羽束師坐高御産日神社(はづかしにます たかみむすひじんじゃ)は 社伝によれば 創建〈雄略天皇21年丁己(477)〉と伝わり 京都でも古社となります 高皇産霊神(たかみむすひのかみ)を祀る 延喜式内社 山城國 乙訓郡 羽束師坐高御産日神社(大月次新嘗)(はつかしにますたかみむすひの かみのやしろ)です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
羽束師坐高御産日神社(Hazukashinimasu takamimusuhi shrine)
【通称名(Common name)】
・式内第一羽束師の森神社(しきないだいいちはずかしのもりじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
京都府京都市伏見区羽束師志水町219-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》高皇産霊神(たかみむすひのかみ)
《相 殿》神皇産霊神(かみむすひのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・風を鎮め 潤雨を祈願する神
・諸願成就・諸縁結び・開運厄払・交通安全
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
羽束師坐高御産日神社(ハズカシニマスタカミムスヒジンジャ)
御祭神
高皇産霊神〔タカミムスヒノカミ)
神皇産霊神(カミムスヒノカミ)御鎮座
当神社は雄略天皇二十一年(四七七)に創祀され生成霊力の御神徳をおもちの皇産霊神二柱を奉斉しています。皇産霊を「ミムスヒ」と言い「ムス」はものの生成を意味し、成長するカを「ヒ=霊力」と言います。又、高皇産霊神は高木神とも申し、神の依ります神体木(神籬)に縁の深い御名で明らかに田の神の降臨をあおぐ祭に関わりのある農耕神の信仰をになう天つ神であります。隋って五穀豊穣を祈る人々の間に稲霊を崇めるムスピ信仰が育まれ、特に収穫時に新穀を神と共に新嘗(ニイナメ)する農耕行事は最も重要な祭儀として、高皇産霊神、神皇産霊神が祀られてきた。この行事は弥生時代から現在まで時代の変遷を超え種々の文化要素を習合しつつ新嘗祭となり勤労感謝の日となって今猶生活の中に伝承されています。
続日本紀大宝元年(七〇一)四月三日の条に「勅して山背国波都賀志の神等の神稲は自今以後中臣氏に給へ」とあるのは当社に属する斎田から抜穂して奉祭し祭人中臣氏が新嘗祭を行ったことを示唆する資料といえます。十一社
本殿の左右に天照皇大神を始め十一神が祀られています。大同三年(八〇八)に斎部廣成公が諸国騒擾の多き様を憂い安穏を祈願する為、平城天皇の奏聞を得て勧請造営された神社です。
廷喜の制では(九六七)大社に列格され四時祭には官幣に預り臨時祭は祈雨神に座して天下豊年の御加護を垂れ給いました。北向見返天満宮
廷喜元年(九〇一)右大臣菅原道真公、筑紫へ左遷の砌当社に参詣「君臣再び縁を結び給へ」とご祈念の上
捨てられて 思ふおもひの しげるおや 身をはづかしの 杜といふらん
の歌をご詠進になり下向されました。菅公の御徳を慕い一の鳥居の東縁の地に社を営み北向見返天満宮が奉斎されました。羽束師の杜
境内は古来羽束師の杜と称せられ古歌謡曲等に詠われてきました。山城国中、名だたる社叢の一つとして四季折々の風情を今に伝え京都市の史跡に指定されています。羽束師祭
毎年五月第一日曜日の御出に始まり同第二日曜の還幸祭には氏子区内古川町、菱川町、志水町、樋爪町を大神輿が青年会の人等によって担がれ巡幸します。併せて子供神輿も境内を練り歩き大変賑わいます。奉献 志水町 田中弟 修復 田中輝雄
現地案内板より
京都市史跡 羽束師坐高御産日(はつかしにますたかみむすひ)神社境内
