椎根津彦神社(大分市佐賀関)

椎根津彦神社(しいねつひこじんしゃ)は 住古 神武天皇は 東征の途 豊國 早吸の門に到りし時 海上に釣垂れていた賤しからぬ人品の男 珍彦(うずひこ)〈国津神〉に水先案内を仰付け 椎根津彦(しひねつひこ)の名を下した 以来 命は功をたてて論功行賞の恩典として 初代 大和國造となった 里人は かくの如き祖先を輩出した郷土の誇りとして 小祠を祀りて奉った

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

椎根津彦神社(Shiinetsuhiko shrine

通称名(Common name)

珍宮(うづのみや)

【鎮座地 (Location) 

大分県大分市佐賀関1812

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》椎根津彦命(しいねつひこのみこと

《配》武位起命(たけいこのみこと)
   稻飯命(いなひのみこと)
   祥持姫命(さかもつひめのみこと)
   稚草根命(わかかやねのみこと)

合祀の神は 天孫の子孫です
・武位起命(たけいこのみこと)は 彦火々出見命(ひこほほでみのもこと)の御子、鵜草葦不合尊(うがやふきあえずのみこと)の御昆弟で椎根津彦命の御父
・稻飯命(いなひのみこと)は 鵜草葦不合尊の御子で 神武天皇の御兄
・祥持姫命(さかもつひめのみこと)は 椎根津彦命の御姉で稻飯命の御妃
・稚草根命(わかかやねのみこと)は 稻飯命、祥持姫命の御子と伝えられ

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【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

椎根津彦神社 由緒

祭神
 椎根津彦命(しいねつひこのみこと)

合祀
 武位起命(たけいこのみこと)
 稻飯命(いなひのみこと)
 祥持姫命(さかもつひめのみこと)
 稚草根命(わかかやねのみこと)

由緒
 神武天皇は、大歳甲寅(きのえとら)(西暦紀元前六六七年前)東遷の為、日向国を出発せられ その年の十月、当地 速吸の瀬戸に於いて、珍彦(うずひこ)命の奉迎を受け、命に御名を椎根津彦と賜わる。

 椎根津彦命は当地より、水先案内として皇軍に従軍し、屡々勲功をたて、建国の偉業達成の為に盡瘁せられた。

 皇紀二年(西暦紀元前六五九年)春二月、天皇は論功行賞を行ない、椎根津彦命を倭国造(やまとのくにのみやつこ)に任ぜられた。(日本書紀)これを伝え聞いた当地の里人たちが、小祠を建てて命を祀ったものがその創祀と伝えられる。

慶長五年(西暦1600年)兵火により社殿焼失
元禄三年(西暦1690年)総庄屋関久右衛門、社殿再建
寛延元年(西暦1748年)総庄屋関弥平太、東町別当役牛窓屋喜右衛門、大工頭領佐藤甚八に依頼し、その規模を整える。
寛政元年(西暦1789年)牛窓屋久右衛門 社殿再建
明治六年 県社に列せられ、社名、珍宮(うずみや)を椎根津彦神社と改称
明治十二年 神殿、拝殿造営
大正二年 拝殿改築
昭和九年 神輿大修理、社務所新築
昭和十二年 神幸所新築
昭和二十六年 台風の為、申殿、渡殿倒壊
昭和二十七年 申殿、渡殿再建
昭和二十九年 飛火の為、神殿焼失
昭和三十年 神殿再建
昭和三十六年 神輿大修理
昭和三十九年 神幸所改築
昭和四十五年 拝殿改築、神幸所増築、境内参道整備工事を行い今日に及ぶ。

 合祀の
・武位起命(たけいこのみこと)は 彦火々出見命(ひこほほでみのもこと)の御子、鵜草葦不合尊(うがやふきあえずのみこと)の御昆弟で椎根津彦命の御父
・稻飯命(いなひのみこと)は 鵜草葦不合尊の御子で 神武天皇の御兄
・祥持姫命(さかもつひめのみこと)は 椎根津彦命の御姉で稻飯命の御妃
・稚草根命(わかかやねのみこと)は 稻飯命、祥持姫命の御子と伝えられ合祀の年代は詳らかでない。

境内地 一、一八八

祭日
 1月 1日 元旦祭
 2月 25日 祈年祭
 4月 24日 宵祭
 4月 25日 例祭、神幸祭
 4月 26日 還幸祭
 11月 25日 新嘗祭
毎月 25日 月次祭

拝殿内案内板より

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【由  (History)】

『地方経営小鑑』明44年〉に記される内容

佐賀關漁民の遠洋漁業と椎根津彦神社(しいねつひこじんしゃ)

