大分八幡宮(飯塚市大分)

大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)は 古代に神功皇后が三韓征伐から帰国して 当地で引率していた軍士を解隊し それぞれの故郷に返した時 その大分(オオワカレ)から大分(ダイブ)と称されるようになったと伝わります 筑前国一之宮の「筥崎宮(福岡市)」の元宮とされています

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

 大分八幡宮(daibu hachimangu)
(だいぶはちまんぐう)

【鎮座地 (location) 】

福岡県飯塚市大分1272

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》品陀別命(homudawake no mikoto)
    第15代応神天皇(八幡大神 yahata no okami)
《主》息長足姫命(okinaga tarashihime no mikoto)
    (神功皇后 jingu kogo)
《主》玉依姫命(tamayorihime no mikoto)

【御神格 (God's great power)】

・安産   Healthy childbirth
・初宮詣(宮参り)Baby prays at shrine for the first time
・厄除祓 Prayer at an age considered a milestone in life
・等 etc

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社の元宮
・ 筥崎宮の元宮

【創 建 (Beginning of history)】

神亀3年(726)の創建と伝えられる大分八幡宮は、神功皇后の所縁の地で、筥崎宮の元宮とされています。御祭神は応神天皇(八幡大神)、神功皇后、玉依姫命です。

神功皇后は、三韓征伐から帰国した後、粕屋の宇美邑にて応神天皇を御出産遊ばされ、その翌年の春、粕屋と嘉穂の郡境にある大口嶽(大口嶽の乳呑坂)を越えて当地に至ります。神功皇后は、当地にて引率していた軍士を解隊し、それぞれの故郷に返します。その大分から大分と称されるようになったと伝えられています。

御祭神である応神天皇(八幡大神)の神霊は、欽明天皇32年(571)に豊前国宇佐郡に所在する馬城嶽(御許山)に出現したと伝えられ、神亀2年(725)に現在の宇佐神宮の鎮座地である小倉山社へ遷座します。その翌年の神亀3年(726)、御神託により豊前地方と穂波地方、太宰府を行き来する拠点であり、大分の由緒ある当地に鎮西第一といわれる壮麗な社殿、穂浪宮(大分宮)が造営されたのが大分八幡宮の創始とされています。

宇佐宮御託宣集の延喜21年(802)6月1日の件にて『我宇佐宮より穂浪の大分宮は本宮也』と記され、箱崎の松原への遷座の神託があり、3年後の延長元年(923)に遷御したことから筥崎宮の元宮とされています。その遷座の前からの御神体で、神功皇后が腰裳に挟んでいたとされる「くしみ玉」は、大分八幡宮にて奉斎されていたとされています。

公式HPより

【由 緒 (history)】

當宮は、神功皇后 御征韓後 粕屋の宇美邑にて 應神天皇御出産遊ばされ、翌年の春、京にお上りの際軍隊を引率され粕屋、嘉穂の郡境にある険しい山「しょうけ越え」を経られ、當宮に至り坐して暫しお止りになり 筑紫の行政をお執り遊ばされ、此地にて軍隊を解隊せられし由縁の地なり。

宇佐宮託宣集に 我宇佐宮より穂浪郡大分宮は我本宮なりとあり。

本邦五所別宮第一に列せられ朝廷の尊崇篤く、筥崎宮の元宮として由緒正しく、第四十五代聖武天皇神亀3年(今より約1300年前)御神託によって創建せられ、応仁天正の九州動乱にて御社殿は兵火に罹り焼失し 後 天正5年 秋月種実公勅命に依り現在地に假殿を建立、御神霊を勧請鎮座せられたる御社殿がその侭今日に至る。

神殿裏山の小高い丘状の盛土は、全国でも珍しい皇室古墳埋蔵推定地「仲哀天皇御陵」として考古学者の学問的期待をかけている聖地であり、往古旧社殿は小高い丘の前にありて跡地に礎石のみ残れり。

