益救神社(屋久島町宮之浦)

益救神社(やくじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載される 全国の式内社「2861の中で 最南端の屋久島に鎮座します 長い歴史を持ち 元々は屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものとも云われ 当神社の奥宮は 宮之浦岳の山頂に鎮座しています

目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

益救神社(Yaku Shrine)
(やくじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

・一品宝珠大権現いっぽんほうじゅだいごんげん
益救宮(すくひのみや)

【鎮座地 (Location) 

鹿児島県熊毛郡屋久島町宮之浦277

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天津日高彦火火出見尊(Amatsu hikohikohohodemi no mikoto)
《配》大山祇(Oyamatsumi no mikoto)
   木花開耶姫(Konohanasakuyahime no mikoto)
   塩土翁尊(Shiotsuchinokina no mikoto)
   豊玉彦(Toyotamahiko no mikoto)
   豊玉姫尊(Toyotamahime no mikoto)
   玉依姫(Tamayorihime no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

益救宮(すくひのみや)
「益々救われますように」
「今後もますます救ってくださる神様のお宮」

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

・ 多禰国一之宮

【創  (Beginning of history)】

創建年代は不詳

式内益救神社由緒記

御祭神: 天津日高彦火火出見尊
(山幸彦)

配祀:
大山祇尊 木花開耶姫尊
塩土翁尊 豊玉彦尊
豊玉姫尊 玉依姫尊

由 緒: 醍醐天皇の御代 約千百年前 勅名により国内の有名な神社を調べた台帳に登載された神社 三千百三十二座の中の一座で掖玖島(屋久島)に名神として益救神社が記載されております。是を式内社と言います。
益々救って下さる神様「救の宮」又 掖玖島が龍宮であるとして「一品宝珠大権現」として広く尊崇されております。
例 祭: 410
境内案内板より

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益救(やく)神社 由緒記

一、鎮座地 鹿児島県熊毛郡屋久島町宮之浦

 一、御祭神
本殿

天津日高彦火火出見尊(あまつひこひこほほでみのみこと)〈火遠理命 山幸彦
大山祇尊(おおやまずみのみこと)〈大山津見神〉
木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)
塩土翁尊(しおつちのおきなのみこと)〈塩推神〉
豊玉彦尊(とよたまひこのみこと)
豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)
玉依姫尊(たまよりひめのみこと)

境内社
奇盤牅尊(くしいわまどのみこと)
豊盤牅尊(とよいわまどのみこと)

一、由緒
益救(やく)神社は、天津日高火火出見尊を祭神として正祀(せいし)する神社であります。
火火出見尊と申し上げる神様は、皇室の御系図でいえば、天照大神(あまてらすおおみかみ)様の曾孫(ひまご)に当たり、第一代 神武天皇(じんむてんのう)の祖父(おじいさん)に当たるかたであります。即ち、次のとうりです。
天照大神---天忍穂耳尊---瓊瓊杵尊---火火出見尊---鵜葺草葺不合尊---
第一代 神武天皇---第百二十二代 明治天皇---第百二十三代 大正天皇---第百二十四代 昭和天皇---第百二十 今上天皇


 よく知られた海幸彦と山幸彦の兄弟の神様が、それぞれ仕事の道具をとりかえて海幸彦は山へ猟に行き、山幸彦は海へ魚釣りに行き、そして弟の山幸彦が兄さんから借りた釣り針を失って困っていると、塩椎神(しおつちのかみ)が現れて竜宮城へ案内し、そこで鯛(たい)のノドにささっていた釣針を見つける話、あの山幸彦が益救神社の祭神の火火出見尊です。そして、この時に尊(みこと)を助けてくれたのが、海神の娘、豊玉姫(とよたまひめ)です。

 (みこと)は竜宮城で三年間姫と暮らし、豊玉姫に御子が生まれます。このお産にあたって、海辺のなぎさに、鵜(う)の羽を葺草(かや)にして産屋(うぶや)を造りますが、それがまだ葺き終わらないうちにお生れになった勇ましい男の子が鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)です。
この鵜葺草葺不合尊が姨(おば)の玉依姫(たまよりひめ)を娶(めと)り、お生れになったのが神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、即ち神武天皇です。