【抜粋意訳】

一八八 佐賀關漁民の遠洋漁業と椎根津彦神社

 椎根津彦神社は大分縣北海部郡佐賀關に在り。
住古 神武天皇の親から舟師を率ゐて東征の途に上られ、豊の國 早吸の門に到り給ひし時、海路嚮導の任に當りたる此の地の漁夫
 珍彦(うずひこ)を祀れるものにして、此の地方人民の尊信殊に厚く、何れも古來斯の如き祖先を出だせるを以て 深かく誇りとなし、進取の風自から俗をなして、今尚ほ昔に渝(かわ)ることなし。
されば遠洋漁業の如きも、夙に此の地方に行はれ、安政の頃既に琉球對馬の方面にまでも出漁したるものありしといふ。殊に從來漁民の遠洋漁業に出でんとするや、一同先づ椎根津神社の祉頭に集まりて、航海の安全を祈り、其の無事帰港するや、直ちに詣で、祝盃を社前に挙ぐるを例とせり。

漁民は一般に勤勉にして何れも多少の蓄財を有せざるなく、又能く協心團結の念に富み、漁船、漁具の改良、相互救済並資金融通の方法亦夙に講ぜられ、納税の如き嘗て其の期に後るるものなしといふ。

【原文参照】

内務省地方局 編『地方経営小鑑』,報徳会,明44.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/784668

由緒

創立不詳。
『日本書紀』によれば、神武天皇は、大歳甲寅(西紀元前667)御東遷のため日向国を出発。その年の10月、当地速吸の瀬戸において珍彦命の奉迎を受けられ、御名を椎根津彦と賜わる。これから椎根津彦は、水先案内として皇軍に従軍し、しばしば勲功をたて建国の偉業が達成された翌年(西紀元前659)春2月、天皇は論功行賞を行ない椎根津彦命を倭国造に任ぜられた。これを伝え聞いた里人らが、小祠を建てて命を祀ったものがその創祀と伝えられる。
その後、しかるべき神社の荘厳を備えてきたものと思われるが、1600年(慶長5)、兵火により焼失、1690年(元禄3)、総庄屋関弥平太、東町別当役牛窓屋喜右衛門、大工頭領佐藤甚八に依頼し、その規模を整え、1789年(寛政元)、牛窓屋久右衛門再建。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

『大分縣案内』1926年〉に記される内容

【抜粋意訳】

縣社 椎根津彦神社

 佐賀町下浦に在り、椎根津彦命一つに神知津彦命又は珍彦(うずひこ)と稱し、彦火々出見尊の曾孫にましませり、神武天皇を奉迎して 水路の嚮導をなし奉りし事蹟は 載せて日本紀にあり、下浦港を下瞰する處、形勝を占むるー宇は即ち 當年の功臣珍彦命を奉祀するものにして舟具を神體と爲せり。

【原文参照】

『大分縣案内』,大分縣知事官房,1926.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1900431

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・本殿

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・本殿・渡殿

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・拝殿

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・稲荷社

《主》保食神,大国主命,須佐之男命,事代主命

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・鳥居

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・参道石段

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・社号標〈参道入口〉

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

椎根津彦神社創建は 伝承によれば 初代天皇 神武天皇の御代

由緒には
 神武天皇は、大歳甲寅(きのえとら)(西暦紀元前六六七年前)東遷の為、日向国を出発せられ その年の十月、当地 速吸の瀬戸に於いて、珍彦(うずひこ)命の奉迎を受け、命に御名を椎根津彦と賜わる。
 椎根津彦命は当地より、水先案内として皇軍に従軍し、屡々勲功をたて、建国の偉業達成の為に盡瘁せられた。
 皇紀二年(西暦紀元前六五九年)春二月、天皇は論功行賞を行ない、椎根津彦命を倭国造(やまとのくにのみやつこ)に任ぜられた。(日本書紀)これを伝え聞いた当地の里人たちが、小祠を建てて命を祀ったものがその創祀と伝えられる。

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『記紀神話』に残る 御祭神 椎根津彦命の伝承について

海人としての性格が濃厚 ウミガメの背に乗って 釣りをしながら近づいて来てくる その時「羽挙り」という行動についても 単に袖を振ったというだけではなく 海人の船脚の速さの象徴としての鳥「羽挙り」とする説 海人の習俗としての鳥装シャーマン「羽挙り」とする説などがあります

『記紀神話』では どちらも 神武天皇から 名を授かっています
『古事記』では 槁根津日子(サオネツヒコ)
『日本書紀』では 椎根津彦(シヒネツヒコ)

