磐井神社(いわいじんじゃ)は 社伝には第30代 敏達天皇二年(573)八月鎮座とあり 六国史『三代実録』には 貞観元年(859)゛武蔵国 従五位 磐井神 官社に列す゛と記される由緒を持ちます 神宝゛鈴石゛があり鈴森八幡宮とも呼ばれる武蔵國の八幡総社でした 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 荏原郡 磐井神社(いはゐのかみのやしろ)とされています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
磐井神社(Iwai shrine)
【通称名(Common name)】
八幡様(はちまんさま)
【鎮座地 (Location) 】
東京都大田区大森北2-20-8
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》応神天皇(おうじんてんのう)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
姫大神(ひめおほかみ)
大己貴命(おほなむちのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
延喜式内社 磐井神社
由緒
当社は人皇三十代敏達天皇二年(573)八月の起源といわれており、式内社と呼ばれる古い格式をもつ神社です。
『三代実録』によれば貞観元年(859)「武蔵国従五位磐井神社官社に列す」とあり、この神社を武蔵国の八幡社の総社に定めたといわれ、また、平安時代(十世紀)に編纂された『延喜式』の神名帳に記載されています。別名、鈴森八幡宮とも呼ばれ、当社の由緒書によれば、江戸時代には、徳川家の将軍も参拝したことが記されております。
万葉集の「草陰の荒蘭の埼の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」の歌にある笠島とは、万葉の時代の神社周辺の地名であり、笠島辨財天にその名残りを見ることが出来ます。
また、当社の境内に佇む一対の狛犬には、都内でも珍しく子獅子が合計で6匹もおり、子宝・安産・家族円満の象徴として親しまれております。
御祭神
応神天皇・仲衰天皇・神功皇后・姫大神・大己貴命祭禮日
八月 第一金・土・日曜各種祈願
厄払・方位除・家内安全・商売繁盛・交通安全・身体健康・心願成就•安産祈願•初宮詣•七五三詣・成人祭・寿祭•学業成就•合格祈願•会社祈祷等出張祭典
地鎮祭・上棟祭・竣工祭・開所式•解体祓•井戸祓・清祓・家祓 (住宅、マンション等入居 )•会社祈祷 等現地案内板より
【由 緒 (History)】
大田区文化財 磐井神社
式内社(しきないしゃ)と呼ばれる古い格式をもつ神社である。『三代実録(さんだいじつろく)』によれば貞観元年(859)「武蔵国従五位下磐井神社官社に列す」とあり、 この神社を武蔵国の八幡社の総社に定めたといわれ、また平安時代(十世紀)に編纂(へんさん)された『延喜式(えんぎしき)』の神名帳(しんめいちょう)に記載されている。
別名、鈴森八幡宮とも呼ばれ、当社の由緒書によれば、江戸時代には、徳川家の将軍も参詣したことが記されている。
万葉集の「草陰の荒藺の崎の笠島を 見つつか君が山路越ゆらむ」の歌にある笠島とは、ここの笠島弁天を指したものという説もある。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会
現地案内板より
由緒
当社は、人皇三十一代敏達天皇の2年8月始めて経営あり、神座の正面にいますは、応神天皇、左は大己貴命・仲哀天皇、右は神功皇后姫大神なり、社の側に【磐井】あり、伝え云ふ土人祈願の時此水を飲むに、祈る所正しきものは、自ら清冷にして、邪なるものは忽ち変じて塩味となる、斯る霊水なるをもつて、近国の病有る者之を服するに其效を得ること著し故に土俗之を称して薬水と曰ふ、磐井神社の名も全く此井有るが為なり。
