洲宮神社(館山市洲宮)

洲宮神社は 現在の南側 魚尾山(トオヤマの上に鎮座していましたが 文永10年(1273)の火災により古書などを焼失して現在地遷座します 明治5年(1872)には 教部省が式内社と認定しますが 6年(1873)に洲崎神社を式内社であると覆し 式内社論争となります 両社とも近代社格制度では縣社に列格されました

目次

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

洲宮神社(Sunomiya Shrine)
(すのみやじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

千葉県館山市洲宮921

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天比理乃咩命(Ameno hirinome no mikoto)(天太玉命の后神)

相殿 天鈿女命(Amenouzume no mikoto)
   天冨命(Amenotomi no mikoto)
(天太玉命の孫神)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社 大社

【創  (Beginning of history)】

社伝では 神武天皇元年(紀元前660年) 天富命が魚尾山に神社を創建し 当時 海辺にあったことから「洲神」や「洲宮」と呼ばれたと伝わります

洲宮神社縁起(すのみやじんじゃえんぎ)
館山市有形文化財(書籍典籍等)市指定:昭和44(1969)年2月21日

洲宮神社は 安房開拓神話にまつわる神社で、安房神社の祭神である天太玉命(あめのふとだまのみこと)の妃神、天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)を祀っています。そのためか、神社に伝えられる縁起では 忌部(いんべ)一族による安房の開拓や、安房神社、洲宮神社、下立松原神社の創建の由来などが語られています。本文のうち3分の1は、失われた『安房古風土記』ではないかと推定されています。
この縁起の成立年代は不明ですが、『古語拾遺(こごじゅうい)』(807年成立)からの引用があり、平安時代以降と推定されます。別紙となっている奥書に、慶長2(1597)年に虫食いのため元の本から写したと記してありますが、現存の縁起は それを更に後世写し取ったものと考えられています。

洲宮神社御田植神事(すのみやじんじゃみたうえしんじ)
館山市指定無形民俗文化財 市指定:昭和44(1969)年2月21日

毎年元日に洲宮神社前で、その年の豊作を祈って行われる儀礼です。羽織袴姿の作男が唱える言葉に従って、まず氏子が竹の鍬で田を耕す所作をします。続いて牛役の者が代(しろ)かきを行い、作男が籾(もみ)まきをします。最後に早苗も模した松葉を手に氏子が田植の所作をして終わりとなります。

祭祀用土製模造品(さいしようどせいもぞうひん)
館山市有形文化財(考古資料等)市指定:昭和44(1969)年2月21日

洲宮神社の旧社地と伝えられる魚尾山(とおやま)から出土した、手づくね土器と鏡・勾玉(まがたま)・有孔円板(ゆうこうえんばん)の土製模造品(器物を土で模して作ったもの)などです。古墳時代後期のものと考えられます。この時期安房では、土製模造品を使用した神まつりが盛んに行われており、これらの出土品はそうした安房独自の祭祀の形態を表すものです。

木造天部像(もくぞうてんぶぞう)
館山市有形文化財(考古資料等)市指定:昭和44(1969)年2月21日

一木造(いちぼくづく)りですが、右腕は失われ、左手もひじより先がなく、顔が損傷しているため像容は不明です。四天王から二天王のうちの一体、あるいは毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)と考えられています。像高は76.5cmです。細部は省略されたところもあり、南北朝期から室町時代前期にかけて制作されたと考えられます。

境内案内板より

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【由  (History)】

洲宮神社

洲宮神社は 神戸村洲宮のほぼ中央にあり、境内272坪、宮山の麓 老杉森々として神厳を極む中に鎮座す。
神殿は 間口一間半 奥行き又同じ 中殿は間口二間半 奥行き三間 境内に左の三社あり。

