川越氷川神社(川越市宮下町)

川越氷川神社(かわごえ ひかわじんじゃ)は 創建について 元禄年棟札・正徳縁起に 欽明天皇 即位(521)辛酉十五 武蔵国 足立郡 氷川神社を分祀奉斎したと伝える古社です 一説に゛氷川の神゛〈出雲神〉を祀る 延喜式内社 武蔵入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)とも伝わります

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

氷川神社(Hikawa shrine)

通称名(Common name)

川越氷川神社(かわごえひかわじんじゃ)
お氷川様おひかわさま

【鎮座地 (Location) 

埼玉県川越市宮下町2-11-3

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》素盞鳴尊(すさののみこと)
   奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
   大己貴命(おおなむちのみこと)
   脚摩乳命(あしなづちのみこと)
   手摩乳命(てなづちのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

夫婦円満・縁結びの神

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・ 別表神社

【創  (Beginning of history)】

由緒

川越総鎮守氷川神社のしおり

氷川の神
 氷川神社は埼玉県・東京都・神奈川県の一部に分布する武蔵国の地主の神であり、総数約250社鎮座している。その分布の中心は大宮市武蔵一の宮氷川神社であって、かっての構成は見沼を廻って男神・女神・火王子の三神鼎立の雄大なる規模は、諏訪の大社に比せられる全国屈指の大社であることを示している。
 氷川の神は武蔵の国を流れる川から出現した神であり、水を領く神と思われる。武蔵の国人が水稲耕作に従うにあたって、流水の霊威とその恩沢を氷川の神として斎き奉ったのであろう。
高崎正秀博士は、荒川は荒れ川であると共に神出現の現れ川であろうとして、氷川の神の源流を荒川に想定している。
座田司氏(もりうじ)氏は多摩川を氷川に想定された。また海洋神でもある素神を古代人が祭った社とも謂われている。
出雲の神々を御祭神とする大宮氷川神社は平安時代の延喜式には名神大社に列せられた。更に延喜式には中氷川神社が記載されている。中氷川は所沢市山口の中氷川神社と謂われる。大宮氷川神社と中氷川神社の存在は奥氷川神社の鎮座を想わせる。座田司氏氏は西多摩郡氷川町の氷川神社を奥氷川神社に想定され、西角井正慶博士は氷川神社を含めて、武蔵国の六所の神を祀った大国魂神社を奥の社と推定されている。斯る古代の氷川神社の中にあって、入間川から出現したという当川越氷川の神の社は国史所載の神社ではないが、古くから学会において注目された古社の一つである。
 柴田常恵氏は川越氷川神社は入間郡に居を構えた武蔵国造が、その崇敬する大宮氷川神社を分祀し、当社を里宮として奉斎したものと想定される。当社は太田道潅の川越築城以来漸やく文献に現われてくる。川越が城下町として政治的に経済的に発展するに及び、当社の御神威も更に輝くのであった。