其後五十六代清和天皇の貞観元年に、60余州に於て総社八幡宮を選び定めさせ給ひし時、武州においては当社を以つて総社に定め給ひ、宮社に列せし由三代実録に載す、
萬葉集に、アライガ崎笠島と詠めるは、此社の所在の地を指すなり、
御神宝に、【鈴石】有り、此石は、神功皇后三韓御征伐の際、長門国に宿り給ひし時、豊浦の海にて得玉ひしものにて、御船中の玉座近く置かせられ、夷狭御征伐神国豊栄の基を開き玉ふ、又御凱旋の日は御産屋に置かせられ、御産平安皇子御降誕御在位繁昌の神徳を以て、此石を如意の宝珠と御称美あらせられしと云ふ、其後聖武天皇の御宇、磯川朝臣年足、宇佐宮に奉幣の時、神告に因り此霊石を授けらる、年足の嫡孫中納言豊人卿、当国に守りたし時、神勅に因り当社に奉納せりと云ふ此石打てば、サウサウとして鈴音あり、是れ其名有る所以なり、而して往時此神社の所在地一帯を鈴ヶ森と号せしも、亦た此鈴石あるを以て也。
当社鎮座の初め延暦の頃より永正年中に至る迄680年間は、神威赫然として宮中繁栄たりしも、永正年中兵火に罹り本社末社共に皆鳥有に帰す。
其後再営の功成つて復た昔日の如く建立せしも、天文年中重ねて火災に罹り鎮座の縁起其外の書簿悉く焼失し、是より再修ならず、神威日に衰へ、4基の鳥居は海中に倒朽し、宮地は潮波に損缺して漸く社のみわずかに残る、其後寛文年中、神主藤原善光・別当密厳院釈栄等悲歎に余り、社を再興す、天正18年徳川家康関東下向の節当社に立寄られ参拝あり、其後元禄二巳年三代将軍家光参詣の砌、寺社奉行本田紀伊守を以て向後当社を祈願所に申付ける。
享保十巳年八代将軍吉宗、伊奈半左衛門をして本社拝殿末社共建立せしめられたり、近くは明治元年10月12日、明治天皇御東行御通輦の際、神祇官権判事平田延太郎延胤をして、当社へ御代参せしめられ、奉弊料金1000匹御奉納ありたり。
(荏原風土記稿磐井神社由来)※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿
・笠島弁財天《主》弁財天
・海豊稲荷神社《主》蒼稲魂命
・磐井の井戸
大田区文化財
磐井(いわい)の井戸(いど)
この井戸は「磐井」と呼ばれる古井で、社名の由来となっている。東海道往来の旅人に利用され、霊水又は薬水と称されて古来有名である。
この位置はもと神社の境内であったが、東海道(現第一京浜国道)の拡幅により、境域がせばめられたため、社前歩道上に遺存されることになった。
現在飲むことはできないが、土地の人々は「この井戸水を飲むと、心正しければ清水、心邪(よこしま)ならば塩水」という伝説を昔から伝えている。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会
現地案内板より
・神田
・狛犬
・神楽殿
・手水舎
・江戸文人石碑群 力石 古い狛犬
大田区文化財
鈴石(すずいし)・烏石(うせき)(非公開)と江戸文人石碑群
鈴石は、社伝によれば、延暦年間(七八二~八〇六)に武蔵国の国司であった石川氏が奉納した神功皇后ゆかりの石とされる。これを打つと鈴のような音がしたことから、「鈴ケ森」の地名の由来となったと伝えられる。
また烏石は、烏の模様が浮き出た自然石で、江戸時代の書家、松下烏石(まつしたうせき)(?~一七七九)が寄進した。鈴石・烏石は、ともに屋内に保管されている。
江戸文人石碑群は、この烏石の寄進の由来を記した烏石碑をはじめ、松下烏石の門人等が建立寄進したもので、向かって右から次のように並んでいる。
狸 筆 塚 文化六年(一八〇九)
㣭(=退)筆塚 天明六年(一七八六)
竹岡先生書学碑 寛政八年(一七九六)
烏 石 碑 元文六年(一七四一)これらは、かつて弁天池周辺にあったが、神社の境内整 備に伴って現在地に移された。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会江戸文人石碑群