『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承

御祭神 椎根津彦命について 神武天皇が水先案内人として 槁機(サオ)をさし渡して 御船に引き入れて 槁根津日子(サオネツヒコ)という名を授けた この 倭国造(ヤマトノクニノミヤツコ)などの先祖 と記しています

【抜粋意訳】

神武東征の段 速吸門(ハヤスイノト)

 その國から上り おいでになる時 亀の甲(カメノセ)に乘つて 釣をしながら袖を振って来る人に 速吸門(ハヤスイノト)で遇いました
そこで呼び寄せて、「お前は誰か」とお尋ねになりますと「わたくしは国津神(クニツカミ)です」と申しました
また「汝は 海の道を知つているか」とお尋ねになりますと「よく知つております」と申しました
また「わたしたちに従い 仕え奉るか?」と問いましたところ「お仕え致しましよう」と申しました

そこで槁機(サオ)をさし渡して 御船に引き入れて 槁根津日子(サオネツヒコ)という名を授けました

この 倭国造(ヤマトノクニノミヤツコ)などの先祖です

【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承

御祭神 椎根津彦命について 神武天皇が水先案内人として 椎(しひ)の木の(さお)の末を渡し 皇船(ミフネ)に引き入れて 椎根津彦(シヒネツヒコ)という名を授けた この 倭直部(ヤマトアタイ)の始祖(ハジメノオヤ) と記しています

【抜粋意訳】

神武東征の段 速吸之門(ハヤスイノト)

その年(太歳甲寅)冬十月五日 天皇は自ら 諸皇子と舟師を率い 東征に向われた

速吸之門(ハヤスイノト)〈豊予海峡至った時 一人の漁人(アマ)が小舟に乗って

天皇(スメラミコト)は 呼びよせて お尋ねになられた「お前は誰か」
答えて「私は 國津神です 珍彦ウズヒコと申します 曲浦(ワニノウラ)で魚をっております 天神子(アマツカミノミコ)がおいでになると聞いて お迎えに参りました」

天皇が また尋ね「お前は 私のために道案内をしてくれるか」
答えて「御案内しましょう」
天皇は命じて 椎(しひ)の木の(さお)の末を渡し 皇船(ミフネ)に招いた そして海の導者(先導)とした そこで特に名を賜り 椎根津彦(シヒネツヒコ)とされた 

椎(しひ)は「辭毗(シヒ)」と読みます

これが 倭直部(ヤマトアタイ)の始祖(ハジメノオヤ)です

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

神武天皇の東征に関わる 速吸ノ門(はやすひみなと)と佐賀關(さがのせき) について

速吸門は 『記紀神話』の文脈からすると その地理的な位置は
『古事記』に従えば゛明石海峡゛゛吉備国の児島湾口゛
『日本書紀』に従えば゛豊予海峡゛
に比定されています

『神武天皇鳳蹟志』昭12年〉に記される内容

椎根津彦命の登場する『記紀神話』の神武天皇の東征 場面について 解説を記し 大和國の国造となったこと その祀られている神社〈・椎根津彦神社(宇佐神宮の境外末社)・保久良神社(神戸市東灘区本山町)〉について記しています

【抜粋意訳】

速吸ノ門と佐賀關

 速吸ノ門(はやすひみなと)は所謂 豊豫海峽である。西に豊後の海部(あまべ)半島と伊豫の佐田岬とが相對し、豊豫要塞地帶として、南日本の國防には、重要なる關門とされてをる。

 御東遷の御道筋について、日本書紀と古事記との記載は、相前後して居るが、海部半島の東端に位する佐賀關町大字關字須賀の日向泊といふのに、昔 大御舟を繋がせられたといふ「暴風礁(しけべえ)」なる嚴や、御入港の際の神話と傳へる縣社 早吸日女神社、或は下關浦に椎根津彦神社といふのがある。

 卽ち暴風礁(しけべえ)は、當時附近の海上を御通航の砌、風波が荒れて難を此の浦に避けたまうた御遺跡であり、早吸日女神社は、速吸ノ門の名の由って來たった神の名であらう。

 佐賀關の日向泊は、日豊線幸崎驛から東方へ約二里半、省営自動車が驛と早吸日女神社の社頭との間と連絡し、暴風礁の 鳳蹟を傳ふる巖も、神社に近い箇所に住るが、佐賀關精鍊所の構内となって、附近の海濱が埋立てられた爲、由緒ある暴風礁も、工場地内となって、浪打つ濱に汐を浴びてゐた、往時の面影はなくなってしまった。

