岡田鴨神社(おかだかもじんじゃ)は 崇神天皇の御代に賀茂氏族の発展を祈り祖神 建角身命を 洛北の賀茂御祖神社より 岡田賀茂の地に勧請し創建した 延喜式内社 山城國 相楽郡 岡田鴨神社(大月次新嘗)(をかたかもの かみのやしろ)です その後 木津川の水害により 元明天皇の岡田離宮跡に創建された天満宮の境内に遷座しました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
岡田鴨神社(Okadakamo shrine)
【通称名(Common name)】
鴨神社(かもじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
京都府木津川市加茂町北鴨村44
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
〈岡田鴨神社〉
《主》賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
〈天満宮〉
《主》菅原道眞公(すがわらのみちざねこう)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・交通安全・導きの神〈岡田鴨神社〉
・学問・出世の神〈天満宮〉
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
京都府山城國相楽郡加茂村字北
鎮座 郷社 岡田鴨神社之景
祭神 建角身命
本社は 延喜式内の大杜に列なり、貞観元年従五位上を授け給ひ。
風土記に可茂社を可茂と称する。日向曽之高千穂之峯に天降り在ます神にして、建角身ノ命なり云々と見へ、洛北賀茂明神を、始めて勧請せし旧地なり。
現今 郷社に列せらる、境内は和銅時代 元明天皇岡田離宮ノ卸舊蹟なること、或る考古家の所説あり。参照として左に摘載す。当神社の西南に、舊小字に内垣外存せり。是れ離宮ノ内垣外の意なり。後離宮ノ荒廃するや、卿民 元明帝の恩賜に感佩し、離宮の舊趾を保存せんが為め、ここに一社を設け天神社といへり。これ岡田離宮趾の一部分なり 此地の西北に岡田山(今の流岡)あり。又離宮趾の西方三町餘に賀茂里岡田驛の趾(今の船屋ノ城)あり。船屋より西方凡そ八町 加茂村大宇大野小字一丁久保に、岡田国神社の旧地あり。和銅天平時代には今の木津川は。岡田山の北力大字井平尾の地を流れしものなり。
其後 木津川の流域は岡田山の南方を流るるに至り、水害頻繁なりければ、式内岡田鴨神社を岡田離宮の趾なる天神社の境内へ遷したるものなり 岡田の名義起困は 往古岡田山につきて、田を作りしより起る。今に岡田山の南方木津川の南岸に小字佃(つくだ)あり これ岡田舊地根本のー部分なり。
明治卅三年三月刻 合資会社 名古屋光彰館製版
現地張り紙より
【由 緒 (History)】
岡田鴨神社
加茂町の町名由来は、カモ神とその神をまつるカモ氏に関係があります。
「山城国風土記」の中に、大和国葛城山のふもとにいた賀茂建角身命という神が大和から山城国下鴨神社に至る途中に山城国の岡田の賀茂を通ったと記載があります。
これは岡田鴨神社を指すと考えられ、
加茂町のカモ神の起源の古さがわかります。正面向かって右側が岡田鴨神社、左側が天満宮です。
加茂町観光協会㈳京都府観光連盟
現地案内板より
由緒
本社は、延喜式内の古社に列せられ、「日本三代実録」によると、貞観元年(859)正月27日、岡田鴨神に従5位上を授くと記されている。明治6年郷社に列せられた。
「釈日本紀」の山城風土記の逸文によると、建角身命は日向の高千穂の峰に天降られた神で、神武天皇東遷の際、熊野から大和への難路を先導した八咫烏が、すなわち御祭神の建角身命で、大和平定に当たり数々の偉勲をたてられた。大和平定後、神は葛城の峰にとどまり、ついで山城国岡田賀茂(現在の加茂町・江戸時代までは賀茂村と書く)に移られ、その後洛北の賀茂御祖神社(下鴨神社)に鎮まるのである。