 益救神社は祭神として 前記七柱の神々を奉斎申し上げておりますが、伝記には創立年代不詳とされているのであります。
 屋久島が初めて歴史に現れたのが第三十三代 推古天皇の24年(西暦616)に掖玖(やく)人が 前後して30人、朝廷に貢ぎ物を献上した記録があり、第三十四代 舒明天皇の元年(6294月に田部連(たべのむらじ)という者を掖玖(やく)島へ派遣され、島民の皇化顕著なる御鴻業(ごこうぎょう)を垂れ給うと伝えられておりますとおり、すでに聖徳太子の時代から帝都との交通が行なわれておりました。
 その、遣唐使船の往復に伴って 南の島々は 大陸との航路上たいへん重要視されることになりますが、九州一の高峰宮の浦岳頂き 豊かな水と緑に恵まれた屋久島は、古くから航海者達の重要な目印であり、停泊、給水地でした。島影によって航路を確かめ、寄港して嵐を避け、水や食糧を補給したときの舟人達のほっとした安堵感、救われたという喜びはいかばかりだったでしょうか。
益救神社が一名「救いの宮」とも呼ばれ、また古来、益々救われますようにと願い、今後もますます救ってくださる神様のお宮だという感謝の思いをこめて「益救(やく)」の文字があてられていることも頷かれるのであります。

 はっきりした記録としては「延喜式神名帳(えんぎしきしんみょうちょう)」に「大隅国馭謨(こむ) 一座 名神 小 益救神社」と登載されております。
この「延喜式」と申しますのは、宮中(きゅうちゅう)における年中儀式や百官臨時の作法その他を詳しく記した公家(くげ)法制の書で、第六十代 醍醐天皇(だいごてんのう)の延喜(えんぎ)年間に勅命(ちょくめい)によって撰進し始めたのでこの名で呼ばれております。
完成したのは延長(えんちょう)5年、西暦でいえば927年。弘仁(こうにん)年間、貞観(じょうかん)年間に撰進されたものと合わせて三代式といい、延喜式は前二式をも併せ採っており、全体五十巻より成っています。
そのうち、九巻と、十巻が「神名帳」と呼ばれ、そこに登載されている神社を式内社と云い、現在の鹿児島県下には益救神社を入れて8社しかありませんでした。
 奈良朝の初め、神祇制度(じんぎせいど)がそなわるとともに、全国的に朝廷の崇奉(すうほう)にかかる官社を定め、これらの神社に朝廷から奉幣(ほうへい)することなり、そのために神名帳がつくられるようになったのです。
これは第四十五代 聖武天皇の天平年間に ようやく整ったといわれておりますが、その後、追加修正などがあり、やがて延喜式神名帳として完成され今日に伝えられております。
 益救神社はそうした古い時代から官社として優遇され、大祭典には朝廷から神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)の班幣(はんぺい)の儀(ぎ)が行なわれておりました。かっては朝廷より派遣された国司の政庁が種子島の島間(しまま)にあり、益救神社の例祭には国司を初め郡領などがそれぞれ島間崎の遥拝所(ようはいしょ)から拝礼の式をあげるなど、屋久・種子両島民の鎮守の宮として崇敬を極め、大隅半島を考えに入れても、それらの代表となる高い格式をもっていたのであります。


