出石神社(豊岡市出石町)〈式内社 伊豆志坐神社 八座(並名神大)・但馬國一之宮〉

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出石神社(いずしじんじゃ)は 祭神は出石八前大神〈天之日矛が将来し 出石神社に安置した八種の神宝の神格化〉・天日槍命(あめのひぼこのみこと)です 社伝には 天日槍命が日本に渡来後 泥水が充満する当時の但馬の有様を御覧になり 円山川河口の岩石を切り開き泥水を日本海へと流し 現在の肥沃な平野を造られたとの伝承があります

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

出石神社(Izushi shrine)

 [通称名(Common name)]

一宮さんいっきゅうさん

【鎮座地 (Location) 

兵庫県豊岡市出石町宮内99

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》出石八前大神(いづしのやまえのおほかみ)〈天之日矛が将来し 出石神社に安置した八種の神宝の神格化
   天日槍命(あめのひぼこのみこと)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

殖産興業

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・ 但馬國一之宮
・ 別表神社

【創  (Beginning of history)】

創建不詳
社伝『一宮縁起』によれば 谿羽道命(たにはみちのみこと)と多遅麻比那良岐命(たじまひならきのみこと)が祖神 天日槍を祀ったのが始まりと云う

御由緒

但馬は古代日本において他に類を見ない特徴的な祭祀伝承を有しております。その中心が出石神社であります。
御祭神は新羅の国の王子 天日槍命と伊豆志八前大神(八種の神宝)でございます。命は日本に渡来後、泥水が充満する当時の但馬の有り様を御覧になって、円山川河口の岩石を切り開くことによって泥水を日本海へと流し、現在の肥沃な平野となった伝説があります。
鉄の文化を大陸から伝えられ国土開発の祖神として、関係業界から崇敬を受けております。
神社の西方700mに鳥居という地名があります。昭和年河川の改修で土中から鳥居の両柱の木口とその下から開元通宝などの古銭が多く出土しました。平安時代すでに、国内の第一の霊社といわれた往時の様子を伝えるものです。
日槍の子孫として多遅間守命(菓祖、中島神社御祭神)、仲哀天皇の神功皇后がおられます。
但馬國一宮 出石神社

現地案内板より

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由 緒

 神社の創立年代はあきらかではありませんが、社伝の一宮縁起には、谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀って、天日槍命を祀ったと伝えておりますが、諸書によりますと奈良朝時代すでに山陰地方有数の大社であったことがうかがわれます。

 但馬の国一宮として別名を一宮さんの呼び名で尊敬されており、当時泥海であった但馬を瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出され、円山川の治水に、殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めております。また、鉄の文化を大陸から持って来られた神ともいわれております。

兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6323031.html

【由  (History)】

由緒

神社の創立年代はあきらかではありませんが、社伝の一宮縁起には、谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀って、天日槍命を祀ったと伝えておりますが、諸書によりますと奈良朝時代すでに山陰地方有数の大社であったことがうかがわれます。
但馬の国一宮として別名を一宮さんの呼び名で尊敬されており、当時泥海であった但馬を瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出され、円山川の治水に、殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めております。また、鉄の文化を大陸から持って来られた神ともいわれております。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

平安朝(一千年前)の昔を偲ぶ鳥居の遺物

当神社は奈良・平安時代の頃、但馬唯一の霊社として最も隆盛を極めたが、その第一鳥居は狭間坂(出石町片間)に、第二鳥居は鳥居(出石町鳥居)に建っていたことを云い伝えていた。たまたま昭和八年出石川改修に伴い鳥居橋の橋脚の工事中、地中から此の鳥居両柱の元口と、その下から多くの古銭が発見された。これは、当時の第二鳥居の遺物であり現在の鳥居の区名が起った由来ともなっている。
平安朝の昔、但馬の国司や都の人たちが国府に着くと次々にこの鳥居をくぐって出石神社に参向した往時を偲ぶことができる

重之集下に
そねのよしただたぢまにていづしの宮にてなのりそというものをよめといへば
千はやふるいづしの宮の神のこまゆめなのりそやたたりもそする
晩のまかきにみゆる朝顔はなのりそせましにかわりて
源 重之(平安朝歌人)

立春の日に紳馬藻を奉献する神事が今も続いている 紳馬藻を奈乃利曽(なのりそ)と訓じ 海藻のほんだわらのことである
但馬一宮 出石神社社務所

現地展示 第二鳥居の遺物 の説明版より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

社殿向かって右手に鎮座

・比神社《主》麻多烏(天日槍の妃神)
・稲荷神社夢見稲荷神社《主》宇賀能魂

社殿向かって左手に鎮座

・市杵島比売神社《主》市杵島比売命
・菅原神社天神社《主》菅原神

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Meijin sai)」の条 285座

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂

延喜式巻第3は『臨時祭〈・遷宮天皇の即位や行幸国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で名神祭Meijin sai)』の条に 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

名神祭 二百八十五座
・・・
・・・

伊豆志坐神社 八座 但馬國
・・・

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩

嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦) 

大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合

加えるに 
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺 
絲(イト)1絇を 布1端に代える

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)但馬国 131座(大18座・小113座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)出石郡 23座(大9座・小14座)

[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 名称 ] 伊豆志坐神社 八座(並名神大)
[ふ り が な ]いつしにます かみのやしろ はちくら
[Old Shrine name]Itsushinomasu kamino yashiro Hachi kura

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

氣比神宮の主祭神 氣比大神神(けひのおほかみ)について

氣比神宮 主祭神は 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)〈別名 御食津大神(みけつおおかみ)〉とされます