 また早吸日女神社の緣起といふのは斯うである。
 日向泊の此の浦に、昔 天皇が 大御舟を著け給うた時の御事、適適 海中に怪光を放つものがあったので、此の海岸の黒ヶ濱に住む黒砂(いさご)といふ女神と、白ヶ濱に住む眞砂(まさご)といふ姉妹の女神とが、海底に潜(くぐ)って怪物の正體を御窮めになった。所が一匹の大きな章魚(たこ)が、霊劍を抱いて蹲まってゐたので、黒砂、眞砂の姉妹神が、早速御討取になって、其の實劍を奪ひ、其れと 天皇に上(たてまつ)られた。其の實劍が、 伊努諾尊の御物であったといふのである。

 是れが其の話の筋で、黒砂、眞砂を祭神として齋ぎ祀ったのが同社である。要するに御東遷の途上に於て、尊い劍(みつるぎ)を捧げ、忠誠を表した浦人がゐたと解すべきであらう。 伊拜諾尊の御物を、當然其の主たるべき 皇孫に返し奉るべきものであるとの、崇高な信念を神話に假託したものであると見るべきではあるまいか。

 現に 御東遷に關して記した記・紀の記事中、何れも其の御道中に於て、遠來の 皇師(みいくさ)と喜び迎へ、恭順の赤心を 天皇に捧げ、よく 天業恢弘の洪猷を翼賛し奉った者の事績を揭げてをる。就中 速吸ノ門の椎根津彦命に就いての物語は、共の代表的なものである。

椎根津彦命

 初め 神武天皇が、速吸ノ門(はやすひみなと)に御差掛りになると、そこに賤しからぬ人品の男が、海上に釣と垂れてをった。

 當時は世態がまだ開けない時代のことであるから、高貴の御方々の御日常も、萬事質素に渡らせられ、民草との御接触もいと御氣軽にあそばされてゐらせられた御模樣で、記•紀の記述を綜合すると、次の樣な御問答が交はされたのであった。
 勿論、釣してをる男は、次第に 大御舟が近づくと共に垂れた糸をも上げて、奉迎の態度をとってゐたに相違ない。
「汝(なんじ)は誰(たれ)ぢや」
斯う 玉の御聲がかかると、其の男は恐懼して、
「自分は此の浦に住む名と珍彦(うづひこ)と申す者で御座います。天神の御子(あまつかみのみこ)が御通航あそばすと承(うけたまは)り、今かいまかとかうして釣をしながら、御待ち申上げてゐた次第であります。」
そこで天皇には重ねて、
「然らば汝(いまし)は此の附近の航路をもよく知ってをるであらう ?」
と御下問になると、珍彦は卽座に次の如く奉答した。
「それはよく存じてをります。」

天皇又
「では、此れから一行に加はって忠勤を励むか、どうぢや」
よって 天皇は珍彦の忠誠を嘉みしたまひ、お側の天日鷲命に命じて、椎の木の舟棹の末を、珍彦の舟に差渡させ、 大御舟の内に牽入れて、水先案内を仰付になった。さうして特に椎根津彦(しひねつひこ)の名を下し給うた。

爾來、椎根津彦は 天皇に御仕へ申して 皇師(みいくさ)の嚮導(きゃうだう)となり、大和に入って奇略を用ゐて賊を破り、功をたてて論功行賞の恩典に浴し、大和の國造(くにつこ)ともなったが、現在 佐賀關町の下關浦に、其の霊を祀った縣社 椎根津彦神社が在る。

尚又、當時最初に御案内申した豊後の宇佐に、椎根津彦命を祀る椎ノ宮や、攝津に祭神と仰ぐ保久良神社等が鎭座になってをる事は、 御東遷の順路を辿る上に於ても、参考となるべきものであらう。

【原文参照】

国府犀東 著『神武天皇鳳蹟志』,春秋社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1220648

国府犀東 著『神武天皇鳳蹟志』,春秋社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1220648

国府犀東 著『神武天皇鳳蹟志』,春秋社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1220648

神武天皇の東征に関わる 速吸ノ門と佐賀關の神社について

椎根津彦(しいねつひこ)神社(大分市佐賀関)

・椎根津彦神社(大分市佐賀関)

延喜式内社 豊後国 海部郡 早吸日女神社(はやすひめの かみのやしろ)の論社について

・早吸日女神社(大分市佐賀関)

・六柱神社(大分市佐賀関)
〈早吸日女神社の旧鎮座地〉

神武天皇の東征に関わる 椎根津彦命の祀られる神社について

・椎根津彦神社(宇佐神宮の境外末社)