本神社は、高御産日神(たかみむすびのかみ)と神御産日神(かみむすびのかみ)の二神を祭神とし、桂川右岸の旧乙訓郡に所在する古社で、平野部にあって島状の微高地に位置している。社地は「羽束師の杜」とも呼ばれ、もとは大きな森であったと思われる。神明造の本殿と、入母屋造の拝殿は嘉永三年(一八五〇)の再建になる。『続日本紀(しょくにほんぎ)』大宝元年(七〇一)にその名がみえることから、大宝元年以前には奉斎されていたことがわかり、
『延喜式』では大社に列している。本殿の左右には大同三年(八〇八)に勧請したと伝わる末社十一社が祀られている。本神社は、市内でも最古級の神社として、また桂川流域の歴史を考えるうえで重要である。近年急速な都市化により激変している周辺環境にあって、本神社とその森は貴重であることから、平成八年(一九九六)四月一日付けで京都市史跡に指定されている。
京都市
現地立札より
【由 緒 (History)】
由緒
当社の御鎮座は、雄略天皇21年丁己(477)です。
「続日本紀」大宝元年(701)4月3日条に「波都賀志神等の御神稲を今より以後中臣氏に給へ」とあって、羽束師神社についてみえる最も古い記録ですが、「三代実録」貞観元年(859)9月4日条には、「羽束志神、遣使奉幣、為風雨祈焉」とあり、風を鎮め、潤雨を祈願する神さまとして崇敬されていたことがうかがえます。
近年当社西方の長岡京四条四坊に当る旧址から、祈願の際献じる土馬が発掘され、話題を呼んだのは興味深いことです。この地は桂川及び旧小畑川等諸河川の合流点に位置し、低湿地ですが、古くから農耕が行われ且、水上交通の要地という条件と相まって、「乙訓・羽束郷」(和名抄)と称し開けてきた土地です。
因に、日本書紀 垂仁天皇39年「冬10月(中略)泊橿部等并せて十箇の品部(とものみやつこ)もて五十瓊敷皇子に賜う」と記され又、「令集解」の職員令の中には「泥部=泊橿部とは古の波都加此の伴造を云う」とあります。
何れにしても、「はつかし」と名乗る職業をもった人々の集団が、大宝令制に組み入れられる以前から、この地域に生活していたということが分かります。更に御所の野菜を供給する羽束師薗もあった処で、これらのことが、神社の発展をもたらした理由になったと考えられます。
平安初期延喜の制がととのえられるや当社は、式内大社に列せられ、月次・新嘗の幣に預かって、名実共に式内第一の社となり、「むすび」の御神威を愈々顕現され、天下豊平の加護を垂れ給うたのです。
中世・近世において、周辺地域の産土神として崇敬を集めたことは「都鄙祭事記」中の「久世、久我、古川羽束石祭4月中の巳日にて神輿2基あり。
往古は、久世より下の村々は、羽束石社の産子なり。乱国の頃別れしも、上久世続堤より少し下れば往還の東に、羽束石社の御旅所と申す地あり。其所に小社並びに黄楊の古木あり」という記事からも推察できます。
「大乗院寺社雑事記」文明14年(1482)9月1日条に「8月27日28日、西岡羽束石祭、守菊大夫楽頭、随分得分神事也、100貫計得云々、当座ニ60貫計懸物在之云々、盛物等大儀講也云々」とあり、祭礼には宇治猿楽守菊大夫が、楽頭職となって神事能を演じた事、またこの神事は近郊に聞えた盛大なものであったらしく楽頭の得分は百貫と記されています。氏子圏の広さとその豊かさを物語っています。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
羽束師川と道標
久我の地から古川・桶爪・水垂・大下津・山崎を経て桂川に注ぐ本支流合わせせて総延長十二粁余の人工水路を羽束師川と呼んでいます。この川は、桂川右岸低湿地の内水や悪水吐けのために、文化六年(1809)から十七ヶ年の歳月をかけて新川の堀さく 古水路の改修 樋門の設置等の工事が完成しました。かくして二郡十二村の水場の人々は累代にわたる水害をまぬがれ、荒廃した土地は耕地に変わり、その余慶は今日に及んでいます。しかるに此の工事は官府の力ではなく神明のご加護を祈り心身をくだき私財を投じて地域開発の素志を貫いた 羽束師神社祠官で累代の社家古川吉左衛門為猛翁の独力によって成し得た大事業でありました。