・社務所
・社頭の鳥居
・社頭の社号標゛延喜式内 磐井神社゛
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
官社に列しています
【抜粋意訳】
巻三 貞觀元年(八五九)十月七日〈己丑〉の条
○七日己丑
畿内畿外諸國 遣使班幣於天神地祇 去九月祈無風雨之災 誠有感徹 歳以有年 仍賽之
武藏國 從五位下 磐井神を 列に於て官社に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)荏原郡 2座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 磐井神社
[ふ り が な ](いはゐのかみのやしろ)
[Old Shrine name](Ihai no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
同じ武蔵国の延喜式内社で「イワイ」の文字を持つ神社を追ってみます
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)所載
「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比(イズモノ イハイ)神社」3つの論社について
・出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)
・出雲乃伊波比神社(熊谷市板井)
・白旗八幡社〈井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)寄居町赤浜に遷座した出雲乃伊波比神社の元宮
・八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)井椋神社に合祀された白旗八幡社の旧鎮座地
「武蔵國入間郡 出雲伊波比神社」 4つの論社 について
武蔵國 入間郡には 同じく「出雲(イツモ) イハイ」の音をもつ式内社
・出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)
・出雲祝神社(入間市宮寺)
・川越氷川神社(川越市宮下町)
・北野天神社(所沢市小手指元町)
「武蔵國 横見郡 伊波比神社」の論社について
武蔵國 横見郡には 同じく「伊波比 イハイ」の音をもつ式内社
・伊波比神社(吉見町黒岩)
「武蔵國 荏原郡 磐井神社」の論社について
武蔵國 荏原郡には 「磐井 イハイ」の音をもつ式内社
・磐井神社(大田区大森北)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京浜急行 大森海岸駅から南下 約500m 徒歩5分程度
第一京浜国道沿いに社頭の鳥居が建ちます
磐井神社(大田区大森北)に参着
一礼をして鳥居をくぐり
拝殿にすすみます 社殿後方の高架線には京浜急行が走っています
拝殿の扁額には゛武蔵國八幡總社 磐井神社゛と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の後方には 幣殿 本殿が一体になって鎮座します
拝殿の向かって右手前には゛神田゛
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『萬葉集(Manyo shu)〈7世紀前半~759年頃〉』に詠まれる歌
万葉集にうたわれた゛笠島゛とは ここの゛笠島弁天゛を指したものであるという説も伝わっています
【抜粋意訳】
巻十二 相聞 3192 源為家
[原文]草蔭之 荒藺之埼乃 笠嶋乎 見乍可君之 山道超良無 [一云 三坂越良牟]
[訓読]草蔭の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山道越ゆらむ [一云 み坂越ゆらむ]
