賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は 京都最古の歴史を有する一社です 往古この地を支配した古代氏族゛賀茂氏゛の氏神を祀る・上賀茂神社(かみがもじんじゃ)と・賀茂御祖神社〈下鴨神社〉で 賀茂神社〈賀茂社〉と総称されます 平安京への遷都後は皇城の鎮護社として祀られてきた 山城國一之宮です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
賀茂別雷神社(Kamowakeikazuchi shrine)
【通称名(Common name)】
・上賀茂神社(かみがもじんじゃ)
・上社(かみしゃ)
【鎮座地 (Location) 】
京都市北区上賀茂本山339
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおほかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・厄除・方除
・開運・八方除・雷除・災難除・必勝
・電気産業守護
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 山城國一之宮
・ 二十二社〈上七社〉
・ 旧 官幣大社
・ 別表神社
・ 世界文化遺産
【創 建 (Beginning of history)】
ようこそ、世界文化遺産・上賀茂神社へ
・神社の名称
正式には「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」ですが、通称「上賀茂神社(かみがもじんじゃ)」として皆様に親しまれています。
・ご祭神
賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)
・神様のお力
賀茂別雷神は、雷のような強い力で私たちに起こる全ての災いを祓い、幸せに導いて下さると共に、電気産業・農耕守護・国家安泰の神として崇敬されています。
賀茂別雷神をお祀りする神社が全国各地にあり、当神社と同様、地域の氏神として信仰されています。
・神社のはじまり
賀茂別雷神は神代(かみよ)の昔、本殿の後方約2キロメートルにある秀峰「神山(こうやま)」の頂上にある磐座(いわくら)にご降臨になりました。天武天皇(てんむてんのう)の白鳳(はくほう)6年(678)に神山を拝む形で現在の本殿の基となる建物<遥祭殿(ようさいでん)が建てられました。
二の鳥居を入った正面にある「立砂(たてすな)」は神山を表しており、本殿が無かった時代の祭場のなごりで、当神社の象徴です。
・社殿(建物)
境内23万坪(76万㎡)の中心である本殿と権殿(ごんでん:常設の仮殿)は文久3年(1863)造替(ぞうたい)で、「流造(ながれづくり)」と呼ばれる神社建築様式の代表建造物として国宝に、他の60棟程の桧皮葺(ひわだぶき)屋根の建物は寛永(かんえい)5年(1628)造替で、ほとんどが国の重要文化財に指定されています。
社殿他を維持継承するために定められた「式年遷宮(しきねんせんぐう)」の制度によって、平安時代とほとんど変わらない佇まいを今に伝えていることにより、平成6年に境内全域が世界文化遺産に登録されました。
現地案内板より
山城国一ノ宮
賀茂別雷神社(上賀茂神社)
御祭神 賀茂別雷(かもわけいかづち)大神
御神徳
・厄除
雷(いかづち)の御神威により厄を祓い、災を除き給う厄除明神として広く信仰されている。・方除
京都の鬼門の守り神として、方除の信仰が篤い。主な祭典
・賀茂祭(葵祭) 五月十五日 例祭
古く欽明天皇(六世紀)の御代より始まる。現在も皇室より勅使を御差遣になり祭が行われる。その行列は 王朝絵巻を見るが如く優雅で、総勢五百名、列の長さ八百米に及ぶ。京都三大祭の一つ。・競馬会神事 五月五日
当神社は競馬発祥の地と言われ、堀川天皇の御代(十一世紀)より殊に盛んとなり今日まで連綿として続いている。京都市登録無形文化財。・夏越祓 六月三十日
