椿大神社(つばきおおかみやしろ)は 伊勢国一之宮です 社伝には 垂仁天皇二十七年 倭姫命の御神託により御船磐座の邉に 伊勢開拓神として猿田彦命を奉斎のため社殿を創建とされ 当社の神主は 代々山本家の世襲で 山本家は猿田彦大神の神裔とされます 社殿は瓊瓊杵尊が船でここに到着された場所「土公神陵」は猿田彦大神の古墳だと伝える 由緒ある古社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
椿大神社(Tsubakiokamiyashiro shrine)
【通称名(Common name)】
・椿さん(つばきさん)
【鎮座地 (Location) 】
三重県鈴鹿市山本町1871
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主神》猿田彦大神(さるたひこのおほかみ)
《相殿》天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)
栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)
《配祀》天之鈿女命(あめのうずめのみこと)
木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
《前座》行満大明神(ぎょうまんだいみょうじん)
《合祀》合祀三十二神
高御産巣日神,天照大御神,五男三女神,天之穂日神,豊受大神,大穴牟遅神,速玉男神,伊邪那美大神,大事忍男神,保食神,迦具土神,建速須佐之男命,大山津見命,木花佐久夜比賣命,大雀命,品陀別命,菅原道真命,弥都波能賣命,大山咋命,宇迦之御魂神,八百万神,息長帯比賣命,天津日子根命,天真名鶴命,志那都比古神,板倉家祖先,白髪大神主,祭神不詳,
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・地上に生きとし生けるものの平安と幸福を招く「みちびきの祖神さま」
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 伊勢國一之宮
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
由来
伊勢の國一の宮 椿大神社 地祇猿田彦大本宮と称へ奉る
鈴鹿市山本町字御旅鎮座
主 神 猿田彦大神
相 殿 瓊々杵命 栲幡千々姫命
別 宮 天之宇受女命
神集社 八百萬神當社は 日本国土の中央部に位置し 太古 國つ神猿田彦大神 高山入道嶽短山椿ヶ嶽をその根據本陣とせられたる縁起により 倭姫命の御神託に基づき 垂仁天皇二十七年創立せられたる 日本最古の御宮で 延喜式内社であり また当国一の宮であります。聖武天皇勅願社 国司總拝九條家御祈願所 本多板倉石川等藩主の崇敬警視庁に御分霊奉祭地まつり 方災解除屋敷の守護等 ご神徳その霊験往古より正に現はる 明治の初め不幸調査漏れ 昭和十年に到り神宮内務省宮内省より それぞれの係官現地調査の結果 国幣列格の内示あり 又地祇猿田彦大神の大本宮たる事確然とせらる矣
縁日 一日 十日 廿一日
神世相傳 山本神主記
現地石碑文より
【由 緒 (History)】
由緒
伊勢国鈴鹿山系の中央麓に鎮座する椿大神社は、往古時代、只今の神社の背後にそそり立つ高山入道嶽、短山椿ケ嶽を天然のやしろとして、(神代の神跡いわくら現在)高山生活を営まれたクニツカミ猿田彦大神を主神とし、相殿に皇孫瓊々杵尊、栲幡千々姫命を祀り、配祀に天之宇受女命・木花咲耶姫命を祀る。