[仮名]くさかげの あらゐのさきの かさしまを みつつかきみが やまぢこゆらむ [みさかこゆらむ]
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 磐井神社について 所在は不入計 村の内 品川鈴森八幡宮〈現 磐井神社(大田区大森北)〉と記しています
【抜粋意訳】
磐井(イハヰ)神社
式考 品川鈴森八幡宮 之と云り
地考 ここに地考と標したるは 江戸人 田沢義章著 常陸國浄林寺僧了観校上毛野尻城 上松原正珠姉とある 武蔵野地名考と云ふ書之
同説之不入計 村の内之云々
総風
荏原郡磐井神社 圭田三十六束二字田 敏達天皇二年癸巳八月 所祭大己貴命也 社邊有磐井 祈事土俗有妄願則其御手洗井水変塩味 事正直則如清水 近國奇之祈病者取之服之 其功験如神 土俗曰藥師水云々
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承
磐井神社(大田区大森北)について 不入斗村 鈴森八幡宮と記しています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 四十三目録 荏原郡之五 六郷領 不入斗村
鈴森八幡社
除地六段五畝七歩、小名すなはち鈴森にあり、古の磐井神社是なり、
社傳を閲するに人皇三十一代敏達天皇二年八月鎮座あり
祭神正面は應神天皇、左は大己貴神仲哀天皇、右は神功皇后姫大神なり
それよりはるかに星霜をへてのち、貞観元年八幡大神宇佐宮より山城國石清水に鎮座のとき六十六州ことに總社八幡宮を定めたまひしに當國にては此神社を總社とはきはめ給ひき、これは此年の九月風雨の災なからんことを、諸國の神社に命たまひしときも、此社に奉幣使をぞたてられたりき、しかして後萬民有年の驗を得たりとて
やがて官社に列せられけると 三代實録に載たり、その條によるに、其頃は已に從五位下の神社たりしと見ゆ、されどその神位を賜はりしはいつの頃にかありけん、しるべからず
されば其頃より神田ありしことは論をまたざること、村名の條下にも出せり、或古記に圭田三十六束と云々、これ當所神田より収むる所の數なるか、この後數百年の間のことは、戦争にて兵火の災など蒙りしかば、記録をもことごとく失ひ、すべて傳はらず、小田原北條家分國の頃にや、内田周防とかいひし人神主たりと云傳ふ、御當代に至り検地ありて門前の地を御寄附あり、その頃は門前の地もひろかりしならん、元禄年中神主森田勝明が記せし社前變革の圖を閲するに、元龜天正のころまでは社地の廣さ、今の海道より百五十間餘も東の方に及びて、海厓に第三の鳥居あり、これより六十間餘西の方に第二の鳥居あり、又八十間餘を隔てゝ第一の鳥居ありしと、これらによえば今海中となりし處も、餘程廣平の地ありて、當社に附せられしならん、その後次第に海中へかけ入て、大にせばまれり、しかのみならず文禄慶長の頃は、昔の海道はこと々々く崩れ入て、又海中となりしにより、ふるき海道は往還の廣さにならひ、西へうつされたりしかど、猶年をおひてかけ入しかば、正保元年よりは又海道を西へうつされたり、それも年をへて又崩れいりしにより、その頃の代官などはからひて、このまゝにては如何になりゆかんもはかりがたしとて、寛文三年今の所へ海道を定められ、海岸へはたかく石垣をきづかれしにより、今に至るまで崩るゝことなし、されどかくのごとくしばしば々々その地を失ひたれば、社地も古へにくらぶれば甚れり、
此にいふ海邊は、往古の處とはもとよりことなるべし、その舊蹟は荒井宿村に云ごとし、此所は一變せしよりのことなり、有徳院殿の御代におはせし時、しばゝゝ當所へ御遊獵のところ、當社へも御立寄あり、あるとき社地へわたらせたまひし次、社傳を御尋ありしに、時の神主一巻の縁起をとり出して台覧にそなへけるとぞ、又同じ御時享保十一年に宮社御造營ありしにより、いよゝゝ繁栄に及びしといへり、按に社傳によれば八幡大神の社ありてより後、その社を磐井の神社ともいはひしにや、此事分明ならさるに似たり、是らのことも記録等に明文なければしりがたし、鳥居