賀茂氏族の発展を祈り岡田賀茂の地に洛北より賀茂明神を勧請し賀茂氏族の祖神、建角身命が祀られた。
当社の御鎮座は、崇神天皇の御代と伝えられている。境内は、元明天皇の岡田離宮の旧跡と伝えられ、村人が離宮の旧跡を保存するためにこの地に天満宮を創祀したと伝えられる。
和銅天平時代には、現在の木津川(古名-加茂川)は岡田山(流岡)の北側を流れていたが、その後木津川が南側を流れるように変化し、水害が頻繁になり、式内岡田鴨神社を旧社地より岡田離宮の跡である天満宮の境内に遷された。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
スポンサーリンク
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
〈二つの本殿〉
・岡田鴨神社 本殿
・天満宮 本殿
・本殿前の狛犬・石牛
・妻入入母屋造の拝殿
〈境内向かって右側の境内社〉
・〈境内社〉金刀比羅社《主》大物主神
・〈境内社〉三十八社神《主》鹿島神御子三十八神
・〈境内社〉八幡宮《主》応神天皇
・神門の設けられた社務所
・神門に掲げられた絵馬
・手水舎
・社頭・鳥居
スポンサーリンク
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・旧鎮座地〈岡田山の南方木津川の南岸に小字佃(つくだ)〉
和銅天平時代(708~767年)には 現在の木津川(古名-加茂川)は岡田山(流岡山)の北側を流れていたが その後 木津川が南側を流れるように変化し 水害が頻繁になり 式内岡田鴨神社を旧社地より 岡田離宮の跡である天満宮の境内に遷された
木津川に架かる 恭仁大橋の東側の川南岸です
旧鎮座地へは 岡田鴨神社の裏手の田の道を西へ進んだ 竹藪の中にあります
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
相楽郡 岡田離宮・・・特給に賀茂 久仁二里戸稲卅束 と記されています
【抜粋意訳】
和銅元年(七〇八)九月庚辰(廿二)
○庚辰
行幸山背国 相楽郡 岡田離宮 賜行所経国司目以上 袍・袴各一領 造行宮郡司禄各有差 并免百姓調 特給 賀茂 久仁二里戸稲卅束
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神階の奉授が 京畿七道諸神 惣二百六十七社の一社として記されます
貞観元年正月二十七日甲申 奉授 山城國 從五位下 岡田鴨神從五位上
【抜粋意訳】
卷二貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
○廿七日甲申 京畿七道諸神 進 階及新叙 惣二百六十七社 奉授
淡路國
无品勳八等伊佐奈岐命一品
備中國
三品吉備都彦命二品神祇官
无位神産日神。高御産日神。玉積産日神。生産日神。足産日神並從一位。 无位生井神。福井神。綱長井神。波比祇神。阿須波神。櫛石窓神。豐石窓神。生嶋神。足 嶋神並從四位上。』宮内省
從三位園神。韓神並正三位。大膳職正四位下御食津神從三位。左 京職從五位上太祝詞神。久慈眞智神並正五位下。大膳職從五位下火雷神。大炊寮從五位下 大八嶋竈神八前。齋火武主比命神。内膳司從五位下庭火皇神。造酒司從五位下大戸自神等 並從五位上。无位酒殿神從五位下。』山城國
正二位勳二等 松尾神 從一位
葛野月讀神 平野 今木神 並正二位
正四位下 稻荷神三前 並正四位上
正四位下 大若子神 小若子神 酒解神 酒解子神 並正四位上
平野從四位下 久度古開神 從四位上
正五位上 貴布禰神 正五位下 乙訓火雷神 從五位上水主神 等並從四位下
正五位下 合殿比咩神 正五位上
從五位下 樺井月讀神 木嶋天照御魂神 和攴神 並正五位下
從五位下 祝園神 天野夫攴賣神 岡田鴨神(ヲカタカモノカミ) 岡田園神 樺井月神 棚倉孫神 許波多神 出雲井於神 片山神 鴨川合神 等並從五位上