イ.子安神社
ロ.神明社
ハ.日枝神社

由緒
社傳に曰く、神武天皇 元年 四月中卯の日、天富命 社殿を魚尾山の上に建立し、后神天比乃理刀咩命を祭る。山は村南の海濱に在り。故に洲神又は洲宮と称し、其の鎮座の所を洲宮村と云ふ。
文永10年癸酉10月15日 夜火災に遭ひ 神殿焼失す。建治3年丁丑3月 社地を今の所に移し、社殿を再建す。
洲宮・藤原の二村の氏神にて、例祭を毎年8月11日とす。東鑑に須宮 或いは洲崎社に作る。之を按ずるに本祠に二殿あり。拝殿を一ノ宮と云ひ、洲崎村の御手洗山に在り。奥殿を二ノ宮と云ひ、洲宮村の魚尾山に在り、二殿にして一社號なりしを、後今の如く改めたるなり。明治18年4月17日 倶に 縣社に列せらる。

『千葉県安房郡誌(Chibaken Awa Gun Shi)』〈大正15年(1926)著〉に記される伝承
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『千葉県安房郡誌』大正15年(1926)著者 千葉県安房郡教育会 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980721映像利用『千葉県安房郡誌』

【境内社 (Other deities within the precincts)】

子安神社神明社日枝神社

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています

・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)安房国 6座(大2座・小4座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)安房郡 2座(並大)
[名神大 大 小] 式内大社

[旧 神社名 ] 后神天比理乃咩命神社(大・元名洲神)
[ふ  り  が  な ](きさきのかみ あめのひりのめのみことの かみのやしろ)
[How to read ](kisakinokami ameno hirinome no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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「后神天比理乃咩命神社」もう1つの論社 洲崎神社記事をご覧ください

・洲崎神社(館山市洲崎)

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

洲宮(スノミヤ)神社 の旧社地について

現在の 洲宮(スノミヤ)神社 の南側
魚尾山(トオヤマ)と呼ばれる丘陵の上に鎮座していたようです

現在の社殿から続く参道の先は 南東に向かっています

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袋畑遺跡 -館山市洲宮-

神社の境内(けいだい)、あるいは旧社地と伝えられる地から祭祀(さいし)遺物が発見される例は多く、
袋畑(ふくろはた)遺跡も 式内社(しきないしゃ)「后神天比理乃咩命(きさきのかみあめのひりのひめのみこと)神社」の論社(ろんしゃ)(参照)である洲宮(すのみや)神社の旧社地にあります。
そこは、現在の洲宮神社の南側にある魚尾(とお)山と呼ばれる丘陵の上で、手捏(てづくね)土器と土製模造品(鏡形・有孔円板(ゆうこうえんばん)・勾玉(まがたま)形・丸玉形)が出土しています。

館山市立博物館HPより
http://history.hanaumikaidou.com/archives/7929

安房の式内社〈6座〉について

安房國の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている 安房國6座(大2座・小4座)の神社のことです

一緒に読む
安房國の式内社〈6座〉について

安房國の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている 安房國の6座(大2座・小4座)の神社のことです

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 神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

館山駅から R410号を南下 約7km 車15分程度
R410号に面して境内地があります

社号標には「洲宮神社 式内」と白文字で記されています
洲宮神社(Sunomiya Shrine)に参着

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真っ白な鳥居が建ちます 一礼をして鳥居をくぐり 参道を進みます

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社殿の建つ境内地は一段高い所にあり 階段を上がります 

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階段を上がると右手には 手水舎

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左手には 上部は伐られていますが イチョウの大木があり 乳のように垂れ下がる乳根が見事で ご神木であろうと お祈りをします

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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参道を戻り 振り返り一礼をします

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『古語拾遺(kogojui)』〈大同2年(807年)〉に記される伝承

神武天皇元年に神武天皇の命を受けた天富命(ameno tomi no mikoto)が 肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸して開拓したその後 さらに肥沃な土地を求めて 阿波忌部氏の一部を率い房総半島に上陸したと記されています

古語では 麻を総(フサorヌサ)と言います 現在の上総・下総の2国の名です

【意訳】

天富命(ameno tomi no mikoto)は 更に肥沃な土地を求めて 阿波の斎部(imbe)を分けて 東の国に率いて往き 麻(nusa)・穀(kaji=木綿)を播き殖えました 良い麻(nusa)が生育しました 故に この国を總国(fusa no kuni)と言います