さらに 異説伝承として
主祭神・氣比大神(けひのおほかみ)は 都怒我阿羅斯等つぬがあらしと仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)天日槍(あめのひぼこ)などがあります

都怒我阿羅斯等つぬがあらしと)は
古代朝鮮の加羅国王の王子とされ 角鹿(つぬが)角鹿から敦賀に転訛の語源とされる
天日槍(あめのひぼこ)と同一神とする説もある

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は
足仲彦天皇(たらしなかつひこの すめらみこと)〈第14代 仲哀天皇で 皇后は 氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后

伊奢沙別命(いざさわけのみこと)
伊奢沙別命で
“伊奢沙別”という名は 元は神功皇后皇子 譽田別尊(応神天皇)の名り 譽田別”という名は 元は伊奢沙別の名り 名(な)と魚(な)を交換したとされる

天日槍(あめのひぼこ)は
記紀等に伝わる朝鮮半島の新羅からの渡来神
神功皇后母は 天之日矛の子孫
都怒我阿羅斯等つぬがあらしと)と同一神とする説もある

いずれも 長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉に関連する神です

天日槍(あめのひぼこ)を祀る神社 但馬國一之宮 出石神社

神紋を同じくする 越前國一之宮 氣比神宮 と 但馬國一之宮 出石神社 について

双方とも 日本海側の大社であり 新羅からの渡来神 天日槍(あめのひぼこ)との関連があります
ともに・桐・三つ巴・十六八重菊を御神紋としているのは何故なのでしょうか

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越前國一之宮 氣比神宮〈神紋は 五七の桐 三つ巴 十六八重菊

・氣比神宮(敦賀市)

但馬國一之宮 出石神社神紋は 五三の鬼桐 三つ巴 十六八重菊

・出石神社(豊岡市出石町)

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR豊岡駅からR426号を円山川の支流 出石川沿いに南下 約10km 車20分程度

社殿 参道は南向き 一の鳥居入口に駐車場があります

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一の鳥居の前には 社号標「國幣中社 出石神社」とあります

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出石神社(豊岡市出石町)に参着

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一礼をして 一の鳥居をくぐり 石燈籠の並ぶ参道を進みます

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こちらにも駐車場がありました

玉垣が廻された境内の入口には 狛犬が座し 二の鳥居が建ちます

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扁額に「一宮」と記された 二の鳥居をくぐります

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手水舎で清め 隋神門をくぐり抜けます

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石畳みの参道を 南を向く拝殿にすすみます
向かって右手には 境内社の・夢見稲荷神社が祀られています

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿には 奉献酒

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拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します

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以前参拝時の写真

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』〈応神天皇〉の段に記される伝承

新羅しらぎの國王の子 天日矛あめのひほこ)渡来の伝承が記され その子孫として但馬国の多遅摩氏(たじまうじ)の血統に神功皇后が記され 終りに出石神社の由緒が記されています

【抜粋意訳】

中つ巻
品陀和氣命(ほむだわけのみこと)〈応神天皇〉の段

また昔 新羅しらぎ国王の子 名は 天日矛あめのひほこという

この人が その渡り参り来た所以(ゆえん) 新羅國(しらぎのくに)に一つの沼がありました 名は 阿具奴摩(あぐぬま)云う この沼の邊に 或る賤しき〈身分の低い女〉 晝寢(ひるね)をしていました その處に日の光が虹のよう耀(かがや)いて その陰上(ホト)陰〉指(さしました
また 或る賤の男〈身分の低い男〉あり その不思議にい その女の行(おこな)い亘(つね)に(うかが)っていた この女 その晝寢(ひるね)をしていたに妊娠して 赤玉を生んだ
(うかが)っていた賤の男〈身分の低い男〉は その玉を乞い 受取り 常に包腰につけていました
この人は 山谷の間で田を営(いとな)んでいた その人(たひと)〈耕す人〉たちの飲食 牛に負わせて山谷の中にはいると その國王の子 天日矛あめのひほこ)に逢〈偶然出会う〉いました そこでその人に 問うて言うには「どうして 汝(なんじ) 飲食を牛に背負わせ 山谷にはいるのか 汝(なんじ)は 必ず この牛を殺して食うであろう」と言 すぐに その男を捕えて獄囚(ひとや)〈牢獄〉に入れようとしました
その男が答えて言うには「わたくしは 牛を殺そうとはしておりません ただ耕人(たひと)〈耕す人〉たちの飲食を送るだけです
それでも赦しません そこで腰につけていた玉を解き その國王の子天日矛渡しました
 その賤の男〈身分の低い男〉を赦(ゆる) 玉を持つて来て 床の邊に置くと 美しい孃子おとめご)となりました 遂に〈正妻〉としました
その孃子おとめご 常に種々の珍味を作り いつも夫天日矛食べさせました しかるに その國王の子天日矛〉は 心奢(こころおごり)〈思い上がり〉妻を詈ののしりましたので
その女が言うにはそもそも わたくしは あなたの妻になるべき女ではございません 我が祖国に帰ります」と (すぐ)に小船に乗って逃げ渡り来て難波に留まりました この女神は 難波(なんば)の比売碁曽社(ひめこそのやしろ)坐(ましま)す 阿加流比賣(あかるひめ)という神です

ここに天日矛あめのひほこ)は その妻の逃げたことを聞き 追い渡り来て 難波の波間(なみま)に至った時に その渡之神(わたりのかみ)〈海神〉が塞いで入れませんでした 依つて更に還り 但馬國たじまのくに)に泊りました