「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から

【境内社 (Other deities within the precincts)】

 ・大神宮《主》大日孁命(ohirume no mikoto)
・天満宮《主》菅原神(sugawara no kami)
・辨財天社《主》市杵島姫命(ichikishimahime no mikoto)
・恵比須社《主》事代主神(kotoshironushi no mikoto)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑前国 19座(大16座・小3座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那珂郡 4座(並大)

[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社名 ] 八幡大菩薩筥埼宮(名神大)
[ふ り が な  ](はちまんだいぼさつ はこさきのみや)(みょうじんだい)
[How to read ](hachimandaibosatsu hakosaki no miya)(myojindai) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

「宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)」(九州 五所別宮(kyushu gosho betsugu)について

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

「宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)」の記事をご覧ください

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

筑前大分駅から 県道90号経由 約1.2km 徒歩16分程度

大分八幡宮(daibu hachimangu)に到着

社頭には「一の鳥居」が建ち 参道が延びます その後ろに二基の鳥居が建っているのが見えます 鳥居の扁額と社号標には「大分宮」とあります

一の鳥居のすぐ後ろに構える「狛犬」を良く見ると 変わった構えをしています 向かって左は「二本足で立ち上がりの構え」向かって右は「逆立ちの構え」です

一礼して鳥居をくぐり抜けます
境内は広々としていて 大木が残存しています

二の鳥居・三の鳥居とくぐり抜けると 右手に手水舎があります 清めます

手水舎の向かいには 御神木「県天然記念物指定・大楠」推定樹齢:約350年 胴周り径:約9mとあります 立派で異様を感じますので 近づいて一礼します 神功皇后が 三韓征伐から持ち帰った3本の楠の内の1本の子孫と云われています

参道の隋神門の前には「聖化遠扇」「去功長懸」と刻まれた石柱が建ち 一礼して進みます 立派な門構えです

隋神門を抜けると すぐに拝殿 その奥に本殿 更にその背後には丘陵があります 創建当時の社殿は 後方の丘陵上にありましたが 戦国時代に戦乱のため消失 天正5(1577)年に 秋月種実(akizuki tanezane)が 現在の地に再建しました 現在の社殿は 拝殿・本殿とも平成7(1995)年に改築されたものです

拝殿にすすみます 

扁額には「大分宮」とあります

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

境内社にお詣りをして 神門をくぐり抜けます

再び大木のある境内に出ます

鳥居をくぐり抜け 振り返り一礼

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『宇佐宮御託宣集(usanomiya gotakusenshu)』に記される伝承

筥崎宮の神託として「穂浪大分宮(大分八幡宮)は 我の本宮なり」と 筥崎宮の本宮(元宮)であると記されています

『宇佐宮御託宣集』

延喜二十一年六月一日、筥崎神託す。

我が宇佐宮よりは、。去る二十日辰時を以て、来り着く。今日巳時を以て、爰に来る所なり。其の故は、香椎宮は我が母堂、住吉宮は我が親父なり。我が幼少の当初、志賀嶋を点住して、これに跡づく所なり。夷類を征伐せしむる後、吾出生の時、号を崇めらるべし。我が先の世に、三箇所に居住せしむべき由、所々に有りと雖も、先の世に天下国土を鎮護し始めし時に、戒定恵の筥を納め置く。埋むる所は、彼の父母両所の敷地の中間に、松一本を殖うる、巳に其の璽なり。適生土の上へ、彼の所に居住せしめんと欲ふなりてへり。

私に云く。大分宮は我が本宮とは、欽明天皇の御代、御示現の前、御霊行の時なり。

公式HPより

筑前国一之宮の「筥崎宮(福岡市)」の元宮とされています

大分八幡宮(daibu hachimangu)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

大分八幡宮の遷座宮 「筥崎宮」の記事をご覧ください

「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る 

筑前国 式内社 19座(大16座・小3座)について に戻る 

 

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