久我神社(こがじんじゃ)は 創建について 神社の旧記によれば 桓武天皇が山背長岡に遷都された延暦3年頃(784)王城の艮角の守護神として御鎮座とあり 一説には往古 山背久我国造として 北山城一帯に蟠踞した久我氏の祖神 興我萬代繼神『三代実録』を祀ったとされる 延喜式内社 山城國 乙訓郡 久何神社(くかの かみのやしろ)です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
久我神社(Koga shrine)
【通称名(Common name)】
・森の明神(もりのみょうじん)
【鎮座地 (Location) 】
京都府京都市伏見区久我森の宮町8−1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》建角身命(たけつぬみのみこと)
玉依比賣命(たまよりひめのみこと)
別雷神(わけいかづちのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
当社は八世紀末平安遷都に先立ち桓武天皇が山背長岡に遷都された頃(七八四年延暦三年)、王城の艮角の守護神として御鎮座になったものと伝えられる由緒深い延喜式内社である。
別雷神・建角身命・玉依比賣命の三柱を御祭神とし賀茂両社と同体であり、古来鴨森大明神とも号し久我の郷人をはじめ諸人の平和安全方除け発展を守護する神として御神徳が厚い。
また久我の杜といって久我の渡りと共に歌にもよまれている。
木々にはふ つた紅葉せり 久我の杜
淀のわたりや 時雨しつらむ例祭 四月上旬
私祭 五月上旬現地案内板より
【由 緒 (History)】
延喜式内社(えんぎしきないしゃ) 久我神社(こがじんじゃ)
当神社は、延喜式の神名帳(じんみょうちょう)に載せられた「延喜式内社」であり、京都における最古の神社の一つである。御祭神は建角身命(たけつぬみのみこと)・玉依比賣命(たまよりひめのみこと)・別雷神(わけいかづちのかみ)の三柱で、上賀茂(かみがも)神社・下鴨(しもがも)神社と御同神である。
久我(こが)の地では、当地におられた玉依比賣命に西の方から丹塗矢(にぬりや)が飛んできて当たり、身ごもられ、この地で別雷神がお生まれになったと伝えられており、賀茂伝説(かもでんせつ)のふるさとの地でもある。また、古来当社の森は「久我の杜(こがのもり)」と称され、和歌にも多く詠まれるなど、非常に名高い。
御鎮座(ごちんざ)は、古代豪族の久我(こが)氏(中世貴族の久我家(こがけ)とは別)が自らの祖神を祀ったのが起こりで、その後この地に進出してきた賀茂(かも)氏が久我氏に代わって自らの祖先神を祀るようになったのではないかと考えられている。長岡京時代には、都の北東の守護として崇拝された。また、江戸時代初期までは「願王寺(がんのうじ)」という神宮寺(じんぐうじ)が置かれ、社僧(しゃそう)が祭祀(さいし)を司っていたが、この寺が断絶の後は村の寺が年番(ねんばん)を作り守護してきた。このような由来により、今日なお神仏習合(しんぶつしゅうごう)時代を彷彿とさせる貴重な神事も残されている。
京都市
現地案内板より
由緒
神社の旧記によれば、八世紀末、平安遷都に先立ち、桓武天皇が山背長岡に遷都された延暦3年(784)頃、王城の艮角の守護神として御鎮座になった(秘伝神書抄)と伝えられ、以来1200年の星霜を経た延喜式内社であり、久何神社とも号する。一説には当社は往古、山背久我国造として、北山城一帯に蟠踞した久我氏の祖神、興我萬代継神(三代実録)を祀った、本市における最も古い神社の一つであり、久我氏の衰頽後、賀茂氏がこれに代わってその始神を祀ったのではないか。
また、他の説では、起源は古く、平安・長岡遷都以前に遡り、「山城国風土記」逸文に云う賀茂氏が大和から木津川を経て、この久我国(葛野乙訓にわたる地方の古称)の伏見地方に居をすえ、祖神を祀ったのが、当久我神社であり、更に賀茂川を北上して今の賀茂の地に鎮まったと考えられる。と。
これらの事から、いずれにしても、歴史的に頗る深い由緒と信仰の跡を偲ぶことができるのである。尚、興味あることとして当地方の西の方(乙訓座火雷神)から丹塗矢が当社(玉依比売命)にとんできて、やがて別雷神が生まれられたとも、此の里では伝承されている。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