神話に伝わる天孫「瓊々杵尊」降臨の際、猿田彦大神、北伊勢道別の里なる地祗本陣を旅立ち給ひて天の八衢に「道別の大神」として出迎え、風ぼう雄大、超絶した神威を以って恙なく天孫を高千穂の峯に御先導申し上げた事で肇国の礎を成したこの大神を、後に人皇第十一代垂仁天皇の27年秋(西暦紀元前3)倭姫命の御神託により、磯津(鈴鹿川)の川上、高山短山の麓、土公神陵の前方御船磐座辺りに、「道別大神の社」として社殿を造営し奉斎された日本最古の神社であります。
仁徳天皇の御代、御霊夢により「椿」の字をもって社名とされ現在に及び、昭和の始め内務省神社局の調査により、全国2千余社の猿田彦大神をまつる本宮であることが明かとなり、「地祗猿田彦大本宮」と尊称されております。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・境内案内図
・本殿・拝殿
・別宮 椿岸神社
《主》天之宇受女命,《配》太玉命,天児屋根命
延喜式内社 伊勢國 三重郡 椿岸神社(つはききしの かみのやしろ)
・椿岸神社(鈴鹿市山本町)〈椿大神社境内 別宮〉
・四の鳥居
・狛犬
・高山土公神陵
〈猿田彦大神の御陵とされる゛高山土公神陵゛ 神職家山本氏は 大神直系の神職家として この御陵を神代より守り続けていると伝わります〉
・御船磐座
〈この地に天孫瓊々杵尊一行の御船が到着されたと伝承されてきた場所 謡曲「鈿女(うずめ)」にうたわれる神代の神跡〉
御舟石坐(みふねいはくら)御由緒(ごゆいしょ)
此の御神跡を御舟石坐と申し伝え、中央三個の石を天降石(あまくだりいし)と古来より称す。神座(しんざ)をこれに依って明らかにす
中央奥は主神道祖猿田彦大神 左は皇孫(すめみま)瓊々杵尊(ににぎのみこと) 右は栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)
往古 國津神が磯津の濱(いそつのはま)より溯(さかのぼ)り給ひて御舟をここにつながれ給い 高山短山(たかやまひきやま)のいほりに安住なし給ふと申し傳ふ 日本国土の神社の淵源(えんげん)を物語る貴重な御神跡で有ります
(内務省神社局考証課長 宮地博士調査考証)
謡曲(ようきょく)うづめ(室町時代作)
宮路(みやじ)久しき神垣(かみかき)や神垣や 盡せぬ春ぞ長閑(のど)けき そもそも是を勢州一の宮椿大明神と仕へ申し神職とて候(中略)有りし昔の岩戸の舞をふみ轟(とど)ろかし給ひにし 鈿女御前(うづめのごぜん)のあらたかさに手向(たむけ)を捧(ささ)ぐるばかりなり
よし誰とても同じ心 本社(ほんしゃ)は猿田彦の大神 天の八街(あまのやちまた)よりさきはらひし 皇孫尊(すめみまのみこと)を中津國(なかつくに)にむかへ給ふも 神代の御事(かみよのおんこと)(中略)
往昔あふれる 椿が嶽(つばきがだけ)と影向(えこう)ならせ給ひし時 御船を爰(ここ)につながれしは 春立つ今日(はるたつけふ)にあされり(中略)
伊勢之国一之宮椿大神やしろ
猿田彦大本営
現地石碑文より
・参道
・恵比寿像・大黒像
・断り乃鳥居〈三の鳥居〉
・松下幸之助社
松下社(まつしたしゃ)(椿大神社末社)
御祭神 松下幸之助命(まつしたこうのすけのみこと)
生前から「経営の神様」と神格化されるまでに経営手腕を称賛された松下電器産業株式会社の創始者•松下幸之助爺は平成元年四月二十七日、昭和の大御代の終焉に合わせるかのように、惜しまれつつも九十五歳の御齢(よわい)をこの世の限りと大往生を遂げられた。
松下爺は稀代の発想家であると共に熱心な敬神家•篤信家でもあり、椿大神社にも、昭和四十一年から幾度も参拝を重ねられた。
殊に同年四月より開始された「昭和の大造営」において巨額の造営資金を御寄附され、大造営完遂の牽引力となるとともに、「鈴松庵」と名付けられた茶室をも御寄進された。かのような松下爺の崇敬の真心を末永く後世にまで顕影申し上げるべく、平成十年四月二十七日、帰霊十年目を迎えるに当り、「鈴松庵」東側の斜面を墾り開き、御影石造りの御神殿を設けて椿大神社末社「松下社」として御霊代(みたましろ)を奉安申し上げた。
