現人神社(あらひとじんじゃ)は 神功皇后が三韓征伐の時 神告により神田を定め 天神地祇に禱祈して 那珂川の水を引いた所 大和への御帰還に際し 霊験な現人神〈筒男三神〉をご奉持され 眞住吉之国(住よい国)〈摂津(大阪)〉に祀らた為に住吉三神と称され始めます 筑前国一之宮 福岡の住吉宮も後にここより御分霊された 故に 全国津々浦々にある住吉三神の本津宮とされます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
現人神社(Arahito shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
福岡県那珂川市仲3丁目6-20
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》底筒男命(そこつつをのみこと)
中筒男命(なかつつをのみこと)
表筒男命(うわつつをのみこと)
《相殿》神功皇后(じんぐうこうごう)
《合祀》安徳天皇(あんとくてんのう)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・商売繁盛、就職祈願「仕事運の神様」
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
現人神社(住吉三神総本宮)略誌
御祭神 住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)
祭日
一月一日 歳旦祭 二月十一日 建国祭祭
五月初午の日 五穀豊穣 祈願 七月三十一日 夏越大祭
十月一日 注連打祭 十月第三日旺日 秋季大祭(おくんち)
十一月十五日 七五三子供祭 十二月三十一日 大祓除夜祭
御由緒(ごゆいしょ)並びに 御神徳(ごしんとく)
伊邪那岐(いざなぎ)の大神 筑紫(ちくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(ひと)の檍原(あわぎはら)にて禊祓(みそぎはら)ひ給ひし時に生(あ)まれしし住吉三柱の大神を祭祀(さいし)した最も古い社にして神功皇后(じんぐうこうごう)(一七八〇年前)三韓遠征(さんかんえんせい)の際(さい)軍船(ぐんせん)の舳先(ともさき)に御形を現し玉体(ぎょくたい)を護(まも)り進路を導き無事凱旋(がいせん)せしめた御神として皇后いたく畏み奉りてこの住吉の神の鎮(まつ)り座す現人宮を訪れ神田に水を引かむと山田の一の井堰(いぜき)を築き裂田(さくた)の溝(うなで)を通水して五穀豊穣(ごこくほうじょう)の誠を捧げられ現人大明神の尊号(そんごう)を授(さづ)けられ供奉(ぐふ)の藤原朝臣(ふじわらあそん)佐伯宿禰(さいきすくね)をして祀官(しかん)せしめられてより現人大明神(あらひとだいみょうじん)と称(しょう)す摂津(せっつ)の住吉大社は現人大明神の和魂(にぎみたま)を祀(まつ)り福岡の住吉宮は(一二〇〇年前)分霊(ぶんれい)せらる
今の神殿拝殿大鳥居は正徳(しょうとく)四年(約二七〇年前)当時の領主地頭であった黒田靭負重実(くろだかけゆしげざね)が氏子に協力して再建したものである
明治五年 太政官布告(だじょうかんふこく)にて現人神社と改号(かいごう)され五穀豊穣を始め交通安全 厄除開運 家内安全 商売繁昌 初宮七五三等今に篤(あつ)い崇敬(すうけい)を受けている現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
記紀神代巻によります伊邪那岐命の禊祓の際 生れ給う底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神、次に天照大神・月讀命・須佐男命の御出現の次第が記されています。
当宮は、其の筒男三神(住吉三神)を主神として祭祀するお社であります。
仲哀天皇の御代(1800年前)神功皇后の大陸遠征の際、当時玄界灘を渡海すること事態 多くの犠牲を共なう最も難業の時代であったと思われます。その苦難する皇軍の軍船の舳先に御代を現し玄海の逆巻く波風を鎮め、玉体を護り進路を導き無事凱旋せしめた神。
すなわち現人神の御鎮座の地を皇后自から神告にてお知りになりいたく畏み奉られ、武内宿禰をして当地に遺し当宮の水田に水を引き、五穀豊穣の誠を捧げられ、現人明神の尊号を授けられます(現人神社の名称の起原)