京都市登録有形文化財
久我神社本殿
久我神社(こがしんじゃ)は延喜式神名帳の久何神社とみられ、江戸時代には森大明神とも呼ばれていた。祭神は別雷神・建角身神・玉依比売神の三座である。
現在の本殿は天明四年(一七八四)の再建である。棟札(むなふだ)によると、大工棟梁は小嶋弥惣太源久清であるが、弥惣太が幼年のため、播磨の宗左衛門と利兵衛が肝煎(きもいり)として造営に携わっている。
建物は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で、切石積み基壇上に建つ。身舎(もや)内部は内陣と外陣に分かれている。妻飾(つまかざり)は虹梁大瓶束(こうりょうたいへいづか)で、密集した葉を彫刻した笈形(おいがた)が付く。この地域の建物としては、妻飾などの彫刻がやや派手であるが、これは播磨の大工が造営に関与していることによるとみられる。
この本殿は造営棟札の他に普請願書の控えや板製の建地割図など造営に関する史料がよく残っており、建築年代は明らかである。播磨の大工の関与が認められる比較的規模の大きな社殿で、保存状態も良好である。
平成二十年四月一日登録 京都市
現地立札より
・〈本殿向かって右の境内社〉奥から・天満宮・八幡宮・清正公社
・〈本殿向かって左の境内社〉奥から・春日神社・稲荷神社
・割拝殿
・手水舎
・大井手川・森乃そり橋
・鳥居・参道
・〈鳥居横の境内社〉歯神社《主》天神立命
・社頭
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
興我萬代繼神(こがのましろつづきのかみ)として 神階が授けられています
【抜粋意訳】
卷十三 貞觀八年(八六六)八月八日庚辰
○丙戌十四日 授に 山城國 正六位上 興我(コガ)萬代繼神に 從五位下を
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷二十五 貞觀十六年(八七四)閏四月乙丑七日
○乙丑七日 山城國正四位上稻荷上中下三名神並奉授從三位
告文曰。天皇〈我〉詔旨〈止〉。稻荷神〈乃〉前〈爾〉申賜〈部止〉申〈久〉。京都〈爾〉近〈之天〉。公私〈爾〉崇仰〈禮〉坐〈須〉御徳高〈支爾〉御冠猶卑〈爾〉依〈利天奈毛〉。殊〈爾〉有所念行〈天〉。從三位〈乃〉御冠〈爾〉上奉〈利〉崇奉〈流〉。此状〈乎〉神祇大副從五位下大中臣朝臣有本〈乎〉差使〈天〉。御位記〈乎〉令捧持〈天〉申奉出〈須〉。神〈奈可良毛〉聞食〈天〉。天皇朝廷〈乎〉寳祚無動〈久〉常磐堅磐〈爾〉護幸〈倍〉奉賜〈比〉。天下平安〈爾之天〉。水旱之災。疫癘之憂無聞〈久〉。風雨順時〈比〉。五穀豐登〈世之女〉給〈波々〉。彌高彌廣〈爾〉榮餝〈利〉崇奉〈无止〉申賜〈波止久〉申。』
授に 山城國 從五位下 興我萬代繼神に 從五位上を
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)乙訓郡 19座(大5座・小14座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 久何神社
[ふ り が な ](くかの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kuka no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
上賀茂神社・下鴨神社について
往昔は 賀茂氏(かもうじ)の氏神を祀る 二つで 一つの神社として 賀茂社(賀茂神社)と総称していまた
二社は それぞれ・上賀茂神社を「上社」・下鴨神社を「下社」と呼ばれます
両社の御神紋 ゛葵(二葉葵)゛
二葉葵が神紋となっているのは 賀茂別雷神の御神託「葵を飾って祭りをせよ」があり 賀茂別雷神が 神山(こうやま)の頂上にある磐座(いわくら)にご降臨されたと伝わる事に依ります
賀茂祭が 葵祭と云われるのもこの為です
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂別雷神社 亦若雷 名神大〈上賀茂神社〉
・〈上賀茂神社〉賀茂別雷神社(京都市)
