大山祇神社・子安神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉

大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)・子安神社(こやすじんじゃ)は 宇治橋の東詰(内側)から約五〇メートル 神宮司廳の南側(内宮境内)に鎮座する皇大神宮(内宮)所管社です 鎌倉時代初期の(1192年)『建久三年皇太神宮年中行事』には記載のある古社です

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

大山祇神社Ohoyamatsumi shrine

・子安神社(Koyasu shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市宇治館町1(内宮境内)

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

・大山祇神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉
《主》大山祇神(おおやまつみのかみ)

・子安神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉
《主》木華開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

・〈大山祇神社神路山の入り口にます山の守り神
・〈子安神社子授け、安産、厄除けの神

【格  (Rules of dignity) 

〈皇大神宮(内宮)所管社〉

【創  (Beginning of history)】

『神宮要綱』昭和3年〉に記される伝承

【抜粋意訳】

皇大神宮所管社 大山祇神社

鎭座地 皇大神宮神域内

殿舎
正  殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉  垣 連子板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其

右造神宮司廳造替

大山祇(オホヤマツミ)神社は 大山祇命を奉齋す。俗に山神社と稱し、從來式外末社として、本宮の管轄に属せり。
創立年代は詳ならざるも、既に建久年中行事・元亨三年遷宮記・氏經神事記等に見えたれば由緖の久しきを知るべし。
社地は、所謂神路山の山口に在り。古へ御造替の御用材を神路山に採りし頃には、遷宮の初祭たる山口祭を本社に於て行はれしが如きも、後世
 御柚山の移動と共に、山口祭場も亦移りて巖社の附近となり、從つて本社との関係を断つに至れり。豊受大神宮に於ても、別宮土宮の附近なる山口祭場に古來大山祇神社ありて、右と同一の関係を有せしを、明治五年教部省達によりて、縣社箕曲中松原神社に移轉し、両宮共に御柚山の山口の神祝祭の本義不明に帰せり。本社も豊受大神宮の大山祇神社と同時に一度神宮の管轄を脱して地方廳の手に移り宇治館町の産土神として奉祀せられしが、三十二年十二月氏子等の請願により、神宮司廳より金壹千六百圓を下附して、神宮の所管に復するに至れり。

皇大神宮所管社 子安神社

鎭座地 皇大神宮神域内

殿舎
正  殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉  垣 連子板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其

右造神宮司廳造替

子安(コヤス)神社は 大山祇神社の西方に在りて、大山祇命の御子 木華開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)を奉祀すと云ふ。
もと神人の私営なりしが、近世に至りて式外末社の列に入り、神宮の管轄に属せり。
創立年代詳ならず。後世大山祇神社に因みて奉祀せるならん。明治五年大山祇神社と共に地方廳の所轄に移りしが、三十二年十二月に至り、共に神宮の所管に復せり。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

【由  (History)】

『神宮摂末社巡拝』下昭和18年〉に記される内容

【抜粋意訳】

子安(こやす)神社

 神苑裏路の神宮警衞部(じんぐうけいえいぶ)の北側、(いそべ)道の入り口に子安神社と呼ぶ神社がある。皇大神宮の所管社である。創立年代不詳であるが、もとは宇治館(たち)町の産土神として特に安走の民間信仰を持ってゐた。御祭神は木華開耶姫(このはなさくやひめ)命を御祭り申上げてゐる。

大山祇(おほやまずみ)神社

 子安神社と相並び ,その奥 (東)に鎭座してゐる。同じく皇大神宮の所管社である。宇治館町の産土神の如き形となってゐたものであるが、明治三十二年、神宮の所管に属したものである。俗に山神社(やまのかみのやしろ)といひ、鎌倉時代の神宮の記錄にも見える古社の一つである。昔、遷宮の初祭である山口祭(やまぐちさい)はこの社の前で、行はれたものである。神路山の入口に坐す山の守り神である。

【原文参照】

猿田彦神社講本部 [編]『神宮摂末社巡拝』下,猿田彦神社講本部,昭和18. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1033626

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

大山祇神社・子安神社は 皇大神宮(内宮)所管社です

・皇大神宮(内宮)