その國に留り 多遅摩俣尾(たぢまのまたお)の娘 前津見(まへつみ)を娶って産んだ子が 多遅摩母呂須玖(たぢまもろすく
その子が 多遅摩斐泥(たぢまひね
その子が 多遅摩比那良岐(たぢまひならき
その子は 多遅麻毛理(たぢまもり)多遅摩比多訶(たじまひたか)清日子(きよひこ)の三人
この清日子(きよひこ)が 当摩之咩斐(たぎまのめひ)を娶って産んだ子が 酢鹿之諸男(すがのもろを)妹の菅竈由良美(すがくどゆらどみ

上に云う多遅摩比多訶(たじまひたか)が その姪めいの由良美(ゆらどみ娶って産んだ子が葛城(かつらぎ)の高額比命(たかぬかひめのみこと
これが 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと神功皇后の母君

この天日矛あめのひほこの持り来た寶物は (たまつたから)云う
珠(たま)二貫 また振浪比禮(ふるなみひれ)・切浪比禮(きりなみひれ)・振風比禮(ふるかぜひれ・切風比禮(きりかぜひれ・奧(おきつかがみ)・邊(へきつかがみ)合わせて八種なり
これらは 伊豆志八前大神(いづしのやまえのおほかみ)〈出石八前大神〉なり

【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『播磨国風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承

揖保郡(いぼのこおり)の段 揖保里(いひぼのさと)粒丘(いひぼをか)の条に 天日槍命と葦原志舉乎命大國主命の別名伝承が記されます

宍禾郡(しさはのこおり)の段には 天日槍命と葦原志舉乎命大國主命の別名伝承が記されます

神前郡(かんさきのこおり)の段 多駝里(ただのさと)邑曰野(おほわちの)八千軍野(やちぐさの)粳岡(ぬかをか)の条に 伊和大神(いわのおほかみ)と天日桙命(あめのひぼこのみこと)が戦をした伝承が記されています

【抜粋意訳】

揖保郡(いぼのこおり)の段

揖保里(いひぼのさと)の条
揖保里(いひぼのさと)と称される所以(ゆえん) この里に 粒山(いひぼやま)があるによって 山の名と為(な)した

粒丘(いひぼをか)の条

天日槍命と葦原志舉乎命大國主命の別名伝承〉

粒丘(いひぼをか)と号さ所以(ゆえん) 天日槍命(あめのひぼこのみこと)が 韓国(からくに)から渡来し 宇頭川のに到り ここで宿を乞うた
葦原志舉乎命(あしはらしこをのみこと〈大国主命の別名〉は「汝(なんじ) 国主である 吾(われ) 宿る處を与えよう」と言海中を許した

この時 客神(まろうどがみ天日槍命 剱(つるぎ)で海水を攪(かきまわし)宿とした

主神(あるじのかみ)葦原志舉乎命 この客神(まろうどがみ天日槍命の行いを畏れて 先に国を占〈自分のものにする欲し 国を巡粒丘(いひぼをか)に到った

ここで 湌(みをし)食事をした時 口から米粒が落ちたので 粒丘(いひぼをか)と号された故である
の丘にある小石は これ皆 米粒によく似ている 又 杖を刺した地 即ち杖の所から 寒水〈冷水が湧き出た ついに南東に流れ通り なお 北は冷たく 南は温い ここには白朮(おけら)が生えている


神山(かみやま)の条
神山(かみやま) この山には石神があった 故に神山という 椎が生えて 実は8月に生る

出水里(いづみのさと)の条
出水里(いづみのさと)この村から冷水が出たので この泉によって里名とした

宍禾郡(しさはのこおり)の段

比治里 川音村(かはとのむら)
川音村(かはとのむら) 天日槍命(あめのひぼこのみこと)が この村に宿した時「川の音がとても高い」と言った 故に川音村(かはとのむら)という

奪谷(うばひだに)
奪谷(うばひだに) 葦原志舉乎命(あしはらしこをのみこと〈大国主命の別名〉と天日槍命(あめのひぼこのみこと)の神が この谷を奪い 故に奪谷(うばひだに)という その相奪い合ったので この谷は曲がった葛のような形なっている

高家里(たかやのさと)
高家里(たかやのさと) 高家(たかや)の所以(ゆえん) 天日槍命(あめのひぼこのみこと)が「この村は 他の村よりも高勝る」告げて云ったから 故に高家(たかや)という

伊奈加川(いなかがは)
伊奈加川(いなかがは)葦原志舉乎命(あしはらしこをのみこと〈大国主命の別名〉と天日槍命(あめのひぼこのみこと)が 国を占(おさめ)ていた時 この川で嘶(いななく)く馬遇った 故に伊奈加川(いなかがは)という

波加村(はかのむら)
波加村(はかのむら) 国を占(おさめ)る 天日槍命(あめのひぼこのみこと)が 先に此処に到り 伊和大神(いわのおほかみ)が後到った
こで大神は 大変怪「はからずも先を越されたか?」と叫んだ
故に 波加村(はかのむら)という 此処に到った者が 手足を洗わないと必ず雨となる
この山には 柂(ひのき)・枌(すぎ)・檀(まゆみ)・黒葛(つづら)・山薑(わさび)などが生えいる 狼・熊がいる