松下爺は幼少の頃より苦労を重ねられる中で、持ち前の忍耐・努力•卓抜な発想•着想を以て身を起こし、一代にして成功を遂げられた立志伝中の人。それは延いては我が国の戦後復興•経済発展、また、国民生活の向上に大きく寄与することとなつた。それにより国家繁栄、業績向上、立身出世、妙案着想の御神徳を発揚される。
現地立札より
・行満堂神霊殿
《主》行満大明神《配》社家の祖霊《合》地域の物故者
〈神職家山本氏は猿田彦大神の神裔 当社創始以来 猿田彦命を襲名していた 第10代崇神天皇の御代 神名の使用が禁じられ 行満と称するようになり その系譜が現代にまで続いていると 社伝に伝え 行満大明神を同家の祖先神としています〉
※祭祀氏族については異説もあり
・椿立雲龍神社〈行満堂横〉
・神池〈行満堂横〉
・大明神川
・椿延命地蔵尊
〈参道向かって左手の境内社〉
・椿護国神社《主》護国の英霊
・縣主神社
延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 縣主神社(あかたぬしの かみのやしろ)
・縣主神社(鈴鹿市山本町)〈椿大神社 境内〉
・惟神椿道場・参集殿
・獅子堂交通安全祈祷殿
《主》猿田彦命,《配》天之宇受女命
・手水舎
・庚龍神社〈獅子堂前〉
庚龍神社(かのえりゅうじんしゃ)
御祭神 金龍龍神・白龍龍神・黒龍龍神
御由緒
この龍神社は、樹齢四百年と伝えられる樅(もみ)の木に龍神が宿り神域全般を守り給ったとの伝承がある。
昭和五十五年(庚申)五月、名古屋第八支部・黒金椿会本支部長、宮崎清三郎翁により御社殿が奉献鎮座され、其の年の干支に因んで庚龍神と命名されました。以来、永き雨風雪により老朽したところ、此の度濃飛支部・藤原椿会の長江鈴夫・伸朗親子により新社殿が奉献され鎮座いたしました。
平成十六年(甲甲)三月
現地立札より
・月次祭事の掲示板
・社頭
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・別宮 椿大神社奥宮
《主》天照大御神,《配》伊邪那岐命,伊邪那美命,猿田彦大神,天鈿女命
・別宮 愛宕社
《主》迦具土命
・椿大神社神饌田・瑞宝稲荷神社
《主》宇迦之魂神
・七福稲荷神社
《主》宇迦之魂神
・別宮 小岸大神社
《主》天之鈿女命、高御産巣日神
延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 小岸大神社(をきしの をほかみのやしろ)
・小岸大神社(鈴鹿市小岐須町)
・別宮 石大神(鈴鹿市小社町字脇の山)
《主》天照大神
延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 石神社(いはの かみのやしろ)
石大神(鈴鹿市小社町字脇の山)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
伊勢國の椿神に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷十 貞觀七年(八六五)四月十五日乙丑
○十五日乙丑
授に 伊勢國
正五位上 稻葉神(イナハノカミ)に 從四位下
從五位上勳七等 椿神(ツハキノカミ)に 正五位下を公卿就太政官曹司廳。賜文武官成選位記。
是日。制。興福寺維摩會立義得第僧叙滿位階。立爲恒例。
常住寺十禪師傅燈法師位延庭奏言。於山駐國葛野郡北山。奉爲國家。建立道場。名曰興隆寺。四履六町。安置千手觀音像一躰。梵王帝釋像各一躰。四王像四躰。貞觀二年詔令木工寮修造堂舍。春演説最勝王經。秋吼講妙法蓮華經。安居之中。轉讀大般若經。誓護國家。深期永代。望請。爲御願寺。修戒律眞言兩宗。但不經僧綱并講師之攝。從之。