本社の由緒
 欽明天皇即位2年(571)辛酉9月15日武蔵国足立郡氷川神社を分祀奉斎したと伝える(元禄9年棟札・正徳縁起)。
 昭和23年境内地より古代祭具の石剣(滑石製)が発掘され、当社の創立がほぼ同年代であることが実証され、大宮氷川神社の里宮として武蔵国造が奉斎した神社と謂われる。
長禄元年太田道真・道潅父子は川越築上以来当社を篤く崇敬し、特に道潅は当社に詣りて、老いらくの身をつみてこそ武蔵野の草にいつまで残る白雪との和歌を献納し(慕景集)文明10年江戸の津久戸明神を当社に見立てて崇敬した(永享記)。
天文6年の川越落城を記した河越軍記は「ここに日川の明神として戌亥にあたれる社なり。すなはち人民惣社にあがめて往詣する事さりもあへず」と記している。
天正19年 徳川氏関東を領有以来 歴代の川越城主の尊崇篤く、代替毎に親しく社参し太刀白銀等を献納し、毎年元旦には奉幣の儀が行われ、社家は登城 城主目通りの上 年賀を言上し(社蔵文書)、神徳は広く川越領中に及んだ(奉加帳)。
文禄4年 川越城主 酒井与四郎忠利 社領を寄進し、慶長六年 本多刑部左衛門、寛永18年 老中松平伊豆守信綱・元禄元年 信輝各社領を加増し(寄進状)社禄15石2斗6升、社地4反3畝10歩は歴代の城主何れもこれを安堵した。
社禄の他に家中ならびに町方氏子より寄進の田1町5反8畝4歩を所有していた(元禄河越市街屋敷社寺記)。
社殿は 寛永5年 城主酒井讃岐守忠勝本殿修復、寛永六年 拝殿再建、寛永13年 城主堀田加賀守正盛鳥居ならびに末社建立(元禄8年奉加帳)、元禄9年 城主柳沢出羽守保明(吉保)は社殿造営費326両余の内、不足金82両余を寄進し家臣曾根権太夫等をして社殿を造替せしめた(元禄棟札・社蔵文書)。享保5年 秋元伊賀守喬房(たかふさ)は、社殿の修理費83両余を寄進し氏子と共に大修復を行い、寛保元年には屋根を銅瓦葺とし、天保13年 現本殿を起工す。現本殿は城主松平大和守済典(なりつね)造営料35両余を寄進、氏子勠力(りくりょく)協賛工費2250両にて嘉永2年竣工(社蔵文書)前後の経費併せておよそ4000両を要したと伝える。幣殿拝殿は明治7年改築し、更に昭和15年 皇紀2600年記念事業として工費8万円にて改築、昭和18年竣工した。
神輿は慶安元年 松平伊豆守信綱が奉納した(元禄9年棟札)。元禄13年 柳沢出羽守保明、安永8年並に天明八年 松平大和守直恆再興す。直恆は寛政2年に段帳を寄進している(県史)。
明治6年郷社、明治41年 神饌幣帛料供進神社に指定され、大正12年県社に昇格、昭和21年宗教法人の登記をなし、神社本庁に所属す。

摂末社の由緒
 元禄2年の武蔵川越氷川神系図(社蔵)によれば、当時の摂末社は牛頭天王・稲荷2社・人丸社の4社であった。他の末社は江戸中期以後の奉斎である。

八坂神社
 氏子喜多町持の神社であった。同町小名宮元より氷川境内に遷したといわれ、寛永13年堀田加賀守正盛の時再興すという(社蔵奉加帳)。元禄年間の末社四座の一社で、元文4年6月喜多町中にて社殿を再建(社蔵棟札)切妻造柿葺(こけらぶき)、天井に竜を画く。いまは人丸神社の社殿となっている。現八坂社殿は江戸城内東照宮の遺構。明治6年喜多町より神輿1基奉納(現存)天保11年、慶応2年修復す。昔は6月14日例年神輿を町々に引渡した。現在は月遅れで行う。明治2年天王社を八坂神社と改称す。

人丸神社
 当社は永正2年に丹波の綾部から近江を経て移住した綾部家一族が始祖である柿本人麿を奉斎した。寛永年間に堀田正盛社殿を修復すと伝え、元禄年間末社四座の内の1社である。宝暦2年川越在住の文人等相計って社殿を再興す(人丸勘文・奉加帳)。神像は吉野朝の歌人であり彫刻家でもあった頓阿上人の作と伝える。宮型並に衾(しとね)は明治初期の工芸家柴田是真(しばたぜしん)の作。頓阿上人は、人麿像100体を刻んで大阪の住吉神社に奉納した(人麿研究)。当社の神像は其の一体といい静岡市吐月峰柴屋寺にも寸分違わぬ同体の神像が伝えられている。文久2年8月御神像の盗難があったが、盗人は眼がくらんで動けず田の中に倒伏していたという。

護国神社
 明治14年7月12日川越町長士族岡田秋業等相計り、内務省の特許を受けて招魂社を建立、同年7月31日西南の役殉難者21柱の英霊を祀った。其後戦役毎に英霊を合祀し、2969柱を奉斎する。創立後は旧士族の温知会が奉賛し、昭和8年より在郷軍人聯合分会が主催、昭和15年川越市議会の議決によって、川越市の公祭となった。同年招魂社を護国神社と改称す。戦後一時社号を河越宮と改め奉賛会を結成す。会長伊藤長三郎。昭和25年GHQ宗教課長ウッダード監察に来社す。日本独立後旧称に復す。社殿は昭和10年関根平蔵の寄附により、聯合分会が改築し、同年4月12日の遷座祭には元帥山本五十六(当時中将)参列す。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【由  (History)】

氷川神社

川越市宮下町二一一三(川越字宮下町)