御方里(みかたのさと)
御方里(みかたのさと)御形(みかた)号される所以(ゆえん) 葦原志舉乎命(あしはらしこをのみこと〈大国主命の別名〉と天日槍命(あめのひぼこのみこと)が 黒土志爾嵩(くろつちのしにたけ)に到り 各々が三條(みかた)〈三つ〉の黒葛(つづら)を足に付け投げ合った
その時 葦原志舉乎命(あしはらしこをのみこと〈大国主命の別名〉の黒葛(つづら)の 一條〈一つ〉 但馬の氣多郡(けたのこおり)に落ち 一條〈一つ〉 夜夫郡(やふのこおり)に落ち 一條〈一つ〉 この村に落ちた 故に三條(みかた)という
一方で 天日槍命(あめのひぼこのみこと)の黒葛(つづら) 皆 但馬国(たじまのくに)に落ちた 故に但馬(たじま)を治めて伊都志(いづし)の地に在り
ある人が云うには この村に大神の形見 槙の御杖を立てた 故に御形(みかた)という

神前郡(かんさきのこおり)の段

多駝里(ただのさと)邑曰野(おほわちの)八千軍野(やちぐさの)粳岡(ぬかをか)の条

多駝(ただ)号さ所以(ゆえん) 品太天皇(ほむたのすめらみこと応神天皇が巡行 御伴の人 佐伯部の始祖 阿我乃古(あがのこ)が「この土地を下さい」と申し出た 天皇は「多駝ただ請(こ)うのか」と勅し 故に多駝(ただ)という

邑曰野(おほわちの)と云う所以(ゆえん) 阿遲須伎高日古尼命神(あぢしきたかひこねのかみ)が この野に新次社(にひすきのやしろ)という神宮を造られた 茅を苅束にし 社の周りを垣のように廻らせた 故に邑曰野(おほわちの)と名付けられた

粳岡(ぬかをか)の条伊和大神と天日桙命
粳岡(ぬかをか)伊和大神(いわのおほかみ)と天日桙命(あめのひぼこのみこと)は おのおの軍を起こし 相戦った この時 大神伊和大神の軍は集り 稲を舂(うすづく)〈杵を両手で持って臼の中をついたすると その糠(ぬか)が集り 丘のようになった その丘を墓と呼んだり 城牟禮山(きむれやま)と云う

ある人が言うには 城を掘った所は 品太天皇(ほむたのすめらみこと応神天皇の御世 渡来した百済人が城を造って住み その子孫らが川邊里の三家人(みやけのひと)で夜代(ヤシロ)らなのだと云う

八千軍(やちぐさ)の条
八千軍(やちぐさ) 天日桙命(あめのひぼこのみこと)の8000の軍在った 故に 八千軍野(やちぐさの)という

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『播磨国風土記』[書誌事項]写本,明治11年,地誌課[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 皇典研究所https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003386&ID=&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『播磨国風土記』[書誌事項]写本,明治11年,地誌課[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 皇典研究所https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003386&ID=&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『播磨国風土記』[書誌事項]写本,明治11年,地誌課[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 皇典研究所https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003386&ID=&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『播磨国風土記』[書誌事項]写本,明治11年,地誌課[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 皇典研究所https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003386&ID=&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『播磨国風土記』[書誌事項]写本,明治11年,地誌課[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 皇典研究所https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003386&ID=&TYPE=&NO=

『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』垂仁天皇の段 三年春三月の条 に記される伝承

垂仁紀には 「額に角有ひたる人、一の船に乗りて、越国の笥飯浦(けひのうら)に泊れり。故、其処を号けて角鹿(つぬが)と曰ふ。問ひて曰はく、『何の国の人ぞ』といふ。対へて曰さく、『意富加羅国(おほからのくに)の王(こきし)の子、名は都怒我阿羅斯等。亦の名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)と曰ふ。」と記されて
都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)という 額に角のある渡来人が 一つの船に乗って 越国の笥飯浦(けひのうら)に着いたゆえに そこを名づけて角鹿(つぬが)という と記し

三年春三月の条から 天日槍(あめのひぼこ)の伝承 比売語曽社神(ひめこそのやしろのかみ)の伝承が語られています

【抜粋意訳】

活目入彦五十狹茅天皇いくめいりこいさちの すめらみこと)〈垂仁天皇の段

即位2年の条

この年、任那人みまなのひと)蘇那曷叱智(そなかしち) 「国に帰りたい」と言った
先皇の御世〈崇神天皇〉に来朝して まだ帰らなかったのであろうか

それで 蘇那曷叱智(そなかしち)を厚くもてなし 赤絹(あかきぬ)百匹(ひとももまき100巻〉を持たせて任那王(みまなのこしき)に贈られた
ところが 新羅人しらぎのひと)中でこれを奪った
この二つの国が怨む始まり起きた時です

また一によると
御間城天皇(みまき すめらみこと)〈崇神天皇の御世に 額に角の有る人が ひとつの船に乗って 越国こしのくに)の笱飯浦けひのうら停泊した
それで その所を 角鹿つぬが)〈敦賀と名づけ

「何処の国の人か」と問い尋ねると
「大加羅国おおからのくにの王(こしき)の子 名は 都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと) 亦の名 于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)言います
人づてに 日本国に聖王(ひじりのきみ)いると聞いて 帰化(まうおもぶく)するつもりです
穴門あなと)〈長門国(ながとのくに)〉至ったとき その国に人がおり 名は伊都都比古(いつつひこ) 『私は この国の王だ 私の他に二人王はない だから他の所に行な』と言いました
然るに 臣が の為人(ひととなり)を見て けっして王ではと知ったので すぐに 引き返した
道が分らず 嶋(しまうら)連らね留めながら 北海(きたのうみ)から回って 出雲国いずものくにを経て ここに来ました」と述べた