以后、供奉の藤原朝臣佐伯の宿禰をして祠官せしめられ、又村人等も皇后のご功績を大いに喜び秋の収穫の祭には、近郷の村々より腕に自満の若者が多数打ち集い神前にて奉納相撲を行ったことに始まり、秋祭には、今に続く伝統行事です。又鎌倉期には、武勇長級を祈し、勇壮な流鏑馬も奉納されるようになり戦国期を除き今に守り継がれる当社の二大伝統行事であります。
皇后大陸遠征より大和への御帰還に際し霊験な現人神の和魂をご奉持され摂津(大阪)に着かれ、皇后は其の地を眞住吉之国(住よい国)と仰せられ、その地摂津に和魂を祭祀されてより筒男三神たる現人神を住吉三神と称される様になります。
福岡の住吉宮も後に現人宮より御分霊され筑前一ノ宮となります。
住吉神は全国津々浦々に2000余社を数えますが、即ち現人神社は其の住吉三神の本津宮にあたります。
明治5年太政官布告による現在の現人神社と改称になります。現人神社は、神功皇后より尊号を賜ってより天地共に鎮めの祖神と仰がれ、風雨を治め大地を鎮め護る神として今に地鎮祭等を始め厄祓・災難除等の祖神として広く崇敬を集めております。
現人神社は、岩戸郷23ヶ村(今の那珂川町)の総社として寿永年間より太宰小式原田種資が岩戸河内に館を設けた頃より氏神と仰ぎ神領・神田等多くの寄進があり祭礼も原田家より執り行い社人も30余名を数え、筑前守太宰小式種直が安徳天皇を領地に(安徳台)迎え奉り仮御所を建てた頃は当宮も専ら繁栄し官幣も捧げられ地方に於ける大社でありました。
しかし天正15年(戦国時代)高橋紹運がこの地を領せし頃、島津軍との乱世の為当宮も戦火を蒙り社殿神宝古文書・縁起に至まで悉く焼失し、社人30余名も戦乱に命を落し神領も没せられ、境内も数10分の1に狭められ、社主佐伯刑部の1子松千代(当時7才)なる者1人生き残り後に祠官を継ぎ今に至ります。
元緑年間黒田負重実が当地を統轄してより藩主のもと村人等が復興を計り正徳4年今の神殿等が再建され、天明7年黒田斎昭の参詣を受け、石灯篭一対の寄進等があり、黒田斎清が絵馬等を奉納、天地鎮護と五穀豊穣の祈祷が盛大に行われ、今に地鎮の祖神として広く崇敬を集めております。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・薬祖神社《主》少彦名命(すくなひこなのみこと)
三社合殿
・天満神社《主》菅原道真公(すがわらみちざねこう)
・金比羅神社《主》大物主命(おほものぬしのみこと)
・地録田神社《主》埴安命(はにやすのみこと)
・六一神社《主》速玉男命 伊邪那岐命 伊邪那美命 豊受姫命 邇邇芸命 火之迦具土命
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道諸神とともに 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条
○廿七日甲申
京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社 奉授
淡路國无品勳八等伊佐奈岐命一品 備中國三品吉備都彦命二品
・・・・
中略
・・・・
筑前國
正三位勳八等 田心姫神 湍津姫神 市杵嶋姫神 並從二位
正五位下 竈門神 從五位下 筑紫神 並從四位下
從五位下 織幡神 志賀海神 美奈宜神 並從五位上
无位 住吉神 從五位下・・・
・・・
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・
住吉神社 三座 筑前國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑前国 19座(大16座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那珂郡 4座(並大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 住吉神社 三座(並 名神大)
[ふ り が な ](すみよしの かみのやしろ みくら)
[Old Shrine name](Sumiyoshi no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
”住吉神社”(すみよしじんじゃ)と住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉について
住吉神社は 主に住吉三神を祀る神社で 日本全国に約2300社以上あると云われます
住吉三神とは 次の三柱神の総称 古来 航海の守護神として篤く信仰されてきている
・底筒男命〈底筒之男命〉(そこつつのをのみこと)
・中筒男命〈中筒之男命〉(なかつつのをのみこと)