 当社は武蔵野台地の東北端、入間川及び荒川低地に半島状に突き出た川越支台上に鎮座している。現在、当地の東方に広がる低地の地下からは真菰や埋木などが発見され、往古、沼沢地であったことが知られる。また、当地は多くの古墳や住居址が散在するなど、古くから生活の場として開けた所でもある。なお、当社境内地から石剣が出土し現在神宝として秘蔵されている。

 創建については、氾濫を繰り返し幾度も流れを変えて来た入間川を畏怖するとともに神聖視し、出雲の簸川にこれを見立て大宮の氷川神社より勧請したものと伝える。正徳年間の『氷川大明神縁起』には「人皇三十代天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)即位八年辛酉之秋」に「入間之河中与利異晃夜々照ル」とあり、これは「当国足立郡之氷川大明神之為霊光」と人々は恐れ畏み、一社を設けて年ごとの祭事を行い、ここを里宮と定めたと伝えている。

 祭神は、素盞鳴尊・奇稲田姫尊・大己貴尊・手摩乳尊・脚摩乳尊の五柱である。神像は正徳年間町年寄榎木家より奉納された。

 中世に入ると長禄元年当地の要害を利用して太田道真、道灌父子の手により川越城が築城された。以来、当社は川越城の武士たちに厚く崇敬されるところとなり、殊に、道灌は『永享記』によると江戸の津久戸明神を通して当社を尊崇し、『慕景集』に次の献詠がある。
老いらくの身をつみてこそ武蔵野の草にいつまで残るしら雪

 天文六年、川越城をめぐって一北条氏と上杉氏の間で、川越合戦が行われたことが『河越軍記』に記されている。この軍記に、当時の氷川神社の信仰を知ることができる記事があり「ここに日川の明神として戌亥にあたれる社なり、則人民惣社にあがめて往詣する事さりもあへず」とある。これにより、当時すでに川越の総社であったことが知られる。

 天正一八年、徳川家康関東移封以来川越城は江戸城の備えとして重要な位置を占め、歴代の城主も幕府の重職が当たり、また、これらの城主は川越の総社として当社を崇敬し、代替りごとに社参して太刀や白銀などを奉納した。
なお、毎年、元旦は奉幣の儀が行われ、神主は登城して城主に目通りの上賀儀を申し述べることを恒例としている。

 社領については、文禄四年川越城主酒井与七郎忠利、慶長六年本多形部左衛門、寛永一八年老中松平伊豆守信綱、元禄元年松平信輝と次々に寄進状が発給され、社禄一五石二斗六升、社地四反三畝十歩は、歴代の城主に安堵されている。このほか、家中並びに町方氏子より寄進された水田一町五反八畝四歩を所有していた。

 造営は社蔵の奉加帳によると、寛永五年酒井讃岐守忠勝本殿修覆、同六年拝殿再建、同一三年堀田加賀守正盛鳥居及び末社建立、また、元禄九年城主柳沢出羽守吉保は、社殿造営費三百二十六両余のうち不足金八十二両余を寄進し、家臣曾根権太夫をして社殿を造営させた。享保五年、秋元伊賀守喬房は、社殿の修理費八十三両余の内、三十五両余を寄進し大修理を行い、寛保元年には屋根を銅瓦葺きとした。

 現本殿は、天保一三年城主松平大和守斉典が造営料三十五両余を寄進し、氏子醵出金二千二百五十両を得て嘉永二年に竣工した。規模は正面三間側面二間の入母屋造りに、一間の向拝を付け、正面千鳥破風軒唐破風となり、外回りの壁面は精緻な彫刻で飾られている。

