水門吹上神社(みなとふきあげじんじゃ)は 『古事記』に云う゛男之水門゛であると伝えられる地〈神武天皇が御東征のみぎり 御兄の彦五瀬命が 和泉で長髄彦の流失に当り 出血甚だしく 崩御されたと言われる旧跡地〉に鎮座します 延喜式内社 紀伊國 名草郡 伊達神社(いたての かみのやしろ)の論社でもあります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
水門吹上神社(Minatofukiage shrine)
【通称名(Common name)】
・湊本ゑびす神社(みなとほんえびすじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
和歌山県和歌山市小野町2-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》御子蛭児神(みこひるこのかみ)〈水門神社〉
大己貴神(おほなむちのかみ)〈吹上神社〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
エビスさんで親しまれている水門・吹上の両神社は湊及び吹上の産土神で、
水門神社は 昔海部郡湊村和田浜鵜の島にあったが名応年間に大海嘯が起って社殿が砂に埋没したので住民らが今の西河岸町に移し更に其後30年程へて大永3年6月23日に現在位置に移したものである。
吹上神社は今の植松町の南二本松の辺にあったが天正年間に合祀したものである。
水門神社は 蛭児神(恵美須さん)、吹上神社は大己貴神(大国さん)が御祭神である。恵美須さん大国さんの二柱の福の神を祀っている。その鎮座地は神武天皇が東征のみぎり、御兄の彦五瀬尊が和泉で長髄彦の流矢に当り出血甚しく雄詰男の芝で崩御された旧跡である。この辺を男の芝とも、男之水門、雄湊とも言われている。
(十日戎)正月9日の宵戎、10日の本戎、11日の残り福といって福を授かるべく老若男女の参詣し吉兆
(福笹)を求めて帰る人の夥しい事は今も昔も変わりない。
(牛の舌餅投げ) 牛の舌餅という「のし餅」は毎年11月23日の新嘗祭に行なわれている。一時は中断されていたが現在では復活している。これは何時の頃より始められたか詳かではないが牛祭りに投げたものと言われている。(牛祭りの事については寺社書上「旧藩の時の記録」にあり)※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【由 緒 (History)】
由緒
水門神社 社伝によると、昔、紀水門の海上に、夜ごとに神光顕われ、いつしか波に従って浜辺に打ち上げられたのを見ると、戎様の神像であったと言う。
そこで、湊村字和田濱鵜島に祠を建て、これを齋き祀っていたが、明應年間(1491―1500)に大海嘯が起こって砂に埋没したので、住民らが今の西河岸町字元恵美須に移し、更に大永3(1523)年6月23日、現在位置に鎮座したものである。
吹上神社は、昔は、吹上三本松(今の植松町の南)と言う所に鎮座していたが、天正年間(1573―1591)、此地に合祀したものである。
その後、しばらくは、相殿でお祀りしていたが、後に、社殿を分け二神相並べてお祀りし、第二次大戦迄、水門神社・吹上神社と称していたが、戦災により社殿一切が消失し、戦後は、同床共殿によりお祀りし、水門吹上神社と称するようになり現在にいたっている。
水門神社は蛭兒神(戎様)、吹上神社は大己貴神(大国様)が御祭神で、2柱の福の神をお祀りする全国でも例の少ない神社である。
(鎮座地)
現在の鎮座地は、神武天皇が御東征のみぎり、御皇兄の彦五瀬命が、和泉で長髄彦の流失に当り、出血甚だしく、崩御されたと言われる旧跡である。
『古事記』に言う「男水門」とはこの地であると伝えられ、境内には、聖跡記念碑が立っている。(十日戎)