 しかし、時代の変遷はまぬがれず、第百三代御土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の御代(みよ)には戦国動乱の世となって国司政庁も廃止され、屋久島は種子島家の所領となります。
そして、種子島時氏の法華宗を主体におく宗教改革によって本社も衰微荒廃の一途をたどり、古来の記録も失われ、ついに社殿も礎石を残すのみになったのです。
 豊臣秀吉の朝鮮役後、屋久島は島津家の領地になり、藩政時代にいります。
 こうして、貞享(じょうきょう)元年、島津藩士・町田孫七忠以という者が屋久島の宰領として着任し、益救神社の荒れ果てたありさまをみて大いに歎き、島民を説いて遺蹟をもとめ、同2年(西暦1685)、現在の社地に社殿を造営、ついにこれを復興させるに至ったと伝えられています。
 時代くだって文久3年(1863)、薩英戦争のあった年でありますが、時の藩主島津茂久公が藩政を改革し廃典を挙げるに際し、管内の神社を調べて益救神社の由緒と現状を耳にされ、ただちに小田原河内(藤原秀房)という神職を社司に任じ、翌年 屋久島へ下したのであります。そして、当時この神社の社号が俗に「須久比(すくい)ノ宮」「一品宝珠大権現(いっぽんほうじゅだいごんげん)」あるいは「三岳(みたけ)の宮」とさまざまに呼ばれていたのを旧に復し、「益救神社」と改め島津久光公の手になる扁額を神前に掲げ、御霊代(みたましろ)の神鏡もあらたに鋳造寄進されたのであります。慶応元年(1865)には社殿の改築もすすめられることになり、6月より工を起こし、翌24月竣工、官社の格式に違わない精巧な技術を施し、立派な申し分のない社殿でありました。
 この時の建築工事に当たったのは、宮大工棟梁(とうりょう)瀬島喜平次ほか10人、木挽(こびき)5人、日用雑夫4人の計20人が藩から下され、他に地元木挽2人が加わって総勢22人であったと凍札に記録されております。
 御祭神としては、貞享の復興当時における祭神=火火出見尊に配し祭った神々ありと伝わっておりましたが、判明しないので、正殿に火火出見尊、火須世理尊(ほすせりのみこと)、恵美須(えびす)ノ神を鎮めたてまつり、脇殿に塩土翁尊、豊玉彦尊、豊玉姫尊、玉依姫尊、大山祗尊、木花開耶姫尊合わせて九柱の神々を鎮め奉っておりました。
明治4年に火須世理尊は川向神社へ、恵美須ノ神は川口の神祠へそれぞれ遷座申し上げ、現在は先述の七柱を斎(いつ)き祀(まつ)っているのであります。
 本社殿の竣工後、藩より社領60石が供せられ、神官も5名奉仕しておりましたが それぞれに高禄を下しおかれて、一切が藩費で賄(まかな)われておりました。ところが、このような優遇も維新政府のもとに進められた廃藩置県と共に自然事止みとなり、明治6年、社格も県社となりました。
 明治19年(1886)、氏子総代 木原清右衛門等が島司新納中三宛に「益救神社昇格ノ儀ニ付請願書」を提出し、官幣社への昇格を請願いたしましたが、氏子、社地不足により果たされませんでした。しかし、益救神社は古代以来の伝統をもつ宮として、全島民の崇敬によって明治大正、昭和と神威ますます盛んに発揚されていたのであります。


 大東亜戦争の敗色も濃くなった昭和20715日、アメリカ軍爆撃機より直撃弾を受け、本殿はじめ各社殿は大破いたしました。とりあえず仮殿を設けて御神座とし、「此の社殿改築の重責を一日も早く果たし、氏神の御心を慰め奉らんと日夜忘れる暇なく」と記録には残されておりますが、敗戦、占領下のすべてに困難な情況のもとに月日が流れ、昭和28年に至ってようやく再建の準備にとりかかる運びとなりました。
 かつては官費によって賄われていた神社も 今や全てを自費で賄わねばならず、境内地の一部と杉造林地内の杉二千余本とを売却、氏子諸士よりの浄財と合わせて工事資金とし、2971日起工、建築資材は全て屋久杉を用い、同1120日総屋久杉造りの壮麗な社殿が完成いたしました。
 こうして、益救神社は戦災からも完全に復興改築され、御神徳いよいよ高く万民を照らし今日に至っているのであります。

一、祭典並びに特殊神事
歳旦祭 1月1日
七種祭 17
月待祭 旧暦123日 前年に住宅を新築した人たちが向こう3年間、月の出を待って参拝する。併せて海上安全、出郷者の安全祈願を行ないます。
例大祭・神幸祭 4月29日
月灯祭 715日 子供の画いた絵灯篭が境内一杯に奉納されます。
新嘗祭 11月23日
除夜祭・益救神太鼓年越祭 12月31日 一年の罪・穢を祓うとともに新年の幕あけを祝して益救神太鼓が奉納されます