茅ノ輪をくぐり、人形(ひとがた)を流して罪穢を祓い清め、無事で健康な生活を祈願する行事。風そよぐならの小川の夕ぐれは
みそぎぞ夏のしるしなりけり
藤原家隆と百人一首にも詠われているように、当神社の夏越祓は鎌倉時代すでに有名であった。
・からす相撲 九月九日
神事役がからす鳴き、からすの横飛びなどして、童子が相撲をして神覧に供する珍しい行事。京都市登録無形文化財。楼門前の案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
神代の昔、本社の北々西にある秀峰神山に御降臨になり、天武天皇の御代(678)現在の本殿に御鎮座になった。
御鎮座以来広く庶民の信仰を集め、皇室の御崇敬は歴代にわたり、行幸啓は枚挙にいとまあらず、国家の重大事には必ず奉幣、御祈願があった。嵯峨天皇は皇女有智子内親王を斎院と定め、天皇の御杖代として御奉仕なさしめ給い、以来三十五代、約400年続いた。
「延喜式」では名神大社に列し、のち一ノ宮として尊崇せられた。又摂関賀茂詣、武家社参相次ぎ、特に徳川家は家紋の三ツ葉葵が、当神社の神紋二葉葵に関係があるところから、特別の信心を寄せた。
明治以後終戦まで、官幣大社として伊勢の神宮に次ぐ、全国神社の筆頭に位した。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
賀茂別雷神社(上賀茂神社)
解説
創建は古く7世紀末にはすでに有力な神社となり、平安時代以降は国家鎮護の神社として朝廷の崇敬を集め、11世紀初頭までに現在に近い姿に整えられた。
その後、神社の影響力が衰え、また、内乱の影響もあって17世紀初頭にはひどく衰微していたが、1628年に再興された。この再興は境内全体におよぶものであり、記録や絵図を参考に平安時代の状況が再現されることになった。
再興後は、17世紀1回、18世紀3回、19世紀3回の本殿造替が行われ、国宝に指定されている現在の本殿、権殿は1863年再建のものである。
近代には、本殿、権殿の半解体修理(1911)、屋根葺替修理(1972)が実施され、その他の社殿についても半解体修理、屋根葺替修理、部分修理が行われた。
本殿、権殿は同形同大で東西に並び、正面3間、側面2間、四周に縁をめぐらし正面に向拝をつけた形式で、檜皮葺、切妻造平入の屋根を基本に、前方の流れを長くした“流造”の古制をよく伝えている。
神社の聖域は、神社本体の後方もしくは周囲にある山や森林を含んでいることが特徴である。神社のこのような自然的特性はその歴史的環境に必要不可欠なものである為、賀茂別雷神社の推薦区域には神社後方にある神山を含んでいる。文化庁「文化遺産オンライン」HPより
https://bunka.nii.ac.jp/special_content/component/24
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉の境内・境外・摂社・末社についての詳細は
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市北区上賀茂本山)の摂社・末社について
〈摂社〉
・〈第一摂社〉片山御子神社
本殿(重要文化財)及び拝殿(重要文化財)は寛永5年(1628年)建立
《主》賀茂玉依姫命
式内社(大)「愛宕郡 片山御子神社」
・片山御子神社(京都市北区上賀茂本山)〈上賀茂神社 第一摂社〉
・新宮神社
本殿(重要文化財)及び拝殿(重要文化財)は寛永5年(1628年)建立 明治時代に独立するまで 式内社(名神大社)・貴船神社は当社の第二摂社であったが 山深い地にあり冬場には参拝が出来なかった そのために当地にその分霊が祀られるようになった これが新宮神社の始まりである
《主》高龗神
・〈境外摂社 第三摂社〉大田神社
《主》天鈿女命
明治時代までは第四摂社であったが 第二摂社であった貴船神社の独立により繰り上がった
式内社「愛宕郡 太田神社」
・大田神社(京都市北区上賀茂本山)
・若宮神社