 摂末社は、元禄二年の『武蔵川越氷川神系図』によると、当時、牛頭天王社(現八坂神社)・人丸社・稲荷社二社の計四社が認められ、ほかの社はこれ以降に勧請されたものである。
 牛頭天王社は、初め喜多町持ちの社で、同町小名宮元より当社境内に移されたものである。造営は、寛永一三年堀田加賀守正盛の時に再興、次いで元文四年喜多町中にて再建し、天井に竜が描かれている。この牛頭天王社を内殿とする現社殿は、寛永一四年、三代将軍家光が江戸城二ノ丸に建立した東照宮で、これが明暦二年、空宮となったので三芳野神社の外宮として城主松平伊豆守信綱が拝領し、下って、明治五年に当社境内に移築し、旧来の社殿を内陣に納めたものである。この社は数少ない貴重な江戸城内建造物の遺構である。
 人丸社は、戦国時代に丹波の綾部から近江を経て移住した綾部家の遠祖柿本人麻呂を祀っている。社殿は、寛永年間に堀田正盛の手により修覆されたと伝え、更に宝暦二年には、川越在住の文人たちにより再建される。神像は吉野朝の歌人であり、彫刻家でもあった頓阿上人の作と伝える。また、宮形厨子は明治初期の工芸家柴田是真の作である。頓阿上人は、人麻呂像百体を刻んで住吉神社に奉納したといわれ、当社の神像はこの内の一体と伝える。文久二年、神像は盗難にあったが盗人は急に眼がくらんで動けず田の中にひれ伏したといい、危うく難を逃れた。祭典は、四月一八日が人丸忌に当たるとして、綾部一族が集まって氏神祭りを行う。
 稲荷神社は、由緒不詳であるが、元禄時代の石製眷属像(狐)一対を伝え、祭典は二月初午に行っている。

明治六年には郷社となり、同四一年神饌幣帛料供進社に指定され、大正一二年には県社に昇格した。

埼玉の神社』〈著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 〉より抜粋

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・境内各所図

境内の様子は 公式HPに詳しく記されています

川越氷川神社公式HP参照のこと
https://www.kawagoehikawa.jp/#/keidai/

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)入間郡 5座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 出雲伊波比神社
[ふ り が な ]いつもの いはひの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Itsumono Ihahi no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

宝亀三年(七七二)「太政官符」〈天理大学付属図書館所蔵〉に記される 出雲伊波比神社

宝亀三年(七七二)「太政官符」〈天理大学付属図書館所蔵〉に 入間郡の正倉が火災に遭ったため 武蔵国内四社〈・多磨郡 小野社・加美郡 今城青八坂稲實社横見郡 高負比古乃社・入間郡 出雲伊波比神社に奉幣したことを記しています

 太政官は、二宮八省の頂点に位置づけられ、すべての行政事務を総括した役所である。

符とは、上級官庁から下級官庁へ出された文書をいう。太政符には執行と書記官とが署名するが、この官符には藤原百川(ももかわ)自署が見られる。百川は藤原氏式家宇合(うまかい)の子で不比等の孫にあたる。

当時衰微しつつあった藤原一族の再起を図り、光仁(こうにん)天皇(桓武天皇の父)の擁立に奔走するなど、かなりの策士家だったと言われている。

 この官符には、武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市付近)で起きた、租税である米を貯蔵する正倉が焼亡した事件と、それへの対応が記されている。
 こうした火事騒ぎは「神火事件(しんかじけん)」と呼ばれ、奈良時代の半ばすぎから各地で度々発生した。初めは、天の神が怒って火をつけたと信じられていたが、国家の財政の損失が大きいことから政府の調べが進み、その真相が次第に明らかになっていった。

 一つは、古くからの郡司と新興豪族との争いで、互いに相手をけおとすために放火し、罪をなすりつけるものである。
 もう一つは、郡司だけでなく国司の悪事もさかんで、正倉から稲を横取りしていたが、中央からの役人が調べに来る前に証拠隠しのために焼くのである。このように神火は、農村での新旧二つの実力者の争いと、政治の乱れを物語っている。

 奈良時代の太政官符が伝存するのは大変珍しく、奈良正倉院にさえ残っていない。現存は四通のみ知られている。

(天理図書館 三村 勤)天理図書館「陽気」2008年6月号より抜粋

天理図書館「陽気」2008年6月号より抜粋

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延喜式内社 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)の類社について

延喜式神名帳927 AD.』の所載社に 同じ゛伊波比神゛の名を持つ神社が 武蔵國に三社あります

一つは 入間郡に 出雲伊波比神社
二つは 
男衾郡に 出雲乃伊波比神社

※この二社は ともに゛出雲゛を社号に冠していて 出雲の神を祀るものです

三つは 横見郡に 伊波比神社伊波比神社(吉見町黒岩)〉があり ここも元々は 出雲系の神であったとされています

それぞれの゛伊波比神゛を参照ください 式内社とその論社について載せています

延喜式内社 武蔵國 横見郡 伊波比神社いはひの かみのやしろ)

・伊波比神社(吉見町黒岩)

延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)

・出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西) 

