韓国宇豆峯神社(霧島市国分上井)

韓國宇豆峯神社(からくにうづみねじんじゃ)は 隼人の乱(720)関わる創建の歴史を持つ式内社となります 律令支配強化のため九州南部に大隅国設置(713)した大和朝廷は 豊前國から200戸(約5000人)の民を隼人を教導するため移住させ 彼らが奉斎する韓国神も遷座して建立したものと伝えています その後に自治を求める隼人族大規模な反乱起こります

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

韓國宇豆峯神社Karakunino uzumine Shrine)
(からくにうづみねじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

韓国さま(からくにさま)・韓国大明神(からくにだいみょうじん)

【鎮座地 (Location) 

鹿児島県霧島市国分上井898

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》五十猛命(Itakeru no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

韓国宇豆峯(からくにうずみね)神社

   五十猛命(いそたけるのみこと)
創建年代  
   39日 新年祭(農耕・播種・奉射の田植え神事)

 大隅五座のひとつ。「延喜式神名帳」(927)に「大隅國 囎唹郡 韓国宇豆峯神社 小」とあり、式内社(3132座)で「韓国」「辛国」「韓」などが付く神社名は、宮内省2座、河内国1座、出雲国7座、豊前国1座、大隅国1座があります。
 「続日本紀」によると、和銅7年(714)、すなわち大隅国設置の翌年に、豊前國から200戸(約5000人)の民を隼人を教導するため移住させています。
そのときに、韓国神も移動して建立したものと伝えられています。
 「宇佐記」によりますと、「欽明天皇32年(571)癸卯2月、豊前国 宇佐郡 菱形地の上 小椋山に祭られたのを 当地 宇豆峯の山頂に遷座され、さらに国司の進言により永正元年(1504)甲子12月、現在の地に奉遷した」との記録があります。また、神社由緒書にも豊前国から遷されたと明記されており、豊前国とゆかりのあることが推定させられます。
霧島市教育委員会

現地案内板より

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【由  (History)】

由緒

創建年代は不詳であるが、続日本紀に大隅国設定の翌年・和銅七年に豊前国から二百戸の民を隼人教導のため移住させたとあり、その移住者たちが国家鎮護として建立したものとも伝えられる。延喜式神名帳に「大隅国 囎唹郡 韓国宇豆峯神社 小」と登載の古社である(大隅国式内社五社の一つ)。

宇佐記によれば、「欽明天皇三十二年(五七一)癸卯二月豊前国 宇佐郡 菱形池の上 小椋山」に鎮祭、のち当地 宇豆峯(現在、宇土門)の絶頂に奉遷鎮斎され、国司の進言により「謁祭に便ならざる」を以て 麓の現在地 小字内門(宇豆門の転化)に奉遷されたのは永正元年甲子十二月なりとの記録があり、韓国大明神、韓国様と称される。

五十猛命は父神 須佐之男命と一緒に韓国と我国とを往来して両国の友好を計り、我国に八十の木種を播布され一時枯山になっていた山林を青山と成し、檜は瑞宮の材に、杉・楠は船舶の材に、まきは葬具にと夫々仕様の道を定め、人々の食する柑橘他の果実をも伝えた。また海外との連絡を重視し、為に航海の道を教えられたという。「韓国」とは御祭神のこのような御事蹟により、「宇豆峯」とは山林の美称として名付けられたという。

上古は朝廷の崇敬も厚く、島津氏も藩費を以て 式年の造営を行い、義久・吉貴両公は特に尊崇した。明治四年五月に県社に列せられ、現在の社殿は同四十年に改築され、その後修繕を加えたものである。

令和二年十二月二十二日 霧島市国分上井鎮座 諏訪神社を合併。

鹿児島県神社庁HPより
https://www.kagojinjacho.or.jp/shrine-search/area-airaisa/%E9%9C%A7%E5%B3%B6%E5%B8%82/528/

【境内社 (Other deities within the precincts)】

荒人(アラヒトノ)神社 若宮神社(ワカミヤジンジャ)天一ノ神(以上三社合殿)

大山衹(オオヤマツミノ)神社

(タノ)神社 

門守(カドモリノ)神社(左右両社)