海道の西にあり、磐井神社の字を扁す、これは吉田兼隆卿の筆なり、第二第三の鳥居はいまはなし、されど海中に舊基朽殘りたるもの今に存せりといひつといふ。拝殿
鳥居の内にあり、四間に三間、本社
二間四面宮作なり、古は幣殿拝殿ともに本社にたてつづきて、社内も廣かりしかど、近き頃再造のときより古のさまをうしなへりといふ、神寶 鈴石一顆
社傳に云、神功皇后韓國を征したまひしとき、長門國豊浦津海邊にて得たまひし含珠の靈石なり、色青くして形状卵のごとく、石中に鈴の音あり、これをならせば鏘々たり、故に鈴石と名づく、皇后やがてこれを香椎宮に収め玉ひぬ、欽明天皇の御宇八幡大神宇佐宮に鎮座の時、この石をも同じく宇佐宮へうつされけり、聖武天皇の御宇石川朝臣年足を奉幣使として宇佐宮へさし下されしとき、不測の告ありて例の靈石を授けられしよりこのかた、その子孫につたへたるを、年脚の嫡孫中納言豊人、延暦年中當國の任にあたりて下向ありし頃、神勅によりて當社へかの靈石を奉納せり、これより世々神寶として神庫に収むといへり、されどまのあたり見しと云ふ人もきかず、いかにやあるべき、山崎敬義が明暦の頃の紀行には、人の盗みさりて今はなしと云、まことなりや、薬水
拝殿の側にある磐井なり、これ社號の起ることの縁なりといふ、當社へ祈願をたつるもの、妄の願望をおこしてこの水をのむときは、味變して鹽はゆし、その願の正しき時は淡くして清水なり、又病者これを服すれば効驗を得ること神のごとし、故に薬水と呼ぶ、今に清冷なること他の水にことなり、ことに海岸にして清水とぼしき所なれば、日々汲取もの多し、末社
稲荷、猿田彦、一色靈神、大国主神、
宇賀娘命 右五座を合祀す、三間に一間の祠なり、本社に向ひて右の方にあり、天満宮、豊宇賀娘命、猿田彦命、鹿嶋大明神、淡島大明神、
菊理姫命 右六座、合殿の祠は本社の南西の隅にあたりてあり、鹿島社 同邊に有
烏石
鹿嶋の祠のかたはらにあり、石の大さ四五尺ばかり、風折烏帽子の状に似て、中央に鳥の形ある天然の石なり、これは書家松下司馬と云ものの秘蔵せしを、享保のころこゝに遷すといふ、笠島
鳥石の側に池あり、纔の地なり、その中の嶋を笠嶋と號す、これ古歌によめるあら井が崎の笠嶋といへるは是なりといふ、されどその地のさまいとせはしく、且ふるき地景ともみえざれば覺束なし、此笠嶋のことは荒井宿の條にもいへり、御成御殿蹟
薬水の東の方なり、享保十一年あらたにつくらしめ玉ひしが、その後破壊せしとき再造のことに及ばれず、今は、はやしのごとくなれり、神主森田左京進致高
先祖より世々社務を司るといひ傳ふとその始のこと詳ならず、社傳に永禄天正の頃、内田周防とかいひし人神職たりしこと見ゆと云ときは、北條の頃は内田氏世々此社をつかさどりしにや、御入國の後寛文三年の頃、森田左京喜光といふもの神主たりしこと見ゆ、これ今の森田氏の元祖なりや、又元禄三年の記録に、森田左京勝明とあり、これ喜光が子か、是より後のことにや當社の神職たえはてゝ、北品川稲荷神主小泉出雲大掾と云もの、兼て當社をあづかりしに、老衰にたへずして、田邊左京と云ものに當社の神職を譲れりと、此人森田が遺蹟をつぎてより、子孫につたへて世々神職となり、今の左京進致高にいたれり、かくのごとく中絶しければ、その家の世系もむかしのことはつたへずといふ
【原文参照】
『江戸名所圖會(Edo meisho zue)』〈1834~1836〉に記される伝承
磐井神社(大田区大森北)について 鈴森八幡宮と記しています
【抜粋意訳】
鈴森八幡宮(すずのもりはちまんぐう)
同南の方 繩手を隔てて十町あまり 不入斗村にあり
祭神 中殿 應神天皇 左殿 仲哀天皇 右殿 神功皇后
総社 磐井神社とも称せり
別當は真言宗 八幡山密巌院と号す
神主は森田氏なり武蔵國風土記残編云
