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御井神社〈秋鹿神社に合祀〉の旧鎮座地(松江市秋鹿町)
御井神社〈秋鹿神社に合祀〉の旧鎮座地は 現在の秋鹿神社の南方 約100m程の位置に神井があったと伝承があります〈現在は民家が建つ〉
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秋鹿神社(松江市秋鹿町)& 御井神社〈秋鹿神社に合祀〉
秋鹿神社(あいかじんじゃ)& 御井神社〈秋鹿神社に合祀〉は 御祭神の秋鹿日女命(あいかひめのみこと)の名から『出雲國風土記(733年)』の秋鹿郷の名の由来とされています 所載社として「秋鹿社(あきか)のやしろ」と〈秋鹿神社に合祀〉の「御井社(みい)のやしろ」の二つの論社とされます
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手間天神社(松江市竹矢町)〈少彦名神の神廟〉
手間天神社(てまてんじんしゃ)は 少彦名神の神廟と伝えられます 社名の手間天神とは 記紀神話にある「神産巣日神の手の指の間から落ちた天神」の名を冠します 733 AD出雲國風土記に所載の不在神祇官社「米那為社(まない)のやしろ」の論社とされています
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八重垣神社(松江市佐草町)
八重垣神社(やえがきじんじゃ)は 八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)伝説 ゆかりの地です スサノヲノミコトと国の乙女の花と歌われた櫛名田比売命(クシナダヒメ)の夫婦が御祭神で 恋愛成就の大神として知られる聖地です
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佐久多神社・韓國伊太弖神社〈来待本宮に合祀〉&来待本宮(松江市宍道町)
来待本宮(きまちもとみや)は 月夜見神を祀ります 勧請創立年代は 後奈良天皇の天文年中(1532~1555)とされ 明治41年(1908)配祀神の上来待 佐久多(佐久良=佐倉)に鎮座の佐久多神社と同社坐韓國伊太弖神社を本社に合祀しました
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三崎神社〈氷川神社(宍道町)に合祀〉
三崎神社〈氷川神社(宍道町)に合祀〉は 出雲国風土記 延喜式には見えないが元祇園社と称し 貞観18年(876)この地方に流行した悪病の平癒を祈願して京都より勧請 祇園社を氷川神社と改称し 明治7年 猪道山にあった三崎神社(完道社)及び町内にあった客社 恵美須社焼火社を合祀して宍道町の氏神となった
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比婆山久米神社(安来市伯太町)
比婆山久米神社(ひばやまくめじんじゃ)は 古事記に「かれその神避りし伊弉那美の神は 出雲の国と伯伎の国(伯耆の国)の堺 比婆の山に葬りき」と 国生みの母神〈伊弉那美の神〉は比婆山の山頂に埋葬されたと記されていて 今でも 御神陵と言い伝えられる古い塚があり 山頂の奥宮と麓の里宮が鎮座します
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久多美神社〈忌部神社(松江市東忌部町)に合祀〉
忌部神社(いんべじんじゃ)は 平安朝に忌部神戸内鎮座の二十二社を合祀し 二十二社総権現 総社大宮大明神と称し 明治44年(1911)一村一社との政府の指示に基き「式内 村社 久多美神社(御祭神 大穴穿遲神外三神)」無格社山智神社(御祭神 事解男神外一神)無格社七次神社(御祭神 國常立尊外十四神)無格社素鵞神社(御祭神 素盞鳴命)を合祀して社名を忌部神社と改称
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勝日高守神社(安来市広瀬町富田)
勝日高守神社(かつひたかもりじんじゃ)は 月山山頂の富田城の本丸跡の奥に鎮座し 城の守護神社として歴代城主の信仰が厚く 特に尼子氏はたいへん熱心でした 「古事記」にも記載があると伝えられ 築城以前から所在していて 里宮(富田八幡宮)に対して山頂の奥宮とされています
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大山代神社(松江市西津田町)
大山代神社(おおやましろじんじゃ)は 西津田に古くからあった2つの神社(大山代神社と大山神社)が それぞれ鷹日神社に合祀された後 昭和48年に統合され 現在の場所に新社殿が建てられました 出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載社の「山代社(やましろ)のやしろ」の論社ともされています
