一之宮 貫前神社(富岡市一ノ宮)

一之宮 貫前神社(いちのみや ぬきさきじんじゃ)は 菖蒲(綾女・あやめ)谷といわれる渓間に南面して鎮座しますが ご参拝には 一度 南の参道をのぼって大鳥居をくぐります 平坦な参道が弧を描くように総門に至ります するとそこからは 急な下りの石段となっていて 真下に社殿が建っています  上って 平らになって 今度は下りになる 全国でも珍しい「下り参道」でお詣りする神社です 古くからの由緒格式を持つ 上野国一之宮として崇敬を集めています

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

  一之宮 貫前神社(ichinomiya nukisaki shrine)
(いちのみや ぬきさきじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

 【鎮座地 (location) 】

 群馬県富岡市一ノ宮1535

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》経津主神(futsunushi no kami)
《配》姫大神(hime no okami)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 上野国一之宮
・ 別表神社

【創 建 (Beginning of history)】

ご朱印受領時の由緒書き

【由 緒 (history)】

上野国一宮、元国幣中社、一之宮貫前神社、群馬県富岡市一ノ宮鎮座。

「一番はじめは一ノ宮」と古くからわらべ歌にうたわれている通り、一之宮貫前神社は上野国の一宮で、経津主神と姫大神を祀り、開運、治安、農耕、機織、縁結び、安産の神として県内はもとより、遠近の人々に信仰され親しまれている。神社は、鏑川の清流に臨み北に妙義、南に稲含、秩父の連山、西に神津荒船の連山を仰ぐ景勝の地にあり、小高い丘陵を登り、見上げるような丹塗の大鳥居をくぐり、北斜面の下り参道をおりて参詣するという全国でも珍らしい形態を持ち総漆塗極彩色の社殿が鬱蒼と繁った杜に囲まれ巧に配置散在する様は、恰も日光の東照宮を見るような華かなもので、小日光と呼ばれている。

御祭神 経津主神、姫大神。
経津主神は磐筒男、磐筒女二神の御子で、天孫瓊瓊杵尊がわが国においでになる前に天祖の命令で武甕槌命と共に出雲国(島根県)の大国主命と協議して、天孫のためにその国土を奉らしめた剛毅な神で、一名斎主命ともいい建国の祖神である。

姫大神は祭神不詳で、恐らく綾女庄(一ノ宮地方の古称)の養蚕機織の守護神と考えられる。

由緒
社伝によれば、碓氷郡東横野村鷺宮に物部姓磯部氏が奉斎、次で、南方鏑川沿岸に至り蓬ケ丘綾女谷に居を定めお祀りしたのが安閑天皇元年3月15日である、
天武天皇白鳳2年3月15日初度の奉幣があり、清和天皇の貞観元年に宸筆の額を賜り、神位の昇る毎に書き改めて今に残っているものに正一位勲五等抜鉾神社とあり、即ち勅額で楽翁公の集古十種に記されている。
醍醐天皇の御代、延喜の制には名神大社に列し、上野国一ノ宮として朝野の崇敬を衆め、武家時代に至って、武家、地方豪族が格別に崇拝して数々の献品をなし、奥方連中からも奉納品等があって女神様の信仰も篤かったことが知られる。
明治4年国幣中社に列格、
昭和21年、社格制度の廃止により一之宮貫前神社と称し現在に至る。

この間御修理に御下賜金、皇族方の御寄進或は御親拝(昭和九)皇族方の御参拝等御神威彌彌高く農耕、殖産、開運の神として神徳四方に遍く一朝国家有事の際は賽者踵を接する。

社殿と境内
現在の社殿は
徳川三代将軍家光の命により改築したもので、寛永12年(約330年前)の造営である。
元祿11年、五代将軍綱吉が大修理をした、江戸初期の総漆塗精巧華麗な建造物というだけでなく、その構造が、いわゆる貫前造と称する特異な点から重要文化財(旧国宝)に指定されている。
拝殿、楼門及び東西両廻廊は同時代の建築である、実に徳川家の抱え大工が日光廟という世界的美術建造物を完成する道程の中にあるものといえる。