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

神宮の御遷宮 諸祭の初祭である゛山口祭(やまぐちさい)゛について

゛山口祭(やまぐちさい)゛は 伊勢神宮遷宮の御造営にあたり最初に執り行われる祭儀で
御造営用材を伐採する゛御杣山(みそまやま)゛から用材を伐り出すにあたり 山口に坐す神を祭る神事

御杣山は 元々は神宮域内でしたが 時代により変遷があり 現在は木曾〈岐阜県〉の山をそれにあてています

山口祭(やまぐちさい)と大山祇神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉について

内宮では 大山祇神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉御祭神 大山祇神(おほやまつみのかみ)は 神路山の入り口に坐ます山の守り神として

古くはこの社の前で式年遷宮の初祭である山口祭が奉仕されていました

外宮でも 別宮土宮の附近に山口祭場があり 古來 大山祇神社か鎮座し 内宮の大山祇神社と同一の関係であった

゛明治五年教部省達によって 縣社箕曲中松原神社に移轉して 両宮共に御柚山の山口の神祝祭の本義不明に帰せり゛とあります

皇大神宮・豊受大神宮の2つの大山祇神社は 明治五年同時に一度神宮の管轄を脱して地方廳の手に移り 宇治館町の産土神として奉祀せられた 皇大神宮の大山祇神社は明治三十二年十二月氏子等の請願によって 神宮司廳より金壹千六百圓を下附して 神宮の所管に復しました

箕曲中松原神社(伊勢市岩渕)について

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

内宮・外宮の別宮・攝社・末社・所管社について

お伊勢さん125社について

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

皇大神宮(内宮)に参詣

・皇大神宮(内宮)

宇治橋の東詰(内側)から約五〇メートル 神宮司廳の南側

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途中に゛神鶏゛が放し飼いにされていました

神鶏とは

内宮の境内に 神の使いとしてニワトリが放し飼いにされています
神の使いとなつているのは 天照大御神が 天岩戸に御隠れになられた時 朝を告げるのに鳴いたので 太陽の昇る事を告げる鳥とされている為てす
三重県など8県の愛鶏家結成する神宮奉納鶏保存会が内宮に神鶏を奉納し境内に放鳥されています 神鶏は木の上に止まり眠るとのこと〕

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神鶏の餌でもあるのでしょうか 鳩もいます

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右手に立札があります

大山祇神社・子安神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉(内宮境内)に参着

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参道を右に折れて進むと鳥居があり 境内が見えてきます

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石段を上がり 一礼をして鳥居をくぐり 境内にすすみます

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鳥居のすぐ脇には 子安神社が祀られています

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奥には 大山祇神社が祀られています

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大山祇神社殿にすすみ お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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子安神社殿にすすみ お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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境内の石垣の淵へと 奥の山から沢が流れています

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神宮司廳の裏見張所の前を通り 宇治橋の東詰(内側)に出ます

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宇治橋を渡り戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神宮大綱』明45年〉に記される伝承

【抜粋意訳】

大山祇(オホヤマツミ)神社

祭神 大山祇(オホヤマツミ)

殿舎
正  殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉  垣 連子板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其

右造神宮司廳造替

本社は、宇治橋の東りて、大山祇神奉齋し、一に山神社と稱せり、神宮元祿勘文、山神〔末社南面在に本宮地内北御修復〕大山祇神とありて、從來式外末社として、本宮管轄なりしが、,其の創立年代は詳ならず、然れども皇太神宮建久年中行事記〔正月七日の條〕に、山神祭事〔件神在所岩井田村也〕、今日〔七日〕河原神事、以後自に酒殿酒ー瓶・菓子ー籠・贄ー喉・小帖紙一帖・被奉に彼神其後祭禮也、又三度御祭並六節會之時、同自に酒殿度別米二升請預、件社禰宜〔山守〕調備供也、〔同月十ー日旬神拜ノ條に〕次山神、巌社と見え、内宮元享三年遷宮記〔範明神主、岩井田村風爐事件ノ條〕に、物忌父兼藤神主申云、酉下剋許参に山神之處、範明神主同子息出風爐令に帰参之時、令に行合之條實正也、又同假字遷宮記に、四月十一日日中よりあめくだる、今日造宮使そまひきのために山へ入せ給〔〇中略〕むまにて、しもたち、ふゆをの神主がたちよりして、山の神のみち、しまみちへかかりて入せ給と載せ、氏經神事記〔寬正三年八月十九日ノ條〕に、山神御神樂壹貫貮百下行代始例也、副神樂百文臨時とあるにて、拜祭ノ儀は古來連綿として、絶えざる事見つべし、内宮子良年中諸格雜事記に、大山祇神供進〔〇中略〕山神館請とあるも、同神社の祝部なるが故に、供進品を神宮より請けて、神社に供奠せしにて、後には