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂御祖神社二座 並名神大〈下鴨神社〉
・〈下鴨神社〉賀茂御祖神社(京都市)
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『山城國風土記逸文』゛上賀茂・下鴨の両神社の御祭神゛にまつわる伝承
神武天皇東征の際に道案内をした
八咫烏(やたがらす〈三本足のカラス〉)は 賀茂建角身命とされます
賀茂建角身命は はじめ日向の曽の峰に天降ったが 神武天皇の東征の先導役として倭の葛城山に至った
そこから〈大和の葛城山〉から 更に山背〈山城国〉に移り 岡田の賀茂に至った
〈これが現在の岡田鴨神社の辺り〉
延喜式内社 山城國 相樂郡 岡田鴨神社(大 月次 新嘗)(をかたかもの かみのやしろ)
・岡田鴨神社(木津川市加茂町北鴨村)
賀茂建角身命は さらに 山代河〈木津川〉沿いを下り進んで 鴨川と桂川(葛野川)が合流する所に到った
〈これが現在の久我神社(京都市伏見区久我森の宮町)の辺り〉
延喜式内社 山城國 乙訓郡 久何神社(くかの かみのやしろ)
・久我神社(京都市伏見区久我森の宮町)
賀茂建角身命は 賀茂河を御覧になり「狭い川だが清浄な川である」と言って「石川の瀬見の小川」と名付けた
〈合流地点は 現在の下鴨神社の辺り〉
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂御祖神社二座 並名神大〈下鴨神社〉
・〈下鴨神社〉賀茂御祖神社(京都市)
賀茂建角身命は さらに鴨川を遡り
久我國(くがのくに)の 北の山基(やまもと)に定(しづ)まり その地に鎮座した
賀茂建角身命は 丹波国の神野の神 伊可古夜日売(いかこやひめ)を娶って 兄の玉依日子と妹の玉依日売が生まれた
賀茂建角身の娘・玉依媛命が 「石川の瀬見の小川」の上流で 流れてきた丹塗りの矢を拾って持ち帰り 床の辺に挿しておくと懐妊し 御子〈賀茂別雷命〉を出産した
やがて御子〈賀茂別雷命〉が成長した時 祖父の賀茂建角身命が 八尋屋(やひろや)を造り 八戸の扉をたて 八腹の酒を醸し 神々を集めて7日7夜の酒宴を開いた
この時 祖父である建角身命が 御子に゛汝の父と思う神にこの酒を飲ませよ゛と命じると その御子〈賀茂別雷命〉は 盃をささげて天に向けて祭り 屋根の甍を突き抜けて天に昇ってしまった
〈現在の久我神社(京都市北区紫竹下竹殿町)の辺り〉
延喜式内社 山城國 愛宕郡 久我神社(こが/くが の かみのやしろ)
・久我神社(京都市北区紫竹下竹殿町)
このことから御子神は 外祖父の御名によって賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)と名づけられた 丹塗りの矢〈即ち父神〉とは 乙訓神社の火雷神(ほのいかづちのかみ)であったと云う
延喜式内社 山城國 乙訓郡 乙訓坐 大(火)雷神社(名神大 月次 新嘗)(をとくににます おほいかつち(ほのいかつち)の かみのやしろ)の論社
・角宮神社(長岡京市井ノ内南内畑)
・向日神社(向日市向日町北山)
〈向日神社に合祀の火雷神社〉
・菱妻神社(京都市南区久世築山町)
御子神が天に昇り 残された賀茂建角身命 賀茂玉依比売命が再び御子に会いたいと乞い願っていたある夜 賀茂玉依比売命の夢枕に御子が顕れ 「吾れに逢はんとは 天羽衣•天羽裳を造り 火を炬き鉢を捧げ 又走馬を餅り 奥山の賢木を採りて阿礼に立て 種々の絲色を垂で また葵楓の蔓を造り 厳しく餅りて吾をまたば来む」とのお告げを聞き その御神託に従って神迎の祭をしたところ 立派な成人のお姿となり 天より神として神山に御降臨されたと伝わります
〈これが現在の上賀茂神社の創建〉
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂別雷神社(亦 若雷・名神大 月次 相嘗 新嘗)(かもわけいかつちの かみのやしろ)
・賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市)
又 蓼倉里(たでくらのさと)三井社(みゐのやしろ) というのは 三身の神を祀る
その三柱は
・賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)