境内は
約26000坪、北斜面の森林で、本殿裏に樹令約1200年の杉の御神木があり、一名藤太杉とも云う、その昔、藤原秀郷(俵藤太秀郷)が戦勝祈願をこめて年令の数即ち36本を植えたと称するもので、現在はこの御神木一本だけが残っている。
西の門内は式年遷宮祭の御仮殿敷地、東の門内は往時神仏習合時代の僧堂敷地で、観音堂跡、三重塔跡、鐘楼跡等がある、不明門内にある鳥居は勅額鳥居と称え昔は遥か南方正面田島字鳥居の地にあったと伝えている。

宝物
総て400点余、鏡、武具をはじめとして、御神衣、古文書、神楽面等古来の崇敬信仰を語るに足る諸品を蔵している。
鏡、百数十面、奈良、平安、鎌倉、室町、吉野、桃山、江戸の各時代を通じて大観し得るものとして金工美術上珍重されている、
内重文に指定されているものは次の通り。
白銅月宮鑑、唐鏡、約2000年位前の作。
約360年程前文禄3年頃小幡竹千代の乳母奉納、梅雀文様銅鏡、
約760年前、鎌倉時代、竹虎文様銅鏡、
約500年前、室町時代。御神衣、60余領残存、元和9年以来遷宮毎に新調奉納。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

本殿向かって左脇に鎮座

・抜鉾若御子神社(nukihokowakamiko shrine)

 《主》経津主命御子
 ※元は一ノ宮字若宮に鎮座 明治38年に現在地に遷座
  第27代 安閑天皇の代(531-535年)の創建

総門から楼門への下り石段途中に鎮座

・月読神社(寛永12年以前の本社 旧拝殿を社殿としています)

 神仏習合時には牛王堂 明治期に月夜見命を祀り 月読神社となります
《主》月夜見命

 《合》御嶽之神・大雷神・大日孁命・豊宇気毘売神・大穴牟遅神
    八衢比古神・建御名方神・八坂刀売命・菅原道真公
    猿田毘古神・宇迦之御魂神・大宮能売命・品陀和気命
    少名毘古那神・近戸神

  ※明治41年 社久司神社(秋畑琵琶澤)・雷電神社(秋畑二ツ石)・湯前神社(秋畑裏根)・近戸神社(富岡市野上)の近在4社を合祀

仮殿敷地に隣接に鎮座

・内宮(寛永12年 現在地に遷宮)

 《主》天照皇大神

・外宮(寛永12年 現在地に遷宮)

《主》豊受大神

・日枝神社 

《主》大己貴命・大山咋命
 《合》建御名方命・八坂刀売命・豊受姫命・火産霊命・菅原道真公
    稲倉魂命・木花咲耶姫命・伊邪那岐命・伊邪那美命・大物主命
    宇迦之御魂命・波迩夜須毘売命・大山津見命・大日孁命

・日枝神社・外宮・内宮は並んで鎮座します

・二十二社 

社領内に祀られていた各社を 寛永12年の造営時に一棟にまとめたと伝わります

・八坂神社

《主》素盞嗚命(susanowo no mikoto)
7月17日にお詣りの際には 総門に 末社 八坂神社祭御旅所 が斎行されていました

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)上野国 12座(大3座・小9座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)甘楽郡 2座(大1座・小1座)

[名神大 大 小] 式内 名神大社

[旧 神社名 ] 貫前神社(名神大)
[ふ り が な  ](ぬきのさきの かみのやしろ)
[How to read ](nukino sakino kamino yashiro) 

国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

貫前神社の 全国でも珍しい「下り参りの宮」について

上って 平らになって 今度は下りになる 全国でも珍しい 下り参道でお詣りする神社です

上りの参道

表参道から大鳥居までは 表参道は 石段を上がります

平らな参道

大鳥居から総門までは 同じ高さにあり平らな表参道が弧を描くように続きます

下りの参道

総門から楼門・社殿までは 表参道は 石段を下ります

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貫前神社の 境外 摂社・末社 と前宮 について

境外摂社
・荒船神社(arafune shrine)《主》経津主命

 抜鉾神の起源として笹岡山(荒船山)とあり『神道集』

貫前神社の境外摂社とされる荒船神社の記事もご覧ください

・稲含神社(inafukumi shrine)《主》宇迦之御魂命

 本社の本殿にある「雷神小窓」は 稲含山を向いているとされます写真をご覧ください(拡大して見てください 本殿正面中央の二階部分の小窓)

