出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)

出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)は 天喜年中(1053~58)源頼義が 奥州征伐の途 当社に白旗を献じて戦勝を祈願し「白旗八幡社」と称し 荒川沿いの赤濱村に鎮座しましたが 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 住民と共に現在地に遷座します 江戸時代までは「八幡さま」と呼称されますが 明治になって『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社として 現在の社号に変更しました

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

出雲乃伊波比神社(Izumonoiwai Shrine
(いずものいわいじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

八幡様(はちまんさま)

【鎮座地 (Location) 

埼玉県大里郡寄居町赤浜723

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》須佐之男命(Susanowo no mikoto)
《配》三穂津姫命(Mihotsuhime no mikoto)
   誉田別命(Homutawake no mikoto)
   天児屋根命(Ameno koyane no mikoto)
   天太玉命(Ameno futodama no mikoto)
   天穂日命(Ameno hohi no mikoto)

《合》天照皇大神(Amaterasu sume okami)
   軻遇突智神(Kagutsuchi no kami)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

延喜式内社
旧郷社 
出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)

所在地 寄居町大字赤浜
御祭神 (主神)須佐之男命
    (相殿)三穂津姫命、誉田別命、天児屋根命、天太玉命、
       天穂日命、大己貴命
    (合祀)天照皇大神、軻遇突智命

 本社は、延喜式神明帳(927)に「男衾郡 三座(式内社)」の一社としてその名が記されている出雲乃伊波比神社であるといわれている。
しかし、度重なる災害のため、古資料はことごとく滅失し、弘治3年頃(1557) には字下河内の八幡塚に社殿が築かれていたと伝えを残すのみとなっている。
天正8年(1580)荒川の幾多の洪水に抗しがたく鉢形城主 北条氏邦 領地の時代に現在の地へ集落一体となって大移住を行い、本社殿も遷座した。
以来、河岸段丘の赤浜は安住の地となり、既に400年余が経過し今日に至っている。正保3年(1646)には、水野石見守重郎左衛門忠貞が領地替え記念に社地及び境内に植樹したと伝えられている。
 また、当社は「赤浜の八幡様」の呼び名で親しまれているが、それは天喜年中(1053から58)奥州征伐の途中、近くを通りかかった源頼義が、当社に白旗を献じて戦勝を祈願したことから、以後「白旗八幡社」と称するようになったためである。
再び出雲乃伊波比神社と呼ばれるようになるのは、明治維新後のことである。これは、王政復古を機に、当社の社号も伝統ある出雲乃伊波比神社の旧号に復したものであるが、長い間使われてきた呼称への愛着は強く、今でもなお「八幡様」の通称のほうが広く知られている。なお、出雲乃伊波比神社とは、出雲系の豪族集団が出雲の祖神を祭祀した社、また「出雲の神を斎う」社と表されている。
 平成二十九年七月吉日  出雲乃伊波比神社宮司

社頭案内板より

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【由  (History)】

由緒
赤浜の歴史は、出雲乃伊波比神社を軸として、千数百年の歩みを続けてきました。
天正8年、荒川の度重なる大水害に抗し難く現在の地に集落一体となって、大移動を決行しました。その際 境界決定について両者合議の上、精密なる境界構図が現存していることは往時の事実を物語る証拠であります。
赤浜にとって、これ程重大な事業は以後400年ありません。移転後、生活した下河内は肥沃に恵まれ比較的平坦でまとまった農地で赤浜地区の重要な基盤でした。しかし個々の耕作となりますと長短大小入り混じり、荒川に接近しながら用排水に難渋し、耕作道も狭くて不便でありました。
昭和5610月、農業の近代化を図るため、赤浜土地改良総合整備事業が進められ、由緒深い八幡塚も農地として整備せられしめたため、三代に渡る氏子総代、初穂組合長の協力を得て、記念碑を設立し、次の通り碑文を記しました。