以從五位下行越前權介文室朝臣能雄爲能登守。從五位下行豐後介菅野朝臣宗範爲薩摩守。
是日。以傳燈大法師位眞延爲内供奉十禪師。
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
椿大神社の本殿には二つの式内社〈①椿大神社②石神社〉が祀られます
①式内社゛椿大神社゛
②式内社゛石神社゛〈明治12年 神社合祀政策により本殿に合祀〉
①式内社゛椿大神社゛
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ]椿大神社
[ふ り が な ](つはきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tsuhaki no kaminoyashiro)
②式内社゛石神社゛〈本殿に合祀〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ]石神社
[ふ り が な ](いはの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Iha no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
伊勢國の一之宮について
伊勢國には 一宮を称している神社が二社ありす
①椿大神社(つばきおおかみやしろ)
②都波岐神社・奈加等神社(つばきじんじゃ・なかとじんじゃ)
・椿大神社(鈴鹿市)
・都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載される゛椿大神社゛の類社について
伊勢國 三重郡 椿岸神社(つはききしの かみのやしろ)の論社
・椿岸神社(四日市市智積)〈七郷の総社〉
・椿岸神社(鈴鹿市山本町)〈椿大神社境内 別宮〉
近江國 伊香郡 椿神社(つはきの かみのやしろ)の論社
・椿神社(長浜市木之本町小山)
・椿坂八幡神社(長浜市余呉町椿坂)〈八幡神社に合祀 椿神社〉
・椿神社跡(長浜市余呉町椿坂)〈八幡神社に合祀 椿神社の旧鎮座地〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
新名神高速道路 鈴鹿PAスマートIC から西へ約2.2km 車5分程度
椿大神社(鈴鹿市山本町)に参着
一礼をして鳥居をくぐると すぐに゛庚龍神社゛があり 由来の石碑文が刻まれています
手水舎で清めて 参道の鳥居をくぐります
参道を進むと 左手に御舟石坐(みふねいはくら)〈この地に天孫瓊々杵尊一行の御船が到着されたと伝承されてきた場所 謡曲「鈿女(うずめ)」にうたわれる神代の神跡〉があります
断り乃鳥居〈三の鳥居〉と呼ばれる鳥居が参道の中ほどにあります
〈江戸時代 藩主 本多氏が御神木を伐採して城門を築いたところ 一夜で燃えてしまったと云い このことを恐れて奉納された鳥居〉
参道の中ほど左手にたたずむ前方後円墳があります
猿田彦大神の御陵とされる゛高山土公神陵゛です
神職家山本氏は 大神直系の神職家として この御陵を神代より守り続けていると伝わります
参道には狛犬が構えます
参道の奥 四の鳥居があり くぐり抜けると社殿の前となります
拝殿にすすみます
拝殿の扁額には゛椿大神社 神宮大宮司 徳川宗敬謹書゛と刻字があります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をします
向かって左手奥に授与所があります
・別宮 椿岸神社にお参りをします
《主》天之宇受女命,《配》太玉命,天児屋根命
