忌宮神社(下関市長府宮の内町)長門国二之宮

忌宮神社(いみのみやじんじゃ)は 第14代仲哀天皇が熊襲ご平定の 穴門(長門)豊浦宮を興し7年間政務をとられた旧趾です 天皇筑紫国 香椎宮で崩御せられ 神功皇后は喪を秘して武内宿禰に御遺骸を奉じて豊浦宮に帰らしめ 殯斂(仮埋葬)せられた ご懐妊中神功皇后は 新羅征討ご凱旋の 天皇の御神霊を豊浦宮に鎮祭されたが当社の起源と『日本書紀』に記されています

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目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

忌宮神社(Iminomiya shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

山口県下関市府宮の内町1-18

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主祭神

第一殿仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)〈第14代天皇
第二殿神功皇后(じんぐうこうごう)〈仲哀天皇の皇后 応神天皇は御子〉
第三殿応神天皇(おうじんてんのう)〈第15代天皇

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

文武の神・安産の神

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・ 長門国二之宮
・ 旧国幣小社
・ 別表神社

【創  (Beginning of history)】

長門国二ノ宮   社  忌宮(いみのみや)神社 由緒

 忌宮神社は、第十四代 仲哀(ちゅうあい)天皇が九州の熊襲(くまそ)を平定のため御西下この地に皇居 豊浦宮(とよらのみや)を興して七年間 政治(まつりごと)を行われた旧址で、天皇が筑紫の香椎(かしい)で崩御(ほうぎょ)せられたのち御神霊を鎮祭す。その後 聖武天皇の御代に神功皇后(じんぐうこうごう)を奉祭(ほうさい)して忌宮と称し、さらに応神(おうじん)天皇をお祀りして豊明宮(とよあけのみや)と称す三殿別立(さんでんべつりゅう)の古社(延喜式内社)であったが、中世における火災の際 中殿(ちゅうでん)忌宮に合祀して一殿(いちでん)となり、忌宮をもって総称するようになった
(いみ)とは斎(いみ)と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味である。

現在の社殿は明治十年の造営で、昭和五十六年に改修す。

古来、文武(ぶんぶ)の神として歴朝(れきちょう)の尊崇(そんすう)武将の崇敬 (あつ)く、安産の神として庶民の信仰を受け、長門の国二ノ宮として広く親しまれている。

例大祭 十二月十五日 奉射祭 一月十五日
春季大祭 五月十五日 蚕種祭 三月二十八日(近い日曜日)
秋季大祭 十月十五日 数方庭祭 八月七日より十三日まで毎夜(近い日曜日)

御斎神事(おいみしんじ)
十二月七日より十五日早朝まで斎行される特殊神事で 境内周辺に注連縄(しめなわ)を張って一般の進行を禁じ、神職のみ参籠して厳格な潔斎を行い、古式による秘祭を奉仕する。

境内社 荒熊稲荷神社 八坂神社

現地案内板より

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【由  (History)】

忌宮神社(長府宮の内町)

 仲哀天皇  神功皇后  応神天皇を祭神とする式内社(平安初期の律令施行細則の延喜式神名帳に記載されている古社)

 この地は 仲哀天皇が熊襲討伐のため七年間こわたり仮の皇居とされた豊浦宮跡といわれ宮に附属して斎宮を建て神祇を祭られたのが忌宮の起こりと伝えられる

 また仲哀天皇がが崩御されその御遺体をここより南方の土肥山に仮埋葬(殖斂)神霊を鎮祭し豊浦宮と称した  のち聖武天皇の神亀五年筑前国 橿日宮から神功皇后の神霊を勧請して忌宮と称し   さらに応神天皇を祀り豊明宮と称した三殿別立の古社であったが中世における火災で 豊浦宮 豊明宮が焼失 忌宮合祀しー殿となったという

