久我神社(京都市北区紫竹下竹殿町)〈上賀茂神社 境外摂社〉

久我神社(くがじんじゃ) 延喜式内社 山城國 愛宕郡 久我神社(こが/くが の かみのやしろ)です 祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)゛〈神武天皇東征の時 先導した八咫烏(やたがらす)とされ 賀茂別雷神社上賀茂神社の祭神 賀茂別雷命の祖父〉を祀ります 上賀茂神社の境外摂社となっています

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

久我神社Kuga shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

京都府京都市北区紫竹下竹殿町47

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)

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【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

航空、交通 安全の守り神

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・ 賀茂別雷神社(上賀茂神社)の第八摂社境外

【創  (Beginning of history)】

賀茂別雷神社 第八摂社 久我神社
祭神

 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)一柱一座

御神徳

 御祭神が八咫烏(やたからす)となって道案内をされた御事蹟により、航空、交通 安全の守り神として広く信仰され、又近隣各町の氏神として敬われている。

御由緒

 延喜式内の古社。神武天皇御東進の際、八咫烏と化って皇軍を導き給(たま)い、賊徒の平定に功をたて、のち山城国に入り、この地方に居を定めて専ら国土の開発、殖産興業を奨め給うた最初の神であって、 賀茂県主の祖神である。
本殿は一間社流造りで、拝殿と共に寛永五年(一六二八年)の造営である。
鎮祭当時より大宮と称えられたので、その前の通りを大宮通りと呼ぶようになったと言う。

京都市の指定史跡である。

祭典

例 祭 四月一日、十一月一日
神幸祭 十一月三日
八朔祭 九月一日
現地案内板より

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京都指定史跡

久我神社境内

 この神社は、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祭神とする延喜式内社で、現在は上賀茂神社の境外摂社です。
神社の創建年代は不詳ですが、「三代実録」の貞観元年(859)正月27日条に祭神を従五位下に叙されているのが初見です。鎌倉時代以降は氏神社と称しましたが、明治5年(1872)に久我神社と元の名称に復しました。

 現在、江戸時代に建てられた本殿と拝殿があり、本殿は一間社流造で上賀茂神社の各摂社と同じ造りです。また、拝殿は左右に庇が付く切妻造りで、妻側を正面とする特異なものです。

 「雍州府志」によると、この付近は大宮の森と呼ばれ、神社にはその面影を残す巨樹が繁茂し、また、祭神の伝承から古代氏族の賀茂県主(かもあがたぬし)との関係も深く、京都の歴史を明らかにする歴史的環境を良好に残している。

昭和62年5月1日 指定 京都市

現地案内板より

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【由  (History)】

賀茂別雷神社 摂社  久我(くが)神社略記
鎮座地

  京都市北区紫竹下竹殿町四十七番地

御祭神

 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)一柱一座

御由緒

 当神社は延喜式神名帳記載の古社である。

その昔 初代天皇である神武天皇が、軍隊を率いて九州から東の方に進まれ、紀伊国(和歌山県)の熊野に上陸されたが険しい山中に迷い、その上敵軍に遭って非常に困っておられると、一羽の大きな烏(八咫烏(やたがらす)と言う)が現われた。夢のお告げの通り天皇はこの烏の導くままに進まれて、遂に大和 (奈良地方)を平定され橿原の宮で即位され、今日の日本の基を造られた。

この時八咫烏となって道案内をされたのが御祭神の賀茂建角身命であって、その功により山域国 (京都地方)を賜り、建角身命は一族の賀茂県主族を率いて山域国に移り、賀茂川の上流のこの地に住まわれた。後に建角身命の功績を讃えてお祀りしたのが当神社の始めである。

その当時より当神社は「大宮」と敬称された為、その前の通りを「大宮通」と称された。 又建角身命の御子神である玉依比売命が懐妊され、生まれた神様が賀茂別雷神でお祀りしたのが賀茂別雷神社 (上賀茂神社 )である。

中世から近世にかけては、賀茂県主族の祖神であるので「氏神社」とも呼ばれたが、現在は近隣約四十ケ町の氏神として、且つ八咫烏の故事に因み航空・交通安全の守護神として広く信仰されている。

御社殿

 本殿 (一間社流れ造 )拝殿 (入母屋造 )共に寛永五年(一六二八)の造り替えで、檜皮葺の屋根を有す。

御典日

 四月一日(春祭)・十一月一日(秋祭)牽馬の儀有り
 十一月三日 (神幸祭) 町内神與巡行
 九月一日(八朔祭 はっさくさい
 旧暦八月ー日に行う虫除けの祭 夕刻 氏子中より万灯奉納