延喜式内社 伊勢國 三重郡 椿岸神社(つはききしの かみのやしろ)
・椿岸神社(鈴鹿市山本町)〈椿大神社境内 別宮〉
南へと境内を進むと 松下幸之助翁に縁のある場所があります
鈴松庵(れいしょうあん)
鈴松庵由来
鈴鹿の道は惟神の道であるとともに日本人の心のふるさとい゛あるこの茶亭と日本庭園は松下幸之助氏がその風韻を愛するの情から椿大神社に寄進されたもので鈴松庵と名づけた松下氏は當神社の遷宮にあたっては神殿を奉献され
猿田彦大神の神徳高揚につとめられた ここに碑を建てその徳を永く後世に傳えたい
昭和五十年元旦
伊勢一之宮椿大神社宮司 山本行隆
猿田彦大本宮奉賛會総裁 猪熊信行現地石碑文より
すぐ傍らには 松下幸之助翁を祀る゛松下社゛が鎮座します
事業経営者でありながら 神として祀られています 凄い事です
神池
さざれ石の由来 石碑
行満堂神霊殿
椿立雲龍神社〈行満堂横〉
亀甲石
再度 社殿に一礼をして 参道を戻ります
社頭からは鈴鹿を見渡せて 遥か彼方に伊勢湾が見えています
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 椿大神社について 所在は゛山本村に在す゛〈現 椿大神社(鈴鹿市山本町)〉と記しています
類社として 当国河曲郡 都波岐神社〈現 都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)〉を挙げています
【抜粋意訳】
椿大神神社
椿は 豆波木と訓べし、和名鈔、〔草木部〕椿、〔假字上の如し〕」
大神は 於保武賀美と訓べし、○祭神 猿田彦大神、〔頭注〕或云、保食神、
〇山本村に在す〔考証、俚諺〕
〇当國一宮とも云ふ、〔一宮記、河曲郡都波岐神社とす、〕
雑記に、今椿大明神といふ、又行満大明神ともいふ、保食神也、又式なる小岸大神社は、今岸大明神といふ、両社相殿に坐すなり、」
亀山賦に、椿嶽の下にあり、椿岸社〔三重郡に在す〕は、俗に下椿といふ、」
多氣窓螢に、昔椿の社より朝廷の御所せしこと恒例也、と云り、」
或人云、当社前にあやつぱきとて、檜の葉に似たるものに椿の花さく也、色は赤白あり、他所になきもの也とぞ、類社 当国河曲郡 都波岐神社、近江国伊香郡 椿神社、
神位 三代実録、貞観七年四月十五日乙丑、授ニ伊勢國從五位上勲七等 椿神正五位下、
式内社 石神社について 所在は゛小岐須村北の山麓に在す、〔考証、雑記〕今石大神(シャクダイシン)と称す゛〈現 石大神(鈴鹿市小社町字脇の山)〉と記しています
【抜粋意訳】
石神社
石神は伊波賀美と訓べし
〇神號詳ならず
〇小岐須村北の山麓に在す、〔考証、雑記〕今石大神(シャクダイシン)と称す、
雑紀云、石大神は小岐須村の里より十四五町程奥の山の北ノ根也、社とてもなく、岩の高二百間余、幅廿間計にして、突兀したる瞼巌也、
或云、式なる石神社は、此處の事ならんかと云り、」
伴信友云、雨乞するにいつも霊験あり、類社
河内國大縣郡石神社の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 椿大神社について 所在は゛今山本村椿嶽の麓にあり一宮椿大明神と云、即 伊勢一宮也゛〈現 椿大神社(鈴鹿市山本町)〉と記しています
【抜粋意訳】
椿大神社(ツハキノオホカミノ)
今山本村椿嶽の麓にあり一宮椿大明神と云、即 伊勢一宮也、
〔本社所蔵 康暦永德明德等書爲大般若経跋、一宮記、神名〔帳〕考証、勢陽雑記、椿詣記、式内社検録、〇按 式内社検録云、社の坤位 域内に、前方後圓西向の大塚あり、高山塚と云、是大神の霊陵なるへしと云り、〕
清和天皇 貞観七年四月乙丑、従五位上勲七等椿神に正五位下を授け、〔三代実録〕