神社は、紀州の十日戎祭発祥の社として知られ、正月9日、10日、11日の十日戎には、福を授かるべく老若男女が参詣し、吉兆(福笹)を求めて帰る人のおびただしい事は、今も昔も変わりない。
又、現在では、よく知られている「のし飴」も当社が発祥の物であり、これは紀州独特の物で、他では見られない。(牛の舌餅投げ)
牛の舌餅という畳1枚程ある「のし餅」は、毎年11月23日の新嘗祭に、神饌として、御供し、祭典終了後、参詣者に、他の奉納された餅とともに、投げ配られている。
これは何時の頃より始められたか詳らかではないが、牛祭りに投げたものと言われている。和歌山県神社庁HPより
https://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=1027
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・笠森稲荷神社《主》倉稲魂神
・神武天皇聖蹟男水門顕彰碑
〈神武東征時 兄五瀬命の崩御された場所と伝えられる゛男水門゛〉
石碑裏面の碑文
神武天皇血沼海ヨリ廻リテ紀國ノ男水門ニ至リ給ヘリ時ニ
皇兄五瀨命賤奴ガ手ヲ負ヒテヤ
死ナント宣ヒ 男建シテ薨ジ給ヒシニ因リ 男水門ノ名ヲ得タリ
聖蹟ハ此ノ地附近ナリト傳ヘラル
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
紀伊國には 10座の名神大社が記されています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・日前神社 一座
国懸神社 一座
伊太祁曽神社 一座
大屋都比賣神社 一座
都麻都比賣神社 一座
鳴神社 一座
伊達(イタテ)神社 一座
志磨神社 一座
静火神社 一座
須佐神社 一座
巳上 紀伊國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊國 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名草郡 19座(大9座・小10座)
[名神大 大 小] 名神大社
[旧 神社 名称 ] 伊達神社(名神大)
[ふ り が な ](いたての かみのやしろ)
[Old Shrine name](Itate no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『六国史』に記される ゛紀三所神゛〔・伊達神社・志摩神社・靜火神社〕について
紀伊國の式内社〔・伊達神社・志摩神社・靜火神社〕の三神は ゛紀三所神゛or゛紀三所社゛と称されます
〔・伊達神社・志摩神社・靜火神社〕の三神の関係は古く 国史には(844~875年)に渡り 三神が並んで神階を奉り授かっています
その際は 必ず三神が同時の神階ですので
古来
「是を以て考ふるに伊達(イダテ)を一ノ宮とし 志摩(シマ)を二ノ宮とし 靜火(シツヒ)を三ノ宮とすと見えたり」と云われいています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
紀伊國・志摩神・伊達神と並び 靜火神に神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷十四 承和十一年(八四四)十一月辛亥〈三〉
○十一月己酉朔辛亥
奉授に
紀伊國 從五位下 志摩神 伊達神 靜火神に 並正五位下を
【原文参照】
『日本文徳天皇實録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
紀伊國・伊達神・志摩神と並び 靜火神に從四位下の神階が加えられた事が 記されています
【抜粋意訳】
卷二 嘉祥三年(八五〇)十月乙丑〈廿一〉
○乙丑
紀伊國 伊達神 志摩神 靜火神 並に加ふ 從四位下を
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