本殿(重要文化財)は寛永5年(1628年)建立
《主》若宮神
・奈良神社
《主》奈良刀自神
・〈第五摂社〉賀茂山口神社
本殿と拝殿からなる
《主》御歳神
第五摂社(明治10年まで第七摂社)
式内社「愛宕郡 賀茂山口神社」
・賀茂山口神社(京都市北区上賀茂本山)〈上賀茂神社 境内摂社〉
・〈境外摂社 第六摂社〉久我神社
《主》賀茂建角身命
境外摂社 第六摂社(明治10年まで第八摂社)
式内社「愛宕郡 久我神社」
・久我神社(京都市北区紫竹下竹殿町)
・須波神社
-本殿は重要文化財
《主》阿須波神・波比祇神・生井神・福井神・綱長井神
式内社「愛宕郡 須波神社」
・須波神社(京都市北区上賀茂本山)
〈上賀茂神社の境内に鎮座〉
〈末社〉
・棚尾社《主》櫛石窓神・豊石窓神
本殿は重要文化財。
・川尾社《主》罔象女神
・橋本社《主》衣通姫神
・岩本社《主》底筒男神・中筒男神・表筒男神
・山尾社《主》大山津見神
・土師尾社《主》建玉依比古命
本殿は重要文化財(中門内 一般参拝不可)
式内社「愛宕郡 賀茂波爾神社」
・土師尾社(京都市北区上賀茂本山)
〈上賀茂神社 境内社〉(中門内 一般参拝不可)
・杉尾社《主》杉尾神
本殿は重要文化財
・山森社《主》素盞嗚神・稲田姫命・田心姫命
式内社「愛宕郡 賀茂山口神社」
式内社「愛宕郡 鴨岡太神社」
・山森神社(京都市北区上賀茂本山)〈上賀茂神社 境内末社〉
・梶田社《主》瀬織津姫神
・白鬚社《主》猿田彦神〈大田神社の境内〉
・百大夫社《主》船玉神〈大田神社の境内〉
・鎮守社《主》大国主神・少彦名神〈大田神社の境内〉
・福徳社《主》福徳神〈大田神社の境内〉
・藤木社《主》瀬織津姫神〈大田神社の境内〉
小森社《主》水分神〈緑町公園内〉
半木社《主》天太玉命
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉の境内・境外・摂社・末社についての詳細は
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市北区上賀茂本山)の摂社・末社について
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
桓武天皇は 即位から3年後の延暦3年(784)「長岡京(ながおかきょう)」への遷都を行いました 賀茂上下二社と松尾神社へ神階の叙を以て遷都である 記されています
【抜粋意訳】
延暦三年(七八四)十一月丁巳〈二十〉
○丁巳
遣 近衛中将正四位上紀朝臣船守 叙賀茂上下二社従二位 又遣兵部大輔従五位上大中臣朝臣諸魚 叙松尾乙訓二神従五位下 以遷都也
【原文参照】
『日本紀略(nihonkiryaku)』〈11世紀後半~12世紀頃 編纂と伝わる〉に記される伝承
桓武天皇は 延暦13年(西暦794年)に「長岡京(ながおかきょう)」から「平安京(へいあんきょう)」への遷都を行いました 賀茂上下二社と松尾神社へ神階の叙を以て遷都である 記されています
【抜粋意訳】
延暦十三年(七九四)十月丁卯
鴨松尾神 加階 以遷都也
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2「四時祭下」中の「相嘗祭神七十一座」
【抜粋意訳】
巻2 神祇2 四時祭下 十一月祭
相嘗祭神(あひむへのまつりのかみ)七十一座鴨別雷社一座
絹(キヌ)二疋、絲(イト)一絇一両、綿三屯、調布三端四丈、庸布一段一丈三尺、木綿一斤十両、鮑十両、堅魚二斤十両、腊(きたい)〈干し肉〉四斤、海藻二斤、凝海藻三斤、塩一升、筥一合、瓼(サラケ)、缶(モタイ)、水瓫(ホトギ)、山都婆波、小都婆波、筥瓶【瓦+并】、酒垂、匜、等呂須伎、高盤、片盤、短女坏、酒盞、筥坏、陶臼各二口、酒稲五十束、〈神税、〉
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ 春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