 数度の兵乱や火災(こより社殿の焼失をみたが大内毛利両氏の崇敬篤くその都度社殿の造営改築が行われた

 現在の社殿は明治十年六月造営されたものを改修したものである
平成五年三月 長府観光協会

社頭の石碑文より

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由緒

 忌宮神社は、第十四代仲哀天皇が九州の熊襲(くまそ)ご平定のためご西下、穴門(長門)豊浦宮(とよらのみや)を興して7年間政務をとられた旧趾にある。
 天皇はさらに筑紫(福岡県)の香椎に進出せられたが、1年にして崩御(ほうぎょ)せられたので、神功皇后は喪を秘して重臣武内宿祢に御遺骸を奉じて豊浦宮に帰らしめ、現在の長府侍町土肥山に殯欽(ひんれん-仮埋葬)せられた。
 そして皇后はご懐妊中ながら男装せられ、熊襲を煽動していた新羅(しらぎ)征討をご決行、ご凱旋(がいせん)ののち、天皇の御神霊を豊浦宮に鎮祭せられた。これが当神社の起源である。
 そのあと、皇后は皇子(のちの応神天皇)をご安産になった。
 くだって聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して「忌宮」ととなえ、さらに応神天皇をおまつりして「豊明宮」と称し、豊浦宮・忌宮・豊明宮と三殿別立の古社(延喜式内社)として栄えたが、その後中殿の忌宮に合祀したため次第に「忌宮」の名をもって呼ばれるようになった。
 古来、文武の神として歴朝の尊崇、武将の崇敬厚く、また安産の神として庶民の信仰を受けてきた。社殿は明治9年惜しくも炎上し、そのあと仮殿として造営されたものを改修し今日に至っている。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・本殿 拝殿

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・高良社〈本殿向かって右〉

《主》地主大神,武内宿禰

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・若宮社〈本殿向かって左〉

《主》仁徳天皇

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荒熊稲荷神社

《主》宇賀魂神,《配》田心姫神,湍津姫神,市杵島姫神

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荒熊稲荷神社 由緒

 文化・文政年間、長府藩十一代藩主毛利元義公が江戸参勤交代の帰途、京都の伏見稲荷大社に詣でて御分霊を勧請し、産業の繁栄を祈願した。
 嘉永元年(一八四八)に現在地に遷して社殿を再建、以来広く信仰をあつめ、特に勝運・失せもの発見に霊験あらたかと伝えられている。
 十一月三日の例大祭の奉納相撲は「長府の三日相撲」として世に知られ盛大に行われて来ているが、昭和四十九年大相撲の魁傑関が参拝して九州場所で優勝して以来、放駒部屋一行が毎年参拝して賑わいを見せている。
 平成二年十一月、「御大典記念事業」として社殿を改築御造営。無病息災・家運隆昌・商売繁盛を祈念する崇敬者の参拝が絶えない。

御祭神  宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおおかみ)
配祀神  厳島社(市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命)

例大祭 十一月三日・春祭り四月二十九日
月次祭 毎月三日(午前十一時)

現地立札より

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・相撲資料館

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八坂神社

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《主》素盞嗚神,稲田姫神,手摩乳神,
《配》天照皇大神,豊受大神,伊邪那岐大神,大山咋命,若宇賀乃売神,天御柱神,国御柱神,大物主神,大己貴神,少彦名神,猿田彦神,火魂神,大年神,蛭子神,菅原道真公

《合祀社》
◎春日神社 武甕槌神,経津主神,天児屋根神,姫大神
◎日吉神社 大己貴神
◎三島神社 大山祇神〈相殿 諏訪神社〉建御名方神
◎大歳神社 大歳神,国狭槌神
◎大歳神社 大歳神,保食神
◎印内神社 天常立神
◎人丸神社 柿本人丸
◎恵比寿神社 事代主神
◎貴船神社 高龗神
◎貴船神社 高龗神
◎塩竃神社 猿田彦神,国常立神,国狭槌神,伊邪那岐神,伊邪那美神,天宇受売神
◎河内神社 大穴牟遅神,水波女神

