諏訪大神社(すわだいじんじゃ)は 倭建命(やまとたけるのみこと)が北山・武川・逸見の賊を平定し 残党の復起せぬよう平穏を祷り 鎮護の神として倭文神 建葉槌命を祀り 良民初めて安居するを得て 初在家の名これより起ると口碑に伝わる 延喜式内社 甲斐國 巨麻郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
諏訪大神社(Suwa daijinja)
【通称名(Common name)】
・穂坂惣社
・保阪明神
【鎮座地 (Location) 】
山梨県甲斐市宇津谷1016
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》建御名方命(たけみなかたのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
宇津之谷 諏訪神社 御由緒
正しくは 穂坂惣社拾五社大明神 宇津之谷諏訪大神社と謂う。
第十二代景行天皇 御名(おんな)を大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと)と言い 第三皇子 小碓命(おうすのみこと)又の名 倭億久名命(やまとおくなのみこと)が 倭建命(やまとたけるのみこと)と言われ 三世紀末から四世紀始めにかけて、大和朝廷のために名を馳(は)せ活やく甲斐に入り、甲斐国志による、北山・武川・逸見の賊を平定して、宇津之宮村藤塚一〇一六番地に賊徒の再び起らぬよう平穏を祷り 倭文神社(しずりじんじゃ)に伊弉諾大神(いざなぎのおおかみ)・ 伊弉冊大神(いざなみのおおかみ)・天照皇大神・月読媛大神(つきよみひめのおおかみ)・ 素戔嗚大神(すさのをのおおかみ)を併せ祀ったのが始まりで、藤塚の西南の地に吉備彦命・大伴武日命と警護の兵を共に、一時期すごしたであろう所を初在家(現初座池)と稱し、地名として今に残っている。
奥殿に祀られている石神倭文神社のうらに大同二年(八〇七)とあり建保五年(一二一七)御脩複と元亀二年(一五一七)武田信玄公 再建の棟札と頭椎の剣(かぶつちのつるぎ)など御神宝の数々と天正十年三月(一五八三)織田・徳川連合軍の攻撃を予知して逸早く いづこかに秘匿(ひとく)して、今に残る建保・元亀の棟札は、まことに貴重である。又武田信玄公が元亀二年再建のとき武田家の守護神、諏訪大明神と庄内の神々を併せ祀りこの時 拾五社大明神と奏され尚信玄公より下された御朱印状が今は行方不明である。
御朱印社領壹石九斗余、社地五千四百六十坪と慶長八年癸卯三月朔日(一六〇三)家光・慶安二年十一月十七日(一六四九)及び貞享二年六月十一日(一六八五)綱吉・享保三年七月十一日(一七一八)吉宗 そのほか延享四年(一七一四)宝暦十二年(一七六二)天明八年(一七八八)天保十年(一八三九)安政二年(一八五五)万延元年(一八六〇)と数多くの徳川幕府より社領安堵の御朱印状が下されている。茲に注目したいのは、日本武(やまとたける)命が 當社を草創したのは四世紀初頭であり 平成四年の現在、創建より実に一五九〇余年の歴史を有する貴い古社である。
平成四壬申年閏二月二十日(一九九二)記入
現地案内板より
【由 緒 (History)】
諏訪大神社(旧指定村社)■由緒沿革:
鎮守社、甲斐國志に、後朱印社領壱石九斗余、口碑の伝ふる所に拠るに、此地主神を保阪明神と云ふ。日本武尊北山逸見武川の地に居せる邪悪の土鬼を征服し、残党の復起せざるやう鎮護の神として倭文神、建葉槌命を祀り、良民初めて安居するを得たり、初在家の名これより起る。武田氏盛時は、頗る巨祠なりしも、天正壬午の兵火に罹りしより規模狭小となれりと云ふ。
山梨県神社庁HPより
https://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/6072
『甲斐志料集成』に記される内容
【抜粋意訳】
七 甲斐地名辭典 吉田東伍
北巨麻郡
倭文(シヅリ)神社
今 穗坂村宮久保に在り、降(オリ)宮と云ふ、蓋 織宮の義とす。一説、同村柳平の棚機宮かと云へり、塩崎村字津野谷の諏訪明神も倭文宮と冒稱し、石頭椎長一尺四寸なるを所藏す。 (名勝志・國志)
【原文参照】
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿
・石祠群
・諏訪大神社境内の登り窯跡
甲斐市指定史跡
諏訪大神社(すわだいじんじゃ)境内の登り窯跡(のぼりがまあと)
所 在 地 甲斐市宇津谷九七七
指定年月日 平成十四年十月二日江戸時代後期の登り窯跡で、平成元年十一月の山梨県埋蔵文化財センターによる発掘調査によると、長さ約十五メートル、幅約十メートルで窯内部は両側に甕の口縁部分を垂直に積み重ね、高さ七〇センチメートル、幅一六〇センチメートル、焚口部から十~十五度程度の勾配となっています。
上部は消滅していますが、竹をアーチ状に組み泥を打ち付けて固めたと考えられています。
出土品から甕やすり鉢、糸尻が三五~四五ミリメートルの椀などを生産していたものと考えられています。
平成二十年一月一日 甲斐市教育委員会
現地案内板より
・社頭の鳥居・隋神門・案内板
甲斐市指定有形文化財(歴史資料)
諏訪神社(すわじんじゃ)の棟札(むなふだ)二枚
所 在 地 甲斐市宇津谷一〇一六
指定年月日 平成十年二月二七日棟札とは建造物を新築または改築した時などの記録を書いた板のことです。この諏訪大神社には多くの棟札が残されておりますが 建保五年(一二一七)と元亀二年(一五七一)の棟札が指定されています。前者は高さ八九.三センチメートル幅二六.八センチメートルで、「倭文(しずり)神社 保坂大明神御修復 建保五丑(一二一七)正月十一日」、後者は高さ六四.二センチメートル、幅二七.二センチメートルで、「大旦那 武田信玄再建立(中略)元亀辛未二歳(一五七一)三月廿六日」とあり、度重なる修復や建て替えを知ることができる貴重な資料です。
甲斐市指定有形文化財(民俗資料)
諏訪神社(すわじんじゃ)の石棒(せきぼう)一基
所 在 地 甲斐市宇津谷一〇一六
指定年月日 平成十年二月二七日御神体として祀られている石棒は、高さ四二センチメートル、直径二〇センチメートル、円筒形で上部が丸くなっており、倭文(しずり)神社大同二年(八〇七)」と刻まれています。