巻3 神祇3 臨時祭 名神祭 二百八十五座
園神社一座 韓神社二座〈已上坐宮内省、〉
賀茂ノ別雷ノ神社一座 賀茂御祖神社二座 松尾神社二座 稲荷神社三座 貴布祢神社一座 鴨川合神社一座 御井神社一座 葛野月読神社一座 木嶋坐天照御魂神社一座 平野神社四座 梅宮神社四座 乙訓神社一座 酒解神社一座〈亦号ニ山崎ノ神ト、〉〈已上山城國〉
・・・
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城国 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛宕郡 21座(大8座・小13座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 賀茂別雷神社(亦 若雷・名神大月次相嘗新嘗)
[ふ り が な ](かもわけいかつちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Watatsumi no mikoto no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
上賀茂神社・下鴨神社について
往昔は 賀茂氏(かもうじ)の氏神を祀る 二つで 一つの神社として 賀茂社(賀茂神社)と総称していまた
二社は それぞれ・上賀茂神社を「上社」・下鴨神社を「下社」と呼ばれます
両社の御神紋 ゛葵(二葉葵)゛
二葉葵が神紋となっているのは 賀茂別雷神の御神託「葵を飾って祭りをせよ」があり 賀茂別雷神が 神山(こうやま)の頂上にある磐座(いわくら)にご降臨されたと伝わる事に依ります
賀茂祭が 葵祭と云われるのもこの為です
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂別雷神社 亦若雷 名神大〈上賀茂神社〉
・〈上賀茂神社〉賀茂別雷神社(京都市)
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂御祖神社二座 並名神大〈下鴨神社〉
・〈下鴨神社〉賀茂御祖神社(京都市)
『山城國風土記逸文』゛上賀茂・下鴨の両神社の御祭神゛にまつわる伝承
神武天皇東征の際に道案内をした
八咫烏(やたがらす〈三本足のカラス〉)は 賀茂建角身命とされます
賀茂建角身命は はじめ日向の曽の峰に天降ったが 神武天皇の東征の先導役として倭の葛城山に至った
そこから〈大和の葛城山〉から 更に山背〈山城国〉に移り 岡田の賀茂に至った
〈これが現在の岡田鴨神社の辺り〉
延喜式内社 山城國 相樂郡 岡田鴨神社(大 月次 新嘗)(をかたかもの かみのやしろ)
・岡田鴨神社(木津川市加茂町北鴨村)
賀茂建角身命は さらに 山代河〈木津川〉沿いを下り進んで 鴨川と桂川(葛野川)が合流する所に到った
〈これが現在の久我神社(京都市伏見区久我森の宮町)の辺り〉
延喜式内社 山城國 乙訓郡 久何神社(くかの かみのやしろ)
・久我神社(京都市伏見区久我森の宮町)
賀茂建角身命は 賀茂河を御覧になり「狭い川だが清浄な川である」と言って「石川の瀬見の小川」と名付けた
〈合流地点は 現在の下鴨神社の辺り〉
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂御祖神社二座 並名神大〈下鴨神社〉
・〈下鴨神社〉賀茂御祖神社(京都市)
賀茂建角身命は さらに鴨川を遡り
久我國(くがのくに)の 北の山基(やまもと)に定(しづ)まり その地に鎮座した
賀茂建角身命は 丹波国の神野の神 伊可古夜日売(いかこやひめ)を娶って 兄の玉依日子と妹の玉依日売が生まれた
賀茂建角身の娘・玉依媛命が 「石川の瀬見の小川」の上流で 流れてきた丹塗りの矢を拾って持ち帰り 床の辺に挿しておくと懐妊し 御子〈賀茂別雷命〉を出産した
やがて御子〈賀茂別雷命〉が成長した時 祖父の賀茂建角身命が 八尋屋(やひろや)を造り 八戸の扉をたて 八腹の酒を醸し 神々を集めて7日7夜の酒宴を開いた