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八坂神社 由緒

 明治末年の神社合祀推進に伴い、長府においても明治三十七年四月より明治四十四年二月にかけて神社合祀が進められ、忌宮神社境内八坂神社にまとめられた。
本殿・拝殿は、野久留米にあった塩竃神社(しおがまじんじゃ)が移築されたものである。
 七月十四日から十六日にかけて行われる「夏越祭(なごしさい)」では、「茅の輪(ちのわ)くぐり」が行われ、「人形(ひとがた)」を供え大祓詞 百巻が毎日奏上され、氏子・崇敬者各位の無病息災が祈念される。
 又、一月・五月・九月の十八日には「秋葉講社祭」が行われ、火難災除の祈願が込められている。

《合祀神社》
◎八坂神社 ◎春日神社 ◎日吉神社
◎三島神社 ◎印内神社 ◎大歳神社二社
◎恵比寿神社 ◎人丸神社 ◎貴船神社二社
◎塩竃神社 ◎河内神社

※八坂神社には、秋葉神社等数社が明治末年を待たずに合祀されていた。

現地立札より

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「蚕種渡来之地」記念碑

 いまから約千八年のむかし中国より秦の始皇十一世の子孫功満王が来朝帰化しここ豊浦宮にご滞在の仲哀天皇に蚕種(カイコの卵)を献上したのが、わが国養蚕の始まりと伝えられる。生糸の輸出の最も盛んであった昭和八年に養蚕関係者によってこの碑が建立された。
現地立札より

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

満珠島・干珠島(まんじゅしま・かんじゅしま)国の天然記念物〉〈飛地境内

忌宮神社の飛び地境内〈禁足地 島に渡ることはできません〉

伝説によれば 御祭神 神功皇后が 龍神〈住吉大神の化身〉より 授けられた二つの玉〈潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)〉から生まれたと云う
また 彦火火出見尊が 海神より授かった潮満瓊(しおみつたま)と潮涸瓊(しおひのたま)を両島に納めたとも云う

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・豊功神社(下関市長府宮崎町)

〈現在は長府海岸近くの宮崎八幡宮と合祀され豊功神社として祀られている〉

詳しくは 豊功神社(下関市長府宮崎町)

・惣社宮・守宮司神社

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忌宮神社摂社 惣社宮・守宮司神社 由緒

 ◎惣社宮御祭神
 大巳貴神(おおなむちのかみ)(大国主命)・天神地祇(てんしんちぎ)

◎守宮司神社御祭神
 応神天皇(おうじんてんのう)

◎例祭日 九月二十五日

 惣社宮は、守護館(現毛利邸)の付近に鎮座されていたが、昭和四十年代に一時忌宮神社に合祀され、昭和五十五年に現在地に鎮座された。
 かつて国司が、任国の主要神社を巡拝する労を省くため一カ所に勧請したのが「惣社宮」といわれる。
 守宮司神社は、忌宮神社 御斎祭(おいみさい)に特にかかわり深い神社だが、鎮座の時代など不詳である。

現地立札より

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・惣社宮

《主》大己貴神,天神地祇

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・守宮司神社

《主》応神天皇

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

神階の奉授について 記されています

【抜粋意訳】

二十四 貞觀十五年(八七三)十二月十五日丙午

○十五日丙午

 長門國
從五位下 忌宮神 從五位上

正六位上 武智石打命神 意久神 土地神

越中國
賀積神  從五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)長門国 5座(大3座・小2座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)豊浦郡 5座(大3座・小2座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 忌宮神社
[ふ り が な ]いむみやかみのやしろ)
[Old Shrine name]Imumiya no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される穴門豊浦宮゛゛斎宮(イワイノミヤ)゛の伝承