正六位上 與度神 石作神 向神 簀原神 鴨山口神 小野神 久我神 高橋神 雙栗神 水度神 伊勢田神 无位小社神 並從五位下
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ 春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)相楽郡 6座(大4座・小2座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 岡田鴨神社(大月次新嘗)
[ふ り が な ](をかたかもの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Wokatakamo no kaminoyashiro)
【原文参照】
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
上賀茂神社・下鴨神社について
往昔は 賀茂氏(かもうじ)の氏神を祀る 二つで 一つの神社として 賀茂社(賀茂神社)と総称していまた
二社は それぞれ・上賀茂神社を「上社」・下鴨神社を「下社」と呼ばれます
両社の御神紋 ゛葵(二葉葵)゛
二葉葵が神紋となっているのは 賀茂別雷神の御神託「葵を飾って祭りをせよ」があり 賀茂別雷神が 神山(こうやま)の頂上にある磐座(いわくら)にご降臨されたと伝わる事に依ります
賀茂祭が 葵祭と云われるのもこの為です
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂別雷神社 亦若雷 名神大〈上賀茂神社〉
・〈上賀茂神社〉賀茂別雷神社(京都市)
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂御祖神社二座 並名神大〈下鴨神社〉
・〈下鴨神社〉賀茂御祖神社(京都市)
『山城國風土記逸文』゛上賀茂・下鴨の両神社の御祭神゛にまつわる伝承
神武天皇東征の際に道案内をした
八咫烏(やたがらす〈三本足のカラス〉)は 賀茂建角身命とされます
賀茂建角身命は はじめ日向の曽の峰に天降ったが 神武天皇の東征の先導役として倭の葛城山に至った
そこから〈大和の葛城山〉から 更に山背〈山城国〉に移り 岡田の賀茂に至った
〈これが現在の岡田鴨神社の辺り〉
延喜式内社 山城國 相樂郡 岡田鴨神社(大 月次 新嘗)(をかたかもの かみのやしろ)
・岡田鴨神社(木津川市加茂町北鴨村)
賀茂建角身命は さらに 山代河〈木津川〉沿いを下り進んで 鴨川と桂川(葛野川)が合流する所に到った
〈これが現在の久我神社(京都市伏見区久我森の宮町)の辺り〉
延喜式内社 山城國 乙訓郡 久何神社(くかの かみのやしろ)
・久我神社(京都市伏見区久我森の宮町)
賀茂建角身命は 賀茂河を御覧になり「狭い川だが清浄な川である」と言って「石川の瀬見の小川」と名付けた
〈合流地点は 現在の下鴨神社の辺り〉
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂御祖神社二座 並名神大〈下鴨神社〉
・〈下鴨神社〉賀茂御祖神社(京都市)
賀茂建角身命は さらに鴨川を遡り
久我國(くがのくに)の 北の山基(やまもと)に定(しづ)まり その地に鎮座した
賀茂建角身命は 丹波国の神野の神 伊可古夜日売(いかこやひめ)を娶って 兄の玉依日子と妹の玉依日売が生まれた
賀茂建角身の娘・玉依媛命が 「石川の瀬見の小川」の上流で 流れてきた丹塗りの矢を拾って持ち帰り 床の辺に挿しておくと懐妊し 御子〈賀茂別雷命〉を出産した
やがて御子〈賀茂別雷命〉が成長した時 祖父の賀茂建角身命が 八尋屋(やひろや)を造り 八戸の扉をたて 八腹の酒を醸し 神々を集めて7日7夜の酒宴を開いた