この時 祖父である建角身命が 御子に゛汝の父と思う神にこの酒を飲ませよ゛と命じると その御子〈賀茂別雷命〉は 盃をささげて天に向けて祭り 屋根の甍を突き抜けて天に昇ってしまった
〈現在の久我神社(京都市北区紫竹下竹殿町)の辺り〉
延喜式内社 山城國 愛宕郡 久我神社(こが/くが の かみのやしろ)
・久我神社(京都市北区紫竹下竹殿町)
このことから御子神は 外祖父の御名によって賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)と名づけられた 丹塗りの矢〈即ち父神〉とは 乙訓神社の火雷神(ほのいかづちのかみ)であったと云う
延喜式内社 山城國 乙訓郡 乙訓坐 大(火)雷神社(名神大 月次 新嘗)(をとくににます おほいかつち(ほのいかつち)の かみのやしろ)の論社
・角宮神社(長岡京市井ノ内南内畑)
・向日神社(向日市向日町北山)
〈向日神社に合祀の火雷神社〉
・菱妻神社(京都市南区久世築山町)
御子神が天に昇り 残された賀茂建角身命 賀茂玉依比売命が再び御子に会いたいと乞い願っていたある夜 賀茂玉依比売命の夢枕に御子が顕れ 「吾れに逢はんとは 天羽衣•天羽裳を造り 火を炬き鉢を捧げ 又走馬を餅り 奥山の賢木を採りて阿礼に立て 種々の絲色を垂で また葵楓の蔓を造り 厳しく餅りて吾をまたば来む」とのお告げを聞き その御神託に従って神迎の祭をしたところ 立派な成人のお姿となり 天より神として神山に御降臨されたと伝わります
〈これが現在の上賀茂神社の創建〉
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂別雷神社(亦 若雷・名神大 月次 相嘗 新嘗)(かもわけいかつちの かみのやしろ)
・賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市)
又 蓼倉里(たでくらのさと)三井社(みゐのやしろ) というのは 三身の神を祀る
その三柱は
・賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)
・丹波の伊可古夜日賣(いかこやひめ)
・玉依日賣(たまよりひめ)
この三柱神が 坐(まします)故に 三身社(みみのやしろ)と号(なづく) 今は三井社と云う
〈これが現在の三井社の創建〉
延喜式内社 山城國 愛宕郡 三井神社(名神大 月次 新嘗)(みゐの かみのやしろ)の論社
・三井社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社 境内〉
・三井社(三塚社)
〈下鴨神社の 境内に鎮座する 河合神社の境内社〉
『釈日本紀(shaku nihongi)〈文永元年(1264)~正安3年(1301)〉』に記される伝承
『釈日本紀 巻九』に『山城國風土記逸文』が所引されています
【抜粋意訳】
巻九
山城國風土記(やましろのくに ふどき)に曰(いは)く
可茂社(かものやしろ)
可茂(かも)と稱(いふ)は 日向(ひむか)の曾峯(そのたけ)に 天降(あもり)坐神(まししかみ)賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)なり
神倭石余比古(かむやまといはれひこ〈神武天皇〉)の御前(みさき)に立坐(たちまして)
大倭(やまと)の葛木山之峯(かづらきやまのみね)に宿坐(やどりまし)彼(そこ)より 漸(よふやく)に遷(うつ)り
山代國(やましろのくに)の「岡田の賀茂」に至りたまひ 山代河〈木津川〉の隨下(まにまにくだり)まして 葛野河(かどのがは〈桂川〉)と賀茂河(かもかは)との會所(あふところ)に至坐(いたりまし)
賀茂川を見迥(はる)かして 言(の)りたまう「狹小(さく)あれども 石川の淸川(すみかは)なり」とのりたまう 仍名(よりてなづけて)曰(いは)く 石川の瀬見(せみ)の小川と曰(いふ)彼川(そのかは)より 上坐(のぼりまして)久我國(くがのくに)の北の山基(やまもと)に定(しづ)まりましき