一、宝物
文久三年 造営当時 島津家より寄進された久光公 直筆の社号扁額および桧造り神輿(みこし)をはじめ、黒漆塗蒔絵太刀2振、木製狛犬1対、出目満徳作の翁面、姫面各1個、錫制鶴首型瓶子、同水玉形瓶子、木製黒漆塗瓶子各一対などがあります。

益救神社配布の由緒記より

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【由  (History)】

益救神社

益救神社は、「延喜式神名帳」(927)に記載されている南島唯一の式内社。
10世紀初頭 薩摩藩領内での式内社は、薩摩2社・大隅5社・日向1社の計8社のみであるから、益救神社がいかに有力神社として位置づけられていたか分かる。別名「須久比ノ宮(救いの宮)とも呼ばれ、宮之浦という地名はその名に由来する。
 主祭神は山幸彦(=天津日高彦火火出見尊一品宝珠大権現)。奥宮は宮之浦岳(1936m)であることから、山岳信仰と深いかかわりを持つ。文久三年(1863)再建された社殿は、昭和29年(1954)に復興されたもの。例大祭は4月10日に行われていたが、現在は4月29日に開催。集落の春祭りとして、各地区から歌や踊りが奉納される。屋久島在番奉行の有村壮一が、慶應4年(1868)に寄贈した手水鉢が、屋久島町の文化財に指定されている。

設置者 : 公益財団法人 屋久島環境文化財団

社頭の案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

・御門(ミカドノ)神社
《主》奇盤牅尊(クシイワマドノミコト)
《主》豊盤牅尊(トヨイワマドノミコト)

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・三宝荒神・地神
・氏神
・水神
・祠一宇
・玉〈霊〉石〈亀甲紋用の御石〉

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

川向神社《主》火須勢理命(ホスセリノミコト)

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明治4(1871)本殿より遷座〈宮之浦川の対岸に鎮座〉

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・恵比寿祠《主》恵美須ノ神(エビスノカミ)

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明治4(1871)本殿より遷座〈宮之浦川の河口に鎮座 益救神社は本殿・参道・鳥居が 恵比寿祠を向いて鎮座しています

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益救神社の奥宮遥拝所

牛床詣所(うしどこもいしょ)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大隅国 5座(大1座・小4座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)馭謨郡 1座(小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 益救神社
[ふ り が な ]すくひの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Sukui no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神の遥拝所について

屋久島山岳信仰益救神社には 深い関係があります

益救神社は 長い歴史を持ち 元々は屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものと云われます

は それぞれの集落が御神体とする山に岳参り(旧暦の4月と8月に山に登りお参りをしていた

それは 海と里の恵み米などを神に捧げ 豊漁豊作家内安全などを祈る山岳信仰です それぞれの山には 全て一品宝珠大権現が祀られています

山に入れるのは 男性のみでしたので
かつては島内各地に三岳の遥拝所があったようです

現存するのは 2社のみです

・益救神社(屋久島町宮之浦)の奥宮は 宮之浦岳の山頂に鎮座しています

・益救神社(屋久島町原)の奥宮は モッチョム岳か? 

・益救神社(屋久島町原)〈参考〉 

大隅国の式内社〈5座〉について

 

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

宮之浦港から県道77号を南東へ約1.1km 徒歩13分程度
宮之浦川の河口 西岸に 東南方向を向いて鎮座しています

白い鳥居が建ち パームツリーが植えられ 南国ムードが漂います
その右手に社号標には「
益救神社」と刻まれ 左手には常夜灯に「益救(やく)神社」とあり 目の前の通りの名称は「益救(やく)神社通り(救いの宮)」とあります
益救神社(Yaku Shrine)に参着

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一礼をして 一ノ鳥居をくぐります 参道は真っ直ぐに伸びていて その先に二ノ鳥居が見えます

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翌々日の晴天では 青々とした草が芝生のように刈りこまれた境内に 明るい南国の陽射しの中を参道が延びています