全国〈京畿七道諸神〉の 進階及新叙 惣二百六十七社とともに 紀伊國 伊達神 志摩神 靜火神 の三神が 並正四位下を奉授されています
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
○廿七日甲申
京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社 奉授
淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品
備中國 三品吉備都彦命二品
・・・・
・・・・紀伊國
從四位下 伊達神 志摩神 靜火神 並正四位下
從五位下勳八等 丹生都比賣神 伊太祁會神 大屋都 比賣神 神都摩都比賣神 鳴神 並從四位下
從五位下 須佐神 熊野早玉神 熊野坐神 並從五位上
【原文参照】
紀伊國・伊達神・志摩神と並び 靜火神に從三位が叙せられています
【抜粋意訳】
卷二十七 貞觀十七年(八七五)十月十七日丙寅
○十七日丙寅
紀伊國 正四位上 伊達神 志摩神 靜火神に 並に授くに從三位を
【原文参照】
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『住吉大社神代記』に記される 船玉神社の御祭神゛船玉神は 紀国の紀氏の祀る神 今云う 紀伊三所の神゛
『住吉大社神代記』では 船玉神について
「船玉神 今謂 齋祀 紀国 紀氏神 (志麻)神 静(火)神 伊達神 本社」とあり
つまり【船玉神は 紀国の紀氏の祀る神 今云う 紀伊三所の神「・伊達神〈現 伊達神社(和歌山市園部)・志麻神〈現 志麻神社(和歌山市中之島)〉・静火神〈現 静火神社(和歌山市和田)〉〉の本社である】と記しています
『住吉大社神代記・船木等本記』には
「大幸還上賜 其御舩令レ奉二齋祀武内宿禰一 志麻社 静火社 伊達社 此三前神也」とあり
つまり【紀伊三所の神「・伊達神〈現 伊達神社(和歌山市園部)〉・志麻神〈現 志麻神社(和歌山市中之島)〉・静火神〈現 静火神社(和歌山市和田)〉」の神々は 武内宿禰によって 御船の御魂として祭祀された】と記しています
・船玉神社〈住吉大社境内 摂社〉(大阪市住吉区)
『住吉大社神代記(すみよしのおほやしろ かみよのしるし)』について
住吉大社に伝わる古文書『住吉大社神代記(すみよしのおほやしろ かみよのしるし)』は 住吉大社の神官が大社の由来を神祇官に言上した解文(げもん)とされ 成立は天平3年(731年)7月3日と巻末に記されていますが 10世紀頃の成立と考えられています
元来 神代記は秘中の書として秘蔵されていて 社家の人間でも拝観は許されなかったが 明治以降に拝観が許され始めた
『住吉大社神代記』に記される 紀伊三所の神〈・伊達神・志麻神・静火神〉について
『住吉大社神代記』に記される 紀伊三所ノ神〈・伊達神・志麻神・静火神〉は いずれも延喜式内社の名神大社で
船玉神は この 紀伊三所ノ神 の本社ともされます
各々の論社です
紀伊国 名草郡 伊達神社(貞・名神大)(いたての かみのやしろ)
・伊達神社(和歌山市園部)
・水門吹上神社(和歌山市小野町)
紀伊国 名草郡 志磨神社(貞・名神大)(しまの かみのやしろ)
・志磨神社(和歌山市中之島)
紀伊国 名草郡 静火神社(貞・名神大)(しつひの かみのやしろ)
・靜火神社(和歌山市和田)
・靜火神社 旧社跡(和歌山市和田)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
南海 和歌山市駅から南西に約750m 車2分 徒歩7分程度
水門吹上神社(和歌山市小野町)に参着
一礼をして鳥居をくぐり 手水舎で清めます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『紀伊続風土記(KizokuFudoki)』〈天保10年(1839)完成〉に記される伝承
