われています『延喜式神名帳』所載社であり 「備後国一之宮」ともされる由緒ある格式の高い神社です
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石上神宮(天理市布留町)
石上神宮(いそのかみじんぐう)は 『古事記』『日本書紀』にも 石上神宮と記されています この当時「神宮(かみのみや)」と称されているのは 伊勢神宮と石上神宮だけです 記録の上では日本最古設立の「神宮」とされています 伊勢神宮の古名は「磯宮(isono miya)」で「isono kami」とは何らかの関係があるのかもしれません
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石上布都魂神社(赤磐市)
石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)は 神話で有名な八岐大蛇を退治した剣「十握剣(totsuka no tsurugi)」に宿る神霊「布都御魂(futsu mitama)」を祀っていました 現在の御祭神は 素盞嗚尊(susanowo no mikoto)です
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上一宮大粟神社(名西郡神山町神領字西上角)〈阿波国一之宮〉
上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)は 御祭神として 古事記に記載されている゛大宜都比売命(おほげつひめのみこと)゛を祀ります 粟国(阿波)を開かれた祖神で 五穀養蚕の神として 古代から農耕を守り生命の糧を恵みむ神で 式内社 天石門別八倉比売(あめのいわとわけ やくらひめの)神社(大月次新嘗)の論社です
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小國神社(周智郡森町一宮)〈延喜式内社・遠江國一之宮〉
小國神社(おくにじんじゃ)は 遠江国一之宮で御霊顕(ごれいけん)あらたかな社として 大国主命を祀ります 社名の「小國(おくに)」の語源は 大國神を祀るきれいな場所と云われ 許当麻知神社(ことまち=願い事を待つ)・事任神社(ことのまま=願い事のままに)とも称されていました
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一宮神社(徳島市一宮町西丁)〈阿波国一之宮〉
一宮神社(いちのみやじんじゃ)は 元々は阿波国一之宮であった上一宮大粟神社(名西郡神山町)の分祠として 平安時代後期に国府の近くであったこの地に下一宮として祀られて 阿波国一之宮とされていました しかし 室町時代以降は 細川氏の台頭とともに 大麻比古神社が阿波国一之宮となっていきます
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大元神社(宇佐神宮 奥宮)
大元神社(おおもとじんじゃ)は 宇佐神宮の奥宮といわれ 神代の昔に 三柱女神の比賣大神が降臨された神山「御許山(omoto san)」の9合目に鎮座します 山頂近くには3つの巨石を祀る神籬岩があるらしく 古代の磐座信仰が当初の形態ともいわれています
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石體神社(鹿児島神宮の元宮)
石體神社(しゃくたいじんじゃ)は 遠く神代の頃 天津日高彦穂穂出見尊が 築かれた都「高千穂宮」の正殿跡と伝わります 皇后の豊玉比売命のお産の故事にあやかり 古くから安産の神として 篤い信仰があります 飛鳥時代 和同元年(708)に この地から遷座したのが 現在の鹿児島神宮と云われていて その元宮であるとされます
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大分八幡宮(飯塚市大分)
大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)は 古代に神功皇后が三韓征伐から帰国して 当地で引率していた軍士を解隊し それぞれの故郷に返した時 その大分(オオワカレ)から大分(ダイブ)と称されるようになったと伝わります 筑前国一之宮の「筥崎宮(福岡市)」の元宮とされています
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鹿児島神宮(霧島市隼人町)
鹿児島神宮(かごしまじんぐう)は 社伝によると 創始は 遠く神代とも「神武天皇の御代に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮」ともされます 和銅元年(708)現在地に遷座されて 高千穂宮跡の旧鎮座社地には 現在は 摂社 石体宮(石體神社)が鎮座しています