・丹波の伊可古夜日賣(いかこやひめ)
・玉依日賣(たまよりひめ)
この三柱神が 坐(まします)故に 三身社(みみのやしろ)と号(なづく) 今は三井社と云う
〈これが現在の三井社の創建〉
延喜式内社 山城國 愛宕郡 三井神社(名神大 月次 新嘗)(みゐの かみのやしろ)の論社
・三井社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社 境内〉
・三井社(三塚社)
〈下鴨神社の 境内に鎮座する 河合神社の境内社〉
『釈日本紀(shaku nihongi)〈文永元年(1264)~正安3年(1301)〉』に記される伝承
『釈日本紀 巻九』に『山城國風土記逸文』が所引されています
【抜粋意訳】
巻九
山城國風土記(やましろのくに ふどき)に曰(いは)く
可茂社(かものやしろ)
可茂(かも)と稱(いふ)は 日向(ひむか)の曾峯(そのたけ)に 天降(あもり)坐神(まししかみ)賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)なり
神倭石余比古(かむやまといはれひこ〈神武天皇〉)の御前(みさき)に立坐(たちまして)
大倭(やまと)の葛木山之峯(かづらきやまのみね)に宿坐(やどりまし)彼(そこ)より 漸(よふやく)に遷(うつ)り
山代國(やましろのくに)の「岡田の賀茂」に至りたまひ 山代河〈木津川〉の隨下(まにまにくだり)まして 葛野河(かどのがは〈桂川〉)と賀茂河(かもかは)との會所(あふところ)に至坐(いたりまし)
賀茂川を見迥(はる)かして 言(の)りたまう「狹小(さく)あれども 石川の淸川(すみかは)なり」とのりたまう 仍名(よりてなづけて)曰(いは)く 石川の瀬見(せみ)の小川と曰(いふ)彼川(そのかは)より 上坐(のぼりまして)久我國(くがのくに)の北の山基(やまもと)に定(しづ)まりましき
爾時(そのとき)より 名を賀茂と曰(いふ)賀茂建角身命 丹波國(たにはのくに)の神野(かみの)の神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)に娶(あ)ひて 生子(うみませるみこ)の名は 玉依日子(たまよりひこ)と曰(いひ) 次を玉依日賣(たまよりひめ)と曰(いふ)
玉依日賣(たまよりひめ) 石川の瀬見の小川に川遊びし時 丹塗矢(にぬりや)が 川上より流下(ながれくだり) 乃(すなわ)ち取りて 床の邊(へ)に插置(さしおき) 遂に孕(はら)みて男子(をのこ)を生む
成人となる時に至り 外祖父(おほぢ)建角身命(たけつのみのみこと)は 八尋屋(やひろや)を造り 八戸扉(やとのとびら)を竪(たて) 八腹酒(やはらのさけ)を醸(か)み 神集(かむつどへ)集(つどへて)七日七夜(なぬかななよ)樂遊(うたげ)したまひ
然(しかして)子と語らひて 言(のり)たまひ「汝(いまし)の父と思はむ人に 此の酒を飮ましめよ」とのりたまへば 即(やが)て 酒坏(さかづき)を擧(ささげて)天(あめ)に向き祭(まつ)らむと為(おも)ひ 屋甍(やのいらか)を分穿(わけうがち)天(あめ)に升(のぼ)りき乃(すなはち)外祖父(おほぢ)の名に因(よ)りて 可茂別雷命(かもわけいかつちのみこと)と號(なづく)
謂(いはゆる)丹塗矢(にぬりや)は 乙訓郡(おとくにのこほり)の社(やしろ)に 坐(いませる)火雷神(ほのいかつちのかみ)なり
可茂建角身命(かもたけつのみのみこと)丹波(たには)の伊可古夜日賣(いかこやひめ)玉依日賣(たまよりひめ)三柱(みはしら)の神は 蓼倉里(たでくらのさと)三井社(みゐのやしろ)に坐(います)
又曰(またいはく)
蓼倉里(たでくらのさと)三井社(みゐのやしろ)と稱(いふ)は 三身の神 賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)なり 丹波(たには)の伊可古夜日賣(いかこやひめ)玉依日賣(たまよりひめ)なり
三柱神が 坐(まします)故に 三身社と號(なづく)を 今漸くに三井社と云う
【原文参照】
この伝承について 更に知りたい方は
『賀茂注進雑記』釈注と口語訳素案 賀茂県主同族会歴史勉強会を参照されると良いと想います
http://www.kamoagatanushi.or.jp/Mitarashi/9/4.pdf