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剣神社(松江市八雲町)
剣神社〈劔神社〉(つるぎじんじゃ)は 男神イザナギノミコトが黄泉の国から剣を抜き打ち振って この地まで逃れたという言い伝えから 鎮座地を「剣山」と呼びます 本殿南側斜面の山中には黄泉坂への穴があり 入った人は帰ってこないと言われています 出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載社の「詔門社(のりと)のやしろ」の論社です
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福富神社(松江市乃木福富町)
福富神社(ふくとみじんじゃ)は 鳥居松に御鎮座あったのを永享年中、社地替をしたといわれ 其後 正保元年(1644)雷火により現地社殿が焼け旧記録等も焼失して以前のことは口伝による以外には知ることが出来ません 出雲風土記に御当社とおぼしき社名が載っていて 当時すでに御鎮座あったことがうかがわれます
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野白神社(松江市乃白町)
野白神社(のしらじんじゃ)は もともとは 舳田山(現・田和山)に鎮座しましたが 毛利氏と尼子氏の戦で焼失し 宝物などすべてを失います 慶長十六年(1611)に現社地に遷座したと伝わります
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野代神社(松江市浜乃木)
野代神社(のしろじんじゃ)は 『雲陽志(unyo shi)』によれば 妙見と記されていて 里俗濱の宮と云う 妙見島とも云う とあり かつては 離れ小島であったことが記されています 出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)には 野代社が二ヶ所掲載されていて その内の一か所の論社となっています
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宇波神社(安来市)
宇波神社(うなみじんじゃ)は 『出雲國風土記』の布辧社(fube no) yashiroの参考論社として紹介します 『雲陽志(unyo shi)』能義郡 宇波にある 現在の「宇波神社(unami jinja)」が「二所大明神(nisho daimyojin)」として記されて 布部村 二所大明神と同躰なり」とあります
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石宮神社(松江市宍道町)
石宮神社(いしのみやじんじゃ)は 出雲國風土記(天平5年(733)編纂)に「大国主命が猪狩りに出掛けた時 2匹の猪が現れ 犬を使い追い詰めたところ 犬と2匹の猪は石となったので このあたりは“猪の道=宍道”と呼ばれるようになった」と逸話が記述されています この犬と猪が化した石が“宍道社”と呼ばれた石宮神社の境内にあります
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佐久多神社(宍道町上来待)
佐久多神社(さくたじんじゃ)は 出雲國風土記に所載の「佐久多社(さくた)のやしろ」が2社あり 双方の論社とされています 延喜式神名帳では・佐久多神社 さくたのかみのやしろ と合祀の「同社坐韓国伊太弖神社 おなじきやしろにます からくにいたて の かみのやしろ」が該当します
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鷹日神社(松江市)
鷹日神社(たかひじんじゃ)は 延喜式に鷹日神社 出雲風土記に多加比社とあり 古文書に天智天皇の7年(白雉7年 西661)9月11日 天照大神の御神霊をお祀りになった とされます
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意多伎神社(安来市飯生町)
意多伎神社(おたきじんじゃ)は 遠く神代の創建と伝わり 古く由緒ある歴史を持ちます 『出雲國風土記(733年)』に所載される4つの社の論社①意陀支社➁御譯神社〈意多伎神社に合祀〉➂食師社〈意多伎神社に合祀〉④食師神〈意多伎神社の境内社 稲荷神社〉が祀られています
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勝日神社〈富田八幡宮 境内社〉& 富田八幡宮
勝日神社〈富田八幡宮 境内社〉は 古くは富田月山 頂上の勝日高守神社の里宮として山腹に鎮座していました〈『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )』にも『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』にも記載されて由緒も古く〉その後 富田八幡宮 境内社となり 現在に至ります