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大隅国 5座(大1座・小4座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)曽於郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 韓國宇豆峯神社
[ふ り が な ]からくにうずみねの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Karakunino uzumineno kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の
大隅国 5座(大1座・小4座)の式内社について

〇桑原郡 1座(大)鹿児島神社(大)

 鹿兒島神宮 霧島市隼人町

〇曽於郡 3座(並小)・大穴持神社・宮浦神社(貞)・韓国宇豆峯神社(貞)

大穴持神社 霧島市国分広瀬
宮浦神社 霧島市富久山町
韓国宇豆峯(からくにうみね)神社 霧島市国分上井

〇馭謨郡 1座(小)益救神社

益救(やく) 神社 屋久島町宮之浦

詳しくは次の記事をご覧ください

大隅国の式内社〈5座〉について

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『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の
式内社(3132座)で「韓国」「辛国」「韓」などが付く神社名は12
宮内省2座河内国1座出雲国7座豊前国1座大隅国1座〉です

①➁宮内省 坐神 園神社(貞・名神大月次新嘗)韓神社二座(名神大月次新嘗)

園神社韓神社〈宮中三殿 神殿〉  

 

鵺大明神玉姫大明神朝日大明神(京都市上京区主税町)  

 

漢国神社(奈良市漢国町) 

 

➂河内国 志紀郡 辛国神社(貞伴辛国)

辛國神社(藤井寺) 

④出雲国 意宇郡 同社 韓国伊太弖神社玉作湯神社

玉作湯神社(玉湯町玉造)〈合祀先〉 

 

玉造天満宮(玉湯町玉造)〈合祀前の古社地〉 

➄出雲国 意宇郡 同社 韓国伊太弖神社揖夜神社

韓国伊太弖神社〈揖夜神社の境内社〉 

⑥出雲国 意宇郡 同社坐 韓国伊大弖神社佐久多神社

・佐久多神社(宍道町上来待)〈合祀先〉 

 

嘉羅久利神社(安来市広瀬町) 

➆出雲国 出雲郡 同社神 韓国伊太弖神社阿須伎神社

阿須伎神社(出雲市大社町)〈合祀先〉 

⑧出雲国 出雲郡 同社 韓国伊太弖神社出雲神社

・素盞社〈出雲大社の本殿奥〉 

 

・諏訪神社(出雲市別所町〈合祀先〉

➈出雲国 出雲郡 韓竈神社

韓竈神社(出雲市唐川町) 

⑩出雲国 出雲郡 同社 韓国伊太弖神社曽枳能夜神社

・韓国伊太弖神社〈曽枳能夜神社の境内社〉

⑪豊前国 田川郡 辛国息長大姫大目命神社(貞)

・香春神社(香春町香春) 

⑫大隅国 曽於郡 韓國宇豆峯神社

・韓國宇豆峯神社(霧島市国分上井) 

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大隅国の式内社〈5座〉について

一緒に読む
大隅国 式内社 5座(大1座・小4座)について

大隅国(おほすみのくに)の式内社は 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている 大隅国の5座(大1座・小4座)の神社のことです 最南端の式内社として 益救神社(屋久島町宮之浦)もあります

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

国分から県道491経由 約4.8km 車12分程度
県道491号を西へ向かいます

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山裾の美しい森の中背後に鳥居が建っています
社号標には「延喜式内社 韓國宇豆峯神社」と刻まれています

韓國宇豆峯神社Karakunino uzumine Shrine)に参着

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階段を上がり 一礼をして 朱色の鳥居をくぐると 門守(カドモリノ)神社(左右両社)鎮座しています 更に階段を上がると社殿の建つ境内地です

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参道を拝殿にすすみます 境内右手奥には神池があり 境内社が二社鎮座 
正面に屋根の入母屋造り 南国の趣き漂う朱色の柱のみの拝殿が建ち その奥に彩色された春日造の本殿が建っています

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細長い縦の扁額には「韓國宇豆峯神社」と浮彫に文字が刻まれています

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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境内を振り返ると 鳥居の横に大木が聳えています その手前には 更に大きかったであろう大木が 安全の為でしょう伐採されていて 日差しを遮るものがなく とても明るい境内となっていました