・表筒男命〈上筒之男命〉(うわつつのをのみこと)
住吉大神と号する場合は
住吉三神と息長帯姫命〈神功皇后〉を併せ祀ります
住吉三神は 日本神話に登場する航海の神
伊奘諾尊が 黄泉の国の穢れを清めるために 筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊をしたとき 水底で身をすすぐと底筒男命 水中では中筒男命 水上では表筒男命が このとき顕われたとされる
『古事記』では 水の底にもぐって 身を洗い清められる時に成った底筒之男命 水の中程で洗い清められる時に成った中筒之男命 水の表面で洗い清められる時に成った上筒之男命が それぞれ生まれます
その後『日本書紀』には 神功皇后の段に新羅征討の際に 神託・守護・先導などに深くかかわったと記されています
三柱〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われる理由について
福岡の現人神社〈博多 住吉神社と大阪 住吉大社の元宮とされる〉には 三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われるようになった理由を社伝で伝えています
「元々は 現人神〈筒男三神〉であったが 神功皇后が三韓征伐の時 神告により神田を定め 天神地祇に禱祈して 那珂川の水を引いた所が現人神社である
神功皇后が 大和への御帰還に際し 霊験な現人神〈筒男三神〉をご奉持され 眞住吉之国(住よい国)〈摂津(大阪)〉に祀らた為に住吉三神と称され始めます 筑前国一之宮 福岡の住吉宮も後にここより御分霊された 故に 全国津々浦々にある住吉三神の本津宮とされます」
住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説
「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説
①航海の神 ツツは夕月(ゆうづつ)のツツに通じ 夕方の月 宵の明星 星を指し 星は航海の指針に用いられることから
②海神を示す説
➂「津の男」に見る説
④「ツツ」を船の呪杖に見る説
➄船霊を納める筒に見る説
⑥対馬の豆酘(つつ)に関連し「豆酘の男」に見る説
➆航海に従った持衰の身を「ツツシム」に見る説
住吉神社の発祥について
現在 住吉神社の総本社は 一般的には 大阪府大阪市住吉区の住吉大社とされますが
下関の住吉神社は 住吉三神の荒魂(あらみたま)
大坂の住吉大社は 住吉三神の和魂(にぎみたま)は 神功皇后が三韓征伐の帰途に祀られた事が『日本書紀』に記されています
実際には 神功皇后の「三韓征伐」伝承とともに 西から順に 壱岐・対馬〈長崎県〉から博多・下関・瀬戸内海を渡り 大坂の住吉大社へと分祀されたものとおもわれます
このため・壱岐の住吉神社・博多の住吉神社 や現人神社などは 住吉神社の発祥の地と称しています
『日本書紀』には 神功皇后の新羅征討の段に 次のように記されています
仲哀天皇の御代 熊襲 隼人など大和朝廷に反乱蜂起した時 神功皇后が神がかりして「まず三韓を征討せよ」との神託を得た しかし 仲哀天皇はこの神託に従わず 翌年崩御された
その翌月 再び神託を得た神功皇后は 自ら兵を率いて三韓へ征伐に向かう このとき 住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り 荒魂は突風となり 神功皇后の船団を守護し 三韓をおおいに苦しめた
神功皇后は 三韓を平定し 凱旋の折 住吉三神の神託を得て 大神の荒魂(あらみたま)を穴門(山口県)山田邑(下関市)に奉斎します また 和魂(にぎみたま)を大津〈大きな港〉の渟中名倉の長峡〈現 大阪・住吉大社のある場所〉で 行き交う船を見守ると鎮めて 住吉大神を祀った
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される”住吉神社 七社”(すみよしのかみのやしろ ななやしろ)について
『延喜式神名帳』所載の七国〈対馬・壱岐・筑前・長門・播磨・摂津・陸奥〉各々に七社の住吉神社が鎮座します
これを住吉七社(すみよしななしゃ/すみよししちしゃ)とも総称します
格式の高さが際立つ 住吉七社
内訳は次の通り
住吉七社の内 一之宮が三国〈筑前・長門・摂津〉
住吉七社の内 五社が名神大社〈対馬・壱岐・筑前・長門・摂津〉
『古事記』では「墨江之三前大神(すみのえのみまえのおほかみ)」と総称され