『日本書紀』(720年)には 忌宮神社(下関市長府宮の内町)の起源について 詳しく記されています

穴門(長門)豊浦宮は 第14代仲哀天皇が 九州の熊襲平定のために西下 を興して7年間政務をとられた旧趾
天皇は 筑紫の香椎に進出れたが 1年にして崩御 神功皇后は喪を秘して 武内宿禰に御遺骸を奉じて豊浦宮に帰らしめ 殯斂(仮埋葬)を行う
そして皇后は ご懐妊中だが 熊襲を煽動する新羅征討を成して ご凱旋の後 天皇の御神霊を 豊浦宮に鎮祭れました これが忌宮神社(下関市長府宮の内町)の起源です

神功皇后の段には 神功皇后が〈香椎宮で崩御された〈仲哀天皇〉に祟った神の名を知るために 斎宮(イワイノミヤ)を小山田邑(オヤマダノムラ)に造らせ 吉日を選んで斎宮(イワイノミヤ)に入り 自ら神主となり 神託を受けたことが記されています

この斎宮(イワイノミヤ)が 現 忌宮神社(下関市長府宮の内町)とされます

【抜粋意訳】

日本書紀 巻第八 足仲彦(タラシナカツヒコノ)天皇(仲哀天皇)

〇 秋七月辛亥朔乙卯〈7月5日

 皇后は 豊浦津に泊られた この日 皇后は如意珠(ニョイノタマ)〈願い事がかなう珠〉を海中から得ました 九月 宮室を穴門に建てて住まわれた これを穴門豊浦宮という

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

【抜粋意訳】

〇 九年春二月癸卯朔丁未2月5日

 天皇は たちまちに痛身〈病気〉になられ 翌日に崩御された ~ 中略 ~ 密かに天皇の遺体を収め 武内宿禰に授け 海路から穴門(アナト)〈長門〉へと移りました そして豊浦宮(トユラノミヤ)で殯(モガリ)し 无火殯斂(ホナシアガリ)〈灯火を焚かず秘儀のモガリ〉をしました

甲子21日

大臣 武内宿禰は 穴門から帰り 皇后に報告した
この年 新羅(シラギ)の役(エチ)のよって 天皇を葬儀はなかった

日本書紀 巻第九 氣長足姫(オキナカタラシヒメノ)(神功皇后)

九年春二月

 足仲彦天皇タラシナカツヒコノスメラミコト)〈仲哀天皇 筑紫の橿日宮(カシヒノミヤ)香椎宮で崩御された

 その時 皇后は天皇が神のお告げに従わず 早く崩御されたことみ 祟られる所の神を知り 財宝(タカラ)の国を求めようとされた

 群臣(マヘツノキミタチ)と百僚(ツカサツカサ)に命じて罪を払い 過ちを改めて さらに斎宮(イワイノミヤ)を小山田邑(オヤマダノムラ)に造らせました

三月一日

 皇后は吉日を選んで斎宮(イワイノミヤ)に入り 自ら神主となりました

武内宿禰(タケノウチノスクネ)に命じて琴を弾かせ 中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)を呼び 審神者(サニワ)神託を聞意味を解くした 千繒高繒(チハタタクハタ)〈幣帛を数多く積む〉を 琴頭尾(コトカミコトシリ)琴の頭と尾部に置

 神に請うて祈り求めた
「先日に 天皇に教えらたのはどこの神でしょ 願い欲します その御名を知りた」と申された

七日七夜に至
「神風(カムカゼ)伊勢国の百伝う(モモタウ)何度も行き交う〉度逢縣(ワタライアガタ)の拆鈴五十鈴宮(サクスズイスズノミヤ)に居る神
名は撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)である」と答えられた

また問うと
「この神を除いて 他に神がおられるか

すると
「幡荻(ハタススキ)布や旗のようになびくススキの穂(ホ)のように現れた (アレ)なり 尾田(オダ)の吾田節(アガタフシ)の淡郡(アワノコオリ)に居る神である」と答えられた

