真浦神社(まうらじんじゃ)は 家島本島真浦の中心に位置して 家島神社の摂社として祀られてきました 以前は 荒神社と呼ばれていましたが 明治になって真浦神社と改称されました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
真浦神社(Maura shrine)
[通称名(Common name)]
氏神さん
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県姫路市家島町真浦597-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》奥津彦神(おきつひこのかみ)
奥津姫神(おきつひめのかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社《参考論社》
【創 建 (Beginning of history)】
真浦神社
御祭神 奥津彦神(おきつひこのかみ)
奥津姫神(おきつひめのかみ)御祭礼 十一月二日、三日
境内社 恵美酒社 蛭子大神
三社宮
神 明 社 天照皇大神
金刀比羅宮 大己貴神
住 吉 社 底筒男神由緒
家島の神の摂社として、当浦開殖の初めより崇敬篤く奉斎されている。
荒神社と呼ばれていたが、明治になり現在の真浦神社と改称された。境内末社の三社宮は、此の時、播磨国総社の末社より御分霊されたものである。
旧社殿は、弘化五年(1848)建立と伝えられるが、百五十年余を経て老朽化が著しく、此の度、境内地を整備した上で、御本殿以下付帯建物の全面改築工事が施された。平成十六年十二月吉日
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
古老伝説 播磨海上を往来する船舶の安全を家島の神に祈り、風波の難を家島に除け上陸するや土地の宜なるを以て家居を築き、永住するに至り、荏苒歳月を経て過するに従ひ人家増加し、自然各處に村をなし、家島の神の摂社として各村とも社を築き、神を祭り崇敬怠る事なし、然るが故に勧請年紀の当浦開殖の始めにあるは勿論年々祭典賑はしく爾来古老の口碑に敬神の念熾に必矢すべからずと今に伝えられたり。
明治12年10月24日荒神社を真浦神社と公稱すること社寺局より許可ありたり。
境内末社明治12年12月、姫路市本町県社射楯兵主神社の御末社神明社、金刀比羅社、住吉社の御分霊を奉齋す。兵庫県神社庁https://www.jinja-net.jp/jinjashi-kensaku/jsearch3jinjashi.php?jinjya=5485
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・恵美酒社《主》蛭子大神
・三社宮
神 明 社《主》天照皇大神
金刀比羅宮《主》大己貴神
住 吉 社《主》底筒男神
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・海神社《主》綿津見神
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1👟絇を 布1端に代える名神祭 二百八十五座
・・・・・・
家嶋神社 一座
・・・
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨国 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)揖保郡 7座(大3座・小4座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 家嶋神社(貞・名神大)
[ふ り が な ](いへしまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Iheshima no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載の
播磨國 揖保郡 家嶋神社 名神大 の論社は2つ
・家島神社(姫路市家島町)
・宮浦神社(姫路市家島町) 《参考論社》
・家島神社摂社 真浦神社(姫路市家島町) 《参考論社》
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
真浦区民総合センターの隣 水神として祀られ 島民の信仰を集める「どんがめっさん」と呼ばれる亀の形をした磐座(いわくら)があります
案内石碑には「その昔、大海亀が主人の帰りを待ちつづけ、長い歳月のうちに石になってしまったと伝えられています。現在は、航海の安全をつかさどる水神として、広く信仰を集めています。」とあります
真浦神社(姫路市家島町)に参着 東南を向いて社殿が建ちます