その他

 「久我神社境内」は昭和六十二年五月一日に京都市智定史跡に指定。近隣の縁町公園内に末社小森社がある。

拝殿に置かれた由緒書きの紙より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

久我神社京都市北区紫竹下竹殿町〈上賀茂神社の第8摂社〉は 賀茂別雷神社京都市北区上賀茂本山の境内に鎮座します

・賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市)

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉の境内・境外・摂社・末社についての詳細は

賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市北区上賀茂本山の摂社・末社について

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

京畿七道諸神 総267社が 神階の奉授がなされ 山城國 久我神 従五位下 と記されています

【抜粋意訳】

卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申

○廿七日甲申

京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社

奉授
淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品
備中國 三品吉備都彦命二品

神祇官 无位神産日神。高御産日神。玉積産日神。生産日神。足産日神並從一位。 无位生井神。福井神。綱長井神。波比祇神。阿須波神。櫛石窓神。豐石窓神。生嶋神。足嶋神並從四位上

宮内省 從三位園神。韓神並正三位。大膳職正四位下御食津神從三位。左京職從五位上太祝詞神。久慈眞智神並正五位下。大膳職從五位下火雷神。大炊寮從五位下 大八嶋竈神八前。齋火武主比命神。内膳司從五位下庭火皇神。造酒司從五位下大戸自神等 並從五位上。无位酒殿神從五位下。

山城國
正二位勳二等 松尾神從一位
葛野月讀神。平野 今木神並正二位
正四位下 稻荷神三前並正四位上
正四位下 大若子神。小若子神。酒解神。 酒解子神並正四位上
平野從四位下 久度古開神從四位上
正五位上 貴布禰神。正五位下乙 訓火雷神。從五位上水主神等並從四位下
正五位下 合殿比神正五位上
從五位下 樺井月讀神。木嶋天照御魂神。和攴神並正五位下
從五位下 祝園神。天野夫攴賣神。 岡田鴨神。岡田園神。樺井月神。棚倉孫神。許波多神。出雲井於神。片山神。 鴨川合神等並從五位上
正六位上 與度神。石作神。向神。簀原神。鴨山口神。小野神。久我神。高橋神。雙栗神。水度神。伊勢田神。无位小社神 並從五位下

・・・
・・・

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛宕郡 21座(大8座・小13座)

[名神大 大 小] 式内

[旧 神社 名称 ] 久我神社
[ふ り が な ]が/くが の かみのやしろ
[Old Shrine name](Kuga/Koga no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

久我神社上賀茂神社8摂社〉は 賀茂別雷神社京都市北区上賀茂本山の境外に鎮座します

賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉の境内・境外・摂社・末社についての詳細は

賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市北区上賀茂本山の摂社・末社について

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『山城國風土記逸文』゛上賀茂・下鴨の両神社の御祭神゛にまつわる伝承

神武天皇東征の際に道案内をした
 八咫烏(やたがらす三本足のカラスは 賀茂建角身命とされます

賀茂建角身命は はじめ日向の曽の峰に天降ったが 神武天皇の東征の先導役として倭の葛城山に至った

そこから〈大和の葛城山から 更に山背〈山城国〉に移り 岡田の賀茂に至った

これが現在の岡田鴨神社の辺り

延喜式内社 山城國 相樂郡 岡田鴨神社(大 月次 新嘗)(をかたかもの かみのやしろ)

・岡田鴨神社(木津川市加茂町北鴨村)

賀茂建角身命は さらに 山代河木津川沿いを下り進んで 鴨川と桂川(葛野川)が合流する所に到った

これが現在の久我神社(京都市伏見区久我森の宮町)の辺り

延喜式内社 山城國 乙訓郡 久何神社(くかの かみのやしろ)

・久我神社(京都市伏見区久我森の宮町)

賀茂建角身命は 賀茂河を御覧になり「狭い川だが清浄な川である」と言って「石川の瀬見の小川」と名付けた

合流地点は 現在の下鴨神社の辺り

延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂御祖神社二座 並名神大〈下鴨神社〉

〈下鴨神社〉賀茂御祖神社(京都市)

賀茂建角身命は さらに鴨川を遡り 

久我國(くがのくに)の 北の山基(やまもと)に定(しづ)まり その地に鎮座した

賀茂建角身命は 丹波国の神野の神 伊可古夜日売(いかこやひめ)を娶って 兄の玉依日子と妹の玉依日売が生まれた

賀茂建角身の娘・玉依媛命が 「石川の瀬見の小川」の上流で 流れてきた丹塗りの矢を拾って持ち帰り 床の辺に挿しておくと懐妊し 御子〈賀茂別雷命を出産した
やがて御子〈賀茂別雷命〉が成長した 祖父の賀茂建角身命が 八尋屋(やひろや)を造り 八戸の扉をたて 八腹の酒を醸し 神々を集めて7日7夜の酒宴を開いた