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
阪急京都線 西向日駅から東へ約4.3km 車11分程度
参道の入り口には 石灯籠が建っています
参道の正面が鎮守の杜です
久我神社(京都市伏見区久我森の宮町)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり抜けて参道を進みます
鳥居の扁額には゛久我神社゛と刻字があります
古社の趣きがあります
大井手川に架かる゛森乃そり橋゛と云う御神橋が架かり 橋を渡ると清まるのか
割拝殿へと進みます
割拝殿にすすみます
本殿にて
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内社にもお参りをして 参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 久何神社について 所在は゛下久我村に在す、今森明神と称す、゛〈現 久我神社(京都市伏見区久我森の宮町)〉と記しています
【抜粋意訳】
久何神社
久何は古賀と訓べし〔比保古に、兼永卿本に點せりと云り〕
○祭神 久我直祖神 歟
○下久我村に在す、今森明神と称す、〔山城志〕
例祭4月中巳日、〇旧事紀、〔天神本紀〕天神立命、山背、久我直等祖、」また天世手命、久我直等祖、
祭事記に、祭神 賀茂建角身命〔事見に愛宕郡久我社下〕と云り、
〔連胤〕按るに、愛宕郡 久我神社は建角身命なるべし、頭注に志かいひ、鴨社司祐之卿も伺じ説なれば從ふべしといヘども、当社をも同神とは定めがたし、恐らくは久我直の祖神なるべし、氏人
三代實録、元慶二年十二月、山城國 愛宕郡 小野郷人、勘解由次官 從五位下 小野朝臣当岑、改に本居貫に隷左京職、神位
三代實録、貞観八年八月十四日丙戌、授に山城國正六位上 興我萬代繼神 從五位下、同十六年閏四月七日乙丑、授に山城國 從五位下 興我萬代繼神 從五位上、〔連胤〕云、此神位は祭事記、山城志等に拠て爰に載す、比保古別社とす、猶考ふべし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 久何神社について 所在は゛下久我村 久我森に在り、森明神と云ふ、゛〈現 久我神社(京都市伏見区久我森の宮町)〉と記しています
【抜粋意訳】
久何(クカノ)神社
今 下久我村 久我森に在り、森明神と云ふ、〔山城名勝志、山城志、〕
盖 賀茂建角身命を祭る、〔参酌袖中鈔、延喜式大意、〕
〔〇按 久我村は桂川の邊にあり、永昌記に、桂川胡加邊とあり、今も久我を呼て こ我と云ふによる時は、式外に記せる興我萬代繼神、疑ふらくは 此 久我神にて、愛宕郡なる久我神を遷祭りしものなるへし、姑附て考に備ふ、〕毎年四月巳日祭を行ふ、〔山城志、山城名勝志、山城式社考、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 久何神社について 所在は゛下久我村 (乙訓郡久我村大字久我)゛〈現 久我神社(京都市伏見区久我森の宮町)〉と記しています
【抜粋意訳】
久何(コガノ)神社 稱 森明神
祭神 賀茂建角身(カモタケツヌミノ)命
今按 明細帳 祭神 賀茂建角命・玉依比賣命・鴨別雷命とあれど 主とある神は 賀茂建角命一座なること愛岩郡 久我神社の例に准へて知らるれば今は一座を記せり
神位 清和天皇 貞観八年八月十四日授に山城國正六位 興我(コガ)萬代繼神 從五位下 十六年閏四月七日授に山城國 興我萬代繼神に從五位上
今按 瀨見小河に此社 今乙訓郡 桂川の末の西而に久我村鴨川村とて並びたるが 其久我村を上下と分てる上久我に在て 菱妻明神と申す 村人の生土神として 毎年四月巳日に祭事を行ふ 此社の森を久我森と云とぞ 三代實錄に興我萬代繼神とみえたるは 此久我神にて 久我を興我とも稱へるなるべし
嘉承元年の永昌記に桂河 胡加(コガ)邊とあり 今久我と書けと こがと云り 既くより 久我をこがとも通はし唱へりしなり さて此乙訓郡の久我は愛宕郡なるとは別處にて 愛宕郡なる久我神をこゝにも徒し祭れるから地名ともなりたるべしと云るに據て 神位を此に記しぬ祭日 四月中巳日
社格 村社所在 下久我村 (乙訓郡久我村大字久我)
【原文参照】