爾時(そのとき)より 名を賀茂と曰(いふ)賀茂建角身命 丹波國(たにはのくに)の神野(かみの)の神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)に娶(あ)ひて 生子(うみませるみこ)の名は 玉依日子(たまよりひこ)と曰(いひ) 次を玉依日賣(たまよりひめ)と曰(いふ)
玉依日賣(たまよりひめ) 石川の瀬見の小川に川遊びし時 丹塗矢(にぬりや)が 川上より流下(ながれくだり) 乃(すなわ)ち取りて 床の邊(へ)に插置(さしおき) 遂に孕(はら)みて男子(をのこ)を生む
成人となる時に至り 外祖父(おほぢ)建角身命(たけつのみのみこと)は 八尋屋(やひろや)を造り 八戸扉(やとのとびら)を竪(たて) 八腹酒(やはらのさけ)を醸(か)み 神集(かむつどへ)集(つどへて)七日七夜(なぬかななよ)樂遊(うたげ)したまひ
然(しかして)子と語らひて 言(のり)たまひ「汝(いまし)の父と思はむ人に 此の酒を飮ましめよ」とのりたまへば 即(やが)て 酒坏(さかづき)を擧(ささげて)天(あめ)に向き祭(まつ)らむと為(おも)ひ 屋甍(やのいらか)を分穿(わけうがち)天(あめ)に升(のぼ)りき乃(すなはち)外祖父(おほぢ)の名に因(よ)りて 可茂別雷命(かもわけいかつちのみこと)と號(なづく)
謂(いはゆる)丹塗矢(にぬりや)は 乙訓郡(おとくにのこほり)の社(やしろ)に 坐(いませる)火雷神(ほのいかつちのかみ)なり
可茂建角身命(かもたけつのみのみこと)丹波(たには)の伊可古夜日賣(いかこやひめ)玉依日賣(たまよりひめ)三柱(みはしら)の神は 蓼倉里(たでくらのさと)三井社(みゐのやしろ)に坐(います)
又曰(またいはく)
蓼倉里(たでくらのさと)三井社(みゐのやしろ)と稱(いふ)は 三身の神 賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)なり 丹波(たには)の伊可古夜日賣(いかこやひめ)玉依日賣(たまよりひめ)なり
三柱神が 坐(まします)故に 三身社と號(なづく)を 今漸くに三井社と云う
【原文参照】
この伝承について 更に知りたい方は
『賀茂注進雑記』釈注と口語訳素案 賀茂県主同族会歴史勉強会を参照されると良いと想います
http://www.kamoagatanushi.or.jp/Mitarashi/9/4.pdf
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
叡山電鉄鞍馬線 二軒茶屋駅から南下して約3.1km 車6分程度
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市)に参着
一礼をして 一の鳥居をくぐり 参道を進みます
参道には゛節分厄除祈願゛の幟旗が立ち並んでいました
参道をすすみ 二の鳥居をくぐり抜けると白砂の敷き詰められた境内に 土屋 橋殿 細殿が建ちます
二ノ鳥居を入った正面細殿の前には ゛立砂(たてずな)゛が盛られています
立砂は〈神代の昔ご祭神が最初に降臨された「神山(こうやま)」〉を象ったもので 頂に三本と二本の松の葉が立てられ 陽と陰の一対になっています
参拝順路は 細殿の裏手に回り込むように進みます
すると 「神山(こうやま)の湧水」を利用した 手水舎があり 清めます
片岡橋を渡り 楼門へと進んでいきます
中門にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝観料を納めれば 御本殿の拝観が可能てす
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
賀茂別雷神社 亦名若雷、名神大月次相嘗新嘗
賀茂は 仮字也、和名抄、〔郷名部〕賀茂、』別雷は和氣伊加豆智と訓べし
○祭神 可茂別雷神〔風土記〕〔〇頭注云、八咫烏、高皇産霊尊之苗裔也、○一説に、瓊々杵尊、又は饒速日命といふ、今從はず、〕