この時 祖父である建角身命が 御子に゛汝の父と思う神にこの酒を飲ませよ゛と命じると その御子〈賀茂別雷命〉は 盃をささげて天に向けて祭り 屋根の甍を突き抜けて天に昇ってしまった

このことから御子神は 外祖父の御名によって賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)と名づけられた 丹塗りの矢〈即ち父神〉とは 乙訓神社の火雷(ほのいかづちのかみ)であったと云う

現在の久我神社(京都市北区紫竹下竹殿町)の辺り

延喜式内社 山城國 愛宕郡 久我神社(こが/くが の かみのやしろ)

・久我神社(京都市北区紫竹下竹殿町)

御子神が天に昇り 残された賀茂建角身命 賀茂玉依比売命が再び御子に会いたいと乞い願っていたある夜 賀茂玉依比売命の夢枕に御子が顕れ 「吾れに逢はんとは 天羽衣•天羽裳を造り 火を炬き鉢を捧げ 又走馬を餅り 奥山の賢木を採りて阿礼に立て 種々の絲色を垂で また葵楓の蔓を造り 厳しく餅りて吾をまたば来む」とのお告げを聞き その御神託に従って神迎の祭をしたところ 立派な成人のお姿となり 天より神として神山に御降臨されたと伝わります

これが現在の上賀茂神社の創建

延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂別雷神社(亦 若雷・名神大 月次 相嘗 新嘗)(かもわけいかつちの かみのやしろ)

・賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市)

『釈日本紀(shaku nihongi)〈文永元年(1264)~正安3年(1301)〉』に記される伝承

『釈日本紀 巻九』に山城國風土記逸文が所引されています

【抜粋意訳】

巻九

山城國風土記(やましろのくに ふどき)に曰(いは)く

可茂社(かものやしろ)

可茂(かも)と稱(いふ)は 日向(ひむか)の曾峯(そのたけ)に 天降(あもり)坐神(まししかみ)賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)なり

神倭石余比古(かむやまといはれひこ〈神武天皇〉)の御前(みさき)に立坐(たちまして)
大倭(やまと)の葛木山之峯(かづらきやまのみね)に宿坐(やどりまし)彼(そこ)より 漸(よふやく)に遷(うつ)り

山代國(やましろのくに)の「岡田の賀茂」に至りたまひ 山代河〈木津川〉の隨下(まにまにくだり)まして 葛野河(かどのがは〈桂川〉)と賀茂河(かもかは)との會所(あふところ)に至坐(いたりまし)
賀茂川を見迥(はる)かして 言(の)りたまう「狹小(さく)あれども 石川の淸川(すみかは)なり」とのりたまう 仍名(よりてなづけて)曰(いは)く 石川の瀬見(せみ)の小川と曰(いふ)

彼川(そのかは)より 上坐(のぼりまして)久我國(くがのくに)の北の山基(やまもと)に定(しづ)まりましき
爾時(そのとき)より 名を賀茂と曰(いふ)

賀茂建角身命 丹波國(たにはのくに)の神野(かみの)の神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)に娶(あ)ひて 生子(うみませるみこ)の名は 玉依日子(たまよりひこ)と曰(いひ) 次を玉依日賣(たまよりひめ)と曰(いふ)

玉依日賣(たまよりひめ) 石川の瀬見の小川に川遊びし時 丹塗矢(にぬりや)が 川上より流下(ながれくだり) 乃(すなわ)ち取りて 床の邊(へ)に插置(さしおき) 遂に孕(はら)みて男子(をのこ)を生む

成人となる時に至り 外祖父(おほぢ)建角身命(たけつのみのみこと)は 八尋屋(やひろや)を造り 八戸扉(やとのとびら)を竪(たて) 八腹酒(やはらのさけ)を醸(か)み 神集(かむつどへ)集(つどへて)七日七夜(なぬかななよ)樂遊(うたげ)したまひ
然(しかして)子と語らひて 言(のり)たまひ「汝(いまし)の父と思はむ人に 此の酒を飮ましめよ」とのりたまへば 即(やが)て 酒坏(さかづき)を擧(ささげて)天(あめ)に向き祭(まつ)らむと為(おも)ひ 屋甍(やのいらか)を分穿(わけうがち)天(あめ)に升(のぼ)りき

乃(すなはち)外祖父(おほぢ)の名に因(よ)りて 可茂別雷命(かもわけいかつちのみこと)と號(なづく)

謂(いはゆる)丹塗矢(にぬりや)は 乙訓郡(おとくにのこほり)の社(やしろ)に 坐(いませる)火雷神(ほのいかつちのかみ)なり

可茂建角身命(かもたけつのみのみこと)丹波(たには)の伊可古夜日賣(いかこやひめ)玉依日賣(たまよりひめ)三柱(みはしら)の神は 蓼倉里(たでくらのさと)三井社(みゐのやしろ)に坐(います)