・出雲祝神社(入間市宮寺) 

・川越氷川神社(川越市宮下町) 

・北野天神社(所沢市小手指元町) 

延喜式内社 武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社(いつものいはひの かみのやしろ)

・出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)

・出雲乃伊波比神社(熊谷市板井)

・白旗八幡社〈井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)寄居町赤浜に遷座した出雲乃伊波比神社の元宮

・八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)井椋神社に合祀された白旗八幡社の旧鎮座地

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

西武鉄道 本川越駅から北へ1.9km 川越の街中を歩きながら25分程度

車なら15分程度

県道51沿いに大きな朱色鳥居が建ちます

川越氷川神社(川越市宮下町)に参着

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社殿 境内は南向き
手水舎にて清めます

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境内の様子は 公式HPに詳しく記されています

境内各所図

川越氷川神社公式HP参照のこと
https://www.kawagoehikawa.jp/#/keidai/

拝殿にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿の横には 風鈴廻廊がありました

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県の重要文化財に指定されている本殿の彫刻は見事です

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廻廊を進みます

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廻廊を廻ると多くの境内社が祀られています

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鮮やかな舞殿があります

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社殿に一礼をして 境内を抜けます

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 出雲伊波比神社について 天穂日命は 出雲臣 武蔵国造の遠祖 入間宿祢は天穂日命の系統
所在は 北野村〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉と記しています

【抜粋意訳】

出雲伊波比神社

書紀 天穂日命 此 出雲臣 武蔵国造等 遠祖也

姓氏 入間宿祢 天穂日命十世孫 天日古曽乃日命之後也

式考 北野村 祭神 スサノヲノミコト
〇信友云 上ノ伊波比神 同神也

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承

川越氷川神社(川越市宮下町)について 太田道灌の歌などを記していて 特に式内社 出雲伊波比神社については 何も記されていません

【抜粋意訳】

新編武蔵風土記稿 巻一六二 入間郡 巻之七 河越領 河越城 城下町 宮ノ下

氷川社

祭神は 五座 素盞嗚尊 奇稲田姫命 大國主天神 脚摩乳神 手摩乳神
今は手摩乳神を除きて四座なり
人皇三十代 欽明天皇即位八年辛酉の秋 當社 氷川を勧請すと云と いかがはあるべき

例祭 正月十五日 九月十五日行はる 中にも九月は十日より氏子のもの よりつどひて頗るにぎはへり 昔は田楽 角力などを興行せしが 慶安元年より神輿をわたし 同四年より萬度をいたし  屋臺など云ものを大路をわたすとなり 元禄の後は 彌さかりにして 上五町 下五町とわかち きそひて種々の造物を出し 祭禮終りて十六日に至れば 各町々にて踊り舞ふことあり これを俗に笠脱と云 これらの故事今に到るまでかならず 當社古より始終おとろへずして 神徳さかりなりしにや
 太田道灌沙彌 當社に在城せし頃 沙頭にまふでてよめる歌の詞書に 氷川の社に奉納の和歌をすすめられて 老らくの身をつみてこそ武蔵野々草にいつまで残るしら雪

神輿蔵 神楽殿 供所

  天王社 三峰社 子権現社 天神社 八幡社 春日社 疱瘡神社 稲荷社 山王社 雷神社 人丸社

神職 山田伊織 吉田家の支配なり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]265巻80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 出雲伊波比神社について 所在は 北野郷 小手指原 物部天神社内〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉とした上で 当國 横見郡 伊波比神社〈現 出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)もあるとも記しています

又 此辺の同三社〈・横見郡 伊波比神社入間郡 出雲伊波比神社男衾郡 出雲乃伊波比神社〉についても ことごとに祭神が違うが もっとよく考証すべきとも記しています

【抜粋意訳】

出雲伊波比神社

出雲は伊豆毛と訓べし、伊波比は假字也、
〇祭神 素戔鳴尊、(地名記)
○北野郷 小手指原 物部天神社内に在す、(同上)
例祭  日、
旧地 廃亡して 後爰に祀るか、
〇当國 横見郡 伊波比神社もあり、

日本紀 神代巻上、一書曰、天穂日命、此 出雲臣 武蔵國造等遠祖也 と見え、
姓氏録云、入間宿禰も此神之後とあれば、当社恐らくは天穂日命の裔を祭れる、所謂 氏神なべきに、此辺の同三社、ことごとに祭神の違へるは、中古よりの謬ならんとは思へど、其証いまだ見ず、猶よく考ふべし、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 出雲伊波比神社について 所在は 今 物部天神の合殿〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉と記しています

