三宅神社(西都市)日向国の一之宮とも総社であるとも云われます

三宅神社は 西都原古墳群が広がる かつての日向国府(ヒュウガコクフ)跡の一帯に鎮座地していて 日向国の一之宮であるとも総社であるとも云われます 第12代 景行天皇〈在位71~130年頃〉即位17の条 西征紀に見える丹裳小野ニモノオノ)」の伝承地が隣接していたり「第50代 桓武天皇〈在位781~806年〉の勅額と伝わるものがある」とされていて 創建年月は不詳ですが 由緒ある古社です 

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

三宅神社(Miyake Shrine)
(みやけじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

八幡様(はちまんさま)

【鎮座地 (Location) 

宮崎県西都市大字三宅3415

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》津彦瓊々杵命Amatsuhiko ninigi no mikoto)

《配》天児屋根命(Ameno koyane no mikoto)
   天太玉命(Ameno futodama no mikoto)

相殿神 木花開耶姫命神日本磐余彦命誉田別尊玉屋之命大物主命石凝姥命天鈿女命・降臨供奉64柱神

合祀神 39柱神
〈※明治5年(1872)三宅村字山路の川上神社五穀社天満社字上ノ宮の五穀社霧島社字酒元の筑波山篠貫社字石貫の今宮社字山王の山野社等

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・日向国一之宮Hyuga no kuni ichinomiya)〈参考〉
・日向国総社(hyuga no kuni soja)

【創  (Beginning of history)】

・創建年代不詳
建久8年 (1197)よりは以前の創建は確実

【由  (History)】

西都市埋蔵文化財発掘調査報告書 第13集

上宮遺跡

 三宅神社の縁起については、天正15年(1587)12月 の兵火、さらに文化7年 (1810)の大火によって旧記・宝物が焼失し詳らかにすることができない。

 社地は、旧称 中笠狭に在って、都神社に比し上の宮という。古来 覆野大神宮と称し、その地を大尾または大王城というともある。
 石貫神社の旧社家・横山氏文書に、三宅郷 5村の一つに大尾あり。
また宮崎市奈古神社の縁起に「児湯郡府中は大王城なり、これを三宅と称す。覆野大神宮あり、々杵尊を祀る。」云々とある。
また、建久8年 (1197)の日向図田帳(建久図田帳)には、福野宮神田25町、
それに三宅神社の応永元年 (1394)3月 再写文書には、三宅郷福野御祭の文字があり、弘冶2年 (1556)6月の記事に、始めて福野八幡宮の名が見えている。こうして見ると同神社の創建は、建久8年以前ということは明らかである。

 その後、土持氏・伊東氏がこの地方を治するに及び、両氏の献田は55町8反とあるが、弘冶年間(1555~1557)に至ると、田18町3反・畑6反。宅地18カ所と社記には記される。

 これらの田地は、彼岸田・霜月田田・修理田・油田等に区分され、年間それぞれの祭事費用に充当されていた。そして、大宮司・権大宮司・主税・儀大宮司・器大宮司等の職掌を置いて分担されていた。

 三宅神社の年間祭事は、大・中・小の祭式に分けられ、97回にも及んでいたことが記され、特に6月夏至の日の天孫降臨祭と、8月15日の国家安穏祭、それに10月1日と11月初卵の日の山陵祭が、同神社の三大祭とされていた。

 三大祭に見える国家安穂祭は、夫婦神とされる三宅神社のニニギノ、都神社のコノハナサクヤ姫の、出合い的な祭事でもあったことが考察される。

 それは、8月15日、三宅神社での国家安穂祭が、都神社からの御神幸が到着してから開催され、さらに、都萬神社の祭札も三宅神社の神霊御幸があった。そして両神社間の御神幸道は、今も御幸道と称されている。

 山陵祭は、もちろん西都原の男狭穂塚を対象にしたものであり、男狭穂塚の基台上には、今も可愛塚(えのつか)神社跡が残される。

 この山陵祭は、古くは男狭穂塚を対象とし、可愛塚神社で祭事が催されたものであるが、室町時代・約600年前の応永元年(1394)には、その初現的な旧記を見ることができる。

 そしてこの祭事は、三宅神社と三宅の村人によつて継承され、現代の西都原古墳祭として年次絶えることはない。このことは高く評価すべきであろう。

 三宅神社の古文献は、前述の大火によって焼失したとあるが、応永元年(1394)3月 12日の再写文書が残される。この文書によつて同神社の年間祭事等も判明するが、都萬神社の「妻宮縁起書」に、「児湯郡斎殿原笠狭」の記載が見受けられる。