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境内の左手奥には 日本では屋久島と種子島以南に生息するガジュマルの木」があり その手前に「益救神社 仁王像」があります

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益救神社 仁王像

上屋久町指定文化財 平成元年4月1日指定
文化財分類 有形文化財 文化財種類 歴史資料

 この石像は凝灰岩でできており、左側にロを開いた阿形(あけい)、右側にロを閉じた吽形(うんけい)の「金剛力士」で対をなす上半身裸体のたくましい仁王像です。
 石像の背面には、「天保二年辛卯二月吉日 奉寄進宮之浦住 近藤濱市 右嫡子市助」と刻銘があリ、天保年二年(1831) に益救神社に寄進されたものと考えられます。

 仁王像は本来寺門の左右に立ち、仏法や伽藍の守護神ですが、益救神社に寄進されていることは、屋久島で神仏混淆(こんこう)の考え方があったことを表しているようです。かつては、島内の各寺社に仁王像があリましたが、そのとんどが明治初期の難により損傷を受けました。
わずかに牛床詣所(うしどこもいしょ)の仁王像とこの仁王像が原形を保っています。
 若干の損傷があるものの、この仁王像は年代、寄進者名が明らかで、当時の屋久島を知る貴重な文化財となっています。

境内案内板より

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仁王像が原形を保っている

牛床詣所(うしどこもいしょ)
里における山岳信仰の聖地〈遥拝所〉 岳参りした男たちを妻子が出迎えた所

参道の右手には手水舎があり清めます 手水鉢の水面に浮かぶ美しいアジサイの花の上に 竹筒から清水が滴り落ちています  

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3段程の階段を上がり 一礼をして 二ノ鳥居をくぐります

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拝殿にすすみます 

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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最南端の式内社であり 益救宮(すくひのみや)」です 昇殿参拝をさせて頂きました
御神職は若くて 実に凛々しい 益救神社由緒屋久杉で造られた御本殿について丁寧にお話を頂きました
又 屋久杉の大切さと その扱いの難しさと神事との係わりについてもご教授頂きました

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コロナ禍でマスク着用での祝詞奏上ですが 実に良く通るお声で益救に ご奏上頂き 感謝申し上げます

御神職に 式典終了後 式内社の最南端のお社にて お詣りが出来たことの感謝を述べ 記念にと厚かましく 更に少しマスクを下げて頂くようにお願いをして 記念撮影に応じて頂きました 眞にありがとうございます

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拝殿内には
出目満徳作の翁面 姫面各1 島津久光公直筆の社号扁額

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社殿に一礼をして 鳥居をくぐり 曇日と晴天ではとても印象の違う参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本書紀(Nihon Shoki)』〈養老4年(720)編纂〉に記される伝承

第34代 舒明天皇の即位元年の記録として 即位談と屋久島への使者のことが記されています 当時(629)屋久島への使者〈南海の航路の重要拠点の確保〉が 如何に重要な課題であったかが伺えます
因みに 隣の島 屋久島への使者の記録は 天武天皇8年(679年)11月23日の条に記されているので50年後になっています

【意訳】

舒明天皇 元年(629)14と4月1日の条

即位1 14 大臣(オオオミ)〈蘇我蝦夷と群卿(マヘツキミタチ)臣下たち ともに天皇の璽印(ミシルシ)を田村皇子(タムラノミコ)に献上しました ると辞退して言われた
「宗廟(クニイエ)〈国家〉の運営は重大事あり 寡人(オノレ)は 不賢(オサナイ)ので どうしてこの重大事に当たることができようか」


群臣は 伏して固く請願して言いました
「大王(キミ)は 先朝(サキノミカド)〈推古天皇〉が寵愛し 幽顯(カミモヒトモ)心を属(ツ)け〈寄せ〉ています どうか皇統を継ぎ 百姓国民を照らして頂きたい
そこで その日に天皇に即位されました

41 田部連(タベノムラジ)を掖玖(ヤク)〈屋久島〉に派遣しました この年 太歲己丑です

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

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『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)〉に記される伝承