穀穀(kaji=木綿)・木の生育したところは これを結城郡(yufuki no kori)と言います 古語に麻(nusa)を總(fusa)といい 今 上總(kamitsu fusa)・下總(shimotsu fusa)の2国がこれです

阿波の忌部(imbe)が居るところを 安房郡(awa no kori)と言いいます 今の安房の国がこれです
天富命(ameno tomi no mikoto)は その地に「太玉命の社」を建てました 今は安房社(awa no yashiro)と言います それで神戸(kamube)に斎部氏(imbe uji)が在ます

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『訂正古語拾遺』選者:斎部広成 大同2年(807年)編纂/校訂者:猿渡容盛 刊本,明治02年,木村正辞

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『続日本後紀(Shoku nihon koki)』〈貞観11年(869)完成〉に記される伝承

第一の后神 天比理刀咩命神と 第一后と崇敬を込めて 神階の奉授を記しています
神名は「天比理咩命神」と「刀」で 延喜式に記される「乃」ではありません

【意訳】

承和9年(842)10月2日(壬戌)

10辛酉朔 壬戌

(タテマツ)(サズク)
安房国(アワノクニ)

従五位下 安房大神 正五位下
〈無〉 第一(ダイイチ)后神 天比理刀咩命神(アメヒリトメノミコトノカミ)

信濃国 无位 健御名方富命前八坂刀売神
阿波国 无位 葦稲葉神
越後国 无位 伊夜比古神
常陸国 无位 筑波女大神

(ナラビ)に 5位下

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省

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『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)』〈元慶3年(879年)完成〉に記される伝承

神名は「天比理咩命神」とで ではありませんが 写本に但し書きでと書き入れられています

【意訳】

仁寿2年(852)8月22日(丙辰)

安房国(アワノクニ)
安房神
天比理〈乃〉咩命神(アメヒリトメノミコトノカミ)

(ナラビ)に (コトニ)(クワ)ふに 3

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省

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『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』〈延喜元年(901年)成立〉に記される伝承

全国 京畿七道の諸神267社とともに神階を進めています

【意訳】

貞観元年(859)正月27日甲申) の

京畿七道諸神に (クライ)をめる (オヨビ)(アラタ)に(ジョス) 267
・・・
・・・
安房国(アワノクニ)従3位 勲八等
安房神
天比々理刀咩命神(アメヒリトメノミコトノカミ)
(ナラビ)に 3位

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫

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『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

洲崎神社(館山市洲崎)について 論社として記しています

【意訳】

后神天比理乃咩命(キサキカミ アメノヒリノメノ ミコトノ)神社(大・元名洲神)

続日本後紀 承和9年(842)10月2日(壬戌)の条・・従5位下
文徳天皇実録 仁寿2年(852)8月22日(丙辰)の条・加(クワフ)従3位
三代実録 貞観元年(859)正月27日(甲申) の条・・正3位

本名 洲神
信友云う 一木作(いちぼくづく)り 洲崎神
〇今在す 洲崎村 与安房社の三里 相隔て 海辺なり

扶桑見聞私記 治承4年(1180)8月29日の条 武衛令着 安房國 平群郡 猟嶋 云々 その夜 当国 洲崎明神の御宝前にて 御念誦有りて「源は 同じながれぞ 石清水せきあげてたべ雲の上まで」この明神は 八幡大菩薩を奉祝」同十云う 治承5年2月 下須宮 神宮寺等可に早令 安房国 須宮 免除萬雑公事 云々
可令 免除の状 如件の在 慶等 宜し
〇信友云う 一宮なり 今 洲崎大明神と云う
永享紀 太田道灌 江戸城を築づきたる時 安房の洲崎明神を勧請して 神田明神と 斎ひたる由見えたり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

洲之宮村のある 二宮洲崎明神〈現 洲宮神社(館山市洲宮)〉を論社と記しています

【意訳】

后神天比理乃咩命神社(大・元名洲神)

后神は 岐佐岐賀美 天は阿女と訓ずべし 比理乃咩は仮字なり
〇祭神 明らかなり
〇洲之宮村に在す 地名記  今 二宮洲崎明神と称す

神位
続日本後紀 承和9年(842)10月2日(壬戌)の条・・従5位下
文徳天皇実録 仁寿2年(852)8月22日(丙辰)の条・加(クワフ)従3位
三代実録 貞観元年(859)正月27日(甲申) の条・・正3位