このとき 天皇の崩御があった
そこで 留まって 活目天皇(いくめの すめらみこと)〈垂仁天皇に仕え三年になります
天皇は 都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)問われた
汝(なんじ)の国に帰りたいと欲するか
答えるに
それを望んでおります
天皇は 都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)命じました
「お前が 道に迷わず速くやってきていたら 先皇にも会えて仕えていただろう そこで 汝(なんじ)の本国の名を改め 御間城天皇(みまきすめらみこと)の御名をとって 汝(なんじ)の国の名にせよ」

そして 赤織(あかおり)の絹を阿羅斯等(あらしと)与え 本土に返した
ゆえに その国を名づけて彌摩那国(みまなのくに)というのは この縁によるものである

阿羅斯等(あらしと) 賜った赤絹(あかきぬ)を自分の国の郡府の蔵に納めた
新羅人しらぎのひと) それを聞いて兵を伴いやってきて その赤絹(あかきぬ)すべて奪った
これが 二つの国が相怨む始まりです

また一によると
はじめ 都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと) 国にいたとき 黄牛あめうじ)に農具を負わせて 田舍に行っていた
ところが 黄牛あめうじ) 忽然といなくなった
すぐに跡を追って行くと 足跡ある郡家の中に留まっていた

その時 一人の老人が言った
汝(なんじ)が 探している牛は この郡家の中に入った
郡公(むらつかさ)〈村役人が言うのに
『牛が背負ってい物から考えると きっと殺して食べてもよいだろう もし その牛の主が返せといってきたら 物で償いをすればよい』と 殺して食べてしまった

もし役人に『牛の代価に何が欲しいか』と言われたら 財物を望まずに邑(むら)に祀神を得たい』と言いなさい」

しばらくして 郡公(むらつかさ)〈村役人が来て言った
「牛の代りに何を欲するか

老人に言われたように答えた
その邑(むら)に祀神は白い石であった
それで白い石を牛の代価とした

それを持ち帰り 寝屋の中に置くと 石は美麗な童女(おとめなった

阿羅斯等(あらしと) 大変喜び 交合しようとしまし
しかし 阿羅斯等(あらしと) わずかに離れたすきに 童女(おとめは失せてしまった

阿羅斯等(あらしと) 大変驚き 婦人に尋ねた
童女(おとめ何処へ行った
答えて言いました
「東の方に行きました」

すぐに尋ねい求めると 遂には海を越えて 日本国やまとのくにに入りました
求めた童女(おとめ 難波なにわ詣で 比売語曽社神(ひめこそのやしろのかみ)とりました
または 豊国とよくにの国前郡(くにさきのこおり)至り 比売語曽社神(ひめこそのやしろのかみ)となりました
この二祀られています

三年春三月の条

新羅しらぎの王子 天日槍(あめのひぼこ)がきまし
持ってきたのは 羽太玉はふとのたま)箇 足高玉あしたかのたま)箇 鵜鹿鹿赤石玉うかかのあかしのたま)箇 出石小刀しのこかたな)口 出石桙(いづしのほこ枝 日鏡ひかがみ面 熊神籬くまのひもろぎ一具 合せて七点
それを 但馬国たじまのくに献上して 神宝(かんたから)としまし

また一によると
はじめ 天日槍(あめのひぼこ) (はしぶね)に乗って 播磨国はりまのくに)泊まり 宍粟邑しさのむら)にありました
その時 天皇が 三輪君みわのきみの祖の大友主おおともぬし 倭直やまとのあたいの祖の長尾市ながおち播磨に遣わし 天日槍(あめのひぼこ)に尋ねられた
汝(なんじ)は誰か また どこの国の人か」

天日槍(あめのひぼこ)
僕(やっこ)は 新羅しらぎ主(こしき)の王子です しかし 日本国(やまとのくに)に聖王(ひじりのきみ)がおられると聞いて 私の国を弟知古(ちこ)に授けてやってきました」

そして言い 奉ったのは
葉細珠はほそのたま) 足高珠あしたかのたま) 鵜鹿鹿赤石珠うかかのあかいしたま) 出石刀子しのかたな) 出石槍(いづしのやり) 日鏡(ひのかがみ) 熊神籬(くまのひもろぎ) 胆狭浅太刀いささのたち) 合せて八種類

それで 天皇は 天日槍(あめのひぼこ)に詔し
「播磨国はりまのくにの宍粟邑しさのむら 淡路島の出浅邑(いでさのむら)の二つ邑(むら) (なんじ)の心のままに住みなさい」

天日槍(あめのひぼこ)は申し上げた
臣(やつがれ)の住む所は もし天恩(てんのめぐみ)をいただき 臣(やつがれ)願う土地をお許し頂けるならば 臣(やつがれ)が自ら諸国を巡り歩き 心に適った所に住まいたいと思います

そのお許しがあった

そこで 天日槍(あめのひぼこ) 宇治河うじがわを遡って 近江国おうみのくに北の吾名邑あなむら到着して しばらく住んだ
その後 近江から 若狭国わかさのくにを経て 但馬国たじまのくにに至り居処(いところ)を定めました
近江国の鏡邑かがみのむらの谷の陶人すえびと 天日槍(あめのひぼこ)の従者である

天日槍(あめのひぼこ) 但馬国の出嶋(いづしのひと)太耳(ふとみみ)の娘 麻多烏(またお)を娶り 但馬諸助(たじまのもろすく)がまれた
諸助は 但馬日樁杵(たじまのひならき)を生んだ
日播杵は 清彦(きよひこ)を生
清彦は 田道間守(たじまもり)を生んだとされます