○上賀茂村に在す〔山城志〕
○亦名 若雷の四字は後人加筆なるべし〔古事記に、左手者若雷居云々、并八雷神成居とある若雷とは、同名異神也、爰は別名の伝へのありしを、記せるのみ也、もとより加と気は音通へば、畢竟同じ事也、されど本朝月令に引たる、加茂旧記若雷神の天に登らしゝを云々とあるをみれば、昔は常に若雷と称しゝにもやあらん、〕
○式二〔四時祭下〕相嘗祭七十一座、鴨別雷社一座、』
同三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、〔中略〕山城國賀茂別雷神社一座、」
祈雨祭神八十五座、〔並大〕賀茂別雷社一座、○当國一宮也、〔一宮記云、號ニ上社大山咋神也、號ニ別雷 母玉依姫、武角身命と云り、されど別雷神は大山咋神には非ず、大山咋神は所謂 丹塗矢の霊にて、別雷神の父神なる事、風土記の文にて明か也、はた他書にみゆる事なければ從ひ難しと云べし〕
○江家次第、祈年穀奉幣、賀茂上下〔参議一人、次官五位一人、」〕
廿二社注式云、上七社、賀茂〔幣数二本〕○拾芥抄云、三十番神、賀茂〔十二日〕
○廿一社記云、今下上二社在之、下ハ鴨ノ御祖、上賀茂ハ別雷ト號、〔鴨賀茂音通歟、今下上各別ニ用也、〕雖為ニ鴨賀茂各別、以ニ賀茂、為本、下上ト云事ハ、依ニ御祖儀歟、云々、〔廿二社本縁同〕
〇釈日本紀云、山城風土記云、可茂社、称ニ可茂者、日向曽之峯〔袖中抄、作曽之高千穂峯〕天降坐神、賀茂建角身命也、神倭磐余比古之御前立座〔抄作上坐〕而、宿座ニ大倭葛木山之峯、自彼漸遷、至ニ〔抄作至給〕山城國岡田之賀茂、随ニ山代河下坐、〔抄作ニ下坐坐〕葛野河與ニ賀茂河所曾至〔一本作立〕坐、廻見ニ賀茂川而言、雖ニ狭少然石川清川在、仍名曰ニ石川瀬見小川、自ニ彼川上座、定ニ座久我國之北山基、從ニ爾時名曰ニ賀茂、」
頭注云、同風士記云、賀茂建角身命、娶ニ丹波神野〔抄無神ニ野二字〕神伊賀古夜日女、生子名曰ニ玉依日子、次曰ニ玉依姫、玉依姫於ニ石川瀬見小川之邊為遊時、丹塗矢自ニ川上流下、乃取挿ニ置床邊、遂孕〔抄作ニ遂感孕〕生ニ男子、至ニ成人時、外祖父建角身命、造ニ八尋屋、〔一本作殿〕竪ニ八戸扉、醸ニ八腹酒而、神集々而、七日七夜楽遊、然與子語言、汝父〔抄作ニ與汝父〕将思人令飲此酒、即挙ニ酒杯向天為祭、分ニ穿屋甍而升ニ於天、乃因ニ外祖父之名、號ニ可茂別雷命、〔抄作神〕所謂丹塗矢者、乙訓社〔抄作郡〕坐火雷命、」
本朝文集云、〔色葉字類抄引用〕御祖多久須玉依媛命、始遊ニ川上時、有ニ美箭流来、依身即取之挿ニ床下、夜化ニ美男相副、既知ニ任身、遂生男子、不知其父云々、吾天神御子乃上天也、干時御祖神当恋慕哀夜夢、天御子云々、造葵楓鰻巌箭待之、山本坐天神御子孫称別雷神、
類社
山城國相樂郡岡田鴨神社、〔大月次新嘗〕摂津國島下郡三島鴨神社、河内國高安郡、摂津國河辺郡、伊勢國渡会郡、同国員弁郡、備前國津高郡、同國児島郡、阿波國美馬郡、讃岐國阿野郡鴨神社、〔各一座〕
備前国赤坂郡鴨神社三座、〔巳上鴨の字を用ふる分〕上野國山田郡、加賀國加賀郡、淡路國津名郡、土佐國幡多郡賀茂神社、〔各一座〇巳上賀茂の字を用ふる分〕伊勢國員辮郡賀毛神社、伊豆國賀茂郡加毛神社二座、美濃國安八郡加毛神社、〔連胤〕云、前件の数社、或は鴨、賀茂、賀毛、加毛と書る、皆假字なるベし、さて其本縁詳ならざるが多しといへども、暫く集め置くこと、乙訓郡火雷神社の條に准ず、
四至
類聚三代格、承和十一年十二月廿日、太政官符、応令神戸百姓護鴨上下大神宮辺川原並野事、四至、御組社、〔東限寺田南限故参議左近衛大将大中臣朝臣諸魚宅北路末、西限百姓宅地并公田、北限槐材下里南鴨井寺田〕
別雷社〔東限路并百姓宅地、南限道并百姓宅地公田、西限鴨川、北限梅原山〕右得ニ山城國解称、依ニ太政官去十一月四日符、仰ニ愛宕郡司令禁ニ獲件社辺河、而郡司解称、郡中揺丁数少、無人差充、望請似在此郡神戸百姓、分番令禁守、若致汗穢、永出神戸、以公戸民相替補入者、國加覆審、所陳有實、謹請官裁者、左大臣宣、依請、造営 修理