其の俗姓を、山神館と稱するに至れるなり、蓋し神系は古事記に、生に山神名に大山津見神とありて、伊弉諾尊伊弉冉尊ノ御子にて、古事記傅に、山津持にて山を持坐神なりと師説なり、奥に又種々の山津見あるは、分て持神、是は凡て持神なる故に、大と稱すか と解かれたるが如く、岩井田村は、卽ち古代神路の山口なれば、神宮御造替に當りて、先つ斯の神を祭りて、山口祭を行はれしを、中世以降式年造替の大典廃絶せして、以て、再興の後地域の変遷に伴ひて、右の祭事を巖社の附近にて、行はるる事となりしより、竟に當社との関係を絶てりしものならん歟、外宮別宮土宮の附近なる山口祭場にも、古來大山祇神社ありて、右と同一の関係明かなりしを、明治五年教部省の達によりて、縣社箕曲中松原神社境内に移轉せしより、両宮共に御柚山の山口ノ神祝祭の本義、自然不明に帰せしは、實に遺憾に堪へざる所なり、然して本社も外宮の大山祇神と同時に、神宮の管轄を脱して地方廳に属し、宇治館町の産土神となれるを、氏子等の請願によりて、神宮司廳は金一千六百圓を下付し、三十二年十二月神宮所轄に復せしなり、

子安(コヤス)神社

祭神 木華開耶姫(コノハナサクヤヒメ)命

殿舎
正  殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉  垣 連子板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其

右造神宮司廳造替

本社は、大山祇神社の西方に在りて、其の御女 木華開耶姫命を奉斎せり、神宮元祿勘文に、子安神社〔末社〕南面、山神社地内西御修覆とありて、其の實は神人の私営なるべけれども、慶長六年執印ー禰宜薗田守是の神拜式に、山神、子易神と見えて、近世式外末社の中に入りて、神宮の管轄となれり、神宮典略に、子安とは俗に産の安を云語なれば、後世に山神のちなみをもて、此社を設しなるべし、〔今も山守の禰宜の造替する社也〇中略〕熟按に陰陽家流に、鬼子母神を子安神とも云へば、此神を俗に祭て、神書に附會せたるを、後に咲耶姫を、實に祭る事となりけんかし とあれども、斯の神を子安神と稱へて、安産を祈るも、敢て不當の義にはあらず、其は古事記に、木花之佐久夜毘賣参出白、妾妊身、今臨産時、是天神之御子、私不可産、故爾詔、佐久夜毘賣、一宿哉妊、是非我子、必國神之子、爾答白、吾妊之子、若國神之子者、産不幸、若天神之御子者幸、卽作無戸八尋殿、其殿内、以土塗塞而、方産時、以火著其殿而産也、故其火盛燒時、所生子名火照命、次生子名火須勢理命、次生子御名火遠理命、亦名天津日高日子穂穂手見命、〔〇日本書紀にも見え〕と見えたるにして明らかなり、斯の如く猛火の中にて、三柱ノ御子を産み給ひて、御身ノ慈なかりし異霊を仰ぎて、其の御霊を子安神として、祭祀せるは世に尠からぬ例なり、蓋し本社は大山祇神社の御前社なるを以て、明治五年大山祇神社と共に、地方廰の所轄に移り、三十二年十二月同社と共に、神宮の所管に復せしなり、

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮大綱』,神宮司庁,明45.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815528

神宮司庁 編『神宮大綱』,神宮司庁,明45.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815528

神宮司庁 編『神宮大綱』,神宮司庁,明45.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815528

大山祇神社・子安神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉(内宮境内) (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

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