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』垂仁天皇八十八年の条に記される伝承

垂仁天皇八十八年の条に 天日槍(あめのひほこ)の持ってきた宝物を見たいと天皇がみことのり)された 天日槍(あめのひほこ)の曽孫 清彦(きよひこ)が 神宝(かんたから)を献上する下りが 記されています

【抜粋意訳】

八十八年秋七月十日〈巳酉朔〉の条

群卿まちきみたちに詔みことのり)されて曰く
朕(ちん)聞くに 新羅王子しらぎのせし)天日槍(あめのひほこ) 初めてやって来た時 持ってきた宝物は いま但馬たじまにある 国人くにに尊ばれて 神宝(かんたから)となった 朕(ちん)  その宝を見たいと思う」


即日に使者を遣わし 天日槍(あめのひほこ)の曽孫 清彦(きよひこ)に詔みことのり)され
清彦(きよひこ) みことのりを受け 自ら神宝(かんたから)を捧げて献上しました


羽太玉(はふとのたま)一つ
足高玉あしたかのたま)一つ
鵜鹿鹿赤石玉うかかのあかしのたま)一つ
日鏡ひかがみ
熊神籬(くまのひもろぎ)を一具(ひとそろえ)
ただ 小刀が一つだけあり 一名を出石いずしという

清彦(きよひこ) たちまち刀子(かたな) 献上するまいと思い (ころも)のなかに隠して 自分が佩(は)〈帯刀〉いた
天皇は 小のことを知らずに 清彦(きよひこ)と(めぐ)〈いつくしみ御所で酒を天皇の許(もと)へと持って来させました
その時 刀子(かたな) (ころも)のなかに見え顕(あら)われてしまった

天皇は ご覧になり 清彦(きよひこ)に尋ね
今 (ころも)のなかに見えた刀子(かたな) をする刀子か」

清彦(きよひこ) 隠すことはできないと知り 白状して
献上した神宝の類(たぐい)です」

天皇は
「その神宝は 類(たぐい)と一 緒でなくても差し支えないのか」

そこで すぐに差し出し献上しました
そして全部 神府みくら蔵(くら)められた

その後 神府みくらを開いてみると 小(かたな) 忽然となくなっていた そこで 清彦(きよひこ)問いました
今 献上した所の刀子(かたな)たちまちになくなった もしかして お前の所へ行っているのではないか」

清彦(きよひこ)は答えて云うには
「昨夕 刀子(かたな) 自ずから 臣(やっこ)〈自分〉の家に着きました ですから 今朝 消えたのでしょう
天皇は 畏れ慎しまれ 再度 求めませんでした
この後 出石の刀子いずしのかたな) 自ずから 淡路島あわじしまに行きました
その(しまひと) 神だと思って 刀子のために祠(ほこら)を立て 今でも 祀っています

 あるがいました
(おぶね)に乗って 但馬国たじまのくに泊まりました
汝(なんじ)は 何処の国の人か」と尋ねると

こう答えた。
「新羅しらぎの王(こしき)の子 名を天日槍(あめのひほこ)という」


但馬たじまに留まり その国の前津耳(まえつみみ)〈ある伝によると前津見(まえつみ)ある伝によると太耳(ふとみみの娘の麻拕能烏(またのお)を娶とって 但馬諸助(たぢまのもろすく)を生んだ
これが 清彦(きよひこ)の祖父である

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

『古語拾遺(kogojui)〈大同2年(807年)〉』垂仁天皇の条 に記される伝承

垂仁天皇の条に 新羅(しらぎ)の王子(ことしき)の海檜槍(あまのひぼこ)が来て帰化した  但馬国の出石郡(いづしのこおり)に為(な)る 大社(おほやしろ)なり と記しています

【抜粋意訳】

垂仁天皇の条

巻向玉白朝(まきむくのたまきのみかど)垂仁天皇 皇女 倭姫命(やまとひめのみこと)[天皇の第二皇女 母は皇后 狭穂姫]に命じて 天照大神(あまてらすおほみかみ)を斎りました
神の教えのままに 伊勢国の五十鈴の川上祠(やしろ)を立てて 斎宮(いつきのみや)を立てて 倭姫命(やまとひめのみこと)の焉居とするよう命じた

始め天上にましますとき 預(あらかじ)幽(ふかき)契りを結びて 衢神(ちまたのかみ) 先ず降ることには 深いわけがあった
そして この御世(みよ)始めて 弓矢刀を以て神祇を祭る さらに神地・神戸を定めた

また 新羅(しらぎ)の王子(ことしき)の海檜槍(あまのひぼこ)が来て帰化した
 但馬国の出石郡(いづしのこおり)に為(な)る 大社(おほやしろ)なり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『訂正古語拾遺』選者:斎部広成 大同2年(807年)編纂/校訂者:猿渡容盛 刊本,明治02年,木村正辞https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047473&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

本居宣長先生の『古事記傳』三十四 による考証〈記紀に載る八種神宝出石八前大神は違うものである〉を判り易く記しています

【抜粋意訳】

伊豆志坐神社 八座(並名神大)