式内社 石神社について 所在は゛今 晝生庄 三寺村にあり、石神社と云゛〈現 石神社(亀山市三寺町)〉と記しています
【抜粋意訳】
石(イハノ)神社
今 晝生庄 三寺村にあり、石神社と云、〔式内社検録 〇按 本書 社前山下の田を石が原と云ひ、東谷を天神が谷、北谷を岩の谷と字し、土人も近村の人も皆よく知て、石神社と云と云り〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 椿大神社について 所在は゛山本村゛〈現 椿大神社(鈴鹿市山本町)〉と記しています
祭神については゛大朝臣の祖神゛であろうと記し
伊勢一之宮は 都波岐神社〈現 都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)〉という説もあるが 〈現 椿大神社(鈴鹿市山本町)〉であろうと記しています
【抜粋意訳】
椿大神社
祭神
神位 清和天皇 貞観七年四月十五日乙丑授伊勢國從五位上勲七等椿神 正五位下
祭日 八月朔日
社格 郷社所在 山本村 (鈴鹿郡椿村大字山本)
今按るに 椿は地名神鳳鈔に内宮椿御蘭廿二町〔大窪水澤山本七郷〕とありて 数村に亘る総称なり 今も西山に椿カ嶽といふあり 其東麓の山本村に社地あり 故に椿の神とも椿の大神とも稱せるなり 然るを椿大(ツバキタ)と訓するか如きは謬れり 然して大神はおはのかみと訓して 大朝臣の祖神の義ならむ朝明郡の太神社 奄藝郡の大乃已所神社の大字と同意のおはなるにこそさるを社域に猿多く柄めろと古事記に猿田昆古大神とあるとを附倉して 祭神を猿田彦神とするは受かたし
然て又本社を當國一宮とす本社別當 随光院所藏大般若經跋云 奉施入一宮山木椿大明神 康暦元年六月廿五日大願主 比丘尼聖周と載せ 諸國一宮神名帳にも椿宮伊勢國とあるを以て證すへし 然るに其後の大日本國一宮記に都波岐神社〔猿田彦神也〕伊勢國河曲郡と記せるは椿と都波岐と謬混せしなり 古證に據て一宮は木社に定へきなり
【原文参照】
式内社 石神社について 所在は゛三ツ寺村字石が原(鈴鹿郡晝生村大字三ツ寺村 石神社晝生大神)゛〈現 石神社(亀山市三寺町)〉と記しています
小岐須村の石大神(シャクタイシン)〈現 石大神(鈴鹿市小社町字脇の山)〉は 論社とされているが確証はない と記しています
【抜粋意訳】
石神社 稱 晝生大明神
祭日
社格 村社所在 三ツ寺村字石が原(鈴鹿郡晝生村大字三ツ寺村 石神社晝生大神)
今按るに 傍注考証以下の諸書に小岐須村の坤位十八丁祓川水源の山の半腹北面に東西五十間高二百間許の白色巨巌あり 土俗 石大神(シャクタイシン)と唱ふ其在所は小社(コヤシロ)村の管地なり 其巨巌を本社に填て異論なし然れ共 其配するに確証ある事なく 勿論 振古神殿を建置せす兆域を詳にする事も能はさる幽遂の地に延喜の昔岩神社を定めむ舊蹟ならさる事論に及ばず
又 龜山藩明細帳に平野村産神社にある八王子祠にも配せれと近世奉祀の小社 無稽の説にて真否を辨するまでもなし 然ると三ツ寺村の産神 晝生大明神と號するを 其村の老少を始め 他の村の者さへ石神社(イシノジンジャ)と称し来れり 尤 社前の田を石が原といへば 石は其地の字なる事見つへし 村内踊場に建たる石標にも石神社拝所と彫せり 其社域 廣大にして 樹木鬱葱千古の舊祠たる事 顕然たり 故に本社は其 口傳に據て判定す
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇三重縣 伊勢國 鈴鹿郡格村大字山本
郷社 椿(ツバキノ)大神社
祭神
猿田比古(サルタヒコノ)神
木花咲夜比賣(コノハナサクヤヒメノ)神
保食(ウケモチノ)神
須佐男(スサノヲノ)命
五男三女(ゴナンサンニョ)神
大山祇(オホヤマツミノ)命
迦具土(カグツチノ)神
猿田彦(サルタヒコノ)命合祭