又曰(またいはく)
蓼倉里(たでくらのさと)三井社(みゐのやしろ)と稱(いふ)は 三身の神 賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)なり 丹波(たには)の伊可古夜日賣(いかこやひめ)玉依日賣(たまよりひめ)なり

三柱神が 坐(まします)故に 三身社と號(なづく)を 今漸くに三井社と云う

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『釈日本紀』文永元年(1264)~正安3年(1301)写本(模写本)明治 著者:卜部懐賢https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『釈日本紀』文永元年(1264)~正安3年(1301)写本(模写本)明治 著者:卜部懐賢https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『釈日本紀』文永元年(1264)~正安3年(1301)写本(模写本)明治 著者:卜部懐賢https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『釈日本紀』文永元年(1264)~正安3年(1301)写本(模写本)明治 著者:卜部懐賢https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

この伝承について 更に知りたい方は

『賀茂注進雑記』釈注と口語訳素案 賀茂県主同族会歴史勉強会を参照されると良いと想います
http://www.kamoagatanushi.or.jp/Mitarashi/9/4.pdf

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

地下鉄 烏丸線 北大路駅から西北方向へ約1.7km 車6分程度

境内への入り口は 東側と西側の二ヶ所にあり 社頭には西向きに 朱鳥居が建っています

久我神社京都市北区紫竹下竹殿町に参着

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社号標には゛賀茂別雷神社摂社 久我神社゛と刻字されています

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一礼をして 鳥居をくぐると 背後を大宮の森に包まれて 南向き社殿が建っています 西側の鳥居をくぐったので 真横から南向き社殿を眺めることになります

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拝殿にすすみます

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航空 交通 安全の守り神とされますので
扁額には゛航空安全゛と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の後方には 一間社流造の本殿寛永五年(1628)建立鎮座します

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社殿に一礼をして 境内を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 久我神社について 所在は゛下鴨村御祖社の北に在す゛〈近世まで 下鴨神社にあった 久我社と称する小祠(現在は消滅)〉

【抜粋意訳】

久我神社

久我は 古賀と訓べし

○祭神 建角身命頭注祭事記

○下鴨村御祖社の北に在す名勝志

○山城風士記云、賀茂建角身命云々、定坐久我国之北山基爾時名曰賀茂、全文別雷社條下に出す

○御祖社の未社也

山城志云、山口波爾久我末刀神社、混雑下賀茂小祠、今不可考、

類社
 山城國 乙訓郡 久何神社

神位
 三代実録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授山城國正六位上久我神從五位下、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 久我神社について 所在は゛東紫竹村大宮森にあり 氏神社といふ、゛〈現 久我神社京都市北区紫竹下竹殿町〉と記しています

【抜粋意訳】

久我(クガノ)神社

今 東紫竹村大宮森にあり 氏神社といふ、〔式社考証〕

賀茂建角身命を祀る、〔釋日本紀、神名帳頭注〕

初 建角身命 賀茂河より上り坐て、久我國 北の山基に鎭す、盖是也、〔釋日本紀、袖中鈔〕

清和天皇 貞観元年正月甲申、正六位上久我神從五位下く、〔三代実録〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 久我神社について 所在は゛東紫竹林大宮森゛〈現 久我神社京都市北区紫竹下竹殿町〉と記しています

【抜粋意訳】

久我(コガノ)神社 稱ニ氏神社

今按 賀茂縁起に 賀茂大神 御社稱ニ 賀茂者 日向ノ曾之高千穂ノ峯ニ天降リ坐シテ神 賀茂建角身命也 神倭磐余比古天皇之御前ニ立テ上坐シテ而 宿ニ坐 大倭葛木山之峰 自彼浙遷テ 至山代國岡田之賀茂 随ニ山代河下坐テ葛野河ト興 賀茂河所ニ會ニ至リ 坐シテ逈ニ見ニ賀茂川 面言雖(アリタヒキトモ)ニ狭小(サクチイサカシ)然石河ノ清川在(キヨカハナリト)
仍 名號ニ石河瀬見小川 自彼 河上坐 定久我國之 北山基 従爾時 名曰爾時 名曰ニ賀茂也とみえ 釋日本紀に賀茂建角身命 山城國愛宕郡久我神社とあるにて祭神明らか也

神位
清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申、正六位上久我神從五位下く、

祭日 四月十一月一日
社格 村社

所在 東紫竹林大宮森(愛宕郡大宮村大字西賀茂村字竹殿)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

久我神社京都市北区紫竹下竹殿町 (hai)」(90度のお辞儀)

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・賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市)

賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉の境内・境外・摂社・末社についての詳細は

賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市北区上賀茂本山)の摂社・末社について

山城国 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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