伊豆志は假字なり、郡名に同じ、和名鈔 郡名部 出石
〇祭神明らかなり
〇宮内村に在す、今 一宮大明神と称す 但馬考
〇式三、名神祭 二百八十五座、中略、但馬國 伊豆志坐神社 八座
〇当國一宮なり 頭注云
〇古事記 応神段
 天之日矛持渡來物者、玉津寶云而、珠二貫・又振浪比禮比禮二字以音、下效此・切浪比禮・振風比禮・切風比禮、又奧津鏡・邊津鏡、幷八種也。此者伊豆志之八前大神也
〇日本紀 垂仁天皇三年三月
新羅王子、天日槍來歸焉、將來物、羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々赤石玉一箇・出石小刀一口・出石桙一枝・日鏡一面・熊神籬一具、幷七物、則藏于但馬國、常爲神物也。一云、初天日槍、乘艇、泊于播磨國、在於宍粟邑。時天皇、遣三輪君祖大友主與倭直祖長尾市於播磨而問天日槍曰「汝也誰人、且何國人也。」天日槍對曰「僕、新羅國主之子也。然、聞日本國有聖皇、則以己國授弟知古而化歸之。」仍貢獻物、葉細珠・足高珠・鵜鹿々赤石珠・出石刀子・出石槍・日鏡・熊神籬・膽狹淺大刀、幷八物
〇日本紀 八十八年秋七月己酉朔戊午
詔群卿曰「朕聞、新羅王子天日槍、初來之時、將來寶物、今有但馬。元爲國人見貴、則爲神寶也。朕欲見其寶物。」卽日、遣使者、詔天日槍之曾孫淸彥而令獻。於是、淸彥被勅、乃自捧神寶而獻之、羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿鹿赤石玉一箇・日鏡一面・熊神籬一具。唯有小刀一、名曰出石、則淸彥忽以爲非獻刀子、仍匿袍中而自佩之。天皇、未知匿小刀之情、欲寵淸彥而召之賜酒於御所。時、刀子從袍中出而顯之、天皇見之、親問淸彥曰「爾袍中刀子者、何刀子也。」爰淸彥、知不得匿刀子而呈言「所獻神寶之類也。」則天皇謂淸彥曰「其神寶之、豈得離類乎。」乃出而獻焉。皆藏於神府。

然後、開寶府而視之、小刀自失。則使問淸彥曰「爾所獻刀子忽失矣。若至汝所乎。」淸彥答曰「昨夕、刀子自然至於臣家。乃明旦失焉。」天皇則惶之、且更勿覓。是後、出石刀子、自然至于淡路嶋。其嶋人、謂神而爲刀子立祠、是於今所祠也

〇古事記傳 三十四に
この神宝とこの記の八種とは 数も合わず名もみな違っていて 物も多くは同じでない 三年のところ 一つの伝えであるのは 数は八種だが それもみな違っている そこでつらつら考えるに ここに挙げた八種と 書紀にあるものとはみな別物だろう
それは 初め新羅から持ち来た物は 種々多くあっただろうに ここの八種は特別重要な宝物だったため 出石の大神として祭祀したので その社の御霊代であったから 倭へ召して見るべきものではない
だから 清彦が献げたのは この八種以外のものだったのだろう
なおそう思われる理由は 都へ召した宝物は「みな神府に収めた」とあるから倭にとどまって 但馬には還らなかった これは出石の大神ではなかった証拠である
その物は 石上の神庫にでも納まったのだろう また例の小刀は 淡路島で神として祀ったとあるから これもまた出石の大神のたぐいでないことは明らか 淡路にこの神は 書物などに出ていない ただ和名抄に「津名郡 都志(つし)」という郷の名があり これは「出石」の意味ではないだろうか
ところでもう一つの伝えの方には これらの神宝を「貢献した」とあり これまた出石の大神でないことの証拠である
また書紀には 出石の大神のことは一切見えない 出石の小刀を淡路島に祀ったことが記されたほどだから これらの宝物が出石の大神だったら そのことも記されないはずはない 記されないのは これらが出石の社の御霊代ではなかったからだろう だから一つの伝えの方の数が この記と同じく八種になっているのは いささかまぎらわしいが それは出石の大神として祀られている宝の数が八種なのにまぎれて かの貢献した宝の数も八種と言い伝え その数を取り繕って語り伝えたのでもあろう

〇但馬考に、
当社は出石郡出石郷にイマスゆえ、出石神社と称するなり、この村を昔は宇馬橋と云して、今は宮内と呼ぶも、この神の社内と云事なり、又 宮内坪井を神戸郷と名付けしは、当社の封戸と云事にて上古の社領なり、

大社
古語拾遺曰
新羅(しらぎ)の王子(ことしき)の海檜槍(あまのひぼこ)が来て帰化した  但馬国の出石郡(いづしのこおり)に為(な)る 大社(おほやしろ)なり

神位
『続日本後紀』
承和十二年(八四五)七月辛酉の条 丹波國桑田郡无位出雲神 但馬國出石郡无位出石神 養父郡无位養父神 朝來郡无位粟鹿神 美濃國厚見郡无位伊奈波神等 並奉授從五位下 依國司等解状也

『日本三代実録』
貞觀十年(八六八)十二月廿七日丙戌の条  但馬國從五位上出石神 粟鹿神並正五位下 從五位下山神 戸神 雷神 椒神 海神 並從五位上

『日本三代実録』
貞觀十六年(八七四)三月癸酉十四日の条  因幡國正四位上宇倍神從三位 阿波國從四位上天石門和氣八倉比神正四位下 河内國正五位上建水分神 下総國意富比神 上野國赤城神 阿波國葦稻葉神並四位下 但馬國正五位下出石神 養神 禾鹿神 並正五位上

社領
・・・・

雑事
・・・・

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

伊豆志坐神社 八座(並名神大)