大山咋(オホヤマクヒノ)命
宇迦之御魂(ウカノミタマノ)命合殿
天津彦火瓊々杵(アマツヒコホノニニギノ)命
拷幡千々姫(タクハタチチヒメノ)命創建年代詳ならす、或は云ふ垂仁天皇廿七年と、
神名帳考証に、「椿(ツバキノ)大神社、今在ニ山本村一宮記云、椿神社、衢神猿田彦命也、按椿訓都波岐、與道導訓相通」と見え、
神名帳考証再考には、「椿大神社、一宮記曰く、猿田彦命也、神鳳抄を按ずるに、桑名郡に椿神田(ツバキノカンミタ)あり、〔鈴鹿郡を誤て桑名郡に入る〕三重郡に椿御園〔廿二町七郷〕とあり、是によるに椿は地名也、社號の義は、椿といふ地の田の神社にて、〔〇頭書云、郡村名寄に、椿世と云ふ村有り、鈴鹿郡なれば是と近地なるにや〕神鳳抄に、所謂神田に祀るところ也、河曲郡の都渡岐神社は、今其地三重郡に属して、かの御園に祀る所也、共に太神宮の御園と神田なるを、猿田彦神とするは、拠ろなきに似たり、然れども太神宮の御田なる故、五十鈴川上の狭長田を守らせ給ふ故事によりて、此神を其地に祀れるなれば、俗伝の真なるを尊ぶべし、椿の訓を、道別の通音とするが如きに、暇宇の法をわきまへざる杜撰笑ふに堪たり、社地山本村に在り」と云へり、
神社覈録に、「椿大神社、椿は豆波木と訓べし、和名鈔〔草木部〕椿〔暇字上の如し〕大神は於保武賀美と訓べし、祭神猿田彦大神、或は云ふ、保食神、山本村に在り、当國一宮とも云ふ」とあり、
又勢陽雑記に云く、「今椿大明神といふ、又行満大明神ともいふ、保食神也、又式なる小岸大神社は、今岸大明神といふ、両社相殿に坐すなり、亀山賦に、椿嶽の下にあり、椿岸社〔三重郡に在す〕は、俗に下椿といふ、多氣窓蛍に、昔椿の社より朝廷の御祈せしこと恒例也と云へり、
或人云く、当社前にあやつばきとて檜の葉に似たるものに椿の花さく也、色は赤白あり、他所になきものなりとそ」、
神祇志料に、「椿大神社今山本村椿嶽の麓にあり、一宮椿大明神と云ふ、即伊勢一宮也〔本社所蔵康暦永徳明徳等書写大般若経抜、一宮記、神名帳考証、勢陽雑記、椿詣記、式内社検録〕
按式内社検録に云く、社の坤位域内に、前方後円西向の大塚あり、高山塚と云ふ、是大神の霊陵なるべしと云へり」と見ゆ、
即ち延喜式神名帳に伊勢国鈴鹿郡椿大神社とある者是なり、三代實録に、清和天皇貞観7年4月乙丑、從五位上勲七等椿神に正五位下を授くる由見え、また北畠准后家記多氣窓蛍に、「白河院天皇の勅に依り、正三位の神なるゆゑに社田五十町寄附せられ、本國一宮と称す」と見え。其後仁和天皇卿宇当國の國司国府〔于今当郡国府村各惣社の称存せり〕に入府の時、当大椿神社へ最初に奉幣参拝ありしも、後には國府に於て総拝となりしか故に総社の称あり、中古以來神宮寺の跋扈せしため神威稍衰へしのみならす、元亀天正の間兵乱相踵ぎ、社殿及び神寳古記録等多く兵焚に罹りて焼失す、既にして世治るに及び亀山城主本多氏は、寡て当村随光院より奉納せし大般若経の残本に康暦元年十二月二十六日、奉施人一宮椿大明神、大願主比丘尼聖周、永徳二年十二月二十六日、勢州鈴鹿郡御薗山本、椿大明神、妙通、明徳三年五月十九日、奉施入一宮椿大神、妙通等と巻末に記載あるを見て頗る崇敬の念を増し。社田を寄附し社殿を修補す、蓋し寛永年中と云ふ、其後元禄正徳の頃まで社僧神官巫女等数家ありしが、漸く年を経るに從つて、或は他に移り或は絶家し、吉田家より受けし許状のみ僅に存す、明治四年亀山縣第八区の郷社に定められ、越えて同六年三重縣第六大区二、三、四小区の郷杜に列せられ、同四十年村社三社大神、同石神神社、同小岸大神社、同大宮神明社及び境内社六社を本社に合祀す、社殿は本殿、拝殿、宝殿、祭舎、社務所、門、廻廊等具備し、境内坪数千八百三十一坪(官有地第一種)外に上地林並御料林合せて壼町四反二畝廿九歩明治三十八年並同四十年に於て境内に編入許可せらる。
【原文参照】