境外末社・小船神社(kobune shrine)《主》経津主命

 本社の祓戸とされ 古くはさらに北方に鎮座
一宮大明神が天竺から乗ってきた2艘の船の内1艘を祀る『江戸期の由来書』

貫前神社の祓戸とされる小船神社の記事もご覧ください

貫前神社の前宮(旧鎮座地)
・咲前神社(sakisaki shrine)《主》経津主命 ・大己貴命 ・保食命

 社伝によると 経津主命が建御名方命を征する為 上野国・信濃国の国境にある荒船山に出陣した際に宿営したのが 現在の咲前神社の地であったという安閑天皇元年(534)この地から「雷斧石」3柱が現れ 朝廷に上層したところ磯部朝臣が遣わされ 社が建てられた
白鳳元年(650)に神託により 経津主命を甘楽郡蓮ヶ丘菖蒲谷に遷座し 上野国一之宮貫前神社の鎮座となった

貫前神社の前宮(旧鎮座地)とされる咲前神社の記事もご覧ください

・咲前神社(安中市) 一之宮 貫前神社の 旧鎮座地

貫前神社の鹿占習俗(ぬきさきじんじゃのしかうらしゅうぞく)について

鹿占は鹿の肩甲骨を一定の作法で焼き、生じたひび割れによって吉凶を占う手法で、我が国では弥生時代に始まり、特に古代には盛んに行われていたことが知られている。かつては各地で行なわれた鹿占習俗も、現在ではこの貫前神社と武蔵御嶽神社で行われるもののみとなっている。

詳しくは
文化庁HP゛貫前神社の鹿占習俗゛を参照
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/312/271

 神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

上州一ノ宮駅」下車 徒歩15分
県道198号を右折して 参道を上がると駐車場がある広場 大鳥居の下に着きます

一之宮 貫前神社(ichinomiya nukisaki shrine)に到着

石段を上がり 一礼して大鳥居をくぐります
大鳥居からは平坦な参道が弧を描くように総門に至ります

総門の前には 慶応2年(1866)献納(献納者は1544名 地元の養蚕農家・上州・江戸・横浜の生糸 絹商人) 高さ395cmの立派な「唐銅製燈籠」が建ちます それから7年後に富岡製紙工場が開業しました

その先には 独特の狛犬が座します

由緒案内板もあり読み耽ります

一礼して総門をくぐると 目の前ではなく 遥か下に楼門が見えます

急な下りの石段が続き 下り参道に驚かされます

石段の参道を下る途中 左手には仮殿敷地(貫前神社では 12年ごとに式年遷宮が行われ 仮殿敷地に仮殿が築かれます)があり 境内社が鎮座します 後程お詣りをします

石段を更に下ると 右手には「齋館」が建ちます

向き合うように 左手には境内社があり お詣りです

・月読神社(寛永12年以前の本社 旧拝殿を社殿としています)
《主》月夜見命

 《合》御嶽之神・大雷神・大日孁命・豊宇気毘売神・大穴牟遅神
    八衢比古神・建御名方神・八坂刀売命・菅原道真公
    猿田毘古神・宇迦之御魂神・大宮能売命・品陀和気命
    少名毘古那神・近戸神

石段の下には楼門が建ち 左手に手水舎があります

楼門には 賽銭箱が設置され こちらからお詣りをします

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

楼門と回廊でご神域を囲んでいますが 扉は解放されていて 拝殿へとすすみます

社殿はたいへん立派です 日光東照宮を感じさせるのですが やはり造営者は同じで 本殿・拝殿・楼門・回廊は 第3代将軍 徳川家光公(寛永12年(1635)造営)

元禄11年(1698)第5代将軍 綱吉公による大規模な修理で極彩色の漆が塗られ 現在の華麗な造りとなったと伝わります

本殿・拝殿・楼門・回廊は いずれも国の重要文化財に指定されています
麒麟が数多く描かれています

本殿の建築様式は 独特な単層2階建て造りで「貫前造」と呼ばれています
建屋内部が 2階構造となっていて 上段には神座が据えられているとの事です
外部からも見えますが 稲含山の方向に向けて「雷神小窓」(本殿正面中央の二階部分)が設けられています

社殿を左右から仰ぎます

本殿向かって左の御垣外に 近づけませんが境内社があります お詣りです

・抜鉾若御子神社(nukihokowakamiko shrine)
 《主》経津主命御子
 ※元は一ノ宮字若宮に鎮座 明治38年に現在地に遷座
  第27代 安閑天皇の代(531-535年)の創建