「まだおられますか」と問うと
「天事代於虛事代玉籤入彦嚴之事代主神(アメニコトシロシラニコトシロタマクシイリビコノイツノコトシルノカミ)がある」と答えられた

「まだありますか」と問うと
「有るか無いか分らない」と答えられた

審神者(サニワ)が言う
「今 答えなとも 後にまた言(ノタマイ)があるやも知れず

それに対して答えるには
「日向国(ヒムカノクニ)の橘小門(タチバナノオド)の水底(ミナソコ)に居る水葉(ミナハ)〈海藻〉のように稚(ワカヤカ)(イデ)る神 名は表筒男(ウワツツノ)・中筒男(ナカツツノ)・底筒男神(ソコツツノ)の神がある

「まだありますか」と問うと
「有るとも 居ないとも知らない」と答えられ

ついに まだ神があるとは言われなかった

その時 神の言葉を得て 教えに随ってりました

その後 吉備臣の祖先の鴨別(カモノワケ)を遣わして 熊襲国(クマソノクニ)を討った
いくらも経たず 服従してきました

また 荷持田村(ノトリノタノフレ)に羽白熊鷲(ハシロクマワシ)という者があり その人と成り 強健で 翼があり よく高く飛ぶことができ
皇命に従わず 毎略(イツモ)人民から略盗(カスミトリ)をしていた

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

境内・境外に残る『日本書紀』穴門豊浦宮゛゛斎宮(イワイノミヤ)゛の伝承

豊浦宮(とようらのみや)皇居趾記念碑

古事記・日本書紀によれば、第十四代 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は九州熊襲(ひまそ)征討のためご西下になられ、ここ仮の皇居「豊浦宮(とよらのみや)」を興して七年間ご滞在になられて神功皇后と共にそのご準備を進められた。
古くよりこの地は、九州にほど近い要衝(ようしょう)の地であったことが窺(うかが)える。
現地立札より

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・鬼石

数方庭の由来と鬼石

第十四代 仲哀天皇は、九州の熊襲の叛乱を平定のためご西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが、仲哀天皇七年 旧暦の七月七日に朝鮮半島の新羅国の塵輪が熊襲を煽動し豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿部高麿、助麿の兄弟まで相次いで討ち死にしたので、天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された、賊軍は色を失って退散し皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが数方庭(八月七日より十三日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられ、塵輪の顔が鬼のようであったところからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。

現地案内板より

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・神功皇后お手植えの「さか松」

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神功皇后お手植えの「さか松」

三韓出兵に際し、七日七夜天地の神々に御加護を祈願され、一本の稚松を逆さまに植えて戦勝を占われた。逆さまに植えられたが、活着して繁り栄えたので「さか松」と呼ばれた。古木の一部が安置され、そばに子孫の若松がいまも栄えている。

現地立札より

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・宿禰の銀杏

宿禰の銀杏(すくねのいちょう)

当社の御祭神 仲哀(ちゅうあい)天皇・神功皇后・応神天皇に仕えた大臣 武内宿禰(たけのうちすくね)が植えたと伝えられる古木でその子孫が繁茂している。銀杏は「生きた化石」ともいわれるほどに地球上で最も古くよりみられる植物で武内宿禰の長寿伝説と結びついている。

現地立札より

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・仲哀天皇殯殮地(下関市長府侍町 日頼禅寺)

忌宮神社南方の土肥山に仮埋葬(殖斂)神霊を鎮祭

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忌宮神社の南 此の地から ほぼ東に゛満珠島干珠島゛があります

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・壇具川(だんぐがわ)

壇具川(だんぐがわ)

 長府の歴史と共に流れつづけている壇具川は 清流に錦鯉が泳ぎ 初夏の夜は ホタルが飛かい「ほたるの里」として人々に散策をさそう
 流れに沿い 山手に進むと壇具橋 宮路橋 水添橋 川中橋 川上橋さらに両山橋へと至る橋の左手は笑山寺 右手には功山寺があり 二つの毛利家菩提寺が今も静寂さを保ち 城下町の由緒を物語っている