宮乃井の由来
旧郷社 出雲乃伊波比神社の鎮座地は、鉢形庄、赤浜村と云われ、古は、字下河内の八幡塚に鎮座され、天正8年、度重なる大水害により、今の地に鎮座されました。
旧社地の南方を宮乃東、北を宮後川端と称し、東南に宮乃井がありました。
宮乃井は、神助により、豊かな水量に恵まれて、1年中、水の枯れる事はありませんでした。昭和8年、稀有なる大旱魃がありました時、赤浜の各戸の井戸水がすべて干しあがり、飲料水に欠乏したる時も、この宮乃井及び神水の根元より冷水こんこんと湧出し、赤浜は勿論、隣村富田より家内の飲み水として、更に牛馬の飲み水に至るまで使用したと伝えられていました。
昭和5610月、この宮乃井も、農業の近代化を図るため、赤浜土地改良総合整備事業により、土地基盤用排水、道路の整備、更に県道(菅谷・寄居線)高架橋が、かけられ、その存在も忘れ去られようと、しているため、私財をもって記念碑を建てました。碑文は次の通りです。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社 (Other deities within the precincts)】

榛名社《主》火産霊命
古峯社《主》古峯大神
三峰社《主》日本武尊 など

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妙見社《主》八意思兼命

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妙見社御由緒
 赤浜地区の妙見社は、天正年間(西暦1573年~1591年)以前の遠い昔より妙見講を組織して、厚く信心して、今日なお「妙見様」の通称で親しまれていました。近年まで123日の例祭日には、講中の家を順番に祭礼の準備やお祝の宿として集まり、幟が立ち先達様の祈願が終ると団子を配り、にぎやかな社頭となりました。
 諸般の事情により昭和50年(1975年)33日を以って一時中止することになりました。長い年月で社殿の傷みも進み、倒壊寸前となり平成3年(1991年)216日講中一同 相談の結果、改築することに決定しました。43日仮殿遷座祭を斎行し社殿を解体したところ束木に「嘉永6年(1853年)癸丒孟春(みすのと丑年旧暦正月)奉造立講中為安全也」裏面には「大工 浅次良 又八」の二名が記録されていました。壁面の横板には「妙見宮殿修繕寄付連名及紀元2555年 明治28年(1895年)と記されていました。
 平成342日 上棟 62日 本殿遷座祭を斎行しました。

平成3年6月2日 宮司 髙橋達男謹書

境内石板より

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)男衾郡 3座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 出雲乃伊波比神社
[ふ り が な ]いつものいはひ かみのやしろ)
[Old Shrine name]Shirakamino no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

大宮氷川神社(さいたま市)のかつての 神職〈社家〉の謎について

武蔵国 一之宮 氷川神社である「大宮氷川神社の 祭神は 元来 出雲建国の3柱(みはしら)の神と 荒脛巾神(あらはばぎのかみ)を祀ります

須佐之男命(すさののみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
荒脛巾神(あらはばぎのかみ)

従って この神を祀る神職〈社家〉 かつては 4社家存在していました
①➁➂の社家は 江戸時代までは 社家を務めていました
上の祭神の順に並べると

岩井(イワイ)男體社
角井(ツノイ)女體社(後の東角井家)
内倉(ウクラ)簸王子社(後西角井家)
氷川(ヒカワ)荒脛巾社(後に途絶えたか)

ここで
須佐之男命(すさののみこと)を祀る社家が 岩井家男體社〉であった事実を知ると 興味が湧きます

出雲の神「素戔嗚(すさののみこと)」を祀るのは 岩井イワイ家の役割であったのです
当神社「出雲乃伊波比(イズモノイワイ)神社」の名称が 偶然ではないことが想定できます

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以下 同じ武蔵国の延喜式内社でイワイ」の文字を持つ神社を追ってみます

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比(イズモノ イハイ)神社」の3つ論社について

・出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)

・出雲乃伊波比神社(熊谷市板井)

白旗八幡社〈井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)寄居町赤浜に遷座した出雲乃伊波比神社の元宮 

八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)井椋神社に合祀された白旗八幡社の旧鎮座地 

武蔵國 入間郡には 同じく「出雲(イツモ) イハイ」の音をもつ式内社
武蔵國入間郡 出雲伊波比神社」の論社 4つについて

・出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西) 

・出雲祝神社(入間市宮寺) 