鳥居の扁額には「真浦神社」
手水舎があり清めます 亀の口から清水が滴ります 「どんがめっさん」なのでしょうか
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
祈りを済ませると 陽射しが差し込んできました
真浦港から 姫路に向かう 高速船いえしま に乗り込みます
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『播磨国風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承
人が居住している島 と記しています
【意訳】
家嶋(いへじま)
人民が 家を作り居住している 故に家嶋と号される 竹・黒・葛などが生える
【原文参照】
『万葉集(Manyo shu)〈7世紀前半~759年頃〉』に詠まれる歌
奈良時代に遣唐使・遣隋使と同様 朝鮮半島の新羅へ派遣された「遣新羅使人( しらぎにつかわさるるじんら )」が 都へ帰る〈入京〉時に 播磨国の家島で詠った歌
家島は 太古から 瀬戸内海の航海の要所で 風待ち・潮待ちの為に 家島へ寄港したとされます
【抜粋意訳】
回来 築紫海路 入京 至 播磨國 家島之時 作歌五首
巻15-3718
【原文】伊幣之麻波 奈示許曽安里家礼 宇奈波良手 安我古非伎都流 伊毛母安良奈久爾
【ひらがな】いえしまは なこそありけれ うなばらを わがこいひきつる いもあらなくに
【意訳】家島は 名こそ有りけれ 海原を 吾が恋(漕い)きつる 妹あらなくに
【原文参照】
『続日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
八保神〈八保神社〉と共に 官社に列せられたと記されています
【抜粋意訳】
承和七年(840)六月甲子の条
播磨國(はりまのくに)
揖保郡 家嶋神(いへしまのかみ)
赤穂郡 八保神(やほのかみ) 並びに 官社と為す
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社の論社として ・宮浦の白髭社〈宮浦神社(姫路市家島町)〉・真浦の荒神社〈真浦神社(姫路市家島町)〉とする説があるが これは誤りである と記しています
【抜粋意訳】
家島神社
家島は 伊敝之麻と訓べし
〇祭神 猿田彦大神 式社記、古跡建覧、播磨鑑
〇揖東郡家島宮浦に在す、今 白髭明神と称す
〇式三 臨時祭 名神祭二百八十五座 中略 播磨國 家島神社一座
〇播磨國風土記云、家島人民作家而居之、故号家島式社記に、往古は忘瀬島〈坊勢島〉にありしを、嘉禄元年(1225)今の地に移す、』
古跡便覧に、家島は南海中陸を去る事 三里五里にして、東は蓑嶋より、西は院家嶋まで東西八里、南は松嶋に至りて三里、その間に大小の島々二十餘、押並に家島に列すといへり、
或人云、白髭社縁起に元慶七年勧請のよし見えたり、されば今 真浦といふ所にある、荒神社 是 式内 家島神社なるべく、元慶年中勧請の社 式に載るべきよしなしといへり、こは縁起を正敷ものと見えたる誤り也、総て後世に作れる縁起は取用がたき事 兼ねていひおけるが如し、故に従わずといへども、序に中し試みおく也、官社 續日本後記 承和七年六月甲子 播磨國 揖保郡 家島神 為官社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
祭神については 書かれておらず
【抜粋意訳】
家島神社
祭神
祭日 七月三十日 三十一日
社格 郷社
所在 家島宮浦
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
家島のもう一つの呼び名は「えじま」で「今も島の人々は 家島を『えじま』と呼ぶ」 「繪島神(えじまのかみ)称 宮浦明神〈宮浦神社(姫路市家島町)〉」を式内社の論社とする『播磨鑑』の説も載せています
【抜粋意訳】
兵庫縣 播磨國 飾磨郡家島村大字宮浦
郷社 家嶋(いへしまの)神社
祭神 大己貴命(おほなむちのみこと)
少名彦命(すくなひこなのみこと)創立年月詳ならず、但、播磨鑑に、元慶七年九月八日〇播磨名所巡覧図の鎮座云々」と見えたり、本社は一に白髭大明神と称す、〇播磨鑑 今或作 繪島神、称 宮浦明神と神名帳考証に見えたり、
續日本後記に云く、名神大社に列せらる、実に当国大社二十四社の内なり、
明治七年二月郷社に列す。
社殿は本殿、舞殿、拝殿を具へ、境内地は四百五十坪なりしが、三十八年中 内務省指令甲第八四三号を以て、上地林壹町七反七畝貮歩を境内に編入せらる。例祭日 七月二十五日
氏子戸数 千二百十一戸
【原文参照】
真浦神社(姫路市家島町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)