益救神社(屋久島町原)

原益救神社(はるおやくじんじゃ)は 往古は旧県社 益救神社の末社であったとも 益救神社(やくじんじゃ)そのものであったとも伝わります 益救神社は 長い歴史を持ち 元々は屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものと云われます

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

益救神社(Yaku shrine)

 [通称名(Common name)]

原益救神社(はるおやくじんじゃ)

【鎮座地 (Location) 

鹿児島県熊毛郡屋久島町 原(はるお)721-2

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天津日高彦火火出見尊(あまつひこひこほほでみのみこと)

《配》大山祇尊・木花開耶姫尊
   塩土翁尊・豊玉彦尊
   豊玉姫尊・玉依姫尊

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

豊漁豊作家内安全など

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社《参考》

【創  (Beginning of history)】

式内社 益救神社 由緒記

御祭神・天津日高彦火火出見尊(山幸彦)

配 祀・大山祇尊・・木花開耶姫尊
    塩土翁尊・・豊玉彦尊
    豊玉姫尊・・玉依姫尊

由 緒・醍醐天皇の御代約千年前勅命により国内の有名な神社を調べた台帳に登録された神社三千百三十二座の一座で掖玖島(屋久島)に名神として益救神社が記載されております。是を式内社と言います。
益々救って下さる神様「救の宮」又 掖玖島が龍宮であるとして「一品宝珠大権現」として広く尊祟されております。

例祭・旧六月十五日

平成十一年七月吉日建立 原区長 川畑孝博 氏子一同

現地石碑より

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【由  (History)】

由緒

往古は旧県社益救神社の末社であった。

鹿児島県神社庁HPより

【境内社 (Other deities within the precincts)】

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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益救神社〈原益救神社(はるおやくじんじゃ)〉の宮遥拝所

・千尋嶽神社(せんぴろだけじんじゃ)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大隅国 5座(大1座・小4座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)馭謨郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 益救神社
[ふ り が な ]すくひの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Sukui no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神の遥拝所について

屋久島山岳信仰益救神社には 深い関係があります

益救神社は 長い歴史を持ち 元々は屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものと云われます

は それぞれの集落が御神体とする山に岳参り(旧暦の4月と8月に山に登りお参りをしていた

それは 海と里の恵み米などを神に捧げ 豊漁豊作家内安全などを祈る山岳信仰です それぞれの山には 全て一品宝珠大権現が祀られています

山に入れるのは 男性のみでしたので
かつては島内各地に三岳の遥拝所があったようです

現存するのは 2社のみです

・益救神社(屋久島町宮之浦)の奥宮は 宮之浦岳の山頂に鎮座しています

・益救神社(屋久島町原)の奥宮は モッチョム岳か? 

・益救神社(屋久島町原)〈参考〉 

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

屋久島南部にあたる(はるお)の集落に鎮座します

観光地として有名な千尋の滝などがある 鯛ノ川の河口 トローキの滝から西へ2km程 屋久島一周道路沿いに社号標「益救神社 入口」と石碑があります

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朱色の鳥居が建ち

益救神社(屋久島町原)に参着

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一礼をして鳥居をくぐると 沢山の車が止まっていて 沢山の人がいます

「おはようございます」とご挨拶をすると 皆さんで たった今 草刈りをしている所だそうです
お陰様で綺麗な境内でお詣りができます

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二の鳥居が建ち 一礼をしてくぐります

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参道には 仁王像があります
仁王像は 本来は 仏教の守護神 仁王(金剛力士)ですが 神社に祀られています
薩摩地方でも同様の祀り方がされています 屋久島にも神仏混淆の考え方があったことを表しています

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手水舎があり 清めます

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草刈り後の参道石段を上がります

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階段の上部に咲くオレンジ色の花 何の花でしょうか? 社殿は目前です

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拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥は 山なりに石垣が組まれていて 最上段に本殿が鎮座します
向かって右側の中段には 小さな石祠が6つ並んで祀られています
もしかすると
配 祀・大山祇尊・・木花開耶姫尊
    塩土翁尊・・豊玉彦尊
    豊玉姫尊・・玉依姫尊 だろうか

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向かって左側は 山なりの斜面で 南国情緒あります 草刈りがされていなければ本殿は見えなかったかもしれません

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参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本書紀(Nihon Shoki)』〈養老4年(720)編纂〉に記される伝承

第34代 舒明天皇の即位元年の記録として 即位談と屋久島への使者のことが記されています 当時(629)屋久島への使者〈南海の航路の重要拠点の確保〉が 如何に重要な課題であったかが伺えます
因みに 隣の島 屋久島への使者の記録は 天武天皇8年(679年)11月23日の条に記されているので50年後になっています