 文書は、永禄6年(1563)の再写であり、当時の西都原は「斎殿原」と称していた。

そして三宅出身の児玉実満は、明和2年(1765)庄屋の家に生れたが、庄屋の役を辞して新町に移り住み、古墳・社寺・旧記・伝説等を駆使し、斎殿原の神部説を唱える。

 この神都説の中から、彼は笠沙旧記と笠沙略記の2書を発刊し、2書をまとめた書が世に言う「笠狭大略記」であり、文政8年(1825)に発刊した、その原書となったのが「笠狭旧元記」である。

 笠狭崎・つまり西都原は、上中・下に3区分されていて、陵墓参考地周辺を上笠狭、三宅神社周辺を中笠狭、三宅神社の南端から一段と下降した中間台地の尾筋地域を下笠狭と称していた。

 三宅神社を含む中笠狭、この地域が上宮遺跡であり、本年度実施した発掘調査地は、同神社の境内に接しその北辺に位置する。思うにこの調査地も、住時は神社の境内地に包含され、古代・中近世に於ける中枢的な役割を果たしていたと考察することができる。
・・・・・
・・・・・

 そこには、景行天皇西征紀に見える丹裳小野の伝承説話を残し、児湯郡府中は大王城なり、あるいは、三宅福野城とも記される三宅城跡、さらには居館風の上宮城跡等が保存され、歴史上の地名は、三宅神社を中心とした上の宮である。

1991.1 宮崎県・西都市教育委員会 より抜粋
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【境内社 (Other deities within the precincts)】

摂社 大山祇命事勝国勝長狭神火闌降命等の7柱
末社 倉稲魂命
合社 保食神
門社 豊磐間戸命櫛磐間戸命

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

古代の日向国府の所在地日向国府 跡〉一帯とされる鎮座地 と その地名について

西都原古墳群が広がり 日向国府(ヒュウガコクフ)の一帯にある鎮座地は 古代屯倉(ミヤケ)〈大和朝廷の直轄地〉が置かれていたことにちなみ その地名は「三宅(ミヤケ)」と伝わります
神社名称は 江戸時代後期に西都農神社と改称していて 明治4(1871)に三宅の地名をとって 神社名称「三宅(ミヤケ)神社」に改められています

国指定史跡 日向国府跡

指定年月日:平成17年7月14日(追加指定:平成24年9月19日)  所在地:西都市大字右松字羽田ほか

西都市街地の西側に、標高50から80メートルの西都原台地がある。台地の東から南側には、南北帯状に標高20から30メートルの台地中段域が延びる。日向国府跡は、西都原台地の東側に沿う中段域の先端に位置する。国府跡指定地の東側には、式内社の都萬神社が鎮座する。遺跡の東から南側には谷が入り込み、旧河道や低湿地であったと考えられる。
 日向国府の所在地は、地理的に日向国の中央部にあたり、沖積地よりも標高の高い、水害等に対して安定した場所であったと考えられる。奈良・平安時代の「国」の行政機関が集まる国府が西都市の寺崎遺跡を中心に存在したことは、その中枢である「国庁」の発見によって確定した。
 平成23年度から開始した遺構の確認調査によって、正殿跡・東脇殿跡・西脇殿跡・南門跡・北辺塀・南辺塀・西辺塀・前身官衙建物群などを発見した。各建物の変遷も把握され、前身官衙建物群が3時期、8世紀中ごろに成立する定型化した国庁建物群が4時期認められた。約200年間、この場所で建て替えを繰り返し、国庁を維持していたと考えられる。

参考・引用・出典:『西都市史 資料編』考古 古代 2 日向国府跡
西都市公式HP 社会教育課 更新日:2018年03月23日より
https://www.city.saito.lg.jp/post_279.html

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

三宅神社の三大祭り と 西都古墳(サイトコフン)まつり への変遷について

西都古墳(サイトコフン)まつりの名称は 西都市中心部西に広がる「西都原(サイトバル)古墳群因むものです
日向神話のうち ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメのミコトに関する神話を再現する炎の祭典が行われ 国の選択無形民俗文化財である神楽・下水流臼太鼓踊をはじめとする西都市の伝統芸能が奉納されます
現在の形で祭りを執り行うようになったのは昭和末からで

西都古墳(サイトコフン)まつりの 本来の由来は 三宅神社にあるとされています

三宅神社には 応永元年(1394)3月 12日の再写文書が残され この文書によつて かつての三宅神社の年間祭事等も判明しています

かつて 三宅神社の年間祭事は 大・中・小の祭式に分けられ 97回にも及んでいましたが 特に6月夏至の日の天孫降臨祭と8月15日の国家安穏祭 それに10月1日11月初卵の日の山陵祭が 三大祭とされていまし
この三大祭が 現代の「西都古墳(サイトコフン)まつり」へと継承されています