【抜粋意訳】

出雲伊波比(イヅモノイハイノ)神社

今 物部天神の合殿に坐す、神社覈録、神社取調帳、
蓋 大己貴命を祭る、掛酌延喜式、神名帳頭注大意、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 出雲伊波比神社について 所在は 宮寺郷 字寄木森〈現 出雲祝神社(入間市宮寺) 〉と記しています

【抜粋意訳】

出雲伊波比神社

祭神
今按〈今考えるに〉
社伝 祭神 天穂日命とあるは古傳なるべし
古事記に 天天菩比命の子 建比良鳥命 此は出雲国造 无邪志国造 云々
国造本紀に 成務朝の御世に 出雲臣の祖・二井之宇迦諸忍之神狭命ふたいのうがもろおしのかむさのみことの十世孫の兄多毛比命えたもひのみことを国造に定められた とあるに由を聞こえり

祭日 九月二十九日
社格 村社

所在 宮寺郷 字寄木森(入間郡宮寺村大字宮寺)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

〇埼玉縣 武蔵國 入間郡川越町大字宮下

郷社 氷川(ヒカハノ)神社

祭神 素戔鳴(スサノヲノ)
配祀 櫛名田昆賣(クシナダヒメノ)
   足名椎(アシナツチノ)
   手名椎(テナツチノ)


に云く、欽明天皇年秋、大宮氷川神社勧請云々、新編武蔵風土配稿、之を評して云く、「イカガハアルべキ」と、太田道灌川越城に在る時、一首の和歌を献す、其の歌慕京集に見えたり。
「老らくの身をつみてこそ武蔵野の
  草にいつまで残るしらゆき」

天文年間此の地兵戦の衝となりしと雖も、本社は毫も災を被らず、社頭厳然たりし由川越記に記せり、徳川氏関東を領するに及び、酒井忠利をして川越の城主たらしむ、時に酒井氏自筆の状を副へて、社領若干を寄進す、爾来城主代々の氏神となり、寛永年酒井讃岐守本殿修造、元禄年柳澤吉明本拝両殿造営の事ありたり、明治年に及び氏子本殿を改造し、年に至り、更に拝殿を改造せり、現在の社殿是なり、古来川越町総鎮守にして、城主代々の氏神たり、故に城主代替毎に、親しく参拝の事あり、且毎歳元旦幣物献上の儀ありしが、明治年、川越県県社兼第一大区郷社たり、然るに翌年行政区画改定の為め、単に第一大区郷社と改めらる、社殿は本殿、拝殿、境内は七百六十二坪(官有地第一種)及宮地上地林一反四畝二十三歩余(官有地第一種)より成る

境内神社・・・・

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

川越氷川(ひかわ)神社例大祭(川越祭)について

川越氷川神社例大祭(川越祭)

所在地 川越市宮下町二丁目

 川越氷川神社の例大祭は、毎年十月十四・十五日の二日間行われる。十数台の山車(だし)が市内を練り歩き、川越氷川祭として広く知られているものである。

 この祭は、慶安元年(一六四八)川越城主 松平信綱(のぶつな)が、神輿(みこし)等を寄進したことに始まる。元禄十一年(一六九八)に最初の踊屋台が出てから年々盛んとなり、文政九年(一八二六)の祭から意識的に江戸の天下祭の形式をとり入れ、各町ごとに笠鉾(かさほこ)、造り物、練子(ねりほこ)等が出るようになった。天保十五年(一八四四)には一本柱の山車に統一されたが、文久二年(一八六二)にはもう二重鉾の山車が出現している。明治以後は山車と踊屋台が中心となり、大火以後は山車だけの祭になった。しかし二重鉾の山車はいよいよ豪華絢爛(けんらん)となり、廻り舞台の工夫もなされた。山車の構造はもとより人形は著名な江戸の人形師の作で、囃子(はやし)は神田囃子と、すべて天下祭にみられた江戸文化の伝統を残していることがこの祭の特徴で、最近は全市をあげての観光行事になっている。

昭和五十八年三月 埼玉県

現地案内板より

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川越氷川神社(川越市宮下町)に (hai)」(90度のお辞儀)

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