水門吹上神社(和歌山市小野町)について 衣美須社・吹上社と呼んでいます
【抜粋意訳】
巻之四 若山上 若山神社部 湊
○衣美須社
境内周八十間 禁殺生
○吹上社
衣美須社〔三間半 四間〕
吹上ノ社〔三間 四間〕御供所 神樂所 神庫 潔齋所 廰舎 鳥居
末社九社
天満宮 鎭守社 辨財天社
八幡宮 十二所社 稻荷社四社八幡宮 小祠四社相殿
小野町二町目古名雄ノ芝といふ所にあり 湊及び吹上の産土神なり 古は二神相殿に祀れり 今二社相並ふ 基本は衣美須社は湊の産土神にして 吹上社は吹上の産土神なり
當社 又 聞名(ブンメイ)大明神 又 湊大明神といふ 又 湊大明神といふ 又 唯衣美須社ともいふ 其稱皆 衣美須1社の稱なり
是吹上の社は後に 此地に合祀せる神なればなり 社家舊説曰 昔蛭子像自海中逆流到此處取而葆祀之稱聞名大明神ト社ノ傍ニ有芝號ス雄芝社記神田 畠山家多寄附スト神田ヲ云 天正之亂悉亡失せり矣其詳ナル不可知也或傳大永三年(1523年)六月二十三日始テ祭ル于此ノ地ニ
〔一説に此神舊は和田浦雨ノ島にあり明應ノ比和田浦高波に跛られ村民神祠佛宇と共に湊村に移る 此ノ神も其時此地に移れるなりといへり〕
是 衣美須社鎭坐の來由なり 吹上社のことを宇津保物語 及 西行の歌に見ゆ 又 朝野羣載に紀伊國小野社とあるも吹上社の事ならむ
此神 舊は今の湊 植松町(ウエマツチャウ)南大松の下に鎭り坐せしを 天正年間(1573年~)雄芝に移し奉り 衣美須社と合せ祀れるなり
當社中世は 兩部の社にて 今の湊善福寺は舊 聞名大明神の奥院なりといふ 兩社の事其詳なるは神社考定部に辨せり 明暦記に衣美須社領 畠山家多く寄附あり 慶長四年(1599年)桑山法印神田三段を寄附せり 同六年淺野家三石寄附あり 元和の制これを襲用らる衣美須の祭禮六月二十三日 古は牛祭とて名高き神事ありしとなり 今十一月二十三日の祭に牛の舌餅とて大なる熨餅を投ることあり 吹上社は九月十八日を神事とす
神主を秋津氏といふ
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 伊達神社(名神大)について 所在は゛和歌山城下水門小野町に在す゛〈現 水門吹上神社(和歌山市小野町)〉として
神武天皇の東征の時 五瀬命が薨られ男叫びをあげられた゛男水門゛であるとの説を挙げています
【抜粋意訳】
伊達神社(名神大)
伊達は 以多知と訓べし、〔俗に伊陀豆と稱り〕
〇祭神 五十猛命歟
〇今は 和歌山城下水門小野町に在す、〔名勝志、神社録、〕
今 海部郡に属す、俗 吹上社と稱す、〇式三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、〔中略〕紀伊國伊達神社一座、
神社錄云、凡稱ニ伊達社者五十猛命ヲ祀ル、其稱多今是ヲ略ス、」
又云、中古ハ吹上濱ニアリ、故ニ土地ノ號ニ因テ吹上社トモ稱ス、應永年間棟札ノ文ニ伊達社卜記ス、慶長年間棟札ノ文云、當社往古ハ嗚神、中古吹上濱ニ遷ス、今此處ニ祀ル卜云、考ルニ延喜式撰ノ時ハ、鳴神社ノ邊ニアリ、中古吹上濱ニ遷ス、西行法師詣ニ當社祈晴歌ニ、「天クダル名ヲ吹上ノ神ナラバ雲晴ノキヲ光アラハセ」、今水門植松ノ南ニ吹上社ノ舊地卜稱スル處アリ、是此地歟、後又今ノ地ニ遷シ、蛭兒社卜同處ニ祀ル、今ノ社地ハ是五瀬命薨御ノ地ナリ、故ニ碑ヲ社邊ニ建テ其地ヲ表ス、古事記云、五瀬命到ニ紀伊國男水門爲ニ男建而薨、陵在ニ竈山也、今社邊ヲ號シテ男之町卜云、
〇名勝志一本云、寬文九年ニ建ル石碑ノ銘云、海部郡宇治湊、昔建ニ顯國社合ニ祭蛭兒神、余生ニ此郷、嘗聞此地蓋五瀬命雄詰而薨之處、因名ニ男之芝、〔志波、俗用ニ芝字、〕社邊開ニ阡佰也、名曰ニ雄之町、〔今稱ニ小野〕
按 古事記、神武帝南廻幸、到ニ紀水門、五瀨命負ニ賤奴之手乎、為ニ男建而崩、故號ニ其水門謂ニ男之水門也、陵即在ニ竃山也、校ニ日本紀、大同小異也、今以ニ古事記爲據、遂告ニ祠官、邑長別立ニー區封士、蕃草以石局焉、余故勒ニ片石以壽ニ于無彊、寛文九己酉年六月廿三日、梅渓李全直、類社