【意訳】

舒明天皇 元年(629)14と4月1日の条

即位1 14 大臣(オオオミ)〈蘇我蝦夷と群卿(マヘツキミタチ)臣下たち ともに天皇の璽印(ミシルシ)を田村皇子(タムラノミコ)に献上しました ると辞退して言われた
「宗廟(クニイエ)〈国家〉の運営は重大事あり 寡人(オノレ)は 不賢(オサナイ)ので どうしてこの重大事に当たることができようか」


群臣は 伏して固く請願して言いました
「大王(キミ)は 先朝(サキノミカド)〈推古天皇〉が寵愛し 幽顯(カミモヒトモ)心を属(ツ)け〈寄せ〉ています どうか皇統を継ぎ 百姓国民を照らして頂きたい
そこで その日に天皇に即位されました

41 田部連(タベノムラジ)を掖玖(ヤク)〈屋久島〉に派遣しました この年 太歲己丑です

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

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『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)〉に記される伝承

九州地区の最高峰を持ち 豊かな水と緑に恵まれた屋久島は 古くから航海者たちの重要な目印で 水や食糧を補給する寄港地として 南海の航路の重要な拠点〈屋久島〉であり ここに碑を建てて遭難に備えたと記しています

【意訳】

天平勝宝6年(754)2月丙戌 20日の条

勅に大宰府 曰く
去る天平七年(735)故 大貳從四位下 小野朝臣老 遣(つかわ)す 高橋連牛養(たかはしのむらじうしかひ) 於南嶋(みなみのしま)
樹牌(ひをたて)而(しかして)其牌(そのひ)經年(年を経て)今既(今すでに)朽壞(朽ちて壊れている)
宜依(よってよろしく)舊修樹(古いものを修理して建て)毎牌(各碑ごとに)顯著(表しているのは)嶋名(島の名)并(合わせて)泊船處(船泊まり港)有水處(水のある所)及 去就國行程(国に戻る行程)遥見嶋名(遠くに見える島の名前)令漂著之船知所歸向(船の漂着に備えさせる令を出した

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』延暦16年(797)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

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『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社は 屋久島の 宮浦村 一品が浦 に在ると記しています

【意訳】

益救(スクヒノ)神社

〇信友云 或書に称 一品宝壽権現 宮浦村一品が浦にあり
今 大隅郡の(式)と合す
又 益救島あり
又 作夜句 夜古 夜久野古養久山 亦 島葉沽 今作耶古旅玖(推古紀)(舒明紀)(天武紀)等有 旅玖人帰化之事

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『三国名勝図会(Sangoku meisho zue)』〈天保14年(1843)〉に記される伝承

屋久三岳の一つ 栗生嶽の絶頂 に鎮座している女人禁制の社 と記しています

【意訳】

栗生嶽
 栗生村に属す 村落より丑寅の方 七里許にあり 屋久三岳の一なり
其嶽の絶頂に 益救神社あり 一品法壽権現を祭れり 勧請の年月詳かならず 毎年 秋八九月の間 土人参詣する者多し 婦女十四以上の者は禁制なり 絶頂に一平石あり 其高さ二尺 横三尺 長さ一間ばかり 其石上一穴の周廻一尺許 深さ二三寸なるあり 
水泉常に湧出して溢れ 古より四季共に涸ることなし 其水中に 蚯蚓二つ常に居れり 土俗神の使属なりといふ 嶽神に参詣する人 其水と蚯蚓とを去り置くに 其 帰る比をひ 、素の如く 水盈満して 蚯蚓亦居れるとぞ  絶頂より山下十四五町の所に一川あり 水源 嶽の東西より出 南面へ流る
即ち 栗生川の水源なり 川幅一二間 深さ一尺餘 嶽神に参詣する者は不浄を清むるとて 必ず 此河水に浴するとかや 此岳 宮浦長田の二岳より 形勢少し尖小なり

益救神社 前文に見ゆ

【原文参照】(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)『三国名勝図会』1 『三国名勝図会』2

『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

祭神や所在は 詳しくわからないと記しています

【意訳】

益救神社

益救は 仮字なり
〇祭神 在所など詳らかならず

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

祭事は 穂々出見尊(ホホデミノミコト)と記しています

【意訳】

益救神社
(明細帳 進達無之分差出方督促中)

祭神 天津日高穂々出見尊
祭日 2月4日 6月12月11日 11月中卯日
社格 縣社
所在 屋久島宮之浦(熊毛郡 上屋久村 大字 宮ノ浦)