文政八年(1825)工事が完遂するや羽束師神社の名を取り羽束師川と命名され西陣伊佐町井上伝兵衛氏は為猛翁の偉業を後世に伝えんと久我畷四ツ辻にこの道標を建立されました。以来時は移り姿は変わりましたがその功績を偲ぶに相応しき神社境内に鴨川町西村奈良松氏のご厚意をうけ昭和五十五年に現地に移設しました。今年は恰も工事着工より二百年の佳辰に当りこの偉業を称える為記念碑を建立し由緒を銘記した次第であります。
羽束師神社現地石碑より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
〈本殿向かって左(西)に6つの社〉
向かって左から
・貴布祢大神・えびす大神・稲荷大神・嚴嶋大神・愛宕大神・若一王子大神
※斎部広成が大同三年(808年)に勧請したと伝わります
〈本殿向かって右(東)に5つの社〉
向かって左から
・「天照皇大神・八幡大神・春日大神・大三輪大神・籠勝手明神
※斎部広成が大同三年(808年)に勧請したと伝わります
・〈本殿向かって右(東)稲荷大神〉
〈神輿舎の裏手にある境内社2宇〉
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・北向見返天満宮《主》菅原道真公
北向見返天満宮(きたむきみかえりてんまんぐう)
この地は平安時代前期の延喜(えんぎ)元年(九〇一)、時の権力者の謀略により、都落ちを余儀なくされた、時の右大臣 管原道真(すがはらみちざね)公が筑紫太宰府に下向の折、先祖代々縁(ゆか)り深き、羽束師神社に参詣の際、立ち寄られたところであると伝えられている。その際、「君臣縁(えん)の切れしを再び結び給へ」と御祈念の上、「捨てられて 思ふおもひの しげるをや 身をはづかしの 杜(もり)といふらむ」の歌を詠進(えいしん)せられ、北方の禁裏を見返りつつ、名残惜しき都への切実な想いを詠まれた由緒あるところでもある。
後年、菅原道真公の威徳を称える人々により、神霊が奉祀(ほうし)され、都の行く末を案じ守護するかの如く、北向に奉斎され、現在まで北向見返天満宮として幅広い崇敬を戴いている。
平成二十七年(二〇一五)には大々的に境内整備が実施され、現状に一新された。
京都市現地立札より
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
山背国 葛野郡の神々の神稲を 以後は中臣氏に賜ふ と記されています
〈当社に属する斎田から抜穂して奉祭し 祭人として中臣氏が新嘗祭を行ったことを示唆〉
【抜粋意訳】
大宝元年(七〇一)四月丙午〈三〉の条
○丙午
勅。山背国 葛野郡 月読神。樺井神。木嶋神。波都賀志神(ハツカシノカミ) 此神の神稻今より後 中臣氏に賜ふべく制給
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
山城國・大和國・和泉國・攝津國の神々と共に 風を鎮め 潤雨を祈願する神さまとして 風雨祈りの官幣を遣わされています
【抜粋意訳】
巻三 貞觀元年(八五九)九月八日〈庚申〉の条
○八日庚申
山城國 月讀神。木嶋神。羽束志神(ハツカシノカミ)。水主神。樺井神。和岐神。
大和國 大和神。石上神。大神神。一言主神。片岡神。廣瀬神。龍田神。巨勢山口神。葛木水分神。賀茂山口神。當麻山口神。大坂山口神。膽駒山口神。石村山口神。耳成山口神。養父山口神。都祁山口神。都祁水分神。長谷山口神。忍坂山口神。宇陀水分神。飛鳥神。飛鳥山口神。畝火山口神。吉野山口神。吉野水分神。丹生川上神。河内國枚岡神。恩智神。
和泉國 大鳥神。
攝津國 住吉神。大依羅神。難波大社神。廣田神。生田神。長田神。新屋神。垂水神。名次神
等 遣(ツカハシメ)使(ツカイヲ)奉(タテマツ)幣(ヘイヲ)。爲(タメニ)風雨(アメカゼノ)祈(イノル)焉。