 壇具川の名称は 神功皇后が三韓鎮治のとき この豊浦の地(長府)で祭壇を築き天神地祇を祭りその祭壇に用いた道具を流した川ということから その名が付いたと伝えられる 昔は祭事が終わると その都度祭具を川に流したという又その祭壇を築いた場所(忌宮神社正面の惣社町一帯)を「壇ノ上」といいその地名が伝えられている

平成五年三月 長府観光協会

現地石碑文より

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR山陽本線 長府駅からR2号を南下 約3.1km 車9分程度

鳥居前の交差点を右折〈西〉へ進むと正面に東の鳥居が建ちます

忌宮神社(下関市長府宮の内町)に参着

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南に表参道があります

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広い境内に駐車場があり 境内には白砂が敷かれています
先程の東の鳥居を境内から 下に見ます

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社殿の建つ境内地は もう一段高い社地になっていて 石段を上がります

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拝殿にすすみます

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本殿の向かって右隣には゛高良社゛が祀られています

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拝殿の正面に立つと 両脇に境内社が祀られているのがわかります
向かって左隣は゛若宮社

変わった配置ですが これも
豊浦宮・忌宮・豊明宮と三殿別立の古社の名残なのでしょう

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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境内には゛烏骨鶏゛゛鶏゛が放し飼いになっています

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神門をくぐり抜けて 下の境内へ下がります

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正面は表参道になります その先に見えているのが 忌宮神社南方 仲哀天皇を仮埋葬(殖斂)神霊を鎮祭したとされる土肥山仲哀天皇殯殮地(下関市長府侍町)゛です

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 忌宮神社について 「三代実録」「日本書紀」の所載を示し 所在については 長府(山口県下関市南部)〈現 忌宮神社(下関市長府宮の内町)〉と記しています

【抜粋意訳】

忌宮(イムミヤノ)神社

「三代実録」貞觀十五年(八七三)十二月十五日丙午
○十五日丙午 授長門國 從五位下 忌宮神 從五位上

「日本書紀」神功皇后記 造齋宮於小山田邑 三月壬申朔、皇后選吉日、入齋宮、親爲神主。

〇長府にあり 仲哀天皇といへり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 忌宮神社について 祭神は仲哀天皇 所在は府中(山口県下関市南部)〈現 忌宮神社(下関市長府宮の内町)〉と記しています

【抜粋意訳】

忌宮神社

忌宮は 伊牟美夜と訓べし

〇祭神 仲哀天皇 社家注進

〇府中に在す 社家注進
〇當國二宮なり
〇英萬記云、二宮、

〇日本紀、神功皇后巻、
九年二月、足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮。時皇后、傷天皇不從神教而早崩、以爲、知所崇之神、欲求財寶国。是以、命群臣及百寮、以解罪改過、更造齋宮於小山田邑。

三月壬申朔、皇后選吉日、入齋宮、親爲神主。

神位
三代実録、貞觀十五年(八七三)十二月十五日丙午 長門國
從五位下 忌宮神 從五位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 忌宮神社について 所在は豊東郡長府 豊浦の濱に在り、二宮〈現 忌宮神社(下関市長府宮の内町)
神功皇后が斎宮を造り 神命を請奉りしたのは 此処で 本社の祭は 古より変ることなく 続けられていると記しています

【抜粋意訳】

忌宮(イムミヤ)(イミノミヤ)神社

今 豊東郡長府 豊浦の濱に在り、二宮と云ふ
蓋 息長帯比賣命 斎宮を造り、神命を請奉りしは即是也、

清和天皇 貞觀十五年(八七三)十二月十五日丙午 長門國
從五位下 忌宮神 從五位上三代実録、

凡 本社の祭、八月十五日、神輿 長濱に幸し、十二月は朔日より十五日に至るまで祭を行ふ、其七日を御斎神事と云ひ、十五日神服を奉る、神官及里民みな甚く斎潔めて、鐘鼓歌舞を禁め、深く言語を慎み、或は燈火を焼き仕奉る事、古より今に及て、猶異なることなし、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 忌宮神社について 所在は豊浦(豊浦郡長府町大字豊浦)〈現 忌宮神社(下関市長府宮の内町)〉と記しています