九州地区の最高峰を持ち 豊かな水と緑に恵まれた屋久島は 古くから航海者たちの重要な目印で 水や食糧を補給する寄港地として 南海の航路の重要な拠点〈屋久島〉であり ここに碑を建てて遭難に備えたと記しています

【意訳】

天平勝宝6年(754)2月丙戌 20日の条

勅に大宰府 曰く
去る天平七年(735)故 大貳從四位下 小野朝臣老 遣(つかわ)す 高橋連牛養(たかはしのむらじうしかひ) 於南嶋(みなみのしま)
樹牌(ひをたて)而(しかして)其牌(そのひ)經年(年を経て)今既(今すでに)朽壞(朽ちて壊れている)
宜依(よってよろしく)舊修樹(古いものを修理して建て)毎牌(各碑ごとに)顯著(表しているのは)嶋名(島の名)并(合わせて)泊船處(船泊まり港)有水處(水のある所)及 去就國行程(国に戻る行程)遥見嶋名(遠くに見える島の名前)令漂著之船知所歸向(船の漂着に備えさせる令を出した

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』延暦16年(797)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

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『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社は 屋久島の 宮浦村 一品が浦 に在ると記しています

【意訳】

益救(スクヒノ)神社

〇信友云 或書に称 一品宝壽権現 宮浦村一品が浦にあり
今 大隅郡の(式)と合す
又 益救島あり
又 作夜句 夜古 夜久野古養久山 亦 島葉沽 今作耶古旅玖(推古紀)(舒明紀)(天武紀)等有 旅玖人帰化之事

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『三国名勝図会(Sangoku meisho zue)』〈天保14年(1843)〉に記される伝承

屋久三岳の一つ 栗生嶽の絶頂 に鎮座している女人禁制の社 と記しています

【意訳】

栗生嶽
 栗生村に属す 村落より丑寅の方 七里許にあり 屋久三岳の一なり
其嶽の絶頂に 益救神社あり 一品法壽権現を祭れり 勧請の年月詳かならず 毎年 秋八九月の間 土人参詣する者多し 婦女十四以上の者は禁制なり 絶頂に一平石あり 其高さ二尺 横三尺 長さ一間ばかり 其石上一穴の周廻一尺許 深さ二三寸なるあり 
水泉常に湧出して溢れ 古より四季共に涸ることなし 其水中に 蚯蚓二つ常に居れり 土俗神の使属なりといふ 嶽神に参詣する人 其水と蚯蚓とを去り置くに 其 帰る比をひ 、素の如く 水盈満して 蚯蚓亦居れるとぞ  絶頂より山下十四五町の所に一川あり 水源 嶽の東西より出 南面へ流る
即ち 栗生川の水源なり 川幅一二間 深さ一尺餘 嶽神に参詣する者は不浄を清むるとて 必ず 此河水に浴するとかや 此岳 宮浦長田の二岳より 形勢少し尖小なり

益救神社 前文に見ゆ

【原文参照】(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)『三国名勝図会』1 『三国名勝図会』2

『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

祭神や所在は 詳しくわからないと記しています

【意訳】

益救神社

益救は 仮字なり
〇祭神 在所など詳らかならず

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

祭事は 穂々出見尊(ホホデミノミコト)と記しています

【意訳】

益救神社
(明細帳 進達無之分差出方督促中)

祭神 天津日高穂々出見尊
祭日 2月4日 6月12月11日 11月中卯日
社格 縣社
所在 屋久島宮之浦(熊毛郡 上屋久村 大字 宮ノ浦)

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

式内社の所在については「古来 此処の地を宮浦 又は 一品か浦 などと呼ぶ 是れ 其神社の鎮座せる故なり」としています
元々は 屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものと考えられ
ていて そのことが詳細に記されています