 三宅神社の三大祭の内
 国家安穂祭は 夫婦神とされる三宅神社のニニギノ尊と神社のコノハナサクヤ姫命の出合い的な祭事として
 8月15日 三宅神社での国家安穂祭は 神社からの御神幸が到着してから開催され さらに 都萬神社の祭札も三宅神社の神霊御幸がありました そして両神社間の御神幸道は 今も御幸道と称されています
 山陵祭は もちろん西都原の男狭穂塚を対象にしたもので 男狭穂塚の基台上には 今も可愛塚(えのつか)神社跡が残されています

 この山陵祭は 古くは男狭穂塚を対象とし 可愛塚神社で祭事が催されたもので 室町時代・約600年前の応永元年(1394)には その初現的な旧記を見ることができます

かつて「西都古墳(サイトコフン)まつり」と似た祭りが 三宅神社のニニギノ尊と神社のコノハナサクヤ姫の間で祭られていたようです
 そしてこの祭事が 三宅神社と三宅の村人によつて継承され 現代の西都古墳(サイトコフン)まつりとして年次絶えることなく続けられています

上の宮とされる「三宅神社」と 下の宮「神社」について

文政8年(1825)に発刊「笠狭旧元記」〈著 児玉実満〉によれば

西都原(サイトバル) 神話の天孫降臨の地 笠狭崎(カササノミサキ)と考えられていた
西都原(サイトバル)は 地形的に中・下に3区分されていて 西都原古墳群の辺りを上笠狭 三宅神社周辺を中笠狭 三宅神社の南端から一段と下降した中間台地の尾筋地域を下笠狭と称していた とされます

この下笠狭の下にあったのが
『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の論社
日向国 兒湯郡 都萬神社」です 日向国二之宮とされています
都萬神社(西都市)

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

日向住吉駅から R219号経由 約16km 車25分程度
本来は 西都原古墳群から続いている公園通りから長い参道を上がって行きます 当日は この参道に赤い紐が張られていて参道に立入ることが出来ませんでしたので 神社の前の道まで進みます
石垣の上に玉垣があり 巨木もあり 大きな神社であるとわかります
三宅神社(Miyake Shrine)に参着

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参道を通れなかったので 下から参道を上がって来た雰囲気になって 上から下の参道を覗いてます 

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社頭へと振り返ると 道路の際に玉垣の廻された境内地に鳥居が建っています 下から いくつめの鳥居なのか良くわかりませんが 多分3番目ではないかと
一礼をして 社頭の鳥居をくぐります

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境内は平らで広々としています
すぐ左手には手水舎 その向かい石灯篭の先 右手には鳥居が建ち 境内社の祠が2つあります
境内の正面中央には 社殿が建ち その左右の奥には 各々境内社が建っています

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参道の石垣に社号を見つけました「三宅神社参道」とあります 間違いなく三宅神社です

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拝殿にすすみます 向拝柱(ムコウハイバシラ)を龍神と見立てるように彫刻が施されています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

社殿は 奥から 本殿 幣殿 拝殿と一体となって見事な造りです

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境内社にお詣りをしてから 参道を戻ります
社頭の鳥居をくぐり 今日(10/3)は どうして正面参道が塞がれているのだろうか などと想いながら 振り返り社殿に一礼をします

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本書紀(Nihon Shoki)』〈養老4年(720)編纂〉に記される伝承

第12代 景行天皇〈在位71~130年頃〉即位17の条 西征紀に見える丹裳小野ニモノオノ)」の伝承地が 三宅神社の境内地のすぐ南側にあります

【意訳】

景行天皇 即位17年春312の条

子湯県(コユノアガタ)現在の宮崎県児湯郡・西都市にお出でになり 丹裳小野ニモノオノに遊ばれました
そのとき東方を望まれて 左右お側のものに言われました
「この国は まっすぐに日の出る方に向いている」
それで その国を名づけて日向(ヒロカ)といいます

この日 にある大石に登って 京(ヤマトノミヤコ)を偲んで 歌を読まれまし

愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立来も

倭は 国のまほらま 畳づく 青垣
山籠れる 倭し麗し

命の全けむ人は 畳薦(タタミコモ) 平群の山の
白樫が枝を 髻華(ウズ)に挿せ この子


〈歌の意訳〉
愛しい
我が家の方から 雲が立ち上ってくるよ
大和は 国が素晴らしい住みやすい所だ 連なり重なる山々が 青々とした垣のように囲んでいて 大和の国は美しいなあ
命の満ちている人は 平群(ヘグリ)の山の白の枝をかんざしとしてに挿しなさい この子よ