住吉の地名については 古くはスミノエと呼ばれ「住吉」「墨江」「清江」などと表記されましたが 平安時代以降は スミヨシとも呼ばれるようになったとされます
外交にまつわる航海の守護神として国家的な祭祀をうけていて 大和朝廷にとって特別な意義を有する神社でした
遣唐使時奉幣の祝詞や六国史には 遣唐使出発の際にこの神を祭ったことが見えています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』〈927年12月編纂〉に記される 住吉七社と その論社について
①對馬嶋 下縣郡
住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)
・住吉神社(対馬 鴨居瀬)
・鷄知住吉神社(対馬 鶏知)
➁壹岐嶋 壹岐郡
住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)
・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)
➂筑前国 那珂郡
住吉神社 三座(並名神大)(すみよしの かみのやしろ みくら)
・住吉神社(博多区住吉)
・若久住吉神社(福岡市南区)
・現人神社(那珂川市)
④長門国 豊浦郡
住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)(すみよしのあらみたまの かみのやしろ みくら)
・住吉神社(下関市)長門国一之宮
➄播磨国 賀茂郡
住吉神社(すみよしの かみのやしろ)
・上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)
・住吉神社(加東市下久米)
・小野住吉神社(小野市垂井町)
・秋津住吉神社(加東市秋津)
⑥摂津国 住吉郡
住吉坐神社四座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(すみよしの かみのやしろ)(すみのえにます かみのやしろ)
・住吉大社(大阪市住吉区)摂津国一之宮
➆陸奥国 磐城郡
住吉神社(すみよし かみのやしろ)
・住吉神社(いわき市小名浜住吉)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR博多南駅から県道56号経由 約2.3km 車7分程度
社頭には 鳥居が建ちます
現人神社(那珂川市仲)に参着
この鳥居の案内板があります
町指定文化財 現人神社(あらひとじんじゃ)の鳥居
この鳥居は、明神鳥居(みょうじんとりい)とよばれる形式のもので、高さが五・一五m、柱の幅が四・二mあり、年号のある鳥居では、那珂川町の中でもっとも古いものです。
また、現在鳥居の中央に付いている額は、明治はじめの廃仏思想(はいぶつしそう)の風潮が盛んな頃に付け替えられたもので、もともと付いていた『現人大明神』と書かれた額は、外されて拝殿横に保存されています。
神社の略史によると、元禄(げんろく)の頃から那珂郡の領主であった黒田靭負重実(くろだかげゆしげざね)が、神田(しんでん)を寄進して神社の復興につくしたとあります。そして、十二ヶ村の氏子達の協力を得て現在の神殿・拝殿を建立し、鳥居の銘にあるように正徳四年(一七一四)の初夏にはこの鳥居が建てられました。
(町指定文化財第二号 現人神社の「正徳四年」銘石鳥居及び「現人大明神」額)平成十年七月一日 指定
那珂川町教育委員会
一礼をして鳥居をくぐり 参道を進みます
拝殿の前方には 注連縄柱があり 再び頭をたれて 参道を進みます
拝殿にすすみます 拝殿前には 御神水があります
拝殿内には 稲穂が注連縄のように吊るされ捧げられています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
神功皇后が 西方を討とう〈三韓征伐〉を決意された時 神〈住吉神〉の教えの験(しるし)があると知り 神田を定め 那珂川の水を引いて 神田を潤そうと思われ 溝(うなで)〈水溝〉を掘られたが 大岩があり難工事であった時 雷電霹靂(かむとき)〈雷鳴が轟く〉その岩を踏み裂いて 水を通したので その時代の人は その溝を裂田溝(さくたのうなで)と呼んだと 現人神社(那珂川市仲)の現在地について記しています
その後 神功皇后が「 髪を分けて結い 鬟(みずら)にして」〈男装〉をして 臣下たちに 三韓征伐の決意を語り 同意を得る下りが語られています
【抜粋意訳】
神功皇后の段 三韓征伐の決意