廿二社注式云、天武天皇白鳳六年丁丑二月丙子、令ニ山背国営賀茂宮云々、続日本紀、延暦三年十一月乙丑、遣使修理賀茂下上二社、〔こは長岡宮に遷都の時也〕神位
續日本紀、延暦三年十一月丁巳、遣ニ近衛中将正四位上紀朝臣船守、叙賀茂下上二社從二位、以ニ遷都也、〔こは長岡宮に遷る時也〕日本紀略、延暦十三年十月丁卯、鴨神加階、以遷都也、〔こは平安京に遷る時也〕大同二年五月戊子、賀茂別雷神奉授正一位、
官幣 神宝
續日本紀」延暦三年六月壬子、遣ニ参議近衛中將正四位上紀朝臣船守於賀茂大神社奉幣、以告ニ遷都之由焉、』
三代實録、貞観十二年十一月十七日乙丑、分ニ遣使者諸社、奉ニ鋳銭司及葛野鋳銭所新鋳銭、賀茂御祖 別雷両社使前安芸介從五位下大中臣朝臣是直、同十四年十二月二十三日癸巳、今春已後、内外頻見怪異、由是分遣使者諸神社、奉幣、以参議民部卿正四位下兼行春宮大夫南淵朝臣年名、為賀茂両社使、」元慶4年2月5日己丑、遣正四位下行右京大夫兼山城権守基棟王、向於賀茂御祖別雷両社奉幣、告以大極殿成、
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・・・・・齋院
諸神紀云、齋院、弘仁元年卜定始之、有智子内親王、〔嵯峨天皇御女〕嘉陽門院礼子内親王、〔後鳥羽院皇女〕元久元年卜定以後断絶、」
日本紀略、弘仁九年五月乙巳、始置齋院司、云々、
齋院記云、嵯峨天皇與平城天皇昆弟之情不睦、故為ニ祈願特設ニ齋院、使ニ皇女有智侍焉、社職 把笏
続日本紀、天応元年三月戊申、令ニ賀茂神二社禰宜祝等始杷笏、」
文徳実録、仁寿元年四月戊午、授賀茂別雷神禰宜賀茂縣主益雄外從五位下、」
三代実録、元慶八年四月三日癸巳、授ニ賀茂別雷神社禰宜正七位下鴨縣主貞基外從五位下、姓氏録、〔山城國神別〕賀茂縣主、神魂命孫武津之身命之後也、また鴨縣主、賀茂縣主同祖、神日本磐余彦天皇〔諡神武〕欲向ニ中洲之時、山中険絶跋渉失路、於是神魂命孫鴨建津之身命、化如ニ大鳥、翔飛奉導、遂達ニ中洲、時天皇喜ニ其有功、特厚褒賞、八咫烏之號從此始也、
焼亡
百練抄、嘉承元年四月十三日、賀筏別雷社焼亡、御正躰奉移ニ貴布禰社、雑事
式三、〔臨時祭〕凡鴨御祖別雷熱田之社神税穀者、社用之外不得用、雖充ニ社用、申ニ弁官待執、」
百錬抄、永延元年三月十六日、諸卿定申賀茂別雷社鳥居側堀出往古銭七百八十文事、可令ニ諸道勘申由宣下、」
永祚元年六月十九日、鴨社御殿前大樹転倒、数星自ニ樹中飛、指南連去、」
仁安元年七月、近日仁和寺辺女夢云、依ニ天下政不法、賀茂大明神幷ニ日本國可令渡ニ他所云々、去月并今月上旬両度有ニ此夢、仍賀茂社司等参ニ内并摂政第申之、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
賀茂別雷(カモワケノイカヅチノ)神社(亦若雷・名神大月次相嘗新嘗)
祭神 賀茂別雷神
今按 別雷神は 大山咋神の玉依日賣に娶て坐る御子なること 年中行事秘抄に引 賀茂舊記に御祖(ミオヤ)多々須玉依媛(タタスタマヨリヒメノ)命 始遊ニ川上 時有ニ美箭流来 依身ニ即取之挿 床下 夜化ニ美男到 相副テ既ニ知ニ任身 遂生ニ男子 不知ニ 其父於 是爲 知ニ其父乃造 宇氣比(ウケヒ)酒ヲ 令下 子持ニ杯酒供 父 此ノ子持酒ヲ振リ上ゲテ 於天雲ニ而云ヒテ 吾ハ 天ツ神ノ御子ナリト乃上 天干時 御祖ノ神等 戀慕 哀思夜ノ夢ニ天神御子ノ云 各將逢ハムト 吾ニ造ニ 天ノ衣ノ裳 炬火ヲ撃 鉾又錺ヲテ走ヲ馬取ニ奥山ノ賢木(サカキ)ヲ立ニ阿禮(アレ)ヲ垂ニ 種々彩色ヲ 又造ニ葵楓ノ鬘(カヅラ)ヲ 巌錺ヲヤ待テ之吾將来也 御祖ノ神 即随ニ夢教命 彼ノ神ノ祭ニ用ニ 走馬並 葵楓ノ鬘(カヅラ)ヲ 此之縁因也 山本ニ坐ス 天ツ神ノ御子ヲ 稱ニ別雷ノ神ト とみゆ 御祖神社の條下に引る 縁起の文と合せて知べし
神位
桓武天皇 延曆三年十ー月丁已 遣ニ近衛中將正四位上 紀朝臣船守諸叙 賀茂下上二社從二位 十三年十月丁卯 鴨神加階以ニ遷都也 平城天皇 大同二年五月庚寅 賀茂別雷神奉従正一位〔十三年巳下 日本紀略〕祭日 四月十五日
社格 官幣大社所在 上加茂村(愛宕郡上賀茂村大字上賀茂)
【原文参照】