この時 祖父である建角身命が 御子に゛汝の父と思う神にこの酒を飲ませよ゛と命じると その御子〈賀茂別雷命〉は 盃をささげて天に向けて祭り 屋根の甍を突き抜けて天に昇ってしまった
〈現在の久我神社(京都市北区紫竹下竹殿町)の辺り〉
延喜式内社 山城國 愛宕郡 久我神社(こが/くが の かみのやしろ)
・久我神社(京都市北区紫竹下竹殿町)
このことから御子神は 外祖父の御名によって賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)と名づけられた 丹塗りの矢〈即ち父神〉とは 乙訓神社の火雷神(ほのいかづちのかみ)であったと云う
延喜式内社 山城國 乙訓郡 乙訓坐 大(火)雷神社(名神大 月次 新嘗)(をとくににます おほいかつち(ほのいかつち)の かみのやしろ)の論社
・角宮神社(長岡京市井ノ内南内畑)
・向日神社(向日市向日町北山)
〈向日神社に合祀の火雷神社〉
・菱妻神社(京都市南区久世築山町)
御子神が天に昇り 残された賀茂建角身命 賀茂玉依比売命が再び御子に会いたいと乞い願っていたある夜 賀茂玉依比売命の夢枕に御子が顕れ 「吾れに逢はんとは 天羽衣•天羽裳を造り 火を炬き鉢を捧げ 又走馬を餅り 奥山の賢木を採りて阿礼に立て 種々の絲色を垂で また葵楓の蔓を造り 厳しく餅りて吾をまたば来む」とのお告げを聞き その御神託に従って神迎の祭をしたところ 立派な成人のお姿となり 天より神として神山に御降臨されたと伝わります
〈これが現在の上賀茂神社の創建〉
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂別雷神社(亦 若雷・名神大 月次 相嘗 新嘗)(かもわけいかつちの かみのやしろ)
・賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市)
又 蓼倉里(たでくらのさと)三井社(みゐのやしろ) というのは 三身の神を祀る
その三柱は
・賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)
・丹波の伊可古夜日賣(いかこやひめ)
・玉依日賣(たまよりひめ)
この三柱神が 坐(まします)故に 三身社(みみのやしろ)と号(なづく) 今は三井社と云う
〈これが現在の三井社の創建〉
延喜式内社 山城國 愛宕郡 三井神社(名神大 月次 新嘗)(みゐの かみのやしろ)の論社
・三井社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社 境内〉
・三井社(三塚社)
〈下鴨神社の 境内に鎮座する 河合神社の境内社〉
『釈日本紀(shaku nihongi)〈文永元年(1264)~正安3年(1301)〉』に記される伝承
『釈日本紀 巻九』に『山城國風土記逸文』が所引されています
【抜粋意訳】
巻九
山城國風土記(やましろのくに ふどき)に曰(いは)く
可茂社(かものやしろ)
可茂(かも)と稱(いふ)は 日向(ひむか)の曾峯(そのたけ)に 天降(あもり)坐神(まししかみ)賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)なり
神倭石余比古(かむやまといはれひこ〈神武天皇〉)の御前(みさき)に立坐(たちまして)
大倭(やまと)の葛木山之峯(かづらきやまのみね)に宿坐(やどりまし)彼(そこ)より 漸(よふやく)に遷(うつ)り
山代國(やましろのくに)の「岡田の賀茂」に至りたまひ 山代河〈木津川〉の隨下(まにまにくだり)まして 葛野河(かどのがは〈桂川〉)と賀茂河(かもかは)との會所(あふところ)に至坐(いたりまし)
賀茂川を見迥(はる)かして 言(の)りたまう「狹小(さく)あれども 石川の淸川(すみかは)なり」とのりたまう 仍名(よりてなづけて)曰(いは)く 石川の瀬見(せみ)の小川と曰(いふ)彼川(そのかは)より 上坐(のぼりまして)久我國(くがのくに)の北の山基(やまもと)に定(しづ)まりましき