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

式内社の所在については「古来 此処の地を宮浦 又は 一品か浦 などと呼ぶ 是れ 其神社の鎮座せる故なり」としています
元々は 屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものと考えられ
ていて そのことが詳細に記されています

【意訳】

鹿児島県大隅國熊毛郡上屋久村大字宮ノ浦

縣社 益救(ヤクノ)神社

祭神 天津日高日子穂々出見(アマツヒダカヒコホホデミノ)尊

創立遼遠にして 年代詳ならず
延喜式神名帳に「大隅國 馭謨(コム) 一座 益救神社」とある神社なり
当郡名は 和名抄、類聚三代格、拾芥抄等の諸書に散見し、
神社覈録に「当郡は所謂 屋久島也」又 同書に「益救は假字也○祭神在所等詳ならす、」と云へり
然れども 神砥志料に「今屋久島の宮浦村一品浦に在り、須久比神と云ひ、又 宝珠権現といふ 蓋し 天津日子火々出見尊を祀る」と見えたり
特選神名牒 此地とし 祭神は 忍熊王子を祀るといへり
神名帳考証は「益救神社 古事記云 火之夜芸速男神」とも云へり 祭神何れを是なりとせむ 宝珠権現の名の因て來る所を察するに火々出見尊とする方優れるに似たり されば 神砥志料も是れに從ひたるなるべし

さて 此神は 平城天皇の大同元年「益救神奉充神封一戸」(新鈔格勅符)ともありて 皇室御崇敬の跡も窺はれ 誠に有数なる古社なり
三國神社伝記に
宮ノ浦嶽 宮ノ浦村に在り云々 其上に益救神 石祠あり 一品法壽権現を祀れり 毎年 秋八九月の比 里人参詣するもの多し 婦女は禁制なりき 此岳 絶頂より下十四五町許りに氷川と云ふ川あり 深さ膝を過ぐべし 登岳の物ほ汚穢を清むるとて此川に浴す云々
栗生嶽 栗生村に属す 屋久三岳の一なり 絶頂に益救神社あり 祭神(同前)一平石あり 其石上 一穴の周廻一尺許 深さ二三寸なるあり 水泉常に湧出して溢れ 古より四季共に涸るる事なし 其水中に蚯蚓二つ常に居れり 土俗神の使属なりと云ふ 参詣の人 其水と蚯蚓とを去り置くに 其皈る比ほひ素の如し云々
長田嶽長田村に属す 此絶頂に益救神云々(同前)比岳四面嵩石催蒐として登跳の者は梯子+にて登るが如し云々」と記し、更に云はく「益救神社、宮浦村に在り 祭神一座 彦火々出見尊是なり(円石二つあり神体とす)延喜式云々(同前)一品宝壽権現と称す(或は 須久比神と称す 而れども須久比に益救の訛なりと云 益救の字を訓にて称せしなるべし)

古来 此処の地を宮浦 又は 一品か浦 などと呼ぶ 是れ 其神社の鎮座せる故なり 社山の周廻十二町 其山上に神社あり 俗に権現堂と云ふ 久本寺より役す
当社は 往古より 此浦に鎮座せしに 中古以来 悶島都て法華宗になり 宗外の神社 佛閣等は 尊重せざる風俗となりて 此神社も 自然に廃壊し 宮浦には跡形もなくなりしと 然るに本府の士 町川孫七忠以屋久の宰官となりて 貞享元年甲子8月より宮浦に来居て 謂へらく 屋久は古來霊山の地なるに 其名のみにて神社の廃したるは淺間しと歎息し 云々 神社の遺跡を尋出し 社堂を造営し 土人に勧めて同3年寅正月元日より参詣を始めたりとぞ

此の益救神社は 宮ノ浦のみならず 御嶽の嶺三ケ所(前に略記)及 島中所々に勧請せり 然れども 此浦 及び 三山獄に鎮座せるもの本社なるべし」(三国名勝図会)と記し
社記に拠るに「本社義は 古御嶽宮と称し 種子 屋久両島鎮守の社にして 造営修繕 一切官費に有之 文久3年藩庁 庶政を改め 廃典を挙ぐるに随ふて 管内の神社を糺し 先づ 本社を再興し 神領五十石を付せられ云々(社記)此の文久3年の再興云々は 前記図会の記事中なる貞享の再興を誤り伝ふるか 兎まれ角まれ再興以来 復た藩主の崇祀する所となりたる趣は 此神 記に依り推知するを得 明治67月郷社に列す
社殿は 本殿 舞殿 拝殿 幣殿 渡殿等を具備し 境内地10740坪(官有地第一種)あり

境内神社 御門(ミカドノ)神社
例祭日  4月10日

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2

益救神社(屋久島町原)に (hai)」(90度のお辞儀)

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