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境内社にお詣りをして 左下の境内地から社殿を見ます

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社殿の正面に戻り 再度一礼をします

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県道491へ戻る途中 桜島がとても良く見えていました

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

国府々上井村にありとの説を記しています

【意訳】

韓國宇豆峯(カラクニノウツミネノ)神社

信友云 或書に 今 曽於郡 国府々上井村にあり (式)と不合

 又 或人云たれば 大穴持神社と当社は大江村にあり 

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『三国名勝図会(Sangoku meisho zue)』〈天保14年(1843)〉に記される伝承

図絵には 宇豆峯も一緒に描かれています

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【意訳】

韓國宇豆峯(カラクニウツミネ)神社 地頭より辰方 一里三町

上井村 宇豆峯の麓にあり
社家傳に 春日大明神 彦火火出見尊 若宮八幡を祭るといふ(神体三坐の外 同殿に沸像三軀あり 是は近頃 曽於邑 止上神社の別当僧 源亮房覚遍の所安とぞ)
例祭 正月元日 2月初午日 99 11月初午日

延喜式 大隅國 囎郡唹郡 韓神宇豆峯神社是なり
宇佐記 辛國(カラクニ)に作る
神社撰集云 始め宇豆峯の嶺あり 謁祭に便りならざるを以て 今の地に遷し祭とか 宇豆峯は今の社頭より申方五町許りにある野岡なり
當社に永正元年以来の棟札あり 此所に遷されしは 永正以前なるべし 當社は大隅國五社の一なり
宇佐記曰 欽明天皇322 豊前国 宇佐郡 菱形池 小倉山邊有神
託三歳兒 告異人 大神比疑(オホカノヒキニ)く 辛國城 八流之幡降大隅國曾於郡に韓国地名在り
 我是 日本人王十六代 譽田(ホムタ)天皇 廣幡八幡麿也  応神天皇靈を見はし給ふ也 ここに八流の幡を降ろされしなり 按に韓國は  虚國嶽(カラクニタケ)に同じく(この嶽は踊邑にあり)(ソシシノ)之空國(ムナクニ)〈荒れてやせた不毛の土地の義に似たりといへども 然らず この地いにしへ韓國城と號し 韓神に由ありと見ゆ所る 五十猛(イソタケル) 韓神 曾富理(ソフリノ)神の三坐なるべし

この神 筑紫に在て 或は種樹を掌り 或は韓地に渡楫し 或は韓郷防禦使となる
興名艸にく 韓神 曾富理(ソフリノ)神云々 韓神掌踵(ツミ)に素戔嗚尊(ブトウ)って 韓郷防禦之備也 曾富理(ソフリノ) 曾富理は添副之謂 夫韓郷以て滄海分三城 その地隣于西州 生鎮邊焉 この 輿韓神 同掌国家守邊要也 式所謂 韓神園神是也云々

これを以て考ふれば 則ち 當社は韓郷防禦の神たる故に 西陲(セイエイ)に祭り 韓國を以て社の號とし その韓國城と称するが如き  因りて名けしならん 夫三韓の国は 神功皇后 初めて征伐し給ふ後 応神天皇の御宇 盡く 臣服朝貢す 乃ち 後世 天皇を以て 異賊降伏するの軍神とす 而して此韓国城に靈を見はし玉ふもの 因縁ありといふべし 前に所謂 社家傳の三神 其祀る所以を辨ぜず 是を以て 此説に及ぶ 猶博識是を正すことあらんことを欲す 社司斜木某。
末社 威徳大明神社 △一之宮天一神社 以上の三社 本社の右にあり

【原文参照】(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)『三国名勝図会』1 『三国名勝図会』2

『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

所在は 国分郷 上井村と記しています

【意訳】

韓國宇豆峯神社

韓国は 加良久爾 宇豆峯は鳥頭美禰と訓ずべし

祭神 五十猛神 韓神 曾富理神 山稜考
〇或説 天兒屋根命という 今は従わず
〇国分郷 上井村に在す 神社考

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』1 『神社覈録』2

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

所在は 国分郷 上井村と記しています

【意訳】

韓國宇豆峰神社

祭神 五十猛
祭日 2月4日 9月9日 11月中卯日
社格 縣社
所在 国分郷 上井村(姶良郡東国分大字上井

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

江戸中期の国学者享保15年5月7日(1730年6月21日)- 享和元年9​月29日(1801年11月5日)) 本居宣長(モトオリリナガ)先生の説として 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨の地 笠沙から見る韓国(カラクニ)とは この神社の鎮座地であるとの説を記していま

【意訳】

鹿兒島縣大隅國姶良郡東國文村大字上井

縣社 韓國宇豆峯(カラクニウトミネノ)神社

祭神 五十猛(イタケルノ) 韓神曾保里(カラカミソホリノ)
   有功(アリコトノ)  大屋彦(オオヤビコノ)

創建の年代詳ならねど
延喜式神名帳に「囎唹郡 韓神宇豆峯神社」とある神社なり。
神名帳考証に「五十猛命 日本紀云、五十猛命 天降之時、将樹種而下、然不殖韓地 盡以持帰、始自筑紫、凡大八洲之内、莫不播殖而成靑山焉」、
神社覈録に「祭神 五十猛神、韓神、曾富理神(山稜考の或説天兒屋根命と云、今従はず)國分郷 上井村に在す」とあり、
三國神社傳記に「韓国大明神 鎮座於 國分上井村、所祭 天兒屋根命(永正永禄棟札に祭神八座と見えたり、今詳ならず)鎮座年月詳ならず。宇豆峯 俗曰く 矢嶽、本郷山元門之上に在り 此所 上古鎮座之地也。今之社頭は 此所より辰巳方向  四五町許下之地也。寶暦五亥五月より造替、同二十日寶殿柱立云々。井上宮内並中馬釆女(略)其外諸人出會遷宮有之、祭米一石二斗。」按今韓国嶽と云は、霧島の西嶽也
ここを韓国云える
古事記云 天津日子番能邇邇芸尊云々 天孫坐干 筑紫日向之高千穂之 云々 是に詔りたまひけらく、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国 夕日の日照る国なり  此地は甚吉き地 」と詔りたまひて 底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原に氷椽多迦斯理て坐しき」とあるを
伊勢人 本居宣長説に云う
この詔云々 この所の文は 必ず於いて 是 膂肉韓国眞来通笠沙之御前而詔之 この者云々とありけむを 詔之此地者の五文字 錯れて上に移り 膂字脱 肉字は向に誤れるものなり それ故は 書紀に膂肉之空國 自頓宮覓國行去云々などある文どもと合わせて思うにも 
又 語のさまを思うにも 眞来通の語は 必地の語にして詔ふ御言には非ずかし 韓は借字にて空虚國の義にて 即ち書紀の空國なり
さて 膂肉空虚國は書紀の口訣に 膂穴之空國 仲哀紀 曰く 熊襲國者 膂之空國也 膂脊也 無肉以譬不毛之地と云い 纂跡に空國即不毛之地とあり これらの意なり
神名帳大隅國囎唹郡 韓國宇都峯神あり この韓国このなると一つ聞ゆとあり 韓国の名は この考の如くなるべきか 韓国嶽と宇豆峯とは 今その間 相去ること許もあるべし されど右に韓国と云ひしは その指す所 廣かるべし」と記せり

地理纂考には 祭神に就きて「上井の宇豆峯社は祭神の説區々にて 社殿は兒屋根命なり 一説には五十猛命 韓神 曾富理三坐にて その中二坐は 甲冑を帯び軍装の形なれば 韓国防禦の爲めに築きたる城跡なりといふ云々」とあり
社記に「宇豆峯とは山林の美称なり 旧社地は その嶺に在り 土俗に宇治と称す 今の地へ遷座は永正以前なるべし 永正元年甲子十二月棟札に奉仕三座とあり  當社所在の字を内門と云 内門は宇豆門なりしを後世内門と訛りしならん 隣地の字に美の前と云ふ所あり 是れ亦 峯の前にて 宇豆峯の前なれば云ふなるべし云々」とあり
明治六年五月縣社に列す
社殿は本殿 向拝 廊下 拝殿 神饌所等を具備し 境内地3840坪あり

境内神社
荒人(アラヒトノ)神社 若宮神社(ワカミヤジンジャ)天一ノ神(以上三社合殿)
大山衹(オオヤマツミノ)神社 (タノ)神社 門守(カドモリノ)神社(左右両社)

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2

韓國宇豆峯神社Karakunino uzumine Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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『大隅国 式内社 5座(大1座・小4座)について』に戻る

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
-,

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