社領 当代 御朱印高7石

雑事
扶桑見聞私記五云う 治承4年(1180)8月29日の条 武衛令着 安房國 平群郡 猟嶋 云々 その夜 当国 洲崎明神の御宝前にて 御念誦有りて「源は 同じながれぞ 石清水せきあげてたべ雲の上まで」この明神は 八幡大菩薩を奉祝」同十云う 治承5年2月 下須宮 神宮寺等可に早令 安房国 須宮 免除萬雑公事 云々
可令 免除の状 如件の在 慶等 宜し」

按るに
当社は八幡宮を祝い祭るにはあらず 然るに 源は同じ流れなどよみ給えるをおもえば 所謂 時勢に従いて かくは沙汰したるなるべし 亦 永享記に 太田道灌 江戸城を築れたるとき 安房の洲崎明神を勧請して 神田明神と斎ひたるよし見えたるも 同日の論なるべし

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

式内社の論社2社の内(洲宮村の方を正とす)と記しています

【意訳】

后神天比理咩命神社  称 洲崎神社 元名 

祭神 天比理咩命

神位
仁明天皇 承和9年(842)10月2日(壬戌)の条・・従5位下
文徳天皇 仁寿2年(852)8月22日(丙辰)の条・加(クワフ)従3位
清和天皇 貞観元年(859)正月27日(甲申) の条・・正3位

祭日 7月27日
社格 縣社
所在 洲崎村 字 御手洗(洲宮村の方を正とす)(安房郡神戸村大字洲宮)

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

明治5年(1872)には 教部省が式内社と認定しますが 翌6年(1873)に洲崎神社を式内社であると覆し 式内社論争となります 両社とも近代社格制度では縣社に列格された経緯が 出稿と同時期であった為丁寧に記されています

【意訳】

千葉縣安房國安房郡神戸村大字洲宮

縣社 洲宮神社

祭神 天比理刀咩命
祭神は天太玉命の后神なり。

傳云ふ、神武天皇 元年 辛酉四月中卯日、天富命、勅許を蒙りて 魚尾山に奉祀すと 當時其山、海邊に在り。故に洲神、又は洲宮と称す。今に同山上洲宮の字あり(慶長元和の水帳も、亦之を記せり)後ち 海面漸次干潟となり、現今 海を距る七町餘に至る。
亀山天皇文永10年炎上の爲め、今の地に奉遷す。社領は7石、古来 洲宮藤原二村の氏神たり(参酌、社記、大日本國誌等)。明治6年縣社に列す。社殿は本殿、中殿、拝殿等あり、境内は270坪たり。

延喜式の后神天比理刀咩命は、其書に載すが如く 洲神にして、国史現在社なるが、本郡 洲神又は洲崎神と称するもの二あり。即ち 當社及び洲崎神社とす。学者其の見るところに據りて、或は當社を以て之に擬し、或は洲崎を以て之に擬せしが、明治5年當局者は、一時當社を以て式社と定めしも、翌6年之を取消して、更に洲崎神社を以て式の后神天比理刀咩命神社とせり。

当時の太政官日誌に云く、「云々」
更に5月19日教部省達に云く、「云々」とあり、

然れども尚未だ明確ならざる所あれば、未だ以て諸問題を解決し畢れりと爲すこと能はざるべし。
吾人は 寧ろ金丸家系に左担し、二殿一社説に従ふを穏なりとす。家系に云く
「安房郡洲宮村字魚尾山鎮座、洲宮后神社、後称 洲宮明神、使其奥殿曰二之宮、亦洲崎村字手洗山在 洲崎明神、使 此拝殿曰一之宮、故称 地名手洗山、此両社天比理刀咩命、延喜式内大社也」
と、政府 亦 是に意あるか、教部省達を以て、洲宮を式社に非ずとし、洲崎を式社とするの理由を公表して後、僅一旬にして、當社を以て洲崎神社と共に縣社に列せり。

境内神社 子安神社、神明社、日枝神社

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2

洲宮神社(Sunomiya Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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