一端楼門を出ると社務所と神札授与所があり ご朱印などを頂きます

社殿の周りを時計回りに廻ると
右手に「神楽殿」

裏手に「藤太杉」

左手には「経蔵址」

背後から本殿を仰ぎます

手水舎の井戸の前を通りながら 楼門前に戻ります

帰りは 総門までの上りの石段となります

石段の途中 燈籠の立つ位置から
仮殿敷地(貫前神社では 12年ごとに式年遷宮が行われ 仮殿敷地に仮殿が築かれます)があり 境内社が鎮座しますので お詣りです

仮殿敷地の境内社の配置図です

仮殿敷地に隣接に鎮座

・内宮(寛永12年 現在地に遷宮)
《主》天照皇大神

・外宮(寛永12年 現在地に遷宮)
《主》豊受大神

・日枝神社
 《主》大己貴命・大山咋命
 《合》建御名方命・八坂刀売命・豊受姫命・火産霊命・菅原道真公
    稲倉魂命・木花咲耶姫命・伊邪那岐命・伊邪那美命・大物主命
    宇迦之御魂命・波迩夜須毘売命・大山津見命・大日孁命

・二十二社
 社領内に祀られていた各社を 寛永12年の造営時に一棟にまとめたと伝わります

樹齢千年の「スタジイの木」があり 思わずお詣りをします

西門から境内を出ます 振り返り一礼

もう一つの門があります
不明門(akazunomon)とされていて 勅使参向の際に設けられた門と鳥居です

総門前に戻り 弧を描く参道を大鳥居へ向かいます

大鳥居からは稲含山を右前に見て 一宮の町を一望できます

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

神階について六国史では

『続日本後紀(shoku nihon koki)』に記される伝承

第54代 仁明天皇の御代(833- 850年)18年間(869)貞観11年完成

『続日本後紀』承和6年6月(839)甲申条

奉授について 上野国の「拔鋒神(貫前神社)」「赤城神(赤城神社)」「伊賀保神(伊香保神社)」と並んで無位から従五位下とあります 

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』に記される伝承

平安時代(延喜元年(901年)成立)に編纂された歴史書 六国史の第六第56代 清和天皇・第57代 陽成天皇・第58代 光孝天皇
3代の天皇の御代 天安2年(858)8月~仁和3年(887)8月の30年間を扱う

『日本三代実録』貞観元年正月27日甲申条(859)

上野国「貫前神(貫前神社)」正五位下勳八等から従四位下勳八等 と記されます 

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=

『日本三代実録』貞観9年6月20日丁亥条(867) 

上野国 従四位下勳八等「貫前神(貫前神社)」に従四位上勳八等
従五位上「赤城神(赤城神社)」「伊賀保神(伊香保神社)」並正五位下
従五位下「甲波宿祢神(甲波宿祢神社)」従五位上 と記されます

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』出典同上

『日本三代実録』貞観18年4月10日丁巳条(876)

上野国 従四位上勳八等「貫前神(貫前神社)」に正四位下
正五位上「伊賀保神(伊香保神社)」従四位下
正五位下「甲波宿祢神(甲波宿祢神社)」正五位上 と記されます

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』出典同上

『日本三代実録』元慶3年閏10月4日庚寅条(879)

上野国 正四位下「貫前神(貫前神社)」に正四位上勳八等
従五位下「波己曽神(波己曽神社)」「若伊賀保神(若伊賀保神社)」並従五位上 と記されます

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』出典同上

『日本三代実録』元慶4年5月25日戊寅条(880)

上野国 正四位上勳八等「貫前神(貫前神社)」に従三位勲七等
従四位下「赤城石神」「伊賀保神(伊香保神社)」並従四位上
正五位下「甲波宿祢神(甲波宿祢神社)」従四位下
正五位下「小祝神(小祝神社)」「波己曽神(波己曽神社)」並正五位上勲十二等
従五位上「賀茂神(賀茂神社)」「美和神(美和神社)」並正五位下勲十二等
正六位上「稲裹地神(稲裹地神社)」従五位下勲十二等 と記されます

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』出典同上

貫前神社は 上野国一之宮として崇敬を集めています 菖蒲(綾女・あやめ)谷といわれる渓間に南面して鎮座するのですが ご参拝には 一度 南の参道をのぼってから総門に至ります そこからは 石段を下る位置に社殿が建っていて 珍しい「下り参道」でのお詣りとなります

貫前神社(nukisaki shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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上野国 式内社 12座(大3座・小9座)について に戻る

 

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

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