皇后は 神〈住吉神〉の教えの験(しるし)があると知り さらに神祇〈天神地祇〉を祭(いの)り祀り 自ら西方を討とう〈三韓征伐〉と思われた
そこで神田(みとしろ)を定められた そのときに儺(な)の河〈那珂川〉の水を引いて 神田を潤そうと思われ 溝(うなで)〈水溝〉を掘られた
迹驚岡(とどろきのおか)まで掘ると 大磐(おおいわ)がふさがって 溝(うなで)を通すことが出来なかった
皇后は武内宿禰(タケノウチノスクネ)を召して 剣鏡(たちかがみ)を捧げ神祇〈天神地祇〉に禱祈(いのり)を捧げて 溝を通したいと願ったするとその時 雷電霹靂(かむとき)〈雷鳴が轟く〉その岩を踏み裂いて 水を通した
それでその時代の人は その溝を裂田溝(さくたのうなで)といいました皇后は帰って 橿日浦〈香椎宮〉に詣でて 髪を解いて海に臨み「神祇の教えを受けて 皇祖(おおみおや)の霊(みたまのふゆ)を頼り 滄海(あおきうなはら)を渡り 自ら西国を討とうと思う そこで頭を海水(うしお)で濯ぎ もし 験(しるし)があるならば 髪は自然と二つに分かれるであろう」と言った
それで海に入って洗うと 髪は自然と別れました 皇后はすぐに髪を分けて結い 鬟(みずら)にして 群臣(まへつきみたち)に語りました
「軍を起こして、衆(もろもろ)を動かすのは国の大事(おおきこと)である 安さ危うさもあり 敗戦することもある 今 征伐する土地がある 群臣(まへつきみたち)に授けよう もしも事がならなかった時は 罪は群臣にある しかし これはとても傷が深い わたしは婦女でまた幼い しかし しばらく男の姿を借りて 強く雄々しく謀略を起こそう 上は神祇の霊威をかぶり 下は群臣の助けを借り 兵甲(つわもの)を興し 高い波を渡 、艫船(ふね)を整え 財土(たからのくに)を求めよう もし 事が成ったら 群臣はと共に功があったということにる 事が成らなかったら わたしが一人に罪がある すでに この決意がある さぁ 共に話し合おう」
群臣は皆 言いました
「皇后 天下のために宗廟社稷(くにいえ)は安らかになるよう計ります また 罪は臣下にも及ばない 慎み 詔(みことのり)を承ります」
【原文参照】
『福岡県神社誌(Fukuokaken Jinjashi)〈昭和20年(1945)〉』に記される伝承
福岡県神社誌. 中巻 筑紫郡 に記されています
【抜粋意訳】
郷社 現人神社
筑紫郡安徳村大字仲字村
祭神
表筒男命、中筒男命、底筒男命由緒
明治五年十一月三日郷社と定めらる。
住吉神の生化し給ふ橘の小戸にして住吉の本初たり神功皇后の軍船を導き玉ひしより現人と称し玉ふ由、神功皇后三韓征伐の折初め神田を此辺より開き始め隣村山田の一の堰又は神堰とも言ひ伝ふ掛り水所謂裂田溝を通し又村々に地禄神社即ち埴安神を祭り給ふこと此那珂郡限りて多し
元社領も若干有りしに天正十四年の兵災に罹り悉く烏有となる古来岩戸郷の産神にて岩戸庄二十三ヶ村の総社たり昔より近時に至るまで異変なしといへども明治二十二年市町村制施行の際に十二ヶ村合併し之を二分し安徳村岩戸村とす、以後二村にて祭祀修繕を負担し社司一名社掌一名を置き陰暦九月十九日を(現在十月十九日)秋季大例祭とし神楽流鏑馬相撲等を挙行す陰暦四月初干(現在五月)を祭日とす寿永の比は官幣も奉られしなり。原田岩門少卿大蔵種資か岩門に館を建てしより氏神とし神領数多寄附し祭礼は原田家より挙行せしなり、原田種直鎌倉に捕はれ其後怡土郡に転移せしか当時の地領氏子にて維持し岩屋城主高橋主膳正鑑種入道紹運まては旧によりて神事等かはる事なかりき、天正十四年七月岩屋城陥り紹運自殺の時に当社も兵燹にかかり神官佐伯刑部始め戦死す、形部の孤子松千代氏子等に救助せられ家名を継き又神告により社も旧地に再建す、其後黒田公の宰臣黒田靱負重実か那珂全郡を総轄し殊に岩門の地頭たりしより社殿を修理し社領を寄附し石鳥居をも建るに其工費を助勢す、黒田継高公来度々病気平癒並に五穀豊穣の祈願あり。
神饌幣帛料供進指定 大正九年二年二月十二日
主なる建造物 神殿、幣殿、拝殿、渡殿、社務所、手水舎、絵馬殿、透屏
境内坪数 六百四十五
氏子区域及戸数 下梶原、安徳、東、仲村、五郎丸、今光、松木、中原、西、後野、道善、谷口 四百五十戸境内神社 神武天皇社(神武天皇)、薬祖神社(少名彦命)、六一神社(不詳)、菅原神社(菅原道真)、田神社(埴安彦命、埴安姫命)、地禄神社(埴安姫命)
摂 社 風早神社、裂田神社(級長津彦命息長足姫命)
【原文参照】
現人神社(那珂川市仲)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)