武藏國荏原郡磐井神社 圭田三十六束二字田 敏達天皇二年癸巳八月 所祭大己貴命也 社邊有磐井 祈事土俗有妄願則其御手洗井水変塩味 事正直則如清水 近國奇之祈病者取之服之 其功験如神 土俗曰藥師水云々三代實録
貞觀元年(八五九)十月七日〈己丑〉畿内畿外諸國 遣使班幣於天神地祇 去九月祈無風雨之災 誠有感徹 歳以有年 仍賽之 武藏國 從五位下 磐井神を 列に於て官社 云々鈴石(すずいし)当社にあり・・・・其の石 鈴の音ありと・・・・
鳥石(とりいし)社地の左の方にあり・・・天然に鳥の形を顕わせり・・・・
鈴の森 八幡宮(すずのもり はちまんぐう)絵図
石華表(いしのとりぶ)六七町東の方 今は海面となっており 中昔の頃迄は 石の鳥居の柱の跡が水面に顕れ出でくあり・・・・・
社記に曰
往古 神功皇后 三韓征伐の時 長門國豊浦の津より 御舩まわされんとし 其海邊にて含珠の神石を得たまふ 則石青く鶏卵の如し 石中 鈴の音ありけく鋝たむ 故に鈴石と称す・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・桓武天皇の延暦年中 武蔵守を任せしを当国に下向し荏原郡に在せし頃 終に此の地を封して 当社を経営し神石を鎮座なし奉り当社是成 故に宮地を鈴石森と云う
其後 清和天皇御宇 貞観年間 八幡宮宇佐宮より山城國石清水に鎮座在るとき六十余州國毎に総社八幡宮を檡宝賜ふ依く 武蔵國に於いては当社を以て総社とすといふ笠島(かさしま)
鈴森の地をいへり 八幡宮の境内左の方に笠島神社と称するものあれとも定・・・・磯馴松(いそなれまつ)
鈴の森の社前海道より左の方 海浜人家の前にある当社の神木と称す荒蘭崎(あららんさき)
同じく鈴森の邉とも 或いは云 木原山八景坂とも 藻汐草荒蘭磯とあり
・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 磐井神社について 所在は不入計村鈴森〈現 磐井神社(大田区大森北)〉と記しています
【抜粋意訳】
磐井神社
磐井は 伊波為と訓べし
〇祭神 大己貴命、風土記
○不入計村鈴森に在す、地名記
今八幡と称す、例祭 月 日、
○惣國風土記七十七残欠云、武藏國荏原郡磐井神社、圭田三十六束三字田、敏達天皇2年癸巳8月、所祭大己貴命也、社辺有磐井、祈事土俗有妄願則其御手洗井水変塩味、事正直則如清水、近國奇之祈病者取之服之、其功験如神、土俗曰藥師水、
官社
三代實録、貞観元年十月七日己丑、武蔵國從五位下磐井神列於官社
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 磐井神社について 所在は今品川の不入斗(イリヤマス)村 鈴森 八幡宮〈現 磐井神社(大田区大森北)〉と記しています
【抜粋意訳】
磐井(イハヰノ)神社
今品川の不入斗(イリヤマス)村 鈴森にあり、八幡宮と云ふ、武蔵地名考、神名帳考土代、巡拝舊祠記、新編武蔵風土記、
清和天皇 貞観元年十月七日己丑、從五位下磐井神を官社に列れしむ 三代実録
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 磐井神社について 社伝では祭神を大巳貴命の外に八幡神四柱〈仲哀天皇 仲姫命 應神天皇 神功皇后〉と伝えているが 八幡神四柱はのちに祀られたと記しています
【抜粋意訳】
磐井神社
祭神 大巳貴命
今按 社伝 祭神 大巳貴命の外に仲哀天皇 仲姫命 應神天皇 神功皇后なりとあるは當社を八幡大神と云によりてのことと聞ゆれば此四座は後に祭れる神なること著し今一座を記しつ
官社
清和天皇三代實録、貞観元年十月七日己丑、武蔵國從五位下磐井神列於官社祭日 八月十四日十五日
社格
所在
【原文参照】
磐井神社(大田区大森北)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)