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大 社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(えんぎしき)巻3 』〈延長5年(927)〉神祇゛祈雨神祭八十五座゛について
祈雨神祭八十五座〈並大〉の一社として 記されています
【抜粋意訳】
巻3神祇 臨時祭 祈雨神祭八十五座〈並大〉の条
賀茂別雷社一座 賀茂御祖社二座 松尾社二座 稲荷社三座 水主社十座 樺井社一座 木嶋社一座 羽束石(ハツカシノ)社一座 乙訓社一座 和岐社一座 貴布祢社一座〈已上山城国〉
大和社三座 大神社一座 石上社一座 太社二座〈或作多社〉 一言主社一座 片岡社一座 広瀬社一座 龍田社二座 巨勢山口社一座 葛木水分社一座 賀茂山口社一座 当麻山口社一座 大坂山口社一座 膽駒山口社一座 瞻駒社一座 石村山口社一座 耳成山口社一座 養父山口社一座 都祁山口社一座 都祁水分社一座 長谷山口社一座 忍坂山口社一座 宇陀水分社一座 飛鳥社四座 飛鳥山口社一座 畝火山口社一座 吉野山口社一座 吉野水分社一座 丹生川上社一座〈已上大和国〉
枚岡社四座 恩智社二座〈已上河内国〉
大鳥社一座〈和泉国〉
住吉社四座 大依羅社四座 難波大社二座 広田社一座 生田社一座 長田社一座 新屋社三座 垂水社一座 名次社一座〈已上摂津国〉
座別絹五尺、五色薄絁各一尺、絲一絇、綿一屯、木綿二両、麻五両、裹薦(ツムコモ)半枚、毎社調布(ツキノヌノ)二端、〈軾料、〉夫一人。
丹生川上(ニフノカハカミノ)社、貴布祢(キフネノ)社には 各加(クハエラル)黒毛ノ馬一疋ヲ、自余の社には加庸布一段を、其霖雨不止祭ノ料亦同し、但し馬は用(モチイル)に白毛を、凡奉幣 丹生川上(ニフノカハカミノ)神に者、大和社の神主(カンヌシ)随て便に向社に奉之を、
【原本参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城国 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)乙訓郡 19座(大5座・小14座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 羽束師坐高御産日神社(大月次新嘗)
[ふ り が な ](はつかしにますたかみむすひの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hatsukashinimasu Takamimusuhi no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)』第23代 顕宗天皇の御代 3年〈487年頃〉2月・3月・4月の条に記される 式内社の論社について
神託により 阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)が 壱岐の「月ノ神」を山城へ 対馬の「日ノ神」を大和へと奉ります
・壱岐の「月ノ神」を山城国〈京都 葛野〉へ
壱岐の「月ノ神」「壹岐嶋 壹岐郡 月讀神社(名神大)(つきよみの かみのやしろ) 」の論社は3つ
・月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)
・箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
・男嶽神社(壱岐市芦辺町箱崎本村触)〈(月讀宮)箱崎八幡神社の旧鎮座地〉
山城国〈京都 葛野〉「山城国 葛野郡 葛野坐月読神社 名神大」の論社は1つ
・月読神社(京都市左京区)
・対馬の「日ノ神」を大和国〈奈良 磐余〉へ対馬の「日ノ神」「対馬島下県郡高御魂神社 名神大」の論社は1つ
・高御魂神社(対馬 豆酘)
大和国〈奈良 磐余〉「大和国 十市郡 目原坐高御魂神社二座 並大 月次新嘗」の論社は3つ
・天満神社(橿原市)
・耳成山口神社(橿原市)