・川越氷川神社(川越市宮下町) 

・北野天神社(所沢市小手指元町) 

武蔵國 横見郡には 同じく伊波比 イハイ」の音をもつ式内社
武蔵國 横見郡 伊波比神社」の論社について

・伊波比神社(吉見町黒岩)

武蔵國 荏原郡には 磐井 イハイ」の音をもつ式内社
武蔵國 荏原郡 磐井神社」の論社について

・磐井神社(大田区大森北)

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

東武東上線 男衾から北東へ約1.3km 徒歩15分程度

県道81号に面して鎮座しています
玉垣が廻され 道路沿いに 自然石の社号標「延喜式内 出雲乃伊波比神社」とあり 社頭の鳥居には 立派な扁額がかかります
出雲乃伊波比神社(Izumonoiwai Shrineに参着

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一礼をして  社頭鳥居をくぐります 注連縄の上には 屋根の付きの扁額があり「出雲乃伊波比神社」と金文字で記されています

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鳥居を抜けると 左手に境内社の合殿が鎮座し 石畳みの参道が真っ直ぐに伸びています

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参道の右手は 児童公園ようになっていて 左手には 石碑が並びます

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参道を奥まで進むと 境内は開けていて 左手に神楽殿 その奥に境内社がン座します

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狛犬の座している拝殿にすすみます 大きな扁額の中央には「延喜式内 出雲乃伊波比神社」と記され 多くの寄進者名と共に末尾に 明治25年壬辰8月吉日 神主 髙橋國郎と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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本殿は 文政3年(1820)に建立伝わります

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境内社にお詣りをしながら 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

祭神は 大己貴命であり 所在について『式社考』を引用し「伊多井村」〈現 熊谷市板井〉を比定社としています

【意訳】

出雲乃伊波比(イツモノイハイ)神社

式社考 伊多井村にあり
〇信友云う 兼永本 朱書き入り 大己貴命なり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承

大河の荒川に並んで 八幡社として記されます 延喜式内社としては 赤濱村と板井村との両方に論社があり 何れを式内社するとも定められないと記しています

【意訳】

巻之224 男衾郡之3 鉢形 赤濱村 の条

八幡社(はちまんのやしろ)

村民80家の鎮守なり 春日社を合祀す

延喜式神名帳たる 男衾三座の内 出雲乃伊波比神社なりと云う伝えたしとされる古色とも見えず
又 別に棟札 古文書等の微すへきものなし 殊に郡内の板井村の氷川社をも彼 伊波比神社なるいい伝ふれば 何れを式神社とも定めがたし

末社 氷川 天神 稲荷二 疱瘡神 山神
神主 高橋喜十郎
入間郡塚越村 勝呂雅楽の配下なり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

論社の所在について
『地名記』には 赤濱村〈現 寄居町赤浜
式社考』には 伊多井村」〈現 熊谷市板井〉を比定社としていると記しています

【意訳】

出雲乃伊波比神社

出雲乃は 伊豆毛能(イズモノ)訓ずべし 伊波比は仮字なり
〇祭神 三穂津姫命 誉田別尊 天兒屋命 地名記

〇赤濱村に在す 地名記
〇式社考には 伊多井と云えり 今は 八幡春日と称す

〇当国 横見郡 伊波比神社あり

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

所在について 赤濱村〈現 寄居町赤浜〉を比定しています

【意訳】

出雲乃伊波比神社

祭神 須佐之男神

今 按〈考えるに〉
武蔵式社道程命附に 祭神 三穂津姫命 相殿 誉田別天皇 天兒屋命にて 今は八幡春日と云うとあれど信じがたし 
明細帳に 祭神 須佐之男神とあるは 上の出雲伊波比神社の條に云る如く 天穂日命に由ありて 出雲ノ神にませば 須佐之男神を祭る云う古伝なるべし 故に今 これに従う

祭日 8月15
社格 村社(郷社)
所在 赤濱村(大里郡男衾村大字赤濱)

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

出雲乃伊波比神社(Izumonoiwai Shrine (hai)」(90度のお辞儀)

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武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る       

 

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