爾時(そのとき)より 名を賀茂と曰(いふ)賀茂建角身命 丹波國(たにはのくに)の神野(かみの)の神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)に娶(あ)ひて 生子(うみませるみこ)の名は 玉依日子(たまよりひこ)と曰(いひ) 次を玉依日賣(たまよりひめ)と曰(いふ)
玉依日賣(たまよりひめ) 石川の瀬見の小川に川遊びし時 丹塗矢(にぬりや)が 川上より流下(ながれくだり) 乃(すなわ)ち取りて 床の邊(へ)に插置(さしおき) 遂に孕(はら)みて男子(をのこ)を生む
成人となる時に至り 外祖父(おほぢ)建角身命(たけつのみのみこと)は 八尋屋(やひろや)を造り 八戸扉(やとのとびら)を竪(たて) 八腹酒(やはらのさけ)を醸(か)み 神集(かむつどへ)集(つどへて)七日七夜(なぬかななよ)樂遊(うたげ)したまひ
然(しかして)子と語らひて 言(のり)たまひ「汝(いまし)の父と思はむ人に 此の酒を飮ましめよ」とのりたまへば 即(やが)て 酒坏(さかづき)を擧(ささげて)天(あめ)に向き祭(まつ)らむと為(おも)ひ 屋甍(やのいらか)を分穿(わけうがち)天(あめ)に升(のぼ)りき乃(すなはち)外祖父(おほぢ)の名に因(よ)りて 可茂別雷命(かもわけいかつちのみこと)と號(なづく)
謂(いはゆる)丹塗矢(にぬりや)は 乙訓郡(おとくにのこほり)の社(やしろ)に 坐(いませる)火雷神(ほのいかつちのかみ)なり
可茂建角身命(かもたけつのみのみこと)丹波(たには)の伊可古夜日賣(いかこやひめ)玉依日賣(たまよりひめ)三柱(みはしら)の神は 蓼倉里(たでくらのさと)三井社(みゐのやしろ)に坐(います)
又曰(またいはく)
蓼倉里(たでくらのさと)三井社(みゐのやしろ)と稱(いふ)は 三身の神 賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)なり 丹波(たには)の伊可古夜日賣(いかこやひめ)玉依日賣(たまよりひめ)なり
三柱神が 坐(まします)故に 三身社と號(なづく)を 今漸くに三井社と云う
【原文参照】
この伝承について 更に知りたい方は
『賀茂注進雑記』釈注と口語訳素案 賀茂県主同族会歴史勉強会を参照されると良いと想います
http://www.kamoagatanushi.or.jp/Mitarashi/9/4.pdf
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR関西本線 加茂駅から北東へ約1.8km 車5分程度
奈良方面から44号線経由で県道47号に入り 目の前が加茂の駅辺りです マンションの後方辺りが目的地です
神社から参道は南に延びて 50m先に社頭の鳥居が建ち 社号標には゛式内 岡田鴨神社゛と刻字されています
岡田鴨神社(木津川市加茂町北鴨村)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり抜けて 参道を進みます
左手に手水舎があり その先には神門があります
神門内は 絵馬が掲げられています
神門をくぐり抜けると境内となり 右手には境内社が祀られています
正面には 拝殿 その奥に本殿が祀られています
拝殿に懸けられた白幕をくぐり抜けます
正面には 二つの本殿が並んで坐ます
二つある本殿は 向かって右が岡田鴨神社 左が天満宮
これは 木津川が南側を流れるように変化し 水害が頻繁になり 式内岡田鴨神社を旧社地より 岡田離宮の跡である天満宮の境内に遷された事によります
神幕にある神紋も各々あります
右が岡田鴨神社
左が天満宮
本殿に進みます
本殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿の隣にある 社殿跡 ?