・山之坊山口神社(橿原市)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の内 高御魂と号した式内社は 合わせて五座〈厳密には 六座 大和の目原は二座〉
・大和の宇奈多奢(うなたり)・大和の目原(めはら)・山城の羽束師(はつかし)と対馬の豆酘(つつ)にあり それを宮中の高御産日神を合わせて五座〈厳密には 六座 大和の目原は二座〉となります
①「宮中神 御巫等祭神八座 並大 月次新嘗 中宮 東宮御巫亦同」
御祭神 (八座)
神産日神高御産日神玉積日神生産日神足産日神大宮賣神御食津神事代主神
②「大和國添上郡 宇奈太理坐高御魂神社 大月次新嘗」の論社は3つ
・宇奈多理坐高御魂神社(奈良市)
・井栗神社(春日大社 境内)
・穴栗神社(奈良市)
➂「大和国十市郡 目原坐高御魂神社二座並大月次新嘗」の論社は3つ
・天満神社(橿原市)
・耳成山口神社(橿原市)
・山之坊山口神社(橿原市)
④「山城国乙訓郡 羽束師坐高御産日神社大月次新嘗」の論社は1つ
・羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区)
➄「対馬島下県郡高御魂神社 名神大」の論社は1つ
・高御魂神社(対馬 豆酘)
壱岐島(いきのしま)に祀られる 髙御祖神
神社考ニ日、顯宗天皇3年2月、天月神命ノ神託二依リ壹岐縣主先祖押見宿禰ノ祭ル所ニシテ月讀神社ニハ高皇産靈尊ノ裔天月神命ヲ祀リ高御祖神社ニハ天月神命ノ祖高皇産靈尊ヲ祀ル云々
髙御祖神社(たかみおやの かみのやしろ)
・高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触)
・箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR京都線 長岡京駅から 府道79号を西へ約2.9km 車10分程度
西羽束師川を渡り 川沿いに北上すると駐車場があり 大きな看板が出ています
一の鳥居は 社頭から表参道を南へ100m程度
羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区羽束師志水町)に参着
一の鳥居の扁額には 羽束石社 と記されています
鳥居をくぐり 参道を進むと 社頭には 角柱の二の鳥居が建ちます
二の鳥居の扁額には 羽束師神社 とあります
一礼をして7段程の石段を上がると手水舎があり 清めます
手水鉢の中には 龍神〈水神〉が置かれ 井戸の上には小さな鳥居が祀られています
社殿の向かって右手前には 神輿舎があります
参道正面には 入母屋造の割拝殿が建っています 参拝時は修繕中でした
拝殿にすすみます
仮設の注連縄柱があり 一礼をして 割拝殿へと進みます
割拝殿の通路を抜けると 幣殿が通路のようになっていて 本殿の前まで進めます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿内には 御創建〈雄略天皇21年丁己(477)〉を祝う伝統ある祭り゛羽束師祭゛還幸祭(おかえり)のポスターが張られていました
拝殿の外から 本殿を仰ぎます
境内の東側から境内社越しに本殿を仰ぎます
社殿に一礼をして 参道を戻ります
西側の駐車場入り口には 社号標がありました
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)』養老4年(720)編纂に記される伝承
第23代 顕宗天皇の御代 3年〈487年頃〉2月・3月・4月の条に 神託があり
・壱岐の「月ノ神」を山城国〈京都 葛野〉
・対馬の「日ノ神」を大和国〈奈良 磐余〉に奉ります
その後 顕宗天皇が崩御されたことが記されています
この対馬の「日ノ神」は 具体的にどの神を指すのかは 不明ですが 人にのり移り「我が祖(オヤ)の高皇産霊(タカミムスヒノミコト)奉れ」と云われます
【抜粋意訳】
顕宗天皇3年2月・3月・4月の条
3年春2月1日 阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)が 命令を受け 任那(ミマナ)に使者として出ました