【抜粋意訳】

忌宮神社

祭神 息長足姫命 称 二宮

今按〈今考えるに〉
明細帳に祭神 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇とみえ
舊 豊浦藩申出に息長足姫命とあり
和爾雅に所祭一座 仲哀天皇 相殿二座 神功皇后 八幡大神也
など諸説一定せずと雖も 式帳一座なれば主神は必ず息長足姫命なるへし
さるは諸神記に 長門國二宮 彼社解云 當宮者 仲哀天皇之后妃 応神天皇之聖母也とあるもの證とすべし
(松平摂津守義行の集録せる古文書の収る長門二宮の文書に「西國下向之時 参詣 長門國 神功皇后之社壇 歸浴之後 不経幾日一天得静證之時 四海属無為之化仍以 二首篇詠備

・・・・・
・・・・・

神位
清和天皇 貞觀十五年(八七三)十二月十五日丙午 長門國
從五位下 忌宮神 從五位上

祭日
社格 縣社
所在 豊浦(豊浦郡長府町大字豊浦)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

忌宮神社(下関市長府宮の内町)ついて 式内社 忌宮神社であるとして 詳細が記されています

【抜粋意訳】

山口縣 長門國豊浦郡長府村大字豊浦字後地

縣社 忌宮(イミノミヤノ)神社

祭神 仲哀(チュウアイ)天皇
   神功皇后(ジングウクワウゴウ)
   應神(オウジン)天皇

延喜式に列せる官社にして二宮と云ふ、諸神記、神社覈録神祇志料
豊浦皇居の址なり、書紀通證、地名辞書、
明治六年四月 縣社に列せらる。

日本書紀 仲哀巻 
二年秋七月辛亥朔乙卯、皇后泊豊浦津。是日、皇后得如意珠於海中。九月、興宮室于穴門而居之、是謂穴門豊浦宮。
〈秋七月五日 皇后は豊浦津に泊った この日 皇后は如意の珠(願い事がかなう珠)を海から拾われた 九月 宮室を穴門に建てて住まわれた これを穴門豊浦宮という〉

九年春二月癸卯朔丁未、天皇、忽有痛身而明日崩、中略 竊收天皇之屍、付武內宿禰、以從海路遷穴門、而殯于豊浦宮、爲无火殯斂。无火殯斂
〈9年春2月5日 天皇は急に病気になられ 翌日に亡くなられた 中略 密かに天皇の遺体を収め 武内宿禰に授け 海路から穴門(アナト)〈長門〉へと移りました そして豊浦宮(トユラノミヤ)で殯(モガリ)し 无火殯斂(ホナシアガリ)〈灯火を焚かず秘儀のモガリ〉をした〉

日本書紀通證、
豊浦宮、今 豊浦郡 忌宮神社、在 長府所祭三座、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇也、仲哀殯處在 宮巽方小山

豊府志
府中二宮は仲哀天皇の創建にして、当時行宮の地なり、三代実録、貞観十五年授位 忌宮神の事見ゆ、當國は山田住吉明神を一宮となせば、之に対して忌宮を二宮とす。

本社祭神に就きては諸説一ならず、
神社覈録には社家注進を引きて仲哀天皇といひ、神祇志料には足利尊氏和歌序、今川了俊道行夫里  諸神記を引きて息長帯比賣命(神功皇后)を祭るといひ、
社伝には「元、仲哀天皇のみを祭りしを、神亀年中、神託に依り筑前國香椎宮より神功皇后、応神天皇の霊を分ちて合祀す」と云へり、
・・・・・
・・・・・
・・・・・

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

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忌宮神社(下関市長府宮の内町) (hai)」(90度のお辞儀)

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