陸奥國色麻郡、丹波國桑田郡 伊達神社・各一座神位
績日本後紀、承和十一年十一月辛亥、奉授ニ 紀伊國 從五位下 伊達神 正五位下
文德實録、嘉祥三年十月乙丑、紀伊國 伊達神 加ニ從四位下
三代實錄、貞観元年正月廿七日甲申、奉授ニ 紀伊國 從四位下 伊達神 正四位上、同十七年十月十七日丙寅、紀伊國 正四位上 伊達神 授ニ從三位、
本國神名帳、正一位伊達大神
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 伊達神社(名神大)について 所在は゛貴志庄園部村に在り゛〈現 伊達神社(和歌山市園部)〉と記しています
【抜粋意訳】
伊達(イダテノ)神社
今 貴志庄園部村に在り、一宮大明神と云、〔紀伊名勝志、紀伊神社略記、紀伊式社考、〇按 伊太祁曾神社と同神なるを以て、一宮明神と稱ふと見えたり、〕伊達大神と云ふ、〔紀伊國神名帳〕
蓋 五十猛命を祀る、〔参取日本書紀、延喜式、本社傳説雲國に韓国伊太氏神社あるも、又或は同神、疑らくは其か韓国に天降り坐て、終に皇国に還り給ふを以て、韓国伊太氏神と稱奉るに以り、又按 伊達以下三社合せて紀伊三所神と云ひて、一連の神と聞え、其所在の地も北より南に連りて、次第も宜しく適へり、と云ふによりて考ふるに、志摩神は大屋津姫命に、靜火神は妻津姫命に當るへし、されと未た確証を得ず、姑附て考に備ふ、〕
仁明天皇 承和十一年十一月辛亥、從五位下 伊達神に正五位下を授奉り、〔績日本後紀〕
文徳天皇 嘉祥三年十月乙丑、從四位下に進め、〔文徳實錄〕
清和天皇 貞観元年正月廿七日甲申、正四位上に叙され、十七年十月十七日丙寅、從三位を加へ、〔三代實錄〕
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列る、〔延喜式〕
凡 毎年九月十三日祭を行ふ、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 伊達神社(名神大)について 所在は゛園部村(海草郡有功村大字園部)゛〈現 伊達神社(和歌山市園部)〉と記しています
【抜粋意訳】
伊達神社(名神大)
祭神 五十猛命
今按 續風土記 式社考 並に云 神名 伊達は伊太氏にて山東庄に鎭りませる伊太祁曾神と同神なり 土人當社を一宮大明神と稱ふ 又 當社に中野島村 志摩神社 和田村 静火神社の三神ヲ紀三所の神と稱へ奉る 當社中世に至り 御父神 素戔嗚尊を合せ祀りて 祇園牛頭天王なととも稱へ奉れりと云り されと式にのする所一座なれは今一座を記せり
神位
仁明天皇 承和十一年十一月辛亥、從五位下 伊達神に正五位下
文徳天皇 嘉祥三年十月乙丑、從四位下を加へ、
清和天皇 貞観元年正月廿七日甲申、正四位上に叙され、十七年十月十七日丙寅、從三位祭日 九月十三日
社格 村社(明治十四年局一八號郷社許可)(郷社)
所在 園部村(海草郡有功村大字園部)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
伊達神社(和歌山市園部)について 式内社 伊達神社(名神大)であるとし 他の論社として水門吹上神社(和歌山市小野町)を挙げる説も紹介しています
【抜粋意訳】
和歌山縣 郷社之部
〇和歌山縣 紀伊國 海草郡有功(イサヲ)村大字菌部
郷社 伊達(イダテノ)神社
祭神 五十猛(イタケルノ)命
神八井耳(カムヤヰミミノ)命合殿 市杵島姫(イチキシマヒメノ)神
創建年代詳ならず、
神社覈録に、「伊達神社、名神大、伊達は以多知と訓べし、〔俗に伊陀豆と稱り〕〇祭神 五十猛命歟
〇今は 和歌山城下水門小野町に在す、〔名勝志、神社録、〕
今 海部郡に属す、俗 吹上社と稱す、