・保久良神社(神戸市東灘区本山町)
〈保久良神社の南 神戸市東灘区の青木(おうぎ)の浜に青亀(おうぎ)の背にのって椎根津彦命が この浜に漂着したという伝承があり それが青木(おうぎ)の地名の由来〉
 式内社 攝津國 保久良神社(鍬靫)(ほくらの かみのやしろ)

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR日豊本線 佐志生駅からR217号経由で海岸線を北東へ約13.7km 佐賀関へ向かい車で25分程度

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佐志生(さしう)の黒島を眺めながら北上します

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佐賀関の南東に位置する蔦島と椎根津彦神社(大分市佐賀関)の鎮座する下関浦が見えてきました

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佐賀関に入り 一旦 北側の金山港の方から南下しました

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参道の入口は 昔懐かしい漁村の雰囲気が漂う 住宅街の中にあります
目印として 大正十五年に建てられた社号標があります

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細い路地を進むと 参道の石段があります

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鳥居が建ち 社殿が見えてきました

椎根津彦神社(大分市佐賀関)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐり

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿内からは 先程見えていた 佐賀関の南東に位置する蔦島が 眼下の正面に見えています

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拝殿内には 由緒書きが掲げられています

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コンクリート製の拝殿の奥には 木製の渡り殿と本殿が祀られています

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社殿に一礼をして 参道の石段を下ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

椎根津彦神社(大分市佐賀関)ついて 記紀神話の神武天皇の東征 速吸之門(ハヤスイノト)の段を記しています

【抜粋意訳】

〇大分縣 豊後國 北海部郡佐賀町大字

縣社 椎根津彦(シヒネツヒコノ)神社

祭神 椎根津彦(シヒネツヒコノ)命

創立年月詳ならず、蓋古祠なり、豊後国志に、「珍彦祠 在に佐賀郷下浦、祭に椎根津彦命、乃珍彦命也、珍讀訓に宇津、故 土人誤曰に宇津宮、此祠祭に舟具、爲に神體、
按、日本紀神武紀曰、
天皇帥に諸皇子、東征、至に速吸之門、有に一漁人、乘に艇而至、天皇問之、對、臣足國神、名曰に珍彦、釣に魚於曲浦、聞に天神之子來、故奉迎、天皇勅、授に漁人椎篙末、令執而牽納に於皇舟、以爲に海導者、乃特賜名、爲に椎根津彥(椎、此云辭毗)、是倭直部始祖也、是也」

※上記の日本書紀 神武天皇巻の意訳

 天皇(スメラミコト)は自ら 諸皇子と舟軍を率いて、東征に向われた まず、速吸之門(ハヤスイノト)に至り 一人の漁人(アマ)が小舟に乗っていました
天皇はこの漁人を呼び寄せ尋ねました「お前は誰か?」
答えて云う「わたしは 国津神 名は珍彦(ウズヒコ)といいます 曲浦(ワニノウラ)で魚を釣っております 天神子(アマツカミノミコ)が来られると聞いて お迎えに参りました」

また天皇は尋ね「お前は 私を案内できるか」
答えて云う「案内いたしましょう」
天皇は命じて 椎(しひ)の木の(さお)の末を渡し 皇船(ミフネ)に招いた そして海の導者(先導)とした そこで特に名を賜り 椎根津彦(シヒネツヒコ)とされた 

椎(しひ)は「辭毗(シヒ)」と読みます

これが 倭直部(ヤマトアタイ)の始祖(ハジメノオヤ)です

見えた曲浦は此地一帯の舊稱なること諸書定説り、

尚太宰管内志に據るに、「名義・延喜式に早吸比女神社とある此神の御名に因て負せたるべし、さて龜山随筆には此の門に潮の通ふ時は、湧き出づるが如く又吸ひこむが如くなりと云、されば速吸の名は地名を元にて神の御名にも負せたるべしとも云りき云々」
とあり、即ち早吸比咩神社は上浦、當社は下浦なれば、此地に此神と祀り來れること所以なきにあらず、社記は「關村地主の尊神にして、土人往古より崇祀怠らず」と記せり、明治六年縣社に列す。
社殿は本殿、祝詞殿、渡殿、拜殿等にして、境内三百六十九坪 (官有地第一種)あり。

境内神社 稲荷神社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』下,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088313

椎根津彦神社(大分市佐賀関) (hai)」(90度のお辞儀)

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豊後国 式内社 6座(大1座・小5座)について に戻る

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

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