捧羽山神社 & 伊後神社(隠岐の島町伊後)

捧羽山神社(ぼうばさんじんじゃ) は 水若酢神社(隠岐の島後 一之宮)の元宮が鎮座していた所で 水若酢神社神社の由緒によれば「御祭神 水若酢命は 海中より伊後の磯島に上られ 山を越えてこの里に入られ・・」とあり
ここに記される 山(田畑の中の小丘)を捧羽山(hoba san)と呼び 現在ここに 捧羽山神社が鎮座します

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

スポンサーリンク

【神社名(shrine name)】

 捧羽山神社(hoba san shrine )
 (ぼうばさんじんじゃ) 

 【鎮座地 (location) 】

島根県隠岐郡隠岐の島町伊後

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》水若酢命(mizuwakasu no mikoto)

スポンサーリンク

【神社名(shrine name)】

 伊後神社(igo shrine)
 (いごじんじゃ) 

 【鎮座地 (location) 】

島根県隠岐郡隠岐の島町伊後594

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》伊耶那岐命(izanagi no mikoto)
   速玉男命(hayatamao no mikoto)
   祭神不詳


《配》蛭児命(hiruko no mikoto)
   大山祇神(oyamatsumi no mikoto)
   手力男命(tajikarao no mikoto)
   事代主神(kotoshironushi no mikoto)
   和太須神(watasu no kami)
   若宮神(wakamiya no kami)

【御神格 (God's great power)】

【格 式 (Rules of dignity) 】

水若酢神社(mizuwakasu shrine)(隠岐の島後 一之宮)の元宮

【創 建 (Beginning of history)】

不詳 

水若酢神社の由緒によれば 火災・水害の難にあい 古文書・社宝等ほとんど失われた為 由緒は明らかではありません

【由 緒 (history)】

水若酢神社(mizuwakasu shrine)に 僅かに残っている古文書
『隠州記』(貞享5年(1688年)著)の伝承
第10代 崇神天皇の御代に 神が海中から伊後の磯島に上がられ 白鳩2羽に乗って遷座したとしています
寛政7年(1795年)の文書
第16代 仁徳天皇の御代に祭神が勧請されたとしています

隠岐島の伝承

白鳩ではなく 白鷺によって 神が 伊後から捧羽山(ぼうばさん 芳葉山)などを経て 
山田村(隠岐の島町山田) 一宮村宮原(隠岐の島町郡)と移り さらに江戸時代の洪水の際に現社地の郡村犬町(隠岐の島町郡)に遷座したとしています(一宮村宮原以前の遷座年は不詳です)

スポンサーリンク

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

伊後神社の 黒松

町指定天然記念物で幹周5.7m 樹高25mという通称「伊後の大松」と呼ばれる樹齢500年の黒松の巨木が 最近まであったようです

参拝時には 大きな切り株がありましたので 伐採されているようです

スポンサーリンク

【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

伊後神社(igo shrine)の御祭神について

主祭神は3柱ですが 1柱は 祭神不詳とあります

配祀神にも 和太須神(watasu no kami)と若宮神(wakamiya no kami)が祀られています

この和太須神(watasu no kami)とは何の神なのでしょうか?
もしかすると隠岐の島前 一之宮である『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』由良比女神社(yurahime shrine)に付記されている「元名和多須神(motona watasu no kami)」と同神なのでしょうか?

だとすれば 隠岐の島後 一之宮 水若酢神社(mizuwakasu shrine)の御祭神 水若酢命(mizuwakasu no mikoto)が 海から上陸した地点(伊後)に 双方の一之宮の神が祀られていることになります  

そして 若宮神(wakamiya no kami)とは 八幡神も祀られていない事から推測しても おそらくその神の御子神であろうと想われます

若酢(wakasu)の文字は 和太須神(watasu no kami)の転訛なのかと想ってしまう程です 水若酢(mizuwakasu)は 水から上がれた和太須神(watasu no kami)の意なのかと勝手に想像が駆け巡ります

神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

隠岐の島町中村からR485号で 伊後まで 約3.6km 伊後公民館のそばに伊後神社があります

伊後神社(igo shrine)に到着

鳥居の手前には 来待石の狛犬が構えます

一礼して 鳥居をくぐり抜けると 正面に隋神門が建ちます

かつては 右手に通称「伊後の大松」と呼ばれた黒松の巨木の切り株があります 陰を造る大木がありませんので 明るい境内になっています

隋神門をくぐると 社殿が建ちます

拝殿にすすみます 

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

社殿向かって右手に 境内社(祠)が2社建ちます

社殿を向かって右手から 拝します

社殿向かって左手には 黒松の木に幣と注連縄が張られていて 荒神 或いは御神木とされいているのか 日差しを受けて神々しい

かつての神木の切り株を眺めながら 隋神門をくぐり戻ります

参道を戻り 鳥居をくぐり抜けて 振り返り一礼して 捧羽山神社(hoba san shrine )へ向かいます

伊後の漁港へ向かう一本道をすすみます

由緒にある「神が海中から伊後の磯島に上がられ」とある 隠岐白島海岸が眼下に見えます

捧羽山神社(hoba san shrine )に到着

鳥居をくぐり抜けて 

本殿にすすみます 

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈りま

鳥居をくぐり抜けて 振り返り一礼をします

捧羽山神社(hoba san shrine ) & 伊後神社(igo shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

隠岐の島後 一之宮 水若酢神社(mizuwakasu shrine)の記事をご覧ください

隠岐の島前 一之宮 由良比女神社(yurahime shrine)の記事をご覧ください

隠岐国 式内社16座(大4座・小2座)について に戻る

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-その他の神社
-, ,

error: Content is protected !!

Copyright© Shrine-heritager , 2024 All Rights Reserved.