【意訳】

鹿児島県大隅國熊毛郡上屋久村大字宮ノ浦

縣社 益救(ヤクノ)神社

祭神 天津日高日子穂々出見(アマツヒダカヒコホホデミノ)尊

創立遼遠にして 年代詳ならず
延喜式神名帳に「大隅國 馭謨(コム) 一座 益救神社」とある神社なり
当郡名は 和名抄、類聚三代格、拾芥抄等の諸書に散見し、
神社覈録に「当郡は所謂 屋久島也」又 同書に「益救は假字也○祭神在所等詳ならす、」と云へり
然れども 神砥志料に「今屋久島の宮浦村一品浦に在り、須久比神と云ひ、又 宝珠権現といふ 蓋し 天津日子火々出見尊を祀る」と見えたり
特選神名牒 此地とし 祭神は 忍熊王子を祀るといへり
神名帳考証は「益救神社 古事記云 火之夜芸速男神」とも云へり 祭神何れを是なりとせむ 宝珠権現の名の因て來る所を察するに火々出見尊とする方優れるに似たり されば 神砥志料も是れに從ひたるなるべし

さて 此神は 平城天皇の大同元年「益救神奉充神封一戸」(新鈔格勅符)ともありて 皇室御崇敬の跡も窺はれ 誠に有数なる古社なり
三國神社伝記に
宮ノ浦嶽 宮ノ浦村に在り云々 其上に益救神 石祠あり 一品法壽権現を祀れり 毎年 秋八九月の比 里人参詣するもの多し 婦女は禁制なりき 此岳 絶頂より下十四五町許りに氷川と云ふ川あり 深さ膝を過ぐべし 登岳の物ほ汚穢を清むるとて此川に浴す云々
栗生嶽 栗生村に属す 屋久三岳の一なり 絶頂に益救神社あり 祭神(同前)一平石あり 其石上 一穴の周廻一尺許 深さ二三寸なるあり 水泉常に湧出して溢れ 古より四季共に涸るる事なし 其水中に蚯蚓二つ常に居れり 土俗神の使属なりと云ふ 参詣の人 其水と蚯蚓とを去り置くに 其皈る比ほひ素の如し云々
長田嶽長田村に属す 此絶頂に益救神云々(同前)比岳四面嵩石催蒐として登跳の者は梯子+にて登るが如し云々」と記し、更に云はく「益救神社、宮浦村に在り 祭神一座 彦火々出見尊是なり(円石二つあり神体とす)延喜式云々(同前)一品宝壽権現と称す(或は 須久比神と称す 而れども須久比に益救の訛なりと云 益救の字を訓にて称せしなるべし)

古来 此処の地を宮浦 又は 一品か浦 などと呼ぶ 是れ 其神社の鎮座せる故なり 社山の周廻十二町 其山上に神社あり 俗に権現堂と云ふ 久本寺より役す
当社は 往古より 此浦に鎮座せしに 中古以来 悶島都て法華宗になり 宗外の神社 佛閣等は 尊重せざる風俗となりて 此神社も 自然に廃壊し 宮浦には跡形もなくなりしと 然るに本府の士 町川孫七忠以屋久の宰官となりて 貞享元年甲子8月より宮浦に来居て 謂へらく 屋久は古來霊山の地なるに 其名のみにて神社の廃したるは淺間しと歎息し 云々 神社の遺跡を尋出し 社堂を造営し 土人に勧めて同3年寅正月元日より参詣を始めたりとぞ

此の益救神社は 宮ノ浦のみならず 御嶽の嶺三ケ所(前に略記)及 島中所々に勧請せり 然れども 此浦 及び 三山獄に鎮座せるもの本社なるべし」(三国名勝図会)と記し
社記に拠るに「本社義は 古御嶽宮と称し 種子 屋久両島鎮守の社にして 造営修繕 一切官費に有之 文久3年藩庁 庶政を改め 廃典を挙ぐるに随ふて 管内の神社を糺し 先づ 本社を再興し 神領五十石を付せられ云々(社記)此の文久3年の再興云々は 前記図会の記事中なる貞享の再興を誤り伝ふるか 兎まれ角まれ再興以来 復た藩主の崇祀する所となりたる趣は 此神 記に依り推知するを得 明治67月郷社に列す
社殿は 本殿 舞殿 拝殿 幣殿 渡殿等を具備し 境内地10740坪(官有地第一種)あり

境内神社 御門(ミカドノ)神社
例祭日  4月10日

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2

益救神社(Yaku Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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