このとき「月ノ神」が 人につきあらわれて 謂われるのには
「我が祖(オヤ)の高皇産霊(タカミムスヒノミコト)は 溶けていた天地をお造りになった功があります 民地(カキトコロ)を我が月神に奉りなさい
もし 請われるままに献上すれば 福慶〈福と慶事〉があるであろう」
事代(コトシロ)は それで京〈大和〉に帰って 詳しく申し上げました
それで 歌荒樔田(ウタアラスダ)〈山城国〈京都府〉の葛野郡(カズラノコオリ)(葛野郡のウタ村)〉を奉りました
壱岐縣主(イキノアガタヌシ)の先祖にあたる 押見宿禰(オシミノスクネ)が祠(マツリ)お仕えました3月3日 後苑(ミソノ)にお出ましになり 曲水宴(メグリミズノトアカリ)を催されました
夏4月5日「日ノ神」が 人につきあらわれて 阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)に謂われるのには
「磐余(イワレ)〈大和〉の田を 我が祖(オヤ)の高皇産霊(タカミムスヒノミコト)奉れ」
事代(コトシロ)は すぐに〈天皇に〉奏上しました 神の乞われるままに 田14町を奉りました
対馬の下縣直(シモツアガタノアタイ)を この祠(マツリ)〈ホコラ〉に仕えさせました13日 福草部(サキクサベ)を置かれました
25日 天皇は 八釣宮(ヤツリノミヤ)にて崩御されました
【原文参照】
『都名所図会(Miyako meisho zue)』〈1780年(安永9年)〉に記される伝承
「羽束師の森 」の位置は 挿図の中央下 社を囲む鎮守の森
【抜粋意訳】
巻之四 久世の里 羽束師の森
羽束師の森
久世より二里餘南にて久我畷の東にあり
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 羽束師坐高御産日神社の所在について 志水村〈現 羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区羽束師志水町)〉と記しています
【抜粋意訳】
羽束師坐高御産日(ハツカシニマスタカミムスヒノ)神社 大月次新嘗
〇今在に下鳥羽の西西南 羽束石森
〇今在 志水村〇大和國 添上郡 宇奈太理坐高御魂神社
大和國 十市郡 目原坐髙御魂神社 二座
對馬嶋 下縣郡 高御魂神社〇和抄 羽束 波豆賀之
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 羽束師坐高御産日神社の所在について 古川村北方〈現 羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区羽束師志水町)〉と記しています
【抜粋意訳】
羽束師坐高御産日神社 大月次新嘗
羽束師は、波豆賀之と訓べし、和名砂、(郷名部)羽束、(假字上の如し)
○高御産日は、多加美武須毘と訓べし、
日本紀(神代上)皇産霊此云美武須毘とあるに同じ、
○祭神明か也(社家説に、天児屋命、相殿猿田彦といふ、今從はす、
○古川村北方に在す、(名跡志)例祭4月巳日、
○式三、(臨時祭)祈雨神八十五座(並大)云々、羽束石社一座、
○日本紀、顯宗天皇3年2月丁巳朔、阿閇臣事代、銜命出使于任那於是月神著人謂之曰、我祖高皇産霊、有預溶造天地之功云々、四月丙申朔庚申、日神著人、謂阿閇臣事代曰、以磐余田献我組高皇産霊、事代奏、依神乞献田十四町、対馬下縣直侍祠、類社
神祇官坐高御産日神、(大月次新嘗)
大和國添上郡宇奈太理坐高御魂神社、(大月次相嘗新嘗)
同國十市郡目原坐高御魂神社二座、(大月次新嘗)
対馬島下縣郡高御魂神社、(名神大)
連胤按るに、こは皆同神なるべし、同名異神ある事いまだ考へず、官幣
三代実録、貞観元年9月8日庚申、山城國羽束志神、遣使奉幣、為風雨祈焉、雑事
続日本紀、大宝元年4月丙午、山背國 波都賀志神 神稻、自今以後給中臣氏、