この石棒は縄文時代中期に作られたものを土中から掘り起こし、祀ったのではないかと考えられ、大同二年に銘文が刻まれたという根拠はありませんが、古くから御神体として祀られていたのではないかと思われます。平成十八年一月一日 甲斐市教育委員会
現地案内板より
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)甲斐國 20座(大1座・小19座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)巨麻郡 5座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 倭文神社
[ふ り が な ](しとりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shitori no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の13社「倭文神社」と論社について
倭文氏の祖神「天羽雷命(アマハイカヅチノミコト)=建葉槌命」を祀る式内社とされ 各国に13社が記されています それぞれの現在の論社もご紹介します
1.畿内 大和國 葛下郡 葛木倭文坐天羽雷命神社 大
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・葛木倭文座天羽雷命神社(奈良県葛城市)
・博西神社(奈良県葛城市)
2.東海道 伊勢國 鈴鹿郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・加佐登神社(三重県鈴鹿市)〈合祀先〉
3.駿河國 富士郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(静岡県富士宮市)
4.伊豆國 田方郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(伊豆市大野)
・鍬戸神社(三島市長伏)
・小坂神社(伊豆の国市小坂)に合祀
・聖神社(伊豆市月ヶ瀬)
5.甲斐國 巨麻郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社本宮(山梨県韮崎市)
・倭文神社降宮明神(山梨県韮崎市)
・諏訪大神社(山梨県甲斐市)
6.常陸國 久慈郡 靜神社 名神大
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・靜神社(茨城県那珂市)
7.東山道 上野國 那波郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(群馬県伊勢崎市)
8.山陰道 丹後國 加佐郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(京都府舞鶴市)
9.丹後國 與謝郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(京都府与謝郡与謝野町)
10.但馬國 朝來郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社〈鮭の宮〉(兵庫県朝来市)
・妙見宮〈国常神社〉(兵庫県朝来市)
11.因幡國 高草郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(鳥取県鳥取市)
12.伯耆國 川村郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(鳥取県湯梨浜町) 伯耆 一之宮
13.伯耆國 久米郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(鳥取県倉吉市) 伯耆 三之宮
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR中央本線 塩崎駅から西北へ線路沿いに約1km 車3分程度
鳥居が建ち 隋神門が建ちます
諏訪大神社(甲斐市宇津谷)に参着
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼して 境内を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 倭文神社について 所在は゛在所分明ならず、゛よくわからないと記した上で
゛柳平村に在す、今 織女社と称す、゛〈現 本宮倭文神社(韮崎市穂坂町柳平)〉
゛北山筋宮久保村に在す、降宮神と称す、゛〈現 倭文神社降宮明神(韮崎市)〉
の2説を挙げていますが どちらも未熟な説と記しています
【抜粋意訳】
倭文神社
倭文は志圖利と訓べし
○祭神 建葉槌神、〔名勝志〕
在所分明ならず、〔名勝志云、柳平村に在す、今 織女社と称す、」参考云、北山筋宮久保村に在す、降宮神と称す、〕両説未孰れかしらず、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 倭文神社について 所在は゛今 宮久保村にあり、降宮大明神と云、゛〈現 倭文神社降宮明神(韮崎市)〉と記しています
【抜粋意訳】
倭文(シトリノ)神社
今 宮久保村にあり、降宮大明神と云、〔巡拝舊祠記、甲斐國志、〇按 降宮は、織宮の義也、〕
盖 天羽槌雄神、棚機姫神を祭る、〔参酌古語拾遺、延喜式、倭文社記〕
上古二神 文布を織り、神衣を織て、大御神に仕奉り給ひき、〔古語拾遺〕
凡 正月十七日、七月七日、九月二十九日 祭を行ふ、〔甲斐國志〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 倭文神社について 所在は゛宮久保村 (北巨摩郡穗坂村大字宮久保)゛〈現 倭文神社降宮明神(韮崎市)〉と記しています
【抜粋意訳】
倭文神社 稱 降宮大神
祭神 天羽槌雄命 棚機姫神
祭日 七月七日 九月廿九日
社格 郷社所在 宮久保村 (北巨摩郡穗坂村大字宮久保)
今按 甲斐國志 山宮の地は柳平村界にあり
名勝志に 降宮明神の本社なりと云り
社記に 所祭二注は衣服の祖神なり 州俗織女と稱し 古棟札に穂坂總社 倭文神社 降宮大明神とある由 記せるを合考るに 柳平村の本社を宮久保に移してより本社は自ら廃絶したるなるべし
【原文参照】