の歌 国偲び歌(クニシノビノウタ)といいます

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

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『宮崎縣史蹟調査報告』昭和5年3月〈19310325〉に記される伝承

三宅神社の由緒などについて 詳細が記されています

三宅神社  同妻大学三宅.字笠狭鎮座

 

 津彦瓊々杵命 天太玉命 屋根命 木耶姫命 大物生命
   神日本盤余彦命 石疑姥命 女命 誉田別命 玉屋之命 の十

由緒
は文化71216日の災、旧記賓物悉燒失せし為、由来詳ならるも
社地 旧称 中笠狭の地にして上の宮初め覆野大宮ヒ称し、其地を大尾又は大王城ヒ云ふ、
石貫神社、旧社 横山氏 古文書中三宅郷五色の一に大尾あり、
宮崎市神社縁起中『湯郡府中は大王り、之を三宅と称す、覆野大宮あり瓊々杵尊を祀る』云々

建久8 日向國園田帳には、福野宮.田二十五町執印資管之え、
以前 三宅神社所蔵の應永元年3月の記には、三宅郷福野御祭祭礼の文字あり、弘治26月の記事に至始めて野八幡宮の名が見
明治2年 兒湯郡神社、取調書には,西神社とあり、4年に至三宅神社改称せられた、古来 三宅郷並右松村の彦土にしてし三宅清水黒生野現王岡富右松調殿童子丸、南方穂北十村の宗廟であった


天孫々杵命を正殿中央に天兒屋根命を其の左右に配祀し相殿には大物主石疑姥命木花開耶姫命、神日本盤余彦及び應天皇を祀
供奉六十四を之に配し
摂社には 大山祗命事勝國勝長狭神、降命等の7神、
末社には 倉稲魂命には保食神、
には 豊磐間戸命櫛磐間戸命を祀る紹て84神にして
明治5年夏に、三宅字山路の川上神社、五殺社、天満社、字上ノ宮の五穀社、霧島社、字酒元の筑波山篠貫社、字石貫今宮社、字山王の山野39神を合祀した

その祭典は
197回に及び小祭の別あり、就中6夏至の日の天孫降臨祭、815日の国家安泰、10月1日及び11月初卯ノ日の山陵祭を三大祭、その大祭式の荘厳なる事加茂の祭式に類するものがあつた
の中山陵祭は、即ち西都原に於ける、伝説 可愛山陵(男穂塚)及び本花開耶姫命の陵(女穂塚)を祭るものにして
国家祭を行当って、都神社 社家の代参(4人を以って定例とす〉あるを待って 当日祭礼挙げ、
都萬神社の祭式に当って、又 覆野大神宮 社家の代参あると定例とし之を神霊御幸式と称へ、その式日の通路御幸道と呼ぶ
神社は前記の如く、本花開耶姫命を奉祀する神社にして乃ち両社古来の関係を窺知する事が出来る、


建久園田帳に依れば建久以前
領田25町あ土持ち上世以来 日向国の豪族伊藤鎌倉開府以後 日向地頭職と為り 天正5年迄 日向大守なり
二族の献田558反に達し(横山文書)弘治年間 1831206神戸18り、
神苑 106ケ所した三宅村に23苑.穂北邑に7童子6苑、妻邑に2南方邑に3苑、右松保に4邑に6調殿邑に1岡富村に4清水邑に6長野邑に7島邑に1不群邑に7三苗代に3苑,下島邑に5苑、三納邑に1久米田邑に3新田邑に17苑にして
地名に遺れるものに 花園、園の本、眞名井田邑、神坊の苑隅の苑苑、外苑宮苑森苑榎本苑、堂の苑、迫の苑大苑苑、王奥苑.北の苑、大苑後苑妻苑等あり、
惟(おも)ふに 苑は 神領地の と察せられる

職には 大宮司権大宮司、主税儀大宮司器大宮司等あり、

神社の創建年代は詳かならぎるも,桓武天皇の勅額と伝わるものありたり
(か)つ 建久以前 既に田あしに徴すれば、其の由必ず遠きものあうと思考せられる
天正1512月兵に罹義久之れを再興し
文化71216日又火難に遇ひ、旧記賓物 殆ど焼失した
現今の殿は 其後の建造にして往昔の宏に比すべぐもあらず、趾地も亦いたく減縮せらるに至つた

石貫神社の祠官であった、横山の古文書中、本社に開する記事を左に・・・・・・・・・・

宮崎縣 1931 『宮崎縣史蹟調査報告5:宮崎縣史蹟調査報告』宮崎縣より引用

三宅神社(Miyake Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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