祭神 伊豆志八前大神

今按〈今考えるに〉

日本紀 垂仁天皇三年三月
新羅王子、天日槍來歸焉、將來物、羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々赤石玉一箇・出石小刀一口・出石桙一枝・日鏡一面・熊神籬一具、幷七物、則藏于但馬國、常爲神物也。一云、初天日槍、乘艇、泊于播磨國、在於宍粟邑。時天皇、遣三輪君祖大友主與倭直祖長尾市於播磨而問天日槍曰「汝也誰人、且何國人也。」天日槍對曰「僕、新羅國主之子也。然、聞日本國有聖皇、則以己國授弟知古而化歸之。」仍貢獻物、葉細珠・足高珠・鵜鹿々赤石珠・出石刀子・出石槍・日鏡・熊神籬・膽狹淺大刀、幷八物 云々

また古事記に
昔、有新羅國主之子、名謂天之日矛、是人參渡來也。所以參渡來者、云々、其天之日矛持渡來物者、玉津寶云而、珠二貫・又振浪比禮比禮二字以音、下效此・切浪比禮・振風比禮・切風比禮、又奧津鏡・邊津鏡、幷八種也。此者伊豆志之八前大神也とみえ

また垂仁巻
八十八年秋七月己酉朔戊午、詔群卿曰「朕聞、新羅王子天日槍、初來之時、將來寶物、今有但馬。元爲國人見貴、則爲神寶也。朕欲見其寶物。」卽日、遣使者、詔天日槍之曾孫淸彥而令獻。於是、淸彥被勅、乃自捧神寶而獻之、羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿鹿赤石玉一箇・日鏡一面・熊神籬一具。唯有小刀一、名曰出石、則淸彥忽以爲非獻刀子、仍匿袍中而自佩之。天皇、未知匿小刀之情、欲寵淸彥而召之賜酒於御所。時、刀子從袍中出而顯之、天皇見之、親問淸彥曰「爾袍中刀子者、何刀子也。」爰淸彥、知不得匿刀子而呈言「所獻神寶之類也。」則天皇謂淸彥曰「其神寶之、豈得離類乎。」乃出而獻焉。皆藏於神府 云々

古事記傳に
この神宝とこの記の八種とは 数も合わず名もみな違っていて 物も多くは同じでない 三年のところ 一つの伝えであるのは 数は八種だが それもみな違っている そこでつらつら考えるに ここに挙げた八種と 書紀にあるものとはみな別物だろう
それは 初め新羅から持ち来た物は 種々多くあっただろうに ここの八種は特別重要な宝物だったため 出石の大神として祭祀したので その社の御霊代であったから 倭へ召して見るべきものではない
だから 清彦が献げたのは この八種以外のものだったのだろう
なおそう思われる理由は 都へ召した宝物は「みな神府に収めた」とあるから倭にとどまって 但馬には還らなかった これは出石の大神ではなかった証拠である
その物は 石上の神庫にでも納まったのだろう また例の小刀は 淡路島で神として祀ったとあるから これもまた出石の大神のたぐいでないことは明らか 淡路にこの神は 書物などに出ていない ただ和名抄に「津名郡 都志(つし)」という郷の名があり これは「出石」の意味ではないだろうか
ところでもう一つの伝えの方には これらの神宝を「貢献した」とあり これまた出石の大神でないことの証拠である
また書紀には 出石の大神のことは一切見えない 出石の小刀を淡路島に祀ったことが記されたほどだから これらの宝物が出石の大神だったら そのことも記されないはずはない 記されないのは これらが出石の社の御霊代ではなかったからだろう だから一つの伝えの方の数が この記と同じく八種になっているのは いささかまぎらわしいが それは出石の大神として祀られている宝の数が八種なのにまぎれて かの貢献した宝の数も八種と言い伝え その数を取り繕って語り伝えたのでもあろう

と云るが如く 出石八前大神と崇祭れる八種の神寶と書紀の八種とは別物なる事著し
さて 天日槍命(あまのひぼこのみこと)の三世孫 多遅摩比多訶(たじまひたかの娘 葛城(かつらぎ)の高額比命(たかぬかひめのみことは 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと神功皇后御祖に せば息長帯比売命 征韓の時 その韓国は 即我外家の祖先の國なれば 天日槍命を祭れるを以って
古語拾遺にも 新羅(しらぎ)の王子(ことしき)の海檜槍(あまのひぼこ)が来て帰化した  但馬国の出石郡(いづしのこおり)に為(な)る 大社(おほやしろ)なりと云るものとみえたり

然るを古事記には専ら八前大神と云故よしを記せるより その神寶を神と崇めたる如く聞こゆるなるべし 姑附て考をまつ

神位
仁明天皇『続日本後紀』承和十二年(八四五)七月辛酉の条 丹波國桑田郡无位出雲神 但馬國出石郡无位出石神 養父郡无位養父神 朝來郡无位粟鹿神 美濃國厚見郡无位伊奈波神等 並奉授從五位下 依國司等解状也

清和天皇『日本三代実録』貞觀十年(八六八)十二月廿七日丙戌の条  但馬國從五位上出石神 粟鹿神並正五位下 從五位下山神 戸神 雷神 椒神 海神 並從五位上

清和天皇『日本三代実録』貞觀十六年(八七四)三月癸酉十四日の条  因幡國正四位上宇倍神從三位 阿波國從四位上天石門和氣八倉比神正四位下 河内國正五位上建水分神 下総國意富比神 上野國赤城神 阿波國葦稻葉神並四位下 但馬國正五位下出石神 養神 禾鹿神 並正五位上

祭日 九月十一日
社格 國幣中社
所在 宮内村(出石郡神美村大字宮内)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

出石神社(豊岡市出石町)に (hai)」(90度のお辞儀)

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

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