連胤按るに、高御産日神は神祇官八神の中に坐て、殊更に崇め給ふは誰も知るところ也、さて当社は葛野郡葛野坐月読神社、同郡木島坐天照御魂神社に相対へたるに、叙位に預り給はぬをおもふに、対馬島下縣郡に坐すを本社とし、かつ神舐官にて極位を授けられたれば、准らへてありしなるべし、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 羽束師坐高御産日神社の所在について 志水村〈現 羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区羽束師志水町)〉と記しています
【抜粋意訳】
羽束師坐高御産日(ハツカシニマスタカミムスヒノ)神社 大月次新嘗
祭神 高皇産霊神(たかみむすひのかみ)
相殿 神皇産霊神(かみむすひのかみ)
官幣
三代実録、貞観元年9月8日庚申、山城國羽束志神、遣使奉幣、為風雨祈焉祭神 四月上巳日
社格 郷社
所在 志水村 羽束石森(乙訓郡羽束師村大字志水)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区羽束師志水町)について 雄略天皇二十一年の創建と記しています
【抜粋意訳】
〇京都府 山城國 乙訓郡 羽束師(ハヅカシ)村大字志水
郷社 羽束師坐高御産日神社
祭神 高御産日(タカミムスビ)神
本社は雄略天皇二十一年の創建なりと傳へられ、
神祇志料に「今古川志水二村の界羽束石森にあり(山城名勝志神名帳考証)とし、
覈録に「古川村の北方に在す(名跡志)」とあるものこれ也、
即ち延喜式内 山城國 乙訓郡 羽束師坐高御産日神社なり、斯の神は造化三神の一にして、天地初発の霊なりとそ、
神紙志料に「高御産日神別名を高木神と申す、此神 天照大御神と相並ばして天日嗣を皇孫命に傅へ、詔命(オホミコト)のらして天降し奉り給ひき、故此二柱大神等を称奉りて皇親神漏岐命神漏美命と申せり(古事記延喜式)
顕宗天皇の御世、月神人に着(カカ)りて民地を我祖 高産霊尊に献れと言誨給ふを以て、即葛野郡 歌荒巣田(ウタアラスタ)を奉り、壱岐縣主ノ祖 押見宿禰をして祠に仕へ奉らしむ(日本書紀)
文武天皇 大宝元年四月勅して、此神の神稻今より後 中臣氏に賜ふべく制給ひ(続日本紀)、
平城天皇 大同元年 神封四戸を寄せ(新抄格勅符)
清和天皇貞観元年九月雨風の御祈の為に使を遺して幣を奉り、(三代実録)、
醍醐天皇延喜の制 大社に列り、月次新嘗祈年案上及祈雨の幣に預る(廷喜式)」といふ、
而るに当社の叙位に預らぬ次第につき、覈録に「連胤按るに、高御産日神は神紙官八神の中に座て、殊更に崇め給ふは誰も知る処也、扨当社は葛野座月読神社、同郡木島坐天照御魂神社に相対へたるに、叙位に預り給はぬを思ふに、対馬鳥下県郡に坐するを本社とし、且神祇官にて極位を授けられたれば、准らへてありしなるべし」と説けり、
而して天智天皇四年に、藤原鎌足公勅を奉じて再建し、後又桓武天皇の延暦三年十一月遷都に際し再建あり、
平城帝の大同三年十二月、齋部広成奏聞を経て摂社十一社を建てたり、本社所在地は即ち古川の北志水の西にして、羽束師森(ハヅカシノモリ)といふ、樹木鬱蒼として天に参し、古代の風致を失はず、続捨遺俊成卿の歌に、「もらしても袖やしほれぬ数ならむ身をはつかしの森の雫は」又「忘られて思ふ歎きのしけるをや身をはつかしの森と云らん」(後撰集)などありて、其の著名なる神社たるを知る、而して明治六年六月村社に列し、同十年十月 式内羽束師坐高御産日神社と決定し、郷社に昇格す、社殿は本殿、前拝、拝殿、神輿舎等を有し、境内1812坪(官有地第一種)あり。境内神社
大神宮社 三輪神社 貴船神社 八幡神社 籠守神社 西宮神社 春日神社 稲荷神社 嚴島神社 愛宕神社 若宮神社
【原文参照】
羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区羽束師志水町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)