〇式三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、〔中略〕紀伊國伊達神社一座、
神社錄云、凡稱ニ伊達社者 五十猛命ヲ祀ル、其稱多今是ヲ略ス、」
又云、中古ハ吹上濱ニアリ、故ニ土地ノ號ニ因テ吹上社トモ稱ス、應永年間棟札ノ文ニ伊達社卜記ス、慶長年間棟札ノ文云、當社往古ハ嗚神、中古吹上濱ニ遷ス、今此處ニ祀ル卜云、考ルニ延喜式撰ノ時ハ、鳴神社ノ邊ニアリ、中古吹上濱ニ遷ス、
西行法師詣ニ當社祈晴歌ニ、「天クダル名ヲ吹上ノ神ナラバ雲晴ノキヲ光アラハセ」、今水門植松ノ南ニ吹上社ノ舊地卜稱スル處アリ、是此地歟、後又今ノ地ニ遷シ、蛭兒社卜同處ニ祀ル、今ノ社地ハ是五瀬命薨御ノ地ナリ、故ニ碑ヲ社邊ニ建テ其地ヲ表ス、古事記云、五瀬命到ニ紀伊國男水門爲ニ男建而薨、陵在ニ竈山也、今社邊ヲ號シテ男之町卜云、〇名勝志一本云、寬文九年ニ建ル石碑ノ銘云、海部郡宇治湊、昔建ニ顯國社合ニ祭 蛭兒神、余生ニ此郷、嘗聞此地蓋五瀬命雄詰而薨之處、因名ニ男之芝、〔志波、俗用ニ芝字、〕社邊開ニ阡佰也、名曰ニ雄之町、〔今稱ニ小野〕
按 古事記、神武帝南廻幸、到ニ紀水門、五瀨命負ニ賤奴之手乎、為ニ男建而崩、故號ニ其水門謂ニ男之水門也、陵即在ニ竃山也、校ニ日本紀、大同小異也、今以ニ古事記爲據、遂告ニ祠官、邑長別立ニー區封士、蕃草以石局焉、余故勒ニ片石以壽ニ于無彊、寛文九己酉年六月廿三日、梅渓李全直、
神祇志料に、「今 貴志庄園部村に在り、一宮大明神と云、〔紀伊名勝志、紀伊神社略記、紀伊式社考、〇按 伊太祁曾神社と同神なるを以て、一宮明神と稱ふと見えたり、〕伊達大神と云ふ、〔紀伊國神名帳〕蓋 五十猛命を祀る、〔参取日本書紀、延喜式、本社傳説雲國に韓国伊太氏神社あるも、又或は同神、疑らくは其か韓国に天降り坐て、終に皇国に還り給ふを以て、韓国伊太氏神と稱奉るに以り、又按 伊達以下三社合せて紀伊三所神と云ひて、一連の神と聞え、其所在の地も北より南に連りて、次第も宜しく適へり、と云ふによりて考ふるに、志摩神は大屋津姫命に、靜火神は妻津姫命に當るへし、されと未た確証を得ず、姑附て考に備ふ、〕
・・・・とあり名所圖會に、「伊久比目神社は延喜式名草郡に列す、今楠見村大字市小路に在りと云ふ」と見え、
大日本地名辞書に、「伊達(イタテ)神社、園部に在り、續日本後紀 文徳實錄等に授位の事見え、延喜式に名草郡に列し名神大と注したり、蓋五十猛神を祭る、卽ち伊太祁曾神社に同じ、日本書紀に「所以稱ニ五十猛命、爲ニ有功之神、卽紀伊國所坐大神也」と載せ、
古事記傅に伊太祁曾は五十猛有功(イタケイサヲ)に同じ、佐袁を切れば曾と為ると辨ず、按に五十猛命は或は園神 又 園韓神と號し、郷名苑部は猶神戸と云ふごとし、三代實錄 清和帝卽位の初めに、紀伊國に勅使して、園韓神 日前國懸大神に宿祈を賽給ふ事見ゆ、
又 播磨風土記に伊太代 又 因達の大神と録したり、日本書紀に、此神 妹大屋津姫 都麻津姫と共に紀伊國に來ります事を載せ、初め此三神をば本社に祭れるごとし、大寶年中 三神を三所に分遷する由は 績紀に見ゆ、近年此郷を有功(イサヲ)村と改稱したるも、伊達神の德に因める者なるべし、又云、伊也土(イヤト)神社 今有功村大字 六十谷(ムソタニ)に在り、大彌彦(オホヤヒコ)神と云ふ、紀伊國神名帳に從五位下 伊也土神と載す、蓋 古事記に見ゆる大屋毘古神を祭る、記云、八十神、欲殺ニ大穴牟遅神、爾其 御祖命、取出活、告ニ其子言、汝有ニ此間者、爲ニ八十神所滅、乃速遣ニ於木國之大屋毘古神之御所、按に名所圖會に、此神は越後國伊也比古神社と同神にやと疑へるも参考すべし、舊事紀には五十猛命卽伊達神は亦名を大屋彦神といふと為せり、又下なる鳴瀧伊久比賣も伊也比賣の誤にあらずや」と見ゆ、記して後考に備ふ、明治六年四月村社に列せられ、同十年十月同村字祭陵所在の市杵島姫神を合祀し ,同十四年郷社に昇格す。
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【原文参照】