社殿に一礼をして 境内に戻ります
神門を抜けて 参道を戻ります
神社から東方の木津川方向をみます
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 岡田鴨神社 大月次新嘗について 所在は゛賀茂郷北村に在す、゛〈現 岡田鴨神社(木津川市加茂町北鴨村)〉と記しています
【抜粋意訳】
岡田鴨神社 大月次新嘗
岡田は乎加多と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕紀伊郡岡田、〔仮字上の如し〕」鴨は加茂と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕賀茂、
○祭神 賀茂建角身命
○賀茂郷北村に在す、〔山城志〕
○釋日本紀云、山城風土記曰、賀茂大神御社稱に賀茂者、日向曽之高千穂峯天降坐神賀茂建角身命也、神倭磐余比古天皇之御前立上坐而、宿に坐大倭葛城山之峰、自彼漸遷、至に給山代国岡田之賀茂、随に山代河下坐、葛野河與に賀茂河所曾至坐云々、』
續日本紀、和銅四年正月丁未、始置相樂郡岡田驛、
〔連胤〕按るに、岡田も鴨も地名ながら、鴨は建角身命の鎮座以後、神號より稱(トナ)へしなるべし、」
夫水集、行家、「山城の此都をや守りけむ岡田の鴨に跡たれしより」
類社
当國愛宕郡賀茂別雷神社の下考ふべし神位
三代實録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授山城國從五位下岡田鴨神從五位上、雑事
續日本紀、和銅元年九月庚辰、行幸山背国相樂郡岡田離宮、特給賀茂久仁二里、戸稲三千束、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 岡田鴨神社 大月次新嘗について 所在は゛木津川東賀茂郷北村にあり、賀茂明神といふ、゛〈現 岡田鴨神社(木津川市加茂町北鴨村)〉と記しています
【抜粋意訳】
岡田鴨神社
今 木津川東賀茂郷北村にあり、賀茂明神といふ、〔山城名勝志、山城志、神名帳考證、〕
盖 賀茂建角身命を祀る、昔建角身命、神日本磐余彦天皇の御前に立て、山代國岡田の賀茂に至坐き、即此地なり、〔釋日本紀、本朝月令、〕
清和天皇貞観元年正月甲申、從五位下、岡田鴨神に從五位上を授け、〔三代實録〕
醍醐天皇 延喜の制、大社に列り、月次新嘗祈年案上の祭に預る、〔延喜式〕
凡 每年四月初酉日、祭を行ふ、〔式社考證〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 岡田鴨神社 大月次新嘗について 所在は゛賀茂郷北村(相楽郡加茂村大字北)゛〈現 岡田鴨神社(木津川市加茂町北鴨村)〉と記しています
【抜粋意訳】
岡田鴨(ヲカタノカモノ)神社 大月次新嘗
祭神 賀茂建角身(カモタケツヌミノ)命
今按 釋日本紀に引る山城風土記に賀茂建角身命天降りて白に日向ノ曾之峰爲に神倭石余比古之御前立て坐して而宿に坐大倭の葛木山ノ之峰自 彼漸遷至に山代國岡田之賀茂とあるが如く此岡田之賀茂に坐る故 實によりて祭れる神社なること著し
神位 清和天皇貞観元年正月二十七日甲申奉 授に山城國從五位下 岡田鴨神從五位上
祭日 四月初酉日 九月十五日
社格 郷社
所在 賀茂郷北村(相楽郡加茂村大字北)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇京都府 山城國 相樂郡加茂村北天満宮境内
府社 岡田鴨(ヲカタカモノ)神社
祭神 建角身(タケツヌミノ)命
本社は創建年代詳ならず、其の舊記等は数度の洪水に流失して今傳はらず、
然れども三代實録に「清和天皇貞観元年正月甲申、從五位下岡田鴨神に從五位上を授く」と見え、
又 延喜式に醍醐天皇延喜の制大社に列し、月次新嘗祈年案上の祭に預る由記せり、
又神祇志料に、「今木津川東賀茂郷北村にあり、賀茂明神といふ〔山城名勝志、山城志、神名帳考証〕蓋賀茂健角身命を祀る、昔建角身命神日本磐余彦天皇の御前に立ちて、山代國岡田の賀茂に至り座き、即此地なり、〔釋日本紀、本朝月令〕とありて山城志亦此意を記す、」とあり、往古は壱町計乾の方に在りしを、後に今の地に遷せりと云ふ、
神社覈録に釈日本紀を引きて、曰く「山城風土記曰、賀茂大神御社称賀茂者、日向曾之高千穂峯天降坐神賀茂建角身命也、神倭磐余比古天皇之御前立上坐而、宿坐大倭葛木山之峰、自彼漸遷、至給山代国岡田之賀茂随山代河下坐、葛野河與賀茂河所会至坐云々」又曰く 和銅元年九月庚辰、行幸山背国相楽郡岡田離宮、特給賀茂久仁二里、戸稲三千束」とあり、かの夫木集に「山城の此都をや守りなむ岡田の鴨に跡たれしより」(行家)と見ゆるなど、古來史籍に著し、六月延喜式内岡田鴨神社と決定す。
【原文参照】