宮浦宮(霧島市福山町)

宮浦宮(みやうらぐう)は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載の式内社で大隅五社の一つで 境内の夫婦銀杏は 樹齢千年を越えており 初代 神武天皇が東征前の仮の宮居であったことを記念して お手植えになったものに後世植え継いだとされています

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

宮浦宮(Miyauragu)
(みやうらぐう)

 [通称名(Common name)]

宮浦大明神(みやうらだいみょうじん

【鎮座地 (Location) 

鹿児島県霧島市福山町福山2437

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天神七代(テンシンシチダイ)
国之常立神
豊雲野神
宇比地迩神妹須比地邇神
角杙神妹活杙神
意富斗能地神妹大斗乃弁神
淤母陀琉神妹阿夜訶志古泥神
伊耶那岐神伊邪那美神

《主》地神五代(チシンゴダイ)
天照大御神天忍穂耳尊天津日高彦火迩迩芸尊天津日高彦火火出見尊彦波瀲武草葺不合尊

《主》神武天皇(ジンムテンノウ)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

奉祝 御創祀2700年 正一位ご宣下250年

宮浦宮 御造営事業奉賛のお願い

わが宮浦宮(旧 宮浦神社)は延長5年(927年)延喜式神名帳に登載の式内社で桃園天皇・宝暦3年(1753年)には勅宣による正一位[最高位の神階]の御宣下に浴し「奉幣の儀」が、藩を挙げて盛大に執り行われました。
 当宮の御社殿は文化元年、島津藩主の御造営で200年の歳月を経て、年々老朽化が進み、また白蟻の被害もあるなどこのまま放置できない状態になっており、誠に憂慮に堪えない次第であります。
 折しも平成15年には当宮が勅宣正一位の御宣下から数えて満250年をむかえ記念すべき年に当たりましたのでこれを機に奉祝御造営事業を執り進める運びとなりました。

 あたかも、神武天皇の御出船の記念木として天空高く聳え立つ一対の大銀杏と古代神社建築の遺構を継承する高床式[床の高さ1間]御神殿は、独り県下の誇りであるのみならず、日本建国発祥の古代史を今に伝える聖域であり、更にこの祭場は神武天皇の時代における祭祀の原型を示す[三種の神器]奉斎の御霊域であります。

 私たちはここに至って速やかに御社殿の復興を図り御神徳の宣揚に最善を尽くさねばなりません。今やわが国の経済事情はまことに厳しいものがございますが、何卒応分の御協賛を賜りますようお願い申し上げます。
 尚、一口1000円より承っております。崇敬者の方々からのお心ある温かき御浄財を当宮浦宮へお寄せ戴きますよう重ねてお願いを申し上げます。

平成20年10月 宮浦宮 御造営奉賛会 会長 西 勇一

境内掲示板より

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【由  (History)】

由緒

醍醐天皇の御代、延長五年撰集の延喜式神名帳に所載の由緒ある古社である。

桃園天皇の御代、宝暦二年十二月十八日従二位神祇権大副卜部兼雄卿の昇階の事が天聴に達し、正一位の神階を授けられ、さらに勅許により御幣十三体を内陣に納め、「正一位宮浦大明神」の勅額を正面鳥居に掲げるところから、宮浦大明神と称される。

宗源勅旨の内容は、当社の御祭神の嫌いな事として、氏子が麻苧を作ること、正月二十五日(神武天皇の旅立たれた日であり、明治以前はこの日が例祭日であった)以前に機杼織ること、同日以前に灸をすることの三つがあって厳しいので、神位の昇叙により神慮の寛恕を得る事が記されている。

他に神武天皇に因み、「御駐蹕伝説地宮浦」と記した石碑や「腰掛石」と呼ばれる座椅子型の石があり、北方三キロ程の海岸に突出した若皇子鼻という地名は、かつてこの地を巡幸した神武天皇の若い時の御名・若御毛沼によるとの古伝がある。

社殿は寛政三年の大火で類焼し、当時の二十六代藩主斉宣公が再興したものといわれる。

鹿児島神社庁HPより
https://www.kagojinjacho.or.jp/shrine-search/area-airaisa/%E9%9C%A7%E5%B3%B6%E5%B8%82/1247/

【境内社 (Other deities within the precincts)】

・神貫神社《主》天之児屋根命,布刀玉命

・石上神社《主》経津主命,甕速日命

・竃門神社《主》火産霊神,《配》奥津彦神,奥津比女神

・門守神社《主》櫛石窓神

・門守神社《主》豊石窓神

・大綿津見神社《主》大綿津見神

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大隅国 5座(大1座・小4座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)曽於郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 宮浦神社(貞)
[ふ り が な ]みやうら かみのやしろ)
[Old Shrine name]Miyaura no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の
大隅国 5座(大1座・小4座)の式内社について

桑原郡 1座(大)鹿児島神社(大)

 鹿兒島神宮 霧島市隼人町

曽於郡 3座(並小)大穴持神社宮浦神社(貞)韓国宇豆峯神社(貞)

大穴持神社 霧島市国分広瀬
宮浦神社 霧島市富久山町
韓国宇豆峯(からくにうずみね)神社 霧島市国分上井

馭謨郡 1座(小)益救神社

益救(やく) 神社 屋久島町宮之浦

詳しくは次の記事をご覧ください

大隅国式内社〈5座〉について

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

隼人駅からR220号経由 海沿いに東南方向へ約14km 車25分程度錦江湾を挟んで桜島が見える景勝地に鎮座します

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一方 神社横の道を山へと上がるとR10号があり 都城へと通じていて水陸の通路が交わる拠点であったことがわかります
都城の北に在る高原〈神武天皇生誕の地の伝承地〉にも通じていて 宮浦宮に神武天皇の伝承が残っていることも容易に頷くことができます

社号標の正面には「延喜式内社 宮浦宮」 側面には「正一位 宮浦大明神 宣下 宮浦宮」と刻まれています
宮浦宮(Miyauragu)に参着
朱色の鳥居の先には 石段があり境内地は 海岸より多少の高台となっています 鳥居の柱の真後ろには 2本の大銀杏が社殿を挟むように聳え立っています

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一礼をして 鳥居をくぐり抜け 石段を上がります

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石段を上がると 平らに整地された境内地なっています 正面に社殿〈拝殿〉が見えていて その奥には高床式の本殿が建ち その両脇には朱色の境内社が並んで鎮座しています

特筆すべきは その更に両側に生えている大銀杏〈夫婦銀杏〉社殿の大きさと比較すると 大木であることがわかります

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初代 神武天皇が東征前の仮の宮居であったことを記念して お手植えになったものに後世植え継いだとされています

福山(ふくやま)のイチョウ

県指定文化財(天然記念物昭和39年6月5日指定

宮浦宮境内に並び立つイチョウは、神武天皇ご東征前の仮の宮居であったことを記念して植えられたと伝えられています。

イチョウは、イチョウ科に属する裸子植物中で唯一現存しているです。

向かって右の木寛政(かんせい)3年(1791)の大火によるがあり、左の木には明治10年(1877)の西南戦争で官軍から受けた砲弾の痕が見られます
これは歴史の重み伝える貴重な資料です。

 の木は、樹高38m・7.55m、左の木は、樹高38.6m・7.6m 樹齢は共に1000以上という説と600程度いう説があります

春先には、いっぱいに若葉を付け、秋は黄葉、初冬になると境内が黄色のじゅうたんを敷きつめたようになります
平成21年3月 霧島市教育委員会

境内案内板より

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拝殿にすすみます 扁額には「宮浦宮」と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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高床式本殿が奥に建ちます

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境内社お詣りをして 振り返ると 錦江湾の先に桜島が見えます 江戸時代や明治時代の諸書に風景佳絶なり」と紹介されていますが良くわかります
しかし 桜島の噴火でたびたび被災したらしく それも頷けます

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参道を戻り 鳥居抜けようとすると 鳥居の中に桜島が浮かび上がっています 

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

所在を福山の宮浦村と記しています

【意訳】

宮浦(ミヤウラノ)神社

今 当郡 福山々 宮浦村にあり 

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『三国名勝図会(Sangoku meisho zue)』〈天保14年(1843)〉に記される伝承

所在は「廻村」 祭神は「天神七代 地神五代 及び 神武天皇なり」
式内社であり 宝暦2年12月18日 正一位の神位宣下について詳しく記されています

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【意訳】

正一位 宮浦大明神 地頭館の辰巳 一町余り

廻村にあり
祭神13座 所謂 天神七代 地神五代 及び 神武天皇なり 13体各木坐像

延喜式 曽於郡 宮浦神社と載たるは 当社の事にて 式の大隅国五社の一なり
神祇道管領 従2位 卜部兼雄の執奏に依りて 宝暦2年12月18日 正一位の神位宣下あり 兼雄 官幣を授らる当社の祝官 坂元宮内盈富 上京し 勅宣 及び 官幣を奉て帰れり 翌年5月15日 これを寶殿に奉納す その詔云う 西海一方 赫々威光洋々神恩 万世永沐威徳宣授 極位以 輝祠檀云々 
但し 華表に 正一位 宮浦大明神 八字の勅額を掲らる 卜部 従2位 卜部兼雄筆
例祭 年中7度ありて その内 正月25日を大祭とす この日には 神の的とて 射法を行う 昔し 源三位頼政 鵺を射たりし 旧式にて 悪気を祓う神事とかや その神的は径り5尺8寸あり その的を当社の庭に懸け 神官2人 烏帽子狩衣て これを射る 

往昔 頼政の裔孫 兵庫太郎宋綱 当邑を賜りて 下り領し 累代 廻城に住し 廻村の内に厳島大明神社を勧請して 生土神と崇め その祭祀に行へる旧式なりしが その社 廃して後 この社に於いて執行すという また毎年 当邑 牧野の駒 青毛一匹を進納せらる故事なり

貫明公 当邑牧野の馬追を臨観し給いし時 当邑の地頭 山田越前守理安を従えて この社に詣り 社司を召して 牧野の蕃息を祈らしめ給い 馬一匹を当年より寄進せらる これより故事となり 享保11年より 金銭を奉して馬匹に充らるとぞ 当社は この邑の総鎮守たり 社地 海津に臨みて 風景佳勝なり 社司 坂元氏 別當不動院

〇諸宝物
劔2振
1振は 金剛劔と名け 長さ6寸8分 血漕ありて 銘字なし
1振を 獅子王といい 剣の長さ7寸4分 これも無銘にして 血漕あり
この金剛劔は 三位頼政内裏に於いて 鵺を射て 刺留し劔なりという
獅子王劔は その賞として賜わる劔なりといえり

廻氏 その末裔にて 世々希代の珍奇として宝蔵せしに 寛永13年 廻次郎兵衛頼次に 当社へ奉納せり
△御詠歌2首 大慈公 御寄附

△普門品一軸 今乞う御寄進

〇諸末社 陰陽社 陰陽2体を安道す
△神貫大明神 石神大明神社2社
荒神社
△霧島権現社
以上 皆 社庭にあり


〇神木 社庭にあり 木の寶と名く 住古は大樹なりしが 今は植次にて小木なり

【原文参照】(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)三国名勝図会1 三国名勝図会2 三国名勝図会3

『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

所在を福山の宮浦村 祭神は「天神七代 地神五代 社伝」と記しています

【意訳】

宮浦神社

宮浦は 美夜宇良と訓ずべし
〇祭神 天神七代 地神五代 社伝
〇福山郷宮浦宮に在す 神社考

神位 或記云 宝暦12年12月18日 被奉 授 正一位々記

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

祭神を神武天皇〈神倭伊波琵古命〉と記しています

【意訳】

宮浦神社

祭神 神倭伊波琵古命

祭日 2月4日 1118
社格 縣社
所在 福山郷宮浦村(姶良郡福山村大字福山)

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

祭神は神武天皇記されています

【意訳】

縣社 宮浦(ミヤウラノ)神社

祭神 神武天皇(ジンムテンノウ)

延喜式神名帳曽於郡 3座 並小 宮浦神社」とある神社なり
三国神社伝記に「鎮座 曽於郡福山郷 旧名 廻郷 当社 鎮座年暦 不詳 天神七代 地神五代の神と神武天皇までを併祀るとも云えり
神體 寶鏡3面 木造3體 頼眞卿 鵺を射給ひし時の賞に 近衛帝獅子丸と云う劔を下し給いしと云々 卿の子孫廻に下向して 右の劔を当社の宝殿に納める 今に現在すと云う 
当社 正一位の神位は 宝暦2年申4月産子中より願出 同12年18日宣下
同3年酉5月15日 口宣位記官奉納 御領国の内勅許に相成り

神社は初めての儀なり 祭米3斗5升 獅子丸剣 長さ7寸4分 金剛剣長さ6寸8部 神武天皇御剣と云伝 普門品一帖 右 文政4年8月斎興公より 御奉納 寺社奉行所より書附一通相添」とあり
又 地理簿考に「宮浦社は宝暦2年正一位宣下あり その勅宣を所蔵す 文に曰く 西海一方 赫々威光 これとみえたれば 洋々神恩 万世 永沐威徳宣授 極位以 輝祠檀云々 毎年例祭に射法を行う これ源三位頼政 鵺を射し旧式にて 往昔 頼政の裔孫 兵庫太郎宋綱 当郷を賜りて累代 仁田尾城に住みたり」と見えたれば 頼政の劔を奉納せりと伝わるは 憑據あることなり  

社記には 授位を享保2年と云えり 今は地方史の説に基づきて記しつ
明治6年5月縣社に列す

社殿は本殿 舞殿 拝殿具備し 境内地762あり 

境内社 神貫(カムスキノ)神社 荒神社 石(ジャク)神

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』

宮浦宮(Miyauragu) (hai)」(90度のお辞儀)

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『大隅国 式内社 5座(大1座・小4座)について』に戻る

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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