下御井神社〈豊受大神宮(外宮)所管社〉(外宮境内)

下御井神社(しものみいのじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)所管社で 覆屋の中には井戸があり 外宮の祭りに供える水を汲む上井神社の水に不都合があった場合 この井戸の水をいただくと伝わります 元來 下御井は 多賀宮の御料水とされ 上御井神社に対し 下御井神社 又は少宮(わかみや)とも称せられます

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

下御井神社(Shimonomiino shrine

通称名(Common name)

少宮(わかみや)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市豊川町279(外宮境内)

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》下御井鎮守神(しものみいのまもりのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

外宮の御料水の守護神

【格  (Rules of dignity) 

〈豊受大神宮(外宮)所管社〉

【創  (Beginning of history)】

『神宮要綱』昭和3年〉に記される内容

【抜粋意訳】

受大神宮所管社 下御井神社

鎭座地 豊受大神宮神域内

殿舎
覆屋 切妻、板葺、東面・・・壹宇
玉垣 連子板打・・・壹重
右神宮司廰造替

下御井(シモノミヰ)神社は 神宮御料水の守護神して神殿を造立せず、御井を祭祀すること上御井神社に同じ。元來 下御井は多賀宮の御料水にして上御井神社に対し、下御井神社 又は少宮(ワカミヤ)とも稱せり。
本社が上御井社と同じく中世以後 式年造替宮中末社の一となりしことは、古老口實傳に載する所によりて明かなり。又二月・九月及び年中六度祭のこと等・上御井神社に異ならざりしが中世以後 御井には参向せずして、多賀宮正殿の東に石壇を構へ、御巫内人及び同宮 物忌等此處に祭典を行ふことゝなり、御井との開係絶ゆ。
寬永十七年に至り從來西面なりしものを東面に改め、延實七年更に別宮物忌の訴により神宮より覆屋を造る。後頽廃に帰せんとしたるを、嘉永二年五月御巫内人清直同志を勧誘して雨覆の小祠を建て、現今此の私営によれる假作の形式を踏襲す。然れども古儀は、恐くは上御井神社の如くなりしならん。

本社も亦 明治五年六月地方廳の管轄に帰せしが、六年四月教部省の伺を經て、神宮所管に復せり。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

【由  (History)】

『神宮綜覧』大正4年〉に記される内容

【抜粋意訳】

二十四 豊受大神宮宮域案内 下御井神社(シモノミヰジンジャ)

覆屋壹宇 切妻、板葺、東面

本社は、下御井鎭守神(シモノミヰノマモリカミ)壹座を鎭祭す。豊受大神宮所管社のーなり。下部坂の右なる渓間にあり。抑抑 本社は下御井の守護神にして、又少宮(ワカミヤ)とも稱す。元來 此の御井は、古くより上御井と共に、豊受大神宮の御井二所と稱へて、崇敬厚く、若し上御井に事故あれば、本社の水を以て、御料に充てられしことあり。又 社名を稱へて、守護神を祭られしことも、早く一條天皇の長德年間の記錄に見えたるが、中世以來、御井と社とを離して、多賀宮正殿の東に、石壇と構へて祭りしことあり。さるを其後、舊に復して、御井に覆屋を造営せられ、現今の形式となれり。本社も明治五年、一時地方廳の管轄となりしが、翌年又神宮所管に復せられたり。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮綜覧』,国史研究会,大正4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/943573

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

下御井神社は 豊受大神宮(外宮)所管社です

・豊受神宮(外宮)

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

スポンサーリンク

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)について

延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)は 伊勢神宮の皇大神宮(内宮)に関する儀式書『皇太神宮儀式帳』と豊受大神宮(外宮)に関する儀式書『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)を総称したもの
平安時代成立 現存する伊勢神宮関係の記録としては最古のものです

両書は伊勢神宮を篤く崇敬していた桓武天皇の命により編纂が開始され
両社の禰宜や大内人らによって執筆されました
皇大神宮と豊受大神宮から 神祇官を経由して太政官に提出されて
延暦23年(804)に成立しました

『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)延暦23年(804)〉には 記載はありませんが 語句として「御井」や「御井神」が記されていて これは゛上御井゛を指すと考えられています
又 同書に゛御井二所゛という語句が記され これは゛上御井゛と゛下御井゛を表すものではないかと推測されています

スポンサーリンク

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

内宮・外宮の別宮・攝社・末社・所管社について

お伊勢さん125社について

スポンサーリンク

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

外宮に参詣

・豊受神宮(外宮)

土宮の南方に伸びる細い参道の奥にあり 社殿は無く御井覆屋が造営されています

下御井神社〈豊受大神宮(外宮)所管社〉(外宮境内)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

玉垣が廻され 井戸の上には覆屋が造営されています
賽銭箱がおかれています 賽銭を入れ お祈りをしま

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

井戸の裏手の沢にある桝は古井戸の址でしょうか

Please do not reproduce without prior permission.

一礼をして 参道を戻ります

スポンサーリンク

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『伊勢神宮と神社』大正8年〉に記される伝承

【抜粋意訳】

神宮御宮域 豊受大神宮

多駕宮(たかのみや)の石段下、土宮(つちのみや)の前を渓間(たにま)に深く入り込んだ所に下御井神社(しものみゐのじんじゃ)といふ小祠(せうし)がある。これは藤岡山(ふじをかやま)の麓なる上御井(かみのみゐ)に対し下御井(しものみゐ)と云うて、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)の大切な井戸のある、その守議神と云ふ事になって居る。この神の名の見えて居るのは、既に早く一條天皇の長德年間にあるから、中々由緒の古い社と云はねばならぬ。この社(やしろ)は又 少宮(わかみや)とも稱せらるる、山口祭場(やまくちのまつりば)千枝杉(ちえだのすぎ)など云ふ由緖地も此の近くにある。

【原文参照】

鈴木暢幸 編『伊勢神宮と神社』,大正書院,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/987539

鈴木暢幸 編『伊勢神宮と神社』,大正書院,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/987539

下御井神社〈豊受大神宮(外宮)所管社〉(外宮境内) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

お伊勢さん125社について

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」でありますので 各郡の条に「〇〇郡 神社」として 神社名の所載があります
『風土記(fudoki)』が編纂(733年)された 当時の「出雲の神社(399社)」を『出雲國風土記 神名帳(izumo no kuni fudoki jimmeicho)』として伝える役割をしています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷で 出雲国造が その任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉としていて 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-伊勢神宮
-,

error: Content is protected !!

Copyright